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【インタビュー前編】 J通算99ゴール 内村圭宏が引退後、サッカー界から離れた理由/大分~愛媛時代を振り返る

内村 内村ゴール 内村ゴール 内村ゴール

果たして幾度 スタジアムに木霊したことだろう。

その一振りでファンを熱狂の渦に導いた記憶はもはや数えきれない。

前編3

ただ、一つ言えることは多くのサポーターにとって
内村圭宏が今もこの先も特別なFWであるということだろう。

2020年4月1日
プロ生活で延べ99ゴールを積み重ねた男は
サッカー選手としての引退を決断したのち
IT業界への転職を果たした。

その決断の理由は?
今後サッカー界に戻る可能性はあるのか?
そして、17年間のプロキャリアを振り返って
改めて見えて来た漢の生き様。

そう。
だから、内村圭宏は
我々にとってスペシャルなストライカーなのだ。

うっちーのインタビューからその理由が
改めて見えてきた。

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サッカー選手が別フィールドでも活躍できることを証明する為に選んだセカンドキャリア

「面白いと言えば、面白いし、キツイと言えばキツイし(笑)普通っすね。

現在の仕事は会社のシステムを改修して新しく進化させたり、アプリを作ったり、そういうシステム開発全般をやってます。

でも土日が休みだからサラリーマンって。
毎週2連休でソワソワしますよね。
こんなに休んでいいのかな?って。

サッカー選手の時は、毎週の試合の事がどこか頭にあるし。
今はそういうのはないから酒も自由に飲めるし、
結構いい感じです(笑)」

システムやアプリ開発を行う
ラテラル・シンキング株式会社
職場を移してから約1年が経過した。

働くフィールドを変え、パソコンと向き合う日々。

そんなサラリーマン生活に一定の充実感をにじませながら
近況を語ってくれた内村だが、今の職種にありついたキッカケは現役最終年のFC今治時代に遡るという。

「サッカーをやってたらいつ終わるかは分からないから。

引退したら、居酒屋やろうかなとか色々考えていたんですけど、
ある時、プログラミングがちょっと面白そうだなと思って。

今治時代は単身赴任なこともあって、時間もあったので、勉強してみたら実際に面白くて、これ仕事に出来たらいいかもなって思ったんです。

でもその時は本格的にやるって決めていたわけでもなく、
当時はまだまだサッカーもするつもりだったし。
したら、11月くらいにポーンと首になってしまって。

家族で福岡住むのも一つ大きなやりたいことだったので、その辺も考えて今の仕事に挑戦しようかなと決めました。

それで自分で勉強して、ハローワークから応募しましたよ。」

多くの選手がそうであるように
内村も現役引退を決断した後、
当然サッカー関連の職種に就くことも一考した。

ただ、別の決断を下した背景には
サッカー選手のセカンドキャリアの
既成概念を打ち破りたい思いもあった。

サッカー選手は引退後もサッカー界で仕事をするのが幸せなこと
サッカー選手はサッカーしかできない

「当たり前のようにコーチをやるのも違うのかなと思ったんですよ。
サッカー選手は、引退後もサッカー関連以外は難しいとよく言われるけど、
本当にそうなのか?いけるんじゃないかな?と疑問に思って。

難しいのは当然ですけど、元々パソコンなんて触ったことない俺が、
そういった専門分野でも活躍出来るのを見せたかった。

俺がその道を示せたら、他の人も選択肢として、参考になると思うし。
そういうのをモチベーションにやってますね。」

前編④

厳しい状況でこそ燃える内村圭宏。

かつてのフィールドで幾度も示したその姿同様、
新たなモチベーションを胸に抱き
歩みを進める内村。

しかし、彼にとってサッカーが
特別な立ち位置な事には今なお変わりない。

「サッカーは今も見ている。ハイライトが中心だけどJリーグの試合はほぼ全部見ているので結構詳しいですよ。コンサドーレではルーカスのドリブルが特に好きですね。まあただの一ファンとして見ていて、あの仕掛けが楽しいから早く仕掛けろ!仕掛けろ!って思いながら見ている。本当に飲みながらリラックスして見ているので今はそれが楽しいですね。

結局サッカーが自分にとって一番なんで。今後、またサッカー界と自分を無理くりにでも繋げたい思いはある。やっぱりそこが好きだし、今の仕事をしっかり覚えるのが前提ですけど、その先には色々な可能性があるのかなって期待しているし、日々作戦を考えてますけね。

コンサドーレともまた繋がれるチャンスはどんどん伺いたいし、この業界で働いていて後に監督などにもなれない事もないじゃないですか?海外でもそういった事例もあると聞くし、サラリーマンを経験したからこそ見えるものあるし、いい経験していると思います。」

仮に現段階で、サッカー界に戻ると仮定したら、
興味があるポジションはあるのか?

質問すると返ってきた返答は
やっぱり〝あのポジション〟の指導だった。

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「例えばストライカーを専門に教えるコーチとか。ああいうのをやってみたいし、子供とかだったら自分の経験を教えれる所があるのかな?って思う。そういうのをやったりする時が来たら、また楽しいだろうと思うよね。」

今年の1月にはガンバ大阪OBの大黒将志氏が
実際に就任したアカデミー ストライカーコーチ

ストライカーにはストライカーにしか分かりえない
論理や感覚があるのだという。

札幌の野々村社長も番組で
ストライカーコーチに強い興味を示していただけに
将来、そういったマッチングもない話ではないかもしれない。

数多くの伝説のゴールを残して来たうっちー。

しかし、彼は幼少期からFWとして育った
生粋のストライカーではない。

FW・内村圭宏はプロとして得た
ラストチャンス。

その僅かなチャンスを物にし続け
プロの熾烈な争いの中
生き残る為の最終手段だった。

前編1

同級生のバーターから始まったプロキャリア


①大分トリニータ(2003年~2006年):30試合2ゴール
「地元・プロキャリアのスタート」

地元の強豪・大分高校で1年から試合に絡み
3年連続で高校選手権に出場するなどチームの中核として活躍した内村。

だが、Jクラブからのオファーは皆無で
当時、福岡の大学への進学が内定していた。

そんな矢先にJの複数クラブで争奪戦が繰り広げられた
同級生の倉本崇史にくっ付く形で
地元トリニータの練習に参加する機会を得た。

「ずっとプロから誘いがなくて、福岡の大学進学が内定していて、
そういうつもりだったんですよ。でもオファーは全くなかったけど、同級生の倉本にくっ付く形で俺も大分の練習に参加させて貰いました。
俺も入りたいから。

それで行った時、調子よくて、
滑り込みでオファーが来て。

大学にはちょっと迷惑をかけたけど、すいません!といって、
プロにいかせて貰いました。俺は当時、完全にバーターでした。

倉本が3・4チームからオファーが来ていた中、
地元のトリニータ入ってくれたおかげでしたね。」

少しの幸運と僅かな可能性のチャンスをものにし、掴み取ったプロサッカー選手の道。

1年目の第6節で早速プロデビューの機会を得るなど
小林伸二監督(現北九州監督)からの
期待も大きかったが、その後
Jリーグの舞台で継続的な出番を
得る事は中々出来なかった。

「4月には試合に出て、技術的には余裕でいけるなと思ったけど、
プレッシャーが早かったり、フィジカル的な所や守備のところが全然分からなくて、そういう大人なサッカー的な所で何年か訳が分からない感じでしたね。」

②愛媛FC(2007年~2009年):121試合28ゴール
「プロキャリアの転機」

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地元・大分ではレギュラーを掴み取れず
プロ5年目となる2007年に
J2の愛媛FCへのレンタル移籍を決断した内村。

愛媛移籍1年目のシーズンから
早速40試合に出場し6得点をあげた。

一見すると順調なシーズンに見えるが、
決してそうではなかったという。

「J1からJ2に移籍して、1年目からバリバリやろうと思っていったら、
やれる手ごたえはあるのに試合では全然活躍できなくて…
開幕から5試合程出たら、その後、出れなくなったんですよ。

俺はJ2でも活躍できないのか?と
その時はもう終わったなと思いました。
1年目はがっつり挫折した記憶です。」

J1からJ2にレンタル移籍をしても
出場機会に恵まれない日々。

そんなある日、
望月一仁監督に出場を直談判しに行くと
長年、攻撃的MFを主戦に戦ってきた
内村にとって驚きの展開が待っていた。

FW挑戦はプロとしてのラストチャンス

「お前を試合に使うならFWしかないぞ」
って望月監督に言われて。

ただ、自分的には凄い抵抗があって…
小柄な自分が今からFWってキツいだろって。

でもそこしかないって言われたから。

攻撃は好きだったのと、何より自分は一回
プロサッカー選手として終わったと本当に思っていたので。
マジで終わったと思ってたんで。

じゃあ終わった身だと思ってやってみようと思って。そこからですね。また少しずつ出番が増えだした。」

FWにコンバートされた内村は
愛媛FCでレギュラーを獲得すると
継続的な試合経験を積んだ。

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しかし、大分トリニータから愛媛FCへの
2年のレンタル移籍期間を終えたオフ、
現実を突きつけられる。

「愛媛での2シーズンを戦い終えた時に、
保有権を持っていたレンタル元の
トリニータから、クビって言われたんですよ。

愛媛でFWとして、スタメンで継続的に試合に出れてある程度のプレーが出来ていたと
自分では思っていたんですけど、
実際そのオフにトリニータを首になった。

あんまり給料も上がらないし、
周囲もまだサッカーやってたの?
みたいな感じだった。

そこで意識が切り替わって、
FWは得点を取らないと話にならないんだな
って思って。

プレーはある程度何でもできたから、
点を取ろうと思えば取れたんじゃね?っていう思いがあったんですよ。

ただ、今までの手ごたえは
自己満だったんだというのを分かってなかった。

数字って大事なんだなという。
のを改めて痛感しましたね。

だから、愛媛3年目のキャンプから
もう今年は全部打ちまくって、数字を残そうと
シーズン前に決意した。
目立たないとプロとして終わりだなと。

だから、本当に練習からシュートを打ちまくって、実際に得点を量産の流れに繋がったという感じですかね。」

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打てば入る

後に生まれる伝説のキッカケの年になったと言える。

実際にこの年、キャリアハイとなる18ゴールを記録。

キャンプ前のイメージ通り
明確な数字を残した内村の下には
そのオフ、多くの移籍話が舞い込んできた。

その数多くのオファーの中から内村は
自分のチーム。自分ん家って感じ
と後に、称するコンサドーレからの
オファーを選択する。

後編ではそんな北海道コンサドーレ札幌時代と
現役ラストイヤーとなったFC今治時代を
中心としたヒストリー。

引退を決断した背景。

そして、サポーターの大応援の下、数多くの伝説的な得点を奪って来たストライカーが今こそ感じるその力。サポーターへの感謝の想いに迫りたい。

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前編②






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