【インタビュー後編】漢・内村圭宏の生き様「またサッカーを通じて会いましょう」 /札幌・今治時代を振り返る
大分トリニータ
愛媛FC
北海道コンサドーレ札幌
FC今治
計17年間、プロサッカー選手として活躍し、
2019年シーズンを持ってプロサッカー選手を引退した内村圭宏さんのインタビュー後編。
今回はキャリアの大半を過ごしたコンサドーレ札幌と現役最終年を過ごしたFC今治時代を中心に振り返りたい。
③北海道コンサドーレ札幌(2010年~2018年):236試合59ゴール「自分のチーム」
FWとしての結果に拘った内村は
2009シーズン
J2・愛媛FCで18ゴールと得点を量産。
ストライカーとして評価を高めた内村の下には
そのオフ、J1クラブを含む多くのオファーが届いた。
そんな中、内村は当時J2中位を定位置にしていた
コンサドーレ札幌への移籍を決断する。
「札幌に移籍したのは最初にオファーをくれたのと、練習場などの環境面も素晴らしかったことが大きかった。
後、試合で対戦した時のサポーターの熱い応援も印象的だったし、ワクワクする印象が強くて、オファーを貰ってすぐに気持ちは持っていかれましたね。
また、がっつりJ1のチームにいくと、外人FWがいたりして中々勝負をして出るのは厳しいかなっていう感触もあった。
コンサに行けば試合に出るチャンスはあるし、J1も余裕で狙えるクラブだから、コンサと一緒に上がるのが一番いいのかなっていう感じでした。
一緒に成長できる感じがいいと思ったので、
そういうイメージでコンサに行きましたね。」
コンサと共に成長する
内村はその後、まさしくイメージ通り。
いや当初のイメージを遥かに超えた
充実の日々を札幌で過ごした。
そんな心のチームに昇華していくに当たり、
フロントスタッフの存在も大きかったと語る。
「移籍交渉の時もそうだったんですけど、三上さん(現GM)の存在はデカかったですね。あ!この人!直感でいいなあと。と思ってからずっと世話になってます。今でも連絡くれたり。あんまり堅くないし全体的に好きですよね。
何より、移籍してきた時から自分をかなり信頼をしてくれて。
毎年、心に響く事を言ってくれていたので。
例えば移籍1年目は全然ダメだったけど、1年目を終わった後も三上さんを中心としたスタッフ陣の俺への期待が全然変わってなくて。
「次はやると思っているから」であったり、
昇格した時は勿論だけど、
2012年に落ちた時もやっぱり、
「今後の為にまた力を貸してくれ」って言われて
燃えさせてくれた。常に期待して貰っていた。
ピッチ外でのストレスってプロの選手はだいたいあるんですけど、契約やチームとの関係のストレスが札幌時代って全くなかったから。
期待して貰って、自分もそれに応えて。
そういう部分でも幸せだった。
本当はもっともっと結果を残したかったけど、
そのお陰で燃えて、頑張れましたよね。」
「札幌サポーターの皆さんの期待に応えられるよう、そしてチームのJ1昇格に貢献できるように頑張りたいと思います」
コンサドーレ加入後のリリース通り、
〝うっちー〟はコンサドーレを2度もJ1昇格へと導いた。
そう。まさしく導いてくれた。
1度目は札幌移籍2年目の2011年だった。
J1昇格に向け、勝利が必須の状況の中、
最終節に迎えた首位・FC東京との大一番。
39,243人の超満員となった札幌ドームは
過去にも類を見ない異様な熱気に包まれた。
観客が規定以上に入場し、
後に問題にもなったという伝説の1戦だ。
当時の状況を内村も懐かしむ。
「移籍2年目の2011年は怪我で大分出遅れた感じだったけど、身体も切れててコンディションはめちゃくちゃよかった。一番身体がいい感じでしたね。
東京戦の時のドームの雰囲気はマジで凄かったです。
あれは最高でした。
本当にゾクゾクしましたよね。
ゾクゾクするのが止まらなかった。
それで俺はここで戦えるのか!って。あれは燃えましたね。
やっぱり、チャンスになったら、応援の熱量がいつも以上に全然違うから。
あんな声援受けたら、違う力が出ますよね。」
大声援に後押しされたコンサドーレは
大声援に応える漢・内村の2ゴールで勝利。
コンサドーレは4年ぶりとなる
J1昇格の切符をつかみ取った。
"I was there."
後世にまで誇らしく語れる90分であり、
声援が勝負に寄与したと思える稀有な試合だった。
「ただ、次の年ね。もうちょいガツンとやれたら良かったんですけど。
あの年は本当に残念でただただ、悔しかった。」
しかし、内村の言葉通り、翌年のJ1の舞台で待っていたのは厳しい現実だった。
そんな戦いを予期してか、内村は昇格直後の契約交渉の場で自分のことはそっちのけでチーム強化の要望も送った。
その時にはもうコンサドーレと一心同体。
そんな気持ちが芽生えていたのだ。
「2011年は戦力的にギリギリで上がっていた。
上がった瞬間にこのままだと、ヤバいって思ってたから。
オフの交渉もそこそこに俺の年俸はいいから、
マジで何人かいい選手を取って下さい。お願いします。っていうのは言いましたよね。」
だが、その意気込みは結果には繋がらず、
待っていたのは史上最速降格という惨敗。
翌シーズンはJ2でも下位レベルの
緊縮財政でのチーム編成を強いられ、
アカデミー出身の若手が半数近くを占める
体制でのリスタートとなった。
しかし、逆境でこそ、燃える漢は
こんな時でもやはり内村圭宏らしかった。
「最初はいやマジか。これはヤバいぞって思いましたけど。逆に燃えましたね。
2012年に在籍した多くの選手が戦力外で切られてしまったし、これで俺が残されたってことは、やれってことだなと気合いがめちゃくちゃ入った。
実際にそういう言葉もかけて貰ってたし。
でも2013年は自分的には、かなり人間的には成長できたと思える年。
高卒1年目の奴らが沢山入ってきて、自分がいきなり上の年になったから、俺がちゃんとやらないとっていう思いが強かった。
開幕戦なんかはユメ(神田夢実)も高卒でスタメンでしたよね?
あの時、凄い所からミドルシュート打って、大分遠かったから、
いやお前それ打つ?って言ったけど
高卒で自信満々だから、狙ってました!とか言ってて(笑)
若手の良さもそれぞれあったし、残りたくても残れなかった選手の分も俺がやらないとなっていう感じで結構印象的なシーズンでしたね。
「当時、内村さんもサッカー選手として脂が乗った状況だったと思うが
コンサから出るという選択肢は頭に浮かばなかったのか?」
そう問うてみたが、どうやらそれは愚問だったようだ。
「他からオファーが来た時もあったと思うけど、コンサと相思相愛的な感じだったし、一心同体だったので出るつもりも全くなかったですね。」
厚い信頼関係を寄せ合っていた
コンサドーレと内村圭宏。
内村にリーダーの自覚が芽生えた2013年。厳しい戦いも予想されたが、開幕のジェフ戦でチームを勝利に導くゴールを挙げるなどこの年、17ゴールと大活躍。チームも最終節までJ1昇格の可能性を残すなど奮闘を見せものの昇格とはならなかった。
その後も選手の流出が相次ぎ、
J1昇格&定着という目標に向けての歩みは
順調とは言い切れない状態が続いた。
「その時期、確かに選手の移籍も多かったけど、予算が落ちてもJ1に上がった年もあったし、結局やるのは今いる選手という思いでしたね。
俺らは毎年結果を残せると思って、戦っているから。今年は全然いけるでしょって毎年、思ってましたね。」
そんな強い思いが2016年シーズン遂に成就する。
この年、シーズン前の下馬評を覆す快進撃を続け
序盤から首位を快走した札幌。
内村も4試合連続ゴールを記録するなど
都倉賢とのダブルエースは不可欠な存在となっていた。
チームは6試合を残した段階で
自動昇格圏外の3位に勝点差11を付けるなど
J1昇格をほぼ手中に収めたかにも見えた。
だが、そこからまさかの大失速。
残り2試合で上位2枠を争い、札幌・松本・清水が勝点3差にひしめく激熱な展開となる。
こんな痺れる展開でも
やはり内村圭宏は
内村圭宏らしく有り続けた。
「絵に書いたような失速で、結構グダグダになっていたから、
ヤバいなっていうのもあったけど、見せどころでもあるじゃないですか?(笑)
これはまた面白くなって来たなと思ってましたね。」
Q 内村さんは本当に逆境の時に燃える性分ですよね。
「そうですね。ポジション柄もあるかもしれない。後ろだったら、ミスしたらどうしようとはなると思うけど、点を取るポジションだから、最後に1発、チームを救ってやろう。という思いは常にありましたね。」
迎えたラスト2試合。
第41節のアウェイ・ジェフユナイテッド戦。
内村は控えの切り札としてベンチスタートとなったが、サポーターからの溢れんばかりの声援にウズウズして仕方なかったという。
「ジェフ戦の時は、試合前アップの応援も凄くて鳥肌がヤバかった。
いつも凄いけど、更にちょっと凄くて、
みんなの勝ちたい思いがドーンって来た。
それなのにベンチで出れないのかよ!って思って。本当にずっとうずうずしてて、これ出れないのは辛いなってずっとギラギラしながら、待ってましたね。
後半開始から出た時にも、ブワーって声援が来てこれで今日やらないと男じゃないなと。」
そして、北海道コンサドーレ札幌の歴史において
後世に語り継がれ続けるであろう
〝あのゴール〟は後半アディショナルタイムに生まれた。
2011年のFC東京戦に続き、2016年のジェフ戦でも昇格を大きく手繰り寄せるゴールを奪ったうっちー。
この2試合は特にスタジアムの
応援の熱が凄まじい試合だった。
掛かったものが大きくなればなるほど、
声援の熱が大きくなればなるほど、
結果で応えて来た内村圭宏が感じる
応援の力とは?
「いやあその力はマジであります。
ああいう凄い応援を貰うと、疲れとかが麻痺するんです。
本当に奮い立たせて貰うって感じですよね。
サポーターの応援は本当に勇気を与えてると思います。よし。やろう!ってマジでなりますもん。
ゴールってたまたま的な所もあるんだけど、
応援があったから走れたとか、
応援があったからまとまったとか
応援があったから勝ったと思う試合は
絶対にありましたね。
コンサは要所要所で本当に凄いし。
「行け札幌」とかもよく覚えてるし、
してくれた応援は全部覚えてます。
あの声援は凄かったなあ。
特にやっぱりドームと厚別の応援は良かった。
ドームは雰囲気がいいし。厚別も好きでしたね。
なんか勝つイメージがありましたね、ポロっと。
聖地だからですかね(笑)」
一方、その力を実感しているからこそ、
現在の状況には寂しさも隠しきれないようだ。
「試合を出来る事は何よりまずイイこと。
でもこの前見に行ったけど、やっぱり寂しかったです。
全然いつもと雰囲気が違いますもんね。あ、声を出せないと、こんなになるんだって思って。
サポーターの人も寂しいし、やってる人も寂しいだろうし。〝ウワー〟っていうのがないのが選手目線でも本当に辛いだろうなと。
早くまた日常が戻ってくることを願いたいですね。」
サポーターのエールに常に結果で応えてくれた内村だが、30歳を超えてから身体のダメージは隠せなくなってきていた。
誰もが避けられない〝衰え〟との戦いであった。
「当時は認めてなかったけど、2016年も途中出場が多かったりって所で
見てる人には衰え的な所もバレてたところもあると思う。
やっぱり足首も痛かったり、毎年怪我して
落ちるのは落ちていたと思います。
キレとかスピードで勝負するタイプとしては、
2014年2015年あたりから仕掛けてないですもん。
前までドリブルで仕掛けて1人2人抜いていく感じだったけど、そういうプレーはあんまりしてなかったですね。
そんな葛藤も抱えながらたどり着いた2017年、6年振りとなるJ1の舞台だったが、16試合に出場し、無得点。
チームは目標としていた残留を果たす一方、個人としては納得のいくシーズンとはならなかった。
「1回ガつんと落ちて、待ちに待ったというか。
やっと上がれたという所でかなり、この舞台に懸けていた。その為にやっていたので。
チームが残れたのは良かったですけど、
個人としては残念な印象が大きいですかね。
思った感じで試合に全然絡めてないから、
中々寂しいシーズンでしたよね。」
コンサドーレラストイヤーとなった翌2018年。
リーグ戦にはキャリア最小となる僅か1試合しか絡めなかった。
だが、監督にミハイロ・ペトロヴィッチを迎え、
現在のコンサドーレの礎となった
この年を、充実の1年だったと内村は語る。
「本当だったら前の年でクビでも良かったと思うけど、もう一年チャンスを貰って、監督も新しくミシャになった。
あの1年は本当にいいチャレンジ出来たし、凄い楽しかった。
2018年はめちゃくちゃ楽しかったです。
今のコンサドーレがあるベースの最初の所にいれて、よかった。
本当に楽しいですよ、あのサッカーは。
ボールが通ってから、出てきなさいではなく
ボールが通るんだから、出ていけ!という感じなんですよね。ザックリ言うと。ここに来るんだから、なんでいかないの?みたいな。
今まで自分が習ったのは、確実にボールが通るのが分かってからいきなさい。
だけどそれじゃあやっぱり遅いですよね。
そういう前向きなこうしなさい!という指示が沢山あって、
ウワッ。それやっていいの?ありがとう!って感じでしたね。
こんなにいい指導者いるのか?っていう。
指導者がそうやって言ってくれるってめちゃくちゃ、ありがたくて。
みんなやりたいけど、リスクを考えて保守的になっちゃう。
それは点を取れるなと思うし、楽しいですよね。ちょう楽しかったです。」
新たなサッカー観との出会いに多くの刺激を受けた1年。
ルヴァンカップの磐田戦で得点をあげるなど結果も残し、
リーグ戦でもチャンスが訪れそうな雰囲気はあった。
しかし、その度に付きまとったのがまた負傷との戦いだった。
「磐田戦の得点は本当にここからいくぞ!という感じで嬉しかったですね。
2018年も最初中々出番がなくて、その後、ちょこちょこ出れそうだったりはしたんです。
2017年もフロンターレ戦でやっと出番が来て、それまで中々コンディションも整わなかったけど、久々に整って。自分の中では結構いい感触があったんですよ。2列目の役割だったけど、これは結構いけるって思ってたら、もも裏が張って前半で交代して。そういうのが3回くらい続いたんですよ。
ジュビロとの天皇杯かなんかの試合も足首をがっつり故障して、また前半で交代になって。。」
そして、極め付けが
2018年第12節のサガン鳥栖戦だった。
内村は遂にリーグ戦でスタメン出場の機会を得た。
だが、前半19分にまた、悪夢が襲う。
「サポーターの人も俺が久々に出るって感じで、
個人的に応援してくれているのもめちゃくちゃ伝わってきて。
見とけよ!って思ったら、
10分くらいでピーンって足が張って。。。
「うわ。またかよ」って思って、ごまかしてやってたけど、これはダメだって思って。
本当にそんなのばっかりでしたね。最後の方は。
今までだったらそういうチャンスを逃さずに、感触ある時ってだいたい、バチンとインパクトを残してそこから、チャンスを掴むのが当たり前だった。
でも、3回4回、自分の怪我で前半で交代というのが続いた。自分がコンディションを整えれなかったなあという。逆らえなかったですね。」
そして、その年のオフ。
自分の家とも称するクラブとの
別れの瞬間が訪れる。
その覚悟はできていた。
しかし、実際にその状況に直面すると、こみあげてくるものがあった。
「付き合いも長いし、クラブはもうめちゃくちゃ温かったです。
さすがに泣きましたけどね。その時は。
でもクビも当然だと思ってたし、感謝しかない。
ありがとうございました!って感じでしたね。」
退団決定した際の交流会には急遽
600人近いサポーターが駆けつけ、
特別な時間を過ごした。
「あれは感動しましたね。どんだけ来てくれんだって思って。
あの時貰った寄せ書きも実家に飾ってます。
サポーターといい時間を過ごせて、とにかく、嬉しかったですね。」
④FC今治(2019年):26試合7ゴール「今後が楽しみな壮大なクラブ」
そんな札幌との別れの後、内村は当時JFL(4部相当)に所属したFC今治への移籍を決断する。
「岡田武史さんのチームだし、クラブとして目標がしっかりある。
自分もずっと興味を持って見てたから、移籍できて、嬉しかったですね。
今治で出来るんだ!って思ったら面白そうだなって思って。」
新天地でも、内村は自身のプロサッカー選手としての存在価値をしっかりと示す。
この年、チーム2位となる7ゴールをあげ
チームも目標としていたJ3への昇格を果たした。
Jリーグの舞台に再び、内村圭宏が帰ってくる!
そう思われたが、そのオフに待っていたのは厳しい現実だった。
3度目の契約満了。
「最低限、試合に何とか出て、昇格したし、
クビって聞いた時はまさかでしたけど。
振り返ったら、練習にあんまり参加できてなくて。
今治は、人工芝の練習場なんです。
天然芝なら全然、足首も問題ないんですけど、
人工芝でやると足首が痛くて。。。
だから、週1・2回しか練習できなくて、
自転車だけ漕いで調整して何とか試合に出たりもよくしてました。
あまりに自分が練習が出来ないので、クラブもお金がないのに、自分の足首の為に別の練習場を抑えてくれてっていうのも2・3回やってくれたんですよ…
でもせっかく借りてくれたグラウンドも固いグラウンドだったりして、これじゃ出来ないみたいなのも結構あって。
そういう事も考えたら、それはそうだよなって感じでしたね。自分も練習できないのは辛かったですしね。」
長年、戦い抜いた身体はもうボロボロになっていたのかもしれない。
スタッフに聞いても、
練習場に最初に来て、最後に帰るのがうっちー。
それが当たり前の光景だったという。
そんな一年は悔しさもあっただろうが、
内村はチャンスをくれた今治には感謝の思いが強いと語る。
「チャンスくれてありがたかったですよね。
光栄ですよね、岡田さんのチームで出来たことは。
独特の取り組みじゃないけど、すごい壮大なことをやろうとしているチームで今後が楽しみですよね。
コンサと似ている感じはすごいありますね。
サポーターもあったかいし、
クラブとしてもちゃんと人間味があるというか。
凄い共通点がありますね。
素敵な部分が多くて上を目指しているから成功して欲しいんですよね。」
今治を契約満了になった内村。
すると、あの2文字が脳裏に浮かんだ。
いや、心の奥底では既に覚悟を決めていたのだろう。
「自分はプロだし家族もいるので。金額も最低の所は決めていたし、足の状態も全然良くなかったし。自分が最低限生活できるという金額のオファーで温かい所でっていう限定で探していた。でももう無いのは分かってたから。年内まで待って、年を明けたら決断しようって感じでしたね」
2020年2月1日
現役引退のお知らせがFC今治より、リリースされた。
「自分的には年内中には決めてたんですけど。どこから情報を出せばいいのか分からないし、ズルズルしていたので、いい加減発表しないとなって思って。最初は別に発表しなくてもいいかなって思ったんですけど、連絡をくれる人も多くて、心配かけてるのは良くないって思って、今治に連絡してリリースして貰いました。」
印象に残っているゴール3選
17年間のプロキャリアに一度ピリオドを打った内村。
プロサッカー人生を振り返って特に印象に残っているゴール3選は?
そう問うと、真っ先に上がったゴール2つは予想通りのものだった。
「1つ目が2016年の千葉戦のゴール。
2つ目が2011年の最終戦のF東での2ゴール。
後もう一個なんだろうな。2011年の怪我明けの7月の愛媛戦かな。
その年、ケガで出遅れて、復帰して1発目のゴールは嬉しかったですね。
やっとここからいけるぞ!っていう感じで。」
全てがコンサドーレ時代の得点。
どれだけ特別な時間を過ごしたのかは
それだけでも十分に感じられる。
果たして、コンサドーレとは内村圭宏さんにとって
どんなクラブだったのだろうか?
「自分のチーム。自分ん家って感じです。
また北海道に戻る機会とか、一緒に出来たりできる事を願ってますけどね。
でも、全ては今の自分の頑張り次第かなっと思っていて、仕事も頑張ってますね。」
多くの人々に愛された〝うっちー〟
最後にサポーターへ向けての
メッセージを貰った。
「今は一緒のサポーターになれたので、今後もコンサドーレを
応援出来るのが嬉しいなと思ってます。
また、仕事とかのいい機会があって、会える日が来ると思う。
なんか会える気がするので。その日を楽しみに一緒に応援しましょう。
在籍中、本当にめちゃくちゃ後押ししてもらってかなり力を貰ったし、
それが凄い幸せでした。今後も一緒に応援してきたいと思ってるので、
今後も宜しくね。」
なぜこれだけ内村圭宏さんは
サポーターに愛されているのか?
今回、内村圭宏さんに話しを聞いて
改めて分かった気がする。
札幌ではクラブ歴代4位の236試合に出場し、
歴代2位となる59ゴール
という結果を残した功績も勿論ある。
同時にその行動と言葉の節々に
ブレない覚悟の強さと
人間らしさが滲み出ているからだと思う。
最後に
「また、サッカーを通じて会いましょう」
そうメッセージを残してくれた。
内村圭宏はきっと自らの信念に乗っ取り、行動を続け、また自らが望む未来を切り開いてくれるはずだ。
そんなカッコいい漢だと思う。
また、サッカーを通じて会いましょう。
その時が来るのを楽しみに自分も励みたい。
改めて17年間のプロ生活
本当に本当にお疲れ様でした。
「また、サッカーを通じて会いましょう」
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