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エッセイなのか小説なのか

先月、『音を聴くひと』が完成する前に、Tさんに「もう予約が入ってるんだ」と話したら、「嬉しいことだけど、後々まで、ゆっくり、ゆっくり売れることの方が大事だよ」というふうなことを言われた。

その通りだ、と思った。

というより、そういうふうな道を、ゆくしかない。──という思いが自分にはあるのだった。

ぼく(たち)の仕事は、これまでもずっと、順調にはゆかない連続だったから、そもそも、順調にゆくだろうということは想定していない。

また、完成が延びて、こんな時期(新型ウイルスによる混乱のさ中)に出るということは、何かあるかもね、なんていう話もした。つよい本になるだろう、と。そんな予感もある。

実際に本を手にしてくださった人たちにしか、わからないことではある、けれど、その人たちにとっても、1冊の本をめぐる付き合いはそれぞれであり、ほんとうにその1冊、1冊で違うのだから、一緒くたにはできない。

印刷・製本という、いくらでも複製ができる技術を前にして、同じものを生み出しているつもりでいるのだが、実際には、読む人によってその本は違うはずなので、同じではないと考える方がよさそうだ、と思う。

『音を聴くひと』を、「本にしてください」と背中を押してくれたひとりである山本ふみこさんが、自身のエッセイ講座の受講者むけの配信動画で、『音を聴くひと』を取り上げてくださった。

その中でふみこさんは「書くということが、どういうことなのか、ということを、下窪さんとは、つきつめて考えてゆきたいと思う気持ちがあります」と話している。

それを聞きながらぼくは、山本ふみこという人を初めて知り、出会った時(2011年の1月)に、「随筆というものの中に、日本語ということばの可能性を感じている」ということを話されていたのを思い出した。

ぼくは自分の書くものが随筆なのかエッセイなのか、小説なのか、あるいは詩なのか、という分類を自分でしていない。20年くらい前に、書き始めた頃から、なぜか、そういうふうなことはあまり考えなかった。

片岡義男さんの本には、影響を受けた。言おうと思えば、エッセイの中に小説があるとか、小説の中にエッセイがあるとか、そんなことの言える作品がけっこうあると思う。

友人のことばを借りると、「自由だ」ということになる。自由とは、どんなことだろう? と考えるきっかけのひとつにもなった。

小説にこだわっているというふうな人、エッセイにこだわっているふうな人、詩にこだわっているふうな人、いろいろな書き手がいるが、そういったジャンルではなく、「ことば」の可能性に言及する人は、いま、書き手の中にはそう多くない。

だから、この人はいいな、と思うのに全く時間はかからなかった。そう思った時には奈良にいたのだが、当時、住んでいた府中に戻ってきて、とりあえず図書館にある本をかき集めてきて読んだ。

いいな、となると、親しい人たちにも紹介したくなるものだ。ある人は、「きみの書くものに似ている」というようなことを言った。そうかもしれない、と思う。しかし、ぼくが一方的に山本ふみこという書き手から影響を受けて、そうなっているとしたら、ちょっと説明がつかない。つまり、出会う前から影響を受けていたことになる。

10代の終わり頃、小川国夫という作家と出会った頃にも、似たような感じがあった。ぼくは、自分と彼(若き日の小川国夫)の感じ方には、どこか似ているところがあるのではないか、と友人に話したことがあった。

しかしそんなことは、ある時まで忘れていた。実際には違う人であり、違う時代を生きてゆこうとしているのだから、ま、ファンであるぼくの妄想にすぎないよね、と。

ある時とは、その小川国夫さんが亡くなった後、ある人と会って飲んでいたら、小川さんの生前に、ぼくのいない場で、「下窪さんってどういう人です?」と聞いたら、「おれの若い頃に似てる」と言ったと言うのだ。

そんなのは、下窪の周囲の人に対するリップサービスだよ、というふうに思わなくもないが、ぼくは嬉しかった。自慢ではない。「大変だったでしょう?」と話しかけたい気がするのだ。

小川国夫さんは80歳で亡くなる少し前、日本語というものが、ようやく少しわかってきました、と話していた。

(つづく)

その、先月、完成したばかりの下窪俊哉の作品集『音を聴くひと』(アフリカキカク)、のんびり発売中。

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