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【社会人2年目&3年目】ここ10年の私の話。

2020年4月現在、33歳の私。

思い切って私のここ最近10年の凸凹ストーリーをまとめておこうと思う。
(本当は社会人1年目もいろいろあった!適応障害って診断されたしね。)


今から10年前(2010年):社会人2年目(23歳)

この時は東京千代田区在住。互いの勤務先に通いやすいようにとの思いから決めた場所。夫と正式に新居を構え、生活を始めた時期。

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↑夫とUSJへ行った時の写真。夫の友人の試合を見に行きUSJにも行ったようだ。試合観戦🏀がメインで、空いた時間に観光という、私たちの旅行お決まりパターン。

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今から10年前というと、社会人2年目の春を迎えたところ。そして結婚1年目、入籍から3ヵ月というところである。(1月上旬の私の誕生日に籍を入れた)

大学病院事務職員から大学事務職員へと異動して勤務をし始めてからの3ヵ月目でもあり、出身校で働くという有難さを感じている状況だっただろうか。

私は大学院の事務職を主に担当しており、授業は他キャンパスでも開講されていたため、他キャンパスの教室確保や非常勤講師とのやりとり等、外部との連絡が一番苦手だったかな。

これはきっとHSPならではの良く言えば些細なところまで心配りができ、悪く言えば気にしすぎな面であると思う。

でも、この1年間は「将来NPO法人を立ち上げたい!そのためには大学で事務職を経験しておきたい!」と思って就職活動をし、大学事務職員として就職が決まった時の喜びが沸々と湧き上がる日々だったと感じている。

私が一番好きだったのは、カリキュラムやシラバスの校正。

とっても地味で、大半の方にとっては面白みを感じることなく面倒くささしか与えかねない作業だと思うが、丁寧に一つ一つ積み重ね、言葉を組み立て、最後に形として残るこの仕事が、実は一番好きだったと今、気がついた。

あと私が好きで得意だったのは、入試業務。

当時は受験者から送付された出願用紙に、届いた順に受験番号を打番していくという作業があり、封筒から開けてクリアファイルにうつし、ひたすら打番をするというめちゃくちゃ地味な作業が大好きだった。

入試受付業務が始まると、残業が増え、気が抜けない時間帯も増えるが、小さな事務室が一丸となって入試に向けて力を合わせて仕事をする雰囲気が大好きだった。

あと、イベント物は好きだった。

入学式、卒業式、オープンキャンパス、そして入試ももちろん。

時には面倒に思うこともあるけれど、人と接すること、人に喜んでもらえること、誰にでも分かりやすくすることが好きで得意だったのだと思う。


今から9年前(2011年):社会人3年目(24歳)


そういえばこの年の夏の始め、結婚式をあげたのだった。

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この日、梅雨が明けた。真夏のような暑い日だった。

私たちはバスケで出会い、私の両親もバスケで出会った。ずっとバスケしかしてこなかった私と、バスケに救われたという夫。参列者もバスケ関係者が多く、披露宴では幾度となく「バスケ」という言葉が飛び交った。

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↑実際の大きさのボール&リングのウエディングケーキ🏀


震災の影響で結婚式ができない可能性もあった時期。使用予定だった体育館は使えなかった。でもそれでも挙式・披露宴が行え、参列して下さった先輩職員さんからは「料理が本当に美味しかった!心のこもった温かい式だった!本当に良かった!!」とお褒めの言葉を頂き、友人からも「一番感動した結婚式だった!」と言ってもらった。余興をしてくれる友人たちにも、感謝感謝。本当に有難かった。

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日々の業務は基本的に何でもわかる・できるようになっていたけれど、なんとなくこのままここで仕事をしていたら次なる成長が見込めないような気がしてしまうようになった。

社会人3年目の後半は、大学院で新規専門コースを設立するということで、それにまつわるほとんどの業務を私が担うことになった。

文部科学省へ提出する資料であり、先生がどれだけの想いをかけて設立を目指しているのか理解しているつもりだったので、真剣に丁寧に打ち込んだ。

結果、見事スムーズに通った。

いつも基本的に誰に対しても厳しい先生だったので、正直ずっと不安を抱えながら業務を担っていたのだが、「あなたのおかげで通ったのよ!本当にありがとう!!」と満面の笑みで言ってもらえ、本当に嬉しかった。(この体験をもう少し早くしていたら、私は転職していなかったかもしれない。)

そしてこの業務を担うと同時に、他大学での職探しも始めた私。

「やっぱり大好きなスポーツに関わりたい!」と思い、動き始めたのだ。(勤務している大学に残ってもスポーツに関われる可能性はなくもなかったのだが、私はそこに光を見いだせなかった。)

結果、とある大学でスポーツ系学部の教員として働けることになった。

決まった時期がとても遅かったので、大好きな先生方へ丁寧なあいさつができなかったのが今でも心残りだが、でもきっとこれで良かったのだと思う。

だってどの先生にも残念がってもらえたし、突然訪れた研究室で「何かプレゼントしたいのだけど…」と言って探して手渡してくださる先生がいたのだから。

私の最後の出勤日。

文部科学省への提出書類に関して共にがんばった先生と、一番大変お世話になった先生が送別会を開いてくださった。「本当はコース設立のお祝い会だったのに、送別会になっちゃったじゃない~!」とおっしゃってくださったのが本当に嬉しくて、今でも鮮明に覚えている。

事務室の皆さんも送別会を開いてくださり、心のこもった寄せ書きやプレゼントをくださった。大きな花束も頂いた。

「私、本当にここを去るんだな~。」と、デスクに入れてあった私物をたくさん抱えながら、先輩職員とタクシーで帰宅した記憶がある。

そう、私は間違いなく自分で自分の居場所を築き上げることができていたのだ。たった2年と3ヵ月という期間ではあったけれど、私が本気で真剣に懸命に仕事をしていた姿は、誰しもが見ていてくださったのだ。

正直、あのままあそこで仕事をしていたら良かったのかな。と思う時もある。そうしたら、間違いなく今が違うと思うから。でも、その道を選ばなかったということは、あの時の私にとっては最善の未来はあそこで仕事をし続けるということではなかったということ。ただ、それだけ。

人は選ばなかった方の未来を考える時があるけれど、それって勿体ないなって思うようになった。なぜならば過去の私を大切にできていないと感じるから。

だから、「今までのすべての選択は、親愛なる私がその時最善と思える選択をしてきただけのこと。すべてに意味があった。あの時あの選択をしたからこそ、今の愛する私がいるのだ。正しい・間違っているなんて両極端なものではなくて、ただ、私がしてきた選択を尊重し、今の私ができることをただ積み重ねていったら良い。」とすべてを受け入れることにした。

だって、いくら過去のことを考えても、「あの時ああしてたら…」なんて考えても、絶対その経験はできないのだから時間の無駄になるのだと思うようになった。

それならば、今までの私に感謝し、今の私を生き、これからの私のためにできることをやっていこうと。


HSPな私ならではの苦手だったこと


名称未設定のデザイン (6)


実は事務職員として勤務している時、何とも言えないストレスを感じることが多々あった。

今となってはそれが「HSPだから。」という一言で片づけられそうな気がするのだが、当時は自分が繊細過ぎる&気がつき過ぎるという特性を持っているとは全く思っていなかった。(なかなか話が合う人はいないとは思っていたが)

例えば、電話。

集中して作業をしている時に電話が鳴ると、恐怖でしかなかった。また、私自身が一番下っ端の時も、「電話が鳴ったら一番下がとる」という暗黙のルールがあったため、電話が嫌で仕方なかった。

なぜ電話が苦手だったかというと、
・相手の顔が見えない/誰だかわからない
・話が分かりづらいことがある
・聞き返しても分からないことがある
・聞き間違いをしてしまうことがある
・人によって話し方が全く違う
・内線を回すときに失敗してしまうことがある 等、
事前に予測できることが全くなく、その時その時で臨機応変に対応する必要があるということだ。そして、話を聴き返すということは相手にとって失礼にならないか、内線を回すときは先生がどんな状況だろうかといった、いろんなことを考えてしまうのである。さらに、時折かけられてくる悪質な電話が本当にどう対処して良いのか分からず、途方に暮れてしまったこともある。また、強気な方からの電話対応も、本当に苦手だった。

電話は、こちらの都合に関係なく突然かかってくるもの。それは当たり前のことなんだけれど、通常作業時にかかってくる電話は恐怖でしかなくって。それなら業務をたくさん抱えている時の方が、反対に振り切れているので何にも考えずさら~っと対応できてしまうと感じたことも。

でもそれでも、きちんとやることはやっていた。(電話が苦手って、言ってみても良かったかもなぁ~)


そして、事務室内で誰がどんな業務を抱えていて、誰が今大変な状況か、自分の抱えている仕事の量とその人が抱えている量とどんな具合だろうか・手伝った方が良いだろうか等、いろんな人の様々な状況を無意識のうちに把握してしまっていた。

だから、さぼっている人はすぐに分かったし、理不尽な状況に一人で勝手に腹を立てていたこともある。

そう、HSPは些細な情報を収集することや、周囲の状況把握も得意なのだ。それゆえに、ずっと毎日同じ人たちと過ごす事務室という限られた空間は、結構しんどい時も多かったのだ。

誰が誰をどう思ってるか、誰と誰は仲が良いか、やっぱり少ない人数でも人間同士、いろいろあるもので。それを感じてしまうのは、やっぱりつらかったのだ。


でもきっと、私が最後事務職員の方からだけでなく先生方からも温かく送り出してもらえたのは、HSPという特性を持っていたからだとも思っている。

なぜならば「いつも丁寧な仕事をしてもらっていたから…。」「いろんなことに気がついてくれるから、とっても仕事がやりやすかったわ。」と言ってくださる先生ばかりだったので。

そして昨年の夏、退職してから初めて職場へ遊びに行ったところ、「今でももとやすさんが作ったフォルダ使ってるよ!!」と言ってもらった。(辞めてから7年も経っているのに、だ)「新しい人が入ってきて仕事を教える時にも「それは「もとやす」ってフォルダ入って~」って言ってる!(笑)」と教えてくださった。

その話を聴いて、私なりに頑張っていたあの日々が報われた気がした。そして、完全自己中な考えだけど、「なんだかんだでまだ愛されてるのかな、私。」って思えた。(私が勤務していた時の中心メンバー3人は変わらずにいらっしゃった)

だからきっと、すべての選択には意味があって、その時の私がした決断だから、今も自信を持って生きていったら良いんだと思う。そして繋がる時に繋がるんだと思う。


みんな、過去の自分の決断に自信持とう!すべての私を受け入れ、認め、愛していこう♡

人に何を言われても、何を思われても、自分のことは自分がよく分かってる。頑張った自分のことは、誰でもない、自分が分かってる。頑張れていなかった自分のことも、自分が一番分かってる。

情けないと思うことも、正直たくさんあるけれど、でもそれでもその私を受け入れ、認めていくんだ。だってそうすることでしか先には進めないのだから。


***

ということで、今日はここまで!

次回は今から8年前(25歳)&7年前(26歳)の時のことを記します。


P.S 社会人2年目の3月に東日本大震災を経験したことで、私の転職志望は強くなったように思う。

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