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メッセージ性とエンタメ性は車の両輪

「まず一番に書きたいことや伝えたいこと、言いたいことがあって、それを表現するためにどんな筋書きでどんな登場人物が必要か考えていく」
と今日友達に話したら友達も私もそうだと言っていて、この前話した編集者もそういう話の作り方だとキャラクターを持て余すことがないのでいい、と言っていたよと教えてくれた。

それから帰ってふと思った、自分の言いたいこと、所謂メッセージ性のためだけに作られた作品なんか誰にも読んでもらえないよなと。
どんな高尚なメッセージや意義ある主張だったとしても読者にとって読む楽しみがなければ読んでもらえない。作者の価値観を伝えるためだけに書かれた小説は単なる作者の自己満足で、読者にインセンティブがない。
私が専ら読者だったとき、私にとって小説は現実逃避だった。現実のままならない身体や環境、苦痛、不自由からの逃避だった。
ハリー・ポッターに夢中になったのはそこに現実では味わえないワクワクドキドキがあったからで、J.K.ローリングが作り出した魔法の世界が現実の辛さを紛らわせてくれる程に魅力的だったからだ。そして『ハリー・ポッター』が存在する世界は現実だ。人間の、それも一人の人間の想像力に感動したし、こんな作品が生み出され、書いた人がいるということ自体が現実世界の希望となった。
こんなにすごいことを、私もやってみたい、と思うところから夢は始まる。

少年時代にフィクションの世界にしか救いを見いだせなかった人間としては、やはり、メッセージ性なんかよりエンタメ性の方が圧倒的に人を救うのである。フィクションは現実と対になる、現実からの逃避先であり心の療養所でもある。だからまずは楽しませないといけない、キャラが魅力的じゃないといけない。本の中の登場人物が自分の中に住み着いてくれるから現実を頑張れる、というのはあると思う。
読者は癒やされたいし楽しみたいし泣きたいし感動したいのだ、現実を忘れて。
そう考えるとやはり読者を現実とは違う世界に連れて行く必要があるのではないか、それも夢中で読み進めたくなるような状況や場所に。

メッセージ性は作品の魂だが、エンタメ性は作品の姿形だ。魂だけの作品では読者に見てもらえない。魂には入れ物が必要だ。

宮崎駿監督が2013年の引退会見の際に

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思ってきた。それはいまも変わらない。

https://www.nikkei.com/article/DGXNZO59386140W3A900C1000000/

と語っていたが、「この世は生きるに値する」と作品を観た視聴者が感じられるのは宮崎駿監督作品の美しさや面白さ、魅力的なキャラクター、ストーリーがもたらす感動ゆえだと思う。物語そのものが充分魅力的だからこの世は生きるに値すると思わせるだけの説得力がある。

大事なものを渡すなら魅力的な包装を施す必要がある。

ファンタジーへの回帰

現実への問題提起こそファンタジーの形をしている。
ミヒャエル・エンデの『モモ』など時代を越えて読み継がれてきた児童文学は、子供の頃には冒険譚だが、大人になると現代社会への鋭い洞察に満ちていることが分かる。物語としても充分面白いし、人類共通の課題を突き付けるメッセージ性もあり、さらに言えばそのメッセージに社会的意義がある。
本質的なことを書くのに虚構世界はむしろ適しているのではないか。

昨年から構想している話があって、プロットを2回練り直したが、いまいち筆が乗らない。
自分が面白いと思えないせいだ。

今までずっとリアリティを大切に書いてきたけど、ファンタジーへの回帰というのを最近は考えている。


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