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英作文の授業で育てる読解力、引用力、分析力とは

前回の記事では、私の講師としての経験を振り返りながら、エクスポズという英作文の必修科目の様子について書きました。今回からは、その授業で私がトレーニングする具体的な九つの能力について説明します。大きく分けて、インプットアウトプットインタ―ベンションの三つの過程があり、さらにそれぞれ三つずつの能力によって構成されています。インプットは読解力引用力分析力。アウトプットは語彙力文法力構築力。そしてインタ―ベンションは、批判力編集力自己発信力の三つです。エクスポズのコース一つだけでは到底全部を完全には体得しきれませんが、色んなコースを履修して課題をこなす中で、4年制大学を卒業する時点でこれらの能力を身に付けていれば、大学教育を有意義に受けたと言えるでしょう。

今回はまずインプットに関わる三つの能力について書きます。下の図に表したように、分析力は読解力と引用力の土台の上に積み上げられるピラミッドの頂点に位置しています。アウトプットに関しても、やはり語彙力と文法力があってこそ頂点の構築力が培えますし、インタ―ベンションのピラミッドでも自己発信力は批判力と編集力の上に成り立ちます。そしてこの図の全体をまとめて見ると、インプットとアウトプットの基礎があって初めて目標とするインタ―ベンションの過程に辿り着けるのです。

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つまり、英作文をするということは、ただ単に英語で自分の考えを日記のように綴ることとは訳が違います。学問や研究の基礎的な作業として、他人の文章を分析し、自分の文章を構築しながら、考え方そのものに対して批判と編集を重ねることで自分の視点を発信する、ということなのです。これは理系・文系の違いに関わらず、学問をするという社会行動の核となる作業です。将来どんなに人工知能が発達しようと、絶対に人間にしかできない労働であり、まさに大学教育の本質といえます。日本の高校修了レベルの英語を身に付けた人にはぜひ目指して欲しいトレーニング段階です。

その第一ステージがインプット。読解力と引用力という、地道ながらも軽視されがちな基礎能力を積み重ねることで、他人が書いた文章を分析する過程です。まずこれができないと、まともなアウトプットはできず、エクスポズの単位認定すらもらえません。読解力は、「どのように」や「なぜ」を突き止める技術。引用力は、他人の言葉を自分の考えの道具にする技術。分析力は、架空の対話を演出して自分の見解を導き出す技術です。

HOWやWHYを突き止める読解力

日本語圏で育ったからと言って、どんな日本語の文章もすぐに理解できるわけではありません。英語だって同じです。とくに大学以上で扱う論文の内容は抽象性と専門性が格段に上がるので、そもそもなぜその文章が存在するのかが分からないと話になりません。著者の最大の論点を掴めないまま、ぼんやりと印象に残ったエピソードやデータを拾い上げてただただ個人的な感想を述べるに終わってしまいます。「今日は遠足に行きました。動物園でゾウを見ました。楽しかったです。」というのとほぼ同じレベルの作文です。

例えば、前回の記事で紹介したウォール・ストリートの採用過程についての論文。努力すれば必ず報われる、そして能力のある人こそが権力を持つべきだという考え方(meritocracyと言います)が信仰を集めるアメリカでは、一流企業や一流大学に所属するエリートはさぞかし並みならぬ能力を保持しているに違いないと思われがちです。そして逆に一流でなければ意味が無い、無能だ、みたいな思い込みも生まれがちです。でも、本当は優秀な人材はどこにでもいるのに、ブランド力によって無効化されてしまうことがある。学生さんたちもぼんやりとは感じているこの現実を、細かな観察によって突きつけられると、やはりある程度理不尽さや無力感を感じるものです。

しかし、ここで「世の中がいかに不公平か知ってショックだった」とか「こんな仕組みがまかり通るべきではない」というような論点を中心に作文してしまうと、結局ぼんやりした文章で終わってしまいます。厳密に言えば、こう言った論点は批判と分析に基づいていないただの感情論だからです。この例文に関して言えば、一流ブランドの示す権威や地位が、実際にデータに基づいた中身のあるものではなく、結局は大学と企業の褒め合い・称え合いの連鎖によって生まれてくる神話的な魔力の産物であるという抽象的な視点がポイントです。

つまり読解力とは、「なぜ」「どのように」その問題が起きるのかについて著者の考え方を突き止める技術です。「こんな問題もあるんやなぁ」では読解したとは言えませんし、具体例やデータばかりに気を取られていても、肝心の著者の見解を見逃してしまいます。例えば「一流大学の卒業生の多くが一流企業に就職する」という客観的な現実について、それはいったい何を意味しているのか、その何が問題なのか、著者の発信しているメッセージを曲解せずに真っ直ぐ受け止めるのが読解力です。

これは、次に説明する引用力と同時進行で培われるので、ノートやメモ(annotationと言います)を取らずにただ読んだだけでは到底鍛えられません。当たり前に聞こえるかも知れませんが、そんな基本的な学習スキルでも念を押して伝えないといけないのが作文講師の仕事なのです。

他人の言葉を自分の道具にする引用力

著者の考え方を理解し、内面化するには、長い文章の中でも特に意味が深い個所を見つける必要があります。その部分を一語一句(verbatim)引用して自分の文章に組み込むことで、著者との対話を築いていくのが論文の基礎です。ただテキストから書き写すだけの作業だとすれば簡単ですが、これがなかなかみんなちゃんと出来ません。自分が上手く出来ていないことにすら気付いていないからです。まず読解力がなければ、具体例やデータなど見当違いの部分を引用してしまい、ただ適当に文字数を埋めただけで何も議論を深められません。逆にちゃんと重要な個所を引用できている人には読解力がある証拠です。

さらに、引用する時には暗黙のルールがあるのです。

それは、著者の声と自分の声をごちゃ混ぜにしてはならない、ということ。自分の言葉で文を書いていて、突然そこに何の脈絡もなく『著者の言葉を押し込んではいけません。』これをしてしまうと、自分の考えと著者の考えを区別できなくなり、結局要約文を書いてしまいます。高校では要約を中心に作文法を習うので、みんな大学に入ってもこれを濫用しがちなのですが、私はキビシク禁止します。この癖を直さない限り、まともな評論文を書き上げることは絶対に出来ないからです。例えば、こんな文章。

『ウォール・ストリートの人事担当者は、エリート学生を惹きつけるために自分たちの企業がいかに世界最高峰の組織か誇示しようと躍起になる。』一流ホテルの宴会場を貸し切りにして、飲み放題の企業説明会を開いたり、キャンパスに直接出向いては自社ロゴ入りのマグカップやらノートやらをばらまくのだ。『「アイビー・リーグに入れた君たちこそが全世界の将来を率いるのは当然だ」というのがスピーチでの常套句になっている。』

これでは文の主役は引用された著者になってしまいます。肝心な自分の文も具体例の要約にしかなっていません。一つ目と二つ目のセンテンスは一応文脈が成り立っているものの、最後のセンテンスはかなり唐突です。読み手にはこの不自然な感じが直感的に伝わっても、不慣れな書き手にはすぐに認識できないものです。

ではどうすればいいのか。私はハンバーガーを比喩に使います。まずは重要で意味のある、ジューシーなうまみたっぷりの文を見つけること、そしてその肉汁あふれるパティ(著者の言葉)を、上下からバンズ(自分の言葉)で挟むこと。つまり、まずは①引用したい個所を読者に紹介して文脈を明らかにし、それから②引用文を書いて、その後すぐに③その引用文の意味を説明しなければなりません。以下の例を見てみましょう。

Xというエッセイで、著者Aは一流企業と一流大学の権威について疑問を投げ掛けている。『ウォール・ストリートの人事担当者は、エリート学生を惹きつけるために自分たちの企業がいかに世界最高峰の組織か誇示しようと躍起になる。しかし具体的に何が一流の定義であるかは、エリート学生がこぞって選ぶ企業であるということ以外に明確な答えはない。』つまり、アメリカのビジネスとは能力ではなくブランドイメージが圧倒的にものを言う仕組みなのである。

この三つの文は、最初と最後の自分の言葉による文によって、著者からの引用を引き立てる形になっています。むしろ、引用した分を「つまり」(in other words)でしっかり説明することによって、自分のポイントは何なのかハッキリします。そこまで丁寧に引用をコーディネートして初めて読者に自分の文章を味わってもらえるのです。結局引用力とは、既にある文章を使って自分の考えを確立する技術です。これが出来ていないと、何が自分の考えなのか自分でも分からないまま、挽き肉とパンくずがごちゃ混ぜになった料理を提供する羽目になります。食べられないわけではないけど、結局何を食べさせたかったのか不明、では料理を提供したとは言えません。食材を調理しただけです。

架空の対話を演出する分析力

著者の意図を読解し、重要な部分を引用できた時点で、分析力の半分は体得できたも同然です。次は自分の考えをさらに深める段階です。上記の例文では、三つ目の文「つまり、アメリカのビジネスとは…」が分析の始まりの一部と言えます。それでも、ここでつまずく学生さんは少なくありません。

最大の要因は、課題エッセイを分析する前に既に自分で何を言いたいか決めつけてしまうことです。せっかく上手に引用しても、それを効果的に活用できなければ、自分の主張についての確たる証拠付けをすることができないまま、結局ぼんやりした一方的な文章で止まってしまいます。

例のウォール・ストリートのエッセイに対して、漠然と世界経済や教育格差などについて論じても意味不明なままです。もちろん、議論をそこまで膨らませることは可能ですが、せいぜい5ページの作文でそんなに大きなテーマまで上手に繋げられる人はいません。著者が提示している命題とはかけ離れた問題について議論しても、どんどん独り乖離していくばかり。空気どころか文章も読めていない証拠です。インプットとは、課題エッセイの細部に目を凝らして微妙なニュアンスを汲み取る作業です。自分の思い込みを押し付けるために著者が言ってもいないことについて強引な解釈をすると失敗に終わります。

この間違いを犯す学生さんの多いこと。いかにも賢そうに、いかにも難しく大きなテーマについて、「こうあるべきだ」論を押し付けるために、著者のポイントなど全く無視して無理やり延々と意味不明な文章を書いてきます。そんな時私はこう助言します。著者の言葉を自分勝手な都合で引用してはいけない。課題エッセイを読まなくても書けたような内容しかなかったら、それは課題エッセイを読んでないのと同じだよ、と。

さらなる難題となるのが、複数の課題エッセイを同時に分析するという試練です。前回の記事では二つの課題エッセイを紹介しました。ウォール・ストリートのエッセイを単体では分析できても、それをうつ病マーケティングのエッセイと論理的に繋げられるとは限りません。なんとなく「共通点」は見つけられるかも知れませんが、それは「分析」とは違います。共通点というのは同じパターンの発見であり、一方で分析とは、異なるものの間に論理的な関係性を構築することです。いよいよ難しくなってきました。そこで講師の出題する質問と向き合う必要があります。

強大な企業や業界そのものが市場を開発し、商品を売り込み、利益を拡大する上でどのような文化的影響力を行使することができるでしょうか。この二つの文章を分析して、自分の論点を述べなさい。

ここでのキーワードは「文化的影響力の行使」です。どちらのエッセイもこのテーマについて論じているからです。本文では cultural hegemony というちょっと専門的な概念をわざと使っているので、大半の学生さんはもうパニック気味になります。ただ共通点を見出すことは難しくないので、こんな感じの作文をしてしまいがちです。

ウォール・ストリートの一流金融企業は、金に物を言わせて優秀な人材を確保しようとする。同じように、製薬会社も豪華絢爛な会合に学者を招待して、自社商品のマーケティングに有利な情報を引き出そうとする。結局は経済資本が幅を利かす世の中なのだ。こんな社会であってはいけない。

これは分析に基づく議論ではなく、ただの個人的な意見です。この回答で最大の失敗は、文化的な影響力について何も論じていないことです。両方の業界とも経済的な力を行使しているという、ごく当たり前の事実にしか辿り着けていません。どちらの著者もそんなレベルの話をしたくて執筆したエッセイではないのです。しかし、「同じように」という表現(similarly)で二つ目のセンテンスを始めている時点で、すでに共通点の話しかできなくなっていて、最終的に「こうあるべきだ」論で終わっています。これにどんな引用文を当てはめようと、初めから自分の主張を決めつけているうちは分析なんてできません。そもそも著者がそんなこと言っていないからです。

そんな学生さんたちに私がいつも言うのは、この二人の著者がもしカフェでおしゃべりをしたらどんな会話になるか想像してごらん、ということです。金融業界の内情を暴く文化人類学者と、医薬品業界のカラクリに切り込むジャーナリストが、「文化的影響力の行使」について話し合ったとしたら、どんな対話が生まれるでしょうか。文章の構図としてはこんな感じになります。

著者Aは一流企業と一流大学の権威について疑問を投げ掛けている。『ウォール・ストリートの人事担当者は、エリート学生を惹きつけるために自分たちの企業がいかに世界最高峰の組織か誇示しようと躍起になる。しかし具体的に何が一流の定義であるかは、エリート学生がこぞって選ぶ企業であるということ以外に明確な答えはない。』つまり、アメリカのビジネスとは能力ではなくブランドイメージが圧倒的にものを言う仕組みなのである。一方で、著者Bによると、アメリカの医薬品会社は抗うつ薬を外国に売り込むために文化心理学を駆使している。『日本のように「depression」という経験的概念を持たない文化に抗うつ薬を買わせるには、相手の文化を入念に調査して市場開発をする』というのだ。そもそも必要のない薬を売るというのは、その文化には本来存在しなかった病気という経験そのものを言葉にして売るということになる。

ここのポイントは「一方で」というフレーズ(meanwhile)を差し込むことで、著者の意見をまとめつつも自分の文章の流れをコントロールしていることです。引用する時に使ったハンバーガー・テクニックが、実はこうして自分の声を主役にしているという裏技的な演出方法。この「Aはこう言う、Bはこう言う」という構図は万能です。というか、これに当てはめられなければ複数のエッセイの分析はできません。ここまでできればあと一押しです。このすぐ後に繋がる自分の見解を述べれば、エッセイ分析の型は身に付いたと言えます。私ならこんなことを書きます。

ここで明らかになるのは、ブランドや商品コピーなどのほとんど記号にしか過ぎないようなものが持つ言葉の影響力である。物質的には他の人材と大差ない能力レベルが「ハーバード卒」という記号だけで突然価値を帯びたり、元々病気として認識されなかった身体経験が「心の風邪」という表現によって急に治癒の対象になったりする。こうした「意味そのもの」を自在に操ることこそが文化的影響力を行使することであり、そのために費やす資金などは大企業にとって必要経費でしかない。

どうでしょうか。「ここで明らかになるのは」という表現(what becomes evident here is)を使って、著者の要約から自分の論点の説明へと文章の流れをスパッと切り替えました。「Aはこう言う、Bはこう言う」の構図も、結局のところ「そして私はこう言う」という論点の前座であり、引き立て役でしかないのです。もちろん、その前置きに緻密な分析がなければ、自分の論点は成り立たないどころかそこまで辿り着くこともできません。分析力とは、こうして架空の対話を著者の間で演出することで自分の論点を見つける技術です。これが分析の型であり、自己発信のための土台の一つとなるインプット能力の完成形なのです。

まとめ

お気付きかも知れませんが、分析力を獲得した時点でもう既にアウトプットは始まっています。トレーニングの観点からはインプットとアウトプットを分けて考えると便利ですが、現実にはこの二つの過程は私たちの論理的思考過程では表裏一体です。他人の言葉を内面化し、自分の言葉で扱えるようになってようやくインプットが完了したと言えるのです。また、自分の書いた言葉を読み直していくうちに一つの段落、一つの文章として構築することができて初めて、アウトプットも成立します。「読む」と「書く」は全過程を通して必要とされる作業であり、それぞれをインプット・アウトプットと区別するのは間違いです。

この記事ではインプットの過程で培われる三つの能力について詳しく紹介しました。読解力はHOWやWHYを突き止めることで養われ、引用力は他人の言葉を自分の思考の道具にすることで鍛えられます。そして他人の考えと自分の考えの間に架空の対話を演出することで生まれるのが分析力です。次回のアウトプットについての記事では、そんな自分の見解を最も伝わりやすく表現するための語彙力、文法力、そして文章全体の構築力について見ていきましょう。

私は日本語の論文を読むことがほとんどないので分かりませんが、私たちが触れる日本語の文章では引用文というものに出会う機会は少ないと思います。一方英語圏では、文章でもスピーチでもしょっちゅう他人の言葉を引用します。どっちの文化が良い悪いではなく、そんな単純な違いにも英作文のヒントが隠されているのかも知れません。あなたが書く文章には引用文はありますか?印象に残っている引用表現などがあれば、ぜひ聞かせてください。

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