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91年生まれの僕と、昔の自分を殴りたいという普遍的な欲求

生まれてこなければよかったと思う。

これは決して自殺願望があるとか生きているのがつらいという話ではなくて(生きているのは常につらいし僕は生に対して非常に消極的だが、それはそれとして)それらと生まれてこなければよかったという考えの間にはまあまあ距離がある。
僕が生まれてこなければ両親は気は優しくて力持ちな長男と機転が利いてまめな次男の息子二人と幸せな家族をやっていただろうし、ちょっと冗談言っただけじゃんってへらへらしながら放たれた言葉の暴力で傷ついたクラスメートはいなかったと思う。
どう考えても自分がいないほうが地球の総幸福量は多かったはずだ。よしんば僕が誰かに幸福をもたらしていたとしても、それは僕でなければ与えられなかった幸福ではないだろうし。

本来の僕は多分文章を書くのはそんなに好きじゃない。でも分かってもらうために仕方なく書いている。僕は物語を愛好するので、物語のための文章ならともかくだけれど、こんな自分の話してるだけの特段価値もないノンフィクションコンテンツのための文章なんて、本当に仕方なく、仕方なくだ。

若気の至りという言葉がある。
自分の行いは多分今までそういう言葉で見ないふりをしてもらったり許されたりしてきたんだろうし、来年30歳に手が届く僕も行き場をなくした心で暴れるティーンをSNSで見たりするけど、まあ見なかったことにする。

昔の自分を殴りたい、みたいな欲求はあるかないかで言えば、ある。
それでも多分、そんな風に30手前の僕が言って聞かせたところでティーンの僕は「体制に順応して何も言えない大人が勝手にほざいてろ」くらいで何も刺さらないと思う。そんなもんだよ。
でもそれは別に僕が91年生まれ(正確には92年3月生まれ)だからではないよね。逆にそれが91年生まれ特有だと思ってるなら思い上がりもいいところだよね。もしも僕がそう思っているのなら、って話だけど。

昔の自分を殴りたいとか説教したいとか、気持ちで言えばないわけじゃないけれど、あんまり僕はそういう話をしない。
それは単純に恥だからというのと、今の僕が「いやー、あの頃の俺ぶん殴ってやりたいですね、ヘヘッ」とか言ったところで当時クラスメートたちにつけた傷がなくなるわけではないからだ。
それは言ってしまえば、自分が楽になるための、真摯な謝罪の素振りではないか。

僕は生まれてしまったし、そして代替可能な幸福しか生産できていないのに人を傷つけることだけ一人前以上に行ってきてしまった。それはもう取り返しがつかない。
故に、死にたいでも生きていたくないでもなく、生まれてこなければよかったと思うのだ。

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