珈琲に救われた
毎日こうやって書いていると何を書いて何を書いていないかよくわからなくなるが、誰にも見せない(自分でも簡単には読み返さない)"朝のページ"も毎日書いているのには違いなくて、その"朝のページ"を書く時には「さて何を書こう」などと考えることはないので(ただ思いつくままページを文字で埋めるだけのこと)、「何を書いて何を書いてないか」ということはじつはどうでもいいことなのかもしれない。前に書いたことをまた書いても、その前と同じことにはならないのだから。
今日ぼくはTwitterをほとんど見てないけれど、ちょっと見た時に、坂口恭平さんが、鬱というのはじつはなくて、日課を忘れてる(失ってる?)だけなんじゃないかというようなことを書いているのを見かけた。そんなことを考えるくらい、いまちょっと調子がよくないのかもしれない。
いま自分は調子がよくないんだということがわかれば、対処のしようがある。
彼は最近、料理の本を出したらしいが(まだ読んでないけど)、料理をすることは精神衛生上よいことだという気がぼくはしている。料理に限らず、手を動かすことは、何であれそうじゃないかと思う。
心を動かすのではなく手を動かす。手は、怪我でもしない限り、簡単には"病む"ことがない。
ぼくは本を読むのがしんどくなる時がある(普段、よく読む人だから、そういうことを感じる)。
本を読むのがしんどい時には、印刷された文字を見る目が疲れているような気もするし、心も疲れているのかもしれない。
手を動かすように、本が読めたらよいのだが…
(だから、かな、ぼくが仕事で文章をチェックする時には、鉛筆でことばに薄い線を引きながら読む癖がある。)
2011年の11月に、当時住んでいた府中市美好町の、すぐ隣に珈琲焙煎舎という珈琲屋ができて、親しくなった。そこで、ハンド・ドリップというものを教えてもらい、初めてやってみた(それまではコーヒーメーカーで珈琲を淹れていた)。
珈琲豆を挽き、お湯を沸かして、手で珈琲を淹れることも、何か自分を助けてくれているような気がする。
珈琲を飲むということ自体が、心の問題(?)という気がぼくにはしているのだけど!
片岡義男さんの本が久しぶりに文庫になった。この人の本には文庫が似合うと思うのは、ぼくだけじゃないだろう。ね?
『豆大福と珈琲』という一冊。『珈琲が呼ぶ』というエッセイ集が売れているらしくて、珈琲がタイトルについたこの本は売れると判断されたのか、とにかく文庫は久しぶりですね。
とりあえずは、冒頭に置かれている短篇小説「豆大福と珈琲」が素晴らしかった。これからもう一度読み、どんなふうに書かれているのかじっくり見てみたい。
巻末に置かれている、エッセイも読んだ。
片岡さんによると、男性によって焙煎された珈琲は「一般性の高い」ものになり、女性によって焙煎された珈琲は「きわめて個人的なもの」になる、そんな傾向があるという。
珈琲焙煎舎の場合は、手網焙煎なので(売られている全ての珈琲豆がそうだというわけではないが)、女性の"手"によって焙煎されてる。
「個人的なもの」の極地と言っていいのかもしれない。ね。
ぼくが珈琲焙煎舎の珈琲に教わったことは、珈琲に、同じものはない、ということで、全てが一期一会だということ。
そんなふうな気持ちを、忘れないでいたい。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、4月12日。今日は、お互いを引き立て合う話。
道草の家2階の"ひなた工房"、4/20(土)に「横浜馬車道エキナカフリマ」に初出店します。詳しくは、新しくできた"ひなた工房"のウェブサイトをご覧ください。
※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。
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