短編小説:早風さんが走ってる
走る女子高生の話。約2500字。
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早風さんが走ってた。
その名のごとく風のように私の脇をすり抜け、あっという間に廊下の向こうに制服のブレザーの後ろ姿が去ってった。
……あんな早風さん、初めて見た。
同じクラスの早風さんは派手ではなくかといって地味すぎもしない、中間層のグループにいる女子だった。これといって目立つこともなく、おしゃべりの輪のはしっこで品よく笑っているイメージがある。長い黒髪も相まって、おしとやかな印象すらあった。
その早風さんが、走ってた。
すごく速かったのにドタドタとうるさい感じじゃなかったのは、フォームが綺麗だったからかもしれない。少し前傾気味の姿勢だった気がする。もっとも、一瞬のことだったから確かじゃないし、美術部の私に走りのフォーム自体よくわからないけど。
早風さんの去っていった廊下を見つめたまま、私は静寂を取り戻した廊下のすみで立ち尽くす。
怒りに任せて美術室を飛び出し、昇降口を目指して歩いていたというのに。
早風さんの登場で、感情の風船に小さな穴が空いたようになってしまった。怒りはまだ残ってるけど、もう百パーセントじゃない。萎んだ感情の隙間から冷静な自分が顔を覗かせ、なんでこんなに怒ってたんだっけって訊いてくる。
文化祭の展示のことで、同じ二年生の沙耶香と口論になった。
こんなのじゃ去年と大差ない。
奇抜と独りよがりは違う。
みたいな言い合いをして収拾がつかなくなって……。
思い出したら怒りの風船が再び張りを取り戻したけど、もうあの瞬間みたいには膨らまなかった。感情の輪郭はすっかりブレてしまい、熱を持った怒りは恥ずかしさに色を変えていく。
家に帰って甘いものでも食べて、沙耶香にはメッセを送っておこう。
人気のない廊下をゆっくり歩き出した。
***
早風さんが走ってた。
長い髪をなびかせ、通学バッグを肩にひっかけた早風さんは、階段を一段飛ばしで駆け下りていく。
階段の踊り場にいたあたしの鼻先に、振れた通学バッグがかすめた瞬間、ぐっと後ろに身体をひっぱられた。
「……危ねーな」
あたしの肩に手を置き、メガネの奥でわずかに目を細めた奥野先輩が呟いた。
すると、すでに踊り場の先、階段を数段降りたところにいた早風さんがピタッと足を止めてこっちをふり向いた。少しスカートがふわりとする。切羽詰まったような黒い瞳がまっすぐにあたしたちを見た。
「ごめんなさい!」
パッと謝ってパッと前を向き、早風さんは反省した様子もなく勢いよく去っていった。
はぁ、と大きなため息が頭のすぐ後ろで聞こえ、あたしは心臓が跳ねたのを悟られないよう、身体に少し力を入れて頭だけでふり返る。
「あの、ありがとうございました」
礼を言うと、先輩はあたしの肩から手を離した。
「ん」
先輩は小さく頷き、再び階段を上ってく。あたしは早風さんが駆けていった階下をしばらく見つめてから、先輩の背中を追いかけて隣に並んだ。
「なんであんなに急いでたんだろう」
あたしの言葉に、「知り合いか?」と先輩が訊いてくる。
「同じクラスの子です。わりと大人しめの子だし、あんな風に走ってるの初めて見ました」
「廊下は走るなって伝えといて」
嘆息気味にそう言った先輩の横顔を見上げる。
あんな風にとっさに助けてもらえるなんて思ってなくて、どちらかというと早風さんには感謝したい気持ちだった。触れられた肩がまだじんわり温かい気すらしてくる。
「何?」
視線に気づかれた。
「なんでもないです。……早く生徒会室行かないとですね!」
駆け出したあたしを、「だから廊下は走るなと言ってるだろう」と先輩の声が追いかけてきた。
***
早風さんが走ってた。
昇降口で、なかなか上履きからスニーカーに履き替えられずにいた私を追い抜くように、長い黒髪とスカートを翻しながら去っていく。きっと、ここにいるのが私だなんて気づきもなかっただろう。それくらい速かった。
……早風さん、いつの間にあんなに走れるようになったんだろう。
早風さんと私は同じ中学の出身で、同じ陸上部に所属していた。
中学二年の夏まで。
早風さんは靱帯を傷め、そのまま陸上部を辞めてしまった。怪我の程度は重く、普通に歩けるようになるまで結構時間がかかったような話を人づてに聞いた。当時、クラスも違ったし、部を辞めてしまってからはほぼ接点がなかったのだ。
そして中学を卒業し、たまたま進学先の高校は同じだったけど、やはりクラスも部活も違って接点はないままだった。あんな風に走れるくらい回復してたなんて、ちょっとビックリだ。
早風さんが陸上部に入ってくれてたら、今の私は変わっていただろうか。
さっさと部室に行って準備しないとって思うのに、重たい気持ちが鎖になって身体を動かなくする。米川先輩に目をつけられたきっかけはいまだによくわからないけど、私が何をやっても気に障るらしい。気にしなくて大丈夫だよってみんなは言ってくれるけど、そんなに簡単じゃない。
簡単じゃないけど。
手にしていたスニーカーを足元に落とした。早風さんが駆けていった昇降口の外を見る。
雲のない青い空。いい天気。
走ったら、気持ちいいかもしれない。
私は上履きを脱いだ。
***
早風さんが走ってきた。
近づいてくるその姿に気づいてギョッとし、けど用があるのは俺じゃないだろうと思った直後。「辺見くん!」って名前を呼ばれて足を止めた。
グラウンドでは運動部の練習が始まり、音楽室からは吹奏楽部の管楽器の音が聞こえ始める、いかにも放課後って空気の中、俺は早風さんと対峙する。
「……どうかしたの?」
早風さんは俺の前で足を止めると、その細い両膝に手をついて俯いた。肩で息をし、長くてまっすぐな黒髪が乱れている。
どれだけ全力で走ってきたんだろう。
ほんの十分ほど前、人気のなくなった教室での出来事を思い出し、途端に胸が鈍く痛んだ。俺の言葉を聞いた直後の困り切ったような表情は、今でもはっきり思い出せる。答えなんて聞くまでもなくて、「冗談だから」って逃げた俺はどうせヘタレだ。
ヘタレな俺みたいなのは放っておいてほしいのに。わざわざ追いかけてきて、トドメでも刺そうというのだろうか。
片手で乱れた髪を整え、早風さんが顔を上げ、そして。
走ったワケを、口にした。
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放課後の学校の空気がとっても好きです。学校という狭い世界の中ではあるけど、つかの間それぞれの時間が動き出すというか。
あと、学校という狭い世界のなんでもない日常を切り取ったお話も好きです。地味で小さな一歩でも、踏み出した瞬間ってなんかいいなぁと思います。
9月からずっと忙しくしてて、気がつけば10月半ばでした。
短篇月2本目標なんですが、今月中にあと1本書けるだろうか……。
基本的に記事は無料公開ですが、応援は大歓迎です!