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三浦春馬さん作品レビュー:天外者(てんがらもん) ひたすら春馬君を愛でる編(細かいネタバレあり)

プロローグ

1857年、長崎のある城下町。
若者は何人もの武士に追いかけられ、逃げまどっていた。
「待て!」飛び交う怒号に、町人たちは驚き、
道のわきにそそくさと避けていく。

その中をひたすら青年は逃げる。
蹴とばした籠から、鶏が逃げ出す。
万華鏡を覗き込み、楽しんでいた一人の男に
ぶつかる。男は万華鏡を落とす。
万華鏡の中の鏡が割れる音がする。


彼の逃げていく先に、もう一人逃げ惑う
青年がいた。二人はの逃げる道が、重なる。
「悪いが、おれが先に行かせてもらう」
「わしが先じゃ」
「おれじゃ」
「わしじゃ」

自分が先に行くと言って譲らぬこの二人。
坂本龍馬と、五代才助(のちの友厚)。
日本を変えようとした青年二人の出会いは、
命がけの逃亡から始まった。

※注 このnoteでは、ひたすら「天外者」作中で私が好きなシーンと、そこでの春馬くんについて綴ります。非常に細かい描写を含みますので、まだ作品を観ていない方はここで離脱をおススメします。


遊女・はるとの出会い

橋の上から身を乗り出すはるを救ったことで、二人は出会う。
才助のなんとも言えない純朴さと、少年っぽさが垣間見える。はると会話するシーンの話し方と表情からは純朴さを。子どもたちとの会話と笑顔からは少年っぽさを。それぞれ微妙に変えて表現している。いつもの、細やかな春馬くんのお芝居だ。

この後、はるが侍に絡まれるシーンでは、
はるの「世の中のことを知りたいんだよ。夢くらい。見たっていいだろう」という言葉に共感し、感じ入る才助の表情と、助けに入る時の凛々しさが見られる。最初の純朴さと合わせて、ここまでの僅かな間に、五代才助の人柄を端的に表しきっている。

やはり、春馬くんはすごい。

利助(のちの伊藤博文)との出会い

攘夷派の武士たちに追いかけられて、逃げているときに利助にぶつかり、落としたので壊れた万華鏡。それを手に、才助に食って掛かる利助に謝って、万華鏡を器用に直していく。

感心する利助に、藍色の手ぬぐいで汗を拭きながら、いたずらっぽく「イギリス留学か?」と尋ねる。なぜそれを?という表情の利助に、コナン君よろしく、謎解きの説明をする才助の得意げな表情が、かわいい。

「訛りは長州。同郷の吉田松陰はアメリカへの密航に失敗。だから、イギリスだ」と。藍色の手ぬぐいをぶんぶん振り回す才助。ますます得意げだ。「利助の『利』は『気が利く』の『利』、だろ?」とニコニコしながら言い、当時の走り方で風のように去る。

時代考証を学んでから撮影に臨むというのは、俳優なら誰しもやっていることなのだろうが、龍馬の走り方が極めて現代的なのに対し、才助の走り方は当時の人の走り方であることが、観ていて楽しい。龍馬の進取の気性を表しているかのようだ。

龍馬と逃げる

攘夷派から命を狙われているため、追いかけられて逃げる才助と龍馬。逃げる道すがら一緒になり、二人は袋小路に追い込まれる。

ここで、春馬くんが披露する殺陣が素晴らしい。
あれはいわゆる、薩摩の示現流と呼ばれる構えではないだろうか、と思うのだが詳しくないのでよくわからない。

殺陣は、「五右衛門ロックⅢ」「サムライ・ハイスクール」で見ているはずなのだけれど、身体の厚みが増したというか、体幹が強くなったおかげで、キレとスピードが増しているし、何より刀を振るっているときの姿勢がとても美しい。春馬くんの役者としてのたゆまぬ努力とその成果を、見せてもらえた気がする。

井の中の蛙

長崎の遊郭で、坂本龍馬と五代才助は再び出会う。どういう経緯で集まることになったのかはわからないが、武器商人トマス・グラバーと、坂本龍馬、岩崎弥太郎、五代才助が遊郭の一部屋に集まる。
才助はグラバーに言う。

They were helpful the document from you before (うろ覚え)

この時の、英語のセリフが、少したどたどしいのを覚えていてほしい。


グラバーから「井の中の蛙」扱いされた才助は怒る。怒った才助を見て龍馬が茶化す。
「ムキになっちょる。かわいいのう」。確かにかわいい。不思議だ。あの美しい殺陣を披露した人と同じ人とは思えない。

遊郭にて

はるの元へ行く才助。前に侍に絡まれ、けがさせられた腕を見て「よかった。治っておる」。と優しい声を出す。出島でもらったという本をはるに渡す。この時、才助の話す声に、彼女に対する愛おしさがにじみ出ていて、しびれる。

この時のはるの、才助を見る顔。遊郭に来る客がすることは毎度毎度決まっていて、そういう客がほぼ100%だっただろうから、まずは変わった人だと思ったに違いない。さらに才助は続ける。

「俺は疎まれておる。人の心がわからん」
「だがおぬしの言っておることはわかる。みんなが夢を持てるというのが、一番大事だと」

才助は人の心がわからん、というわけではないのでは・・・というツッコミを入れたくなった。単純に、侍が威張っているこの時代には、日本人には議論しあうとか、話し合う文化がなく、なんかあるとすぐ刀ぬいちゃう時代だったから、相手が理解できないと感じているのでは、と私には思えた。

伝習所での学びを終え、薩摩に帰る

斉彬公が亡くなって、後を継いだ島津久光に長崎から戻ったことを報告に行く才助。城を出たところで武士たちに襲われそうになり、こう言い放つ。「刀で人を殺しても、世の中は変わりはせん。そういう時代が来る」

そう言う才助に対して、西郷吉之助が出てきて、こう言う。
「器量より度量じゃ。おはんには誰もついてこんど」

のちに明治最大の不平士族の反乱、西南戦争にかかわる西郷吉之助の人となりを端的に表せているけど・・・ちょっとこのセリフは引っかかった。だけど、これはラストシーンへの布石なのだろう、と思うことにする。

才助、かんざしを買う

大久保一蔵(後の大久保利通)から蒸気船購入を命じられ、上海に行くことになった才助。長崎の町の、青く澄んだ空の下を、歩きながら才助は考える。しばらくはるに会えないなと。

意を決したように、髪飾りを打っている店の暖簾をくぐる時の表情。「よしっ!」という心の声を、マンガのようにつけたくなる。

買ったかんざしを手に取り、嬉しそうに眺める才助の眼差しが優しい。手渡したとき、はるがどんな顔をしてくれるか想像しているのだろうか。はたまた、かんざしを挿したはるの姿を思い浮かべているのだろうか。

うって変わって、渡すときは照れくさいのか、渡してすぐ背を向けてしまう才助も、かわいくてたまらない。さっきはあんな顔をしていたくせに、とツッコみたくなる。

薩英戦争・捕虜としての交渉

生麦事件が起きて、英国軍が横浜から薩摩へ向かったとの知らせを受け、上海で購入した蒸気船を入り江に隠そうと海に向かう才助と森本(と言っているが、史実では松木弘安。のちの寺島宗則である)。

ここで一緒に捕虜になったのが松木弘安であるという史実に基づいて話を作らなかった理由は、私の中では明らかなのだが、それは置いておいてここは大好きなシーンなので細かく書くことにする。

「指揮官に会わせろ」と言い、指揮官に「われらの武器庫の場所を教える」という才助。「裏切者!」と大きな声を出す森本は部屋から追い出され、英兵と指揮官と才助だけになる。

才助はそばにあるランプを一瞥し、薩摩の兵力について説明する。信じない敵の指揮官。「ならば、これで信じるか」そういった刹那・・・

英兵のサーベルを目にもとまらぬ速さで抜き、ランプを破壊。才助の横顔が雷鳴の青い光に浮かび上がる。次の瞬間、敵の指揮官の首元にサーベルを突き付けている才助が目の前に現れる。

なんという美しいシーンなんだろう。

続けて、才助が英語で話し始める。聞いている私の耳が驚く、きれいなBritish English。もちろんネイティブのそれとは違う。日本人が頑張って話す、Britishだ。OやA何かの母音はそこそこイケてる。でもBritishの子音までは再現しきれてなかったりする、あれ。

最初にグラバーと会ったシーンが1857年で、薩英戦争が起きたのが1863年。6年経っているから、たどたどしかった英語が上手くなっているのは当然として、British Englishである。発音が明らかに違う。才助の中の人がシンシアのコンサートの時に話していた英語と違う。「Not my father’s son」を歌っていたあの時とも違う。

そして、歴史好きの心に響く言葉が、才助の口から放たれる。もちろん英語だったのだが、日本語で記しておく。

「勇敢に戦って敗れた国は、また立ち上がれるが、逃げた国に未来はない。我々はそのことをよく知っている」

明らかに、「島津の退き口」のことを意識したうえでのセリフだと感じた。

この「我々はそのことをよく知っている」にあたる、最後の英語のセリフの言い方が、またいい。

島津義弘を守りながら懸命に撤退したであろう、先人へ思いを馳せながら、英国海軍の指揮官に「覚悟しとけよ」というニュアンスを伝える。かつ、母国語ではない言語でそれがきちんと表現できている。

春馬くんの、「海外でやりたい」は本気だったのだなと強く感じたこのシーン。英語できちんと演技ができることを証明している。しかも、いつもの春馬くんクオリティで、だ。ここは、「天外者」のシーンの中で私が一番好きなところになっている。

はるの死

英国から帰国し、はるが居るというサナトリウムを訪れる才助。肺病で臥せっているはるの手を握る、才助の手の美しさに惚れる。
大きな掌ではるの手を包み込み、長い左手の人差し指と、右手の親指で愛おしそうにはるの手を撫でる。

「海を見に行こう」そういってはるをおんぶして、海へ向かう才助とはる。はるの手には、かつて才助が贈ったかんざしが握られている。

「海だ・・・」といったきり、目を閉じ、かんざしを落とすはる。
間に合わなかった。幸せにできなかった。そんな思いを背負い、海に向かって泣く才助。右手ではるの右腕を握りしめる。才助は、はるの思いを背負って、未来へと進む。明治へと。

豊子との絆

遊女・はるに比べてあまりに作品中での扱いがぞんざいな、妻・豊子。そんな中でも豊子とのラブシーン(と言っていいと思う)が1か所だけある。

「あなたには、心を落ち着ける時間が必要です」そう豊子がいい、二人で水墨画を描くシーンだ。

才助の顔と豊子の顔が近い。途中、咳が出るけれど「続けよう」と言う才助の表情が本当にリラックスした、優しい顔なのだ。

はるに比べると、才助は妻である豊子にストレートな愛情をほとんど見せない。少なくとも分かりやすく見せるシーンはない。だがこのシーンの「続けよう」と才助の表情は別だ。たった一言と表情で、妻への感謝と、愛情とを感じさせる。

病魔がすでに忍び寄っている不穏な空気を、水に垂れる墨が表現しているように思えたのは、深読みしすぎだろうか。

大阪商法会議所会頭就任演説

大阪市長と府知事が余計だが、見ごたえのあるシーンだ。特に、才助が薩摩弁に戻ってからのシーン。

「俺には、100年先の未来が見えておる」
「文句があるもんは好きなだけ言え」
「大事なのは目的だ」

演説しているときの迫力が、カメラで撮影された映像を通じてこれほど伝わってくるのを見たのは、初めてかもしれない。生で見たときに迫力を感じることはあっても、カメラ越しにこれほど鬼気迫るものを感じた記憶は、私にはない。

この撮影を、生で観たかったなとつくづく思う。

たぶんここは、とても力が入ったシーンなのだろうなと想像する。だって、こんな春馬くんは初めて観たから。

葬儀

伊藤博文が持ってきた、下緒と鍔を固く結びつけた刀。これには、「刀を抜く意思がない」ことを他者に示す意味合いがあったそうだ。

利助(伊藤博文)は出会ったときに、才助(五代友厚)が下緒と鍔を固く結びつけているところを発見して、後ろから声をかけている。あの時から、才助は刀を抜く意思など、ずっとなかった。「刀で人を殺しても、世の中は変わりはせん。そういう時代が来る」ことを予期していた。少なくとも、利助にはそう見えていたのではないだろうか。

実際、明治になりそういう時代になった。刀が力を持たない時代に。『僕はこれからも、龍馬さんや友厚さんや弥太郎さんの思い描いた、未来を創っていく。だから、刀はそっちにもっていってほしい』。そんな気持ちで、伊藤博文は、五代友厚の棺にあの刀を入れてほしいと頼んだのではないだろうか。

家の外にいた、次女が母を呼びに来る。何事かと思いながら外に出る豊子の目に飛び込んできたのは、無数に伸びる提灯の列だった。

いったい、どれだけの人が弔問に訪れたのだろう。

「器量より度量じゃ。おはんには、誰もついてこんど」西郷隆盛にそう言われた男、五代友厚の通夜。参列者は4500人に及んだという。

五代友厚。彼は、政治家としての華々しい名声とも、実業家として巨万の富を残すこととも無縁だった。ただただ、夢のある未来を創るため、豊かな国を作ることを目的に行動した人間だった。

終わりに

この作品を通じて、春馬くんの本気は、私に十分すぎるほど伝わった。いや、そういうのは変だ。春馬くんは、いつだってどんな作品に対してだって、全力であり、本気だったのだから。だけど、これまでに俳優として磨き上げたすべてを、五代友厚について学んだすべてをぶつけたであろう、この「天外者」という作品は、私にとって忘れられない作品になった。

それだけじゃない。自ら龍馬役を三浦翔平さんにお願いし、高校の同級生である蓮佛美沙子さんに妻・豊子役をお願いしていた。

キンキーブーツのスタッフの言葉「He was a real leader」がまた脳裏によみがえる。

そんな風に思ってはいけないんだけれど、だからこそ「どうしてこんなことに」が止まらない。

「どうして」を止めたくて、また劇場に向かう。答えは出ない。そしてまた、何度目かの「どうして」を受け止める。「どうして」はどこかで止めなくてはいけない。あんまり欲張ったら、春馬くんがゆっくりできないから。

まだ「どうして」は止められないけれど、それ以上に春馬くんの作品にかける情熱とか、本気を強く感じる作品なので、やはり何度も映画館に足を運んでしまう。

どうしても、あのきれいなBritish Englishをまた聴きたくなる。私の耳が春馬くんの本気を受け取るからだ。

きっと、春馬くんの本気を、私は感じに行く。
何度でも、劇場で公開している限り。
DVDやBlue-rayが売り出されたら、それはもう永遠に。

やっぱり、三浦春馬は私にとって、唯一無二で、最高のエンターテイナーなのだ。

春馬くん、ずっと、好きだよ。多分ね。

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