籠島晴気
俺自身について
仕事をしてて思ったことについて
いろんなことについての、教科書です。
人生の目的、使命を見つけるための経緯について、纏めています。
2ヶ月前くらいまで、俺は何のために生きてるかよくわからなかったんだよな。 で、そっから、自己分析を徹底的にして、これ以上はもう考えたくない、というところまで行った。 そして自己分析を半分以上終えた時点で、いろんな人に話を聞き始めたんだよな。 それは、俺の自己分析が間違ってないか、論点の抜け漏れがないかってことの確認と、活躍している人とか、厳しく生きている人ってのが、どういう構造なのかを知りたくて。 自己分析をある程度したからこそ俺のことがわかって、じゃあうまくやってい
何をすればいいのか分からない、という時、あるいは、これで本当にいいんだろうか、ともやっとする時の対処について。 結論、具体的な情報のインプットをしよう。 ロジックとしては以下。 ①モヤっとするのは、抽象度の高い状態の選択肢が並んでいるから 抽象度が高いせいで、それぞれのインパクトが正確に測定できない。 その結果、重要性とか優先順位がつけられず、抽象度の高い状態の選択肢がふわふわ浮いた状態になる。 ②具体的な情報のインプットで、工数とインパクトを計量可能にする 抽
これまで、とにかく施設養護にいる2万人の10歳以上の障害がない男女に家庭養護を提供する、ということで進んできたんだよな。 でもさ、確かにそれって、家庭養護と施設養護の違いもよくわかってない状態で掲げた目標だから、それは、そろそろ更新してもいいのかもな。 今、新しく目標を立てるとしたら、なんだろう。 施設養護の2万人の10歳以上の男女に対して、家庭養護を提供する。 それは変わらないな。 でも、家庭養護の中身はちょっと変わるかな。 そもそも解像度は高くなってる。 児
ここまでバーっと走ってきて、ここにきて、あれ、俺はどこを目指してたんだっけ、がわからなくなった。 一応目の前にやることはある。 でも、それをやったら何になるんだっけ?ってのがあやふやになってきた。 これでいいんだっけ、という気持ちが湧き上がってきた。 仮説としては、一旦具体的なことをインプットしたりできるようになったりした結果、本当はもう一段先のビジョンが見えるようになってるはずなんだよな。 その仮説を軸にすると、そこを明確にして、新しく計画を引き直す、というのが、
選ばれた人間か、選ばれなかった人間か。 ウェーバー曰く、政治家と官僚。 オルテガ曰く、エリートと大衆。 ヤング曰く、アイデアの作り方が必要な人間と不要な人間。 宮台曰く、幸せだと不幸な人間と幸せだと幸せな人間。 俺の言葉で言えば、克己型と安定型。 まあなんでもいいのだが、どれも言ってることは結局同じで、新しい枠組みを創造する人と、既存の枠組みの中で生きる人の2つに、人間はいつの時代も分かれてきた。 でね、その割合が、1:9って人もいるし、半々って人もいるし、1%
アイデア云々よりも、重要な2割をやれ、というのは確かにと思った。 仕事は今は、待ちなんだよな。 プライベートは、インプットとか、アポ取るとか、教授に連絡するとか、そっちの方がやることはある。 仕事の方で無理に時間を使う、というのが結構グロいなと。 成果に大きくヒットする大事なことがあるならやればいいが、正味今それはあんまりないのでは、、 ので、早く帰ったのは正解だと思う。
今日は結構、ずーっと頭を使っていた気がする。 その結果、吐き気じゃ無いんだけど、なんだろうこれ、風邪引いた時みたいな、ズーンって重い感じがする。 これが思考体力の限界、、 いや、鍛えたらもっと行けるはずだ。
もう少し分解しようか。 まず、一緒にプロジェクトをやる、という点については、今は問題ないね。友達紹介してくれたりとか、施設に着いてきてくれたりとか。 もう1つの、俺が相手を最大限に幸せにする、に行こうか。 まず極端なところから。どうしても相手が俺といて幸せになれない、という場合。 この場合は、相手も俺も幸せにならないから、その場で終わりにしよう。 俺が相手をあんまり幸せにできてない、と、まあまあできてる、の時はどうだろう。 話し合って、より幸せにするように修正して
こちらからは優しく問いかけつつ、向こうの反応を待つ、かなと思う。 素直に気持ちを吐露されたら聞くんだけど、拗ねて黙るようであれば、こちらとしては放置するのがいいかな、と思う。 怒って黙って「私の気持ちを感じ取って」っていうのは甘えだと思うし、建設性もないし、お互いの時間をすり減らすだけだからね。 子供ならまだしも、コミュニケーションを断って、僕たちの関係性が進化するのを止めているのは君だよ、と。 俺は結局そう思うし、そうしてしまう人と関わったところで、結局いつかそこが
結局は、相手を最大限幸せにしよう、で得られる関係性と、一緒に何かプロジェクトをやる中で尊敬し合う、ということかなと思う。
子供の支援を長くボランティアとしてやっている人の言葉、だったと思うのだが。 子供を育てるってのは、子供に自分の姿を見せることだと。 大人の隣に子供はちょこんと座って、大人が一生懸命に生きる姿をじっと見ている。 成功するだけじゃなくて、失敗したり悩んだりしながら、頑張っている大人の姿を見て、子供は何かを感じ取る。 そして、徐に立ち上がって、自分の人生を生きていく。 本質的な教育って、確かにそういうことかもしれないな、と思う。 今の職場に入って一番良かったことは、自分
俺が怒る時を考えると、人から俺がどう見られるか、を気にする時なんだよな。 すごく古典的だけど、意識するべきは、人にどう見られるか、とか、人がどう評価するか、ではないよな。 俺に向かうベクトルではなくて、他者に何ができるか、って、他者に貢献するベクトルを見とくべきだよな。 それもできてないのか。 日報欲しいぜ。
他者への怒りは、俺に対して向き合うことから俺を遠ざける 人に怒ってる間は、本質的な成長はあり得ない 人に怒るんじゃなくて、自分が何をできるか、に集中して初めて成長はあるわけで 基礎の初歩だと思うけど、まだまだ全然ダメだなと
あいつが悪いってずっと思ってきたけど、もしかして自分にも悪いところがあったのかな、、 ってこれも、十分フレームワークの利用だよな。 そんなもんなんだよな、フレームとか論理的思考なんて。 と俺は思うけど、そうでもないのかな。 まだ勉強してないから、判断がつかないぜ。 までも、そうだと思うけどね。
確かに、決めたことをやる、ってのは大事かもしれないね。 だけどさ。 俺の目標に照らした時に。 俺の計画に照らした時に。 それって、どれくらい正しいことなんだろうな。 長期的に見てそれが紐付かないなら、それは俺にとっては必要ない。 まあ、紐付かないこともないのかもしれないけどね。 でもさ、無駄になった期間ってない? 結構あると思うんだよな。 まあわからないけど、最終的な目標に対して、がっつり進んでいきたいよな。 一回決めたから、でがっつりやるのは止めないけど
やる意味あるのかな、とか考えること増えてきたんだけど。 それは、徐々にほかにやりたいことが見えてきたってことな気がするよな。 だから、そんなに悪いことじゃないんじゃないかな、と思う。 しかし一方で。 3ヶ月、と決めて、その期間はやろうねと。 そう決めたわけでして。 それは、俺が俺の言ったことに対してどこまでやるのか、というのを知りたくて。 だから、まあ、意味あるかないかでいうと、それ自体にはあるかわからんけど、それをやることには意味があるんじゃないかなと。 そ