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カウンセラーの心の自己管理

「医者の不養生」のような・・・


昔ながら「医者の不養生」といった言葉がある。忙しく患者ばかり気遣い、自分はそっちのけで不摂生している医者の姿が表されている。自分のことを置き去りにするのは何も医者だけでない。接客業・教育者・対人援助職の仕事では起こりがちなことだ。
心理カウンセラーだって、そうなる可能性はあるんじゃないだろうか。それはつまり、人の問題にばかり耳を傾けて自分の心の声に気づかず、心の自己管理を怠っている状態だ。

ケアする人が自分を置き去りにするのはなぜ?


「人の為になりたい」「人と接することが好き」といった理由で人に接する仕事に就くことが多い。仕事に就くと職場の空気や責任感、プロ意識などがその思いを後押しして、相手の幸せを考え相手が幸せになることが自分の幸せだと思うように(場合によっては言い聞かせるように)なる。けれども人を幸せにするなんて簡単なことではなくて、難しいこと辛いことは必ずある。その苦しみをどう処理するかというと、そこを乗り越えることがやりがいや誇りだと信じて相手に向き合い続けるようにするのではないかと思う。ここで既に、人を支えるときに感じている辛いとか苦しいとかいった自分の心が置き去りになっている。さらに、その置いてきた自分の心に目を向けることを難しくさせるものがある。ひたむきな献身によって人に尽くしたことを美徳とする風潮だ。教育界や対人援助職の職場では未だ自己犠牲を美しいと思う感覚があるように思う。

カウンセリングはカウンセラーが犠牲になったら成立しない


カウンセリングだってクライエントさんがよりよく生きることを支援する仕事だ。でも、カウンセリングはクライエントさんへの奉仕じゃない。
クライエントさんの要望を満たすことが、クライエントさんがよりよく生きることとイコールでないことがあるからだ。希望通りにすることの方が単純だが、その人の本当の思いが潜んでいるなら即時的に欲望を満たすことで問題が複雑化することさえありうる。そのまだ気づかれていない世界を一緒に探索する正解のない世界だから、クライエントさんの力がないとできないのだ。カウンセラー一人が身を粉にしてもカウンセリングは進まない。

そもそも医者が不養生になると何が起こるのか


説得力や信頼感を無すでしょう。それが仮に自らを蔑ろにしてまで尽くしてくれた結果であったとしても。支援されている方が心配する側に回ることになるかもしれない。また、健康管理を怠っている医者に色々と指示されたところで、「言ってることとやってることが違うじゃないか」「他人事なんですね」「一辺倒に患者だからという扱いを受けた」って思うかもしれない。それはカウンセラーとクライエントさんの間でも起こりうることだ。
カウンセラーも提案をすることはある。それが当の本人にとっては難しかったり見当違いだったりすることもある。「じゃあ先生やってんのかよ」「先生が私の立場だったらどうなの?本当には気持ちわかってもらえてないの?」って心境かもしれない。勿論カウンセラーだって人間だし、クライエントさんの理解に努めようにも理解がズレることはあって、そこをすり合わせていく過程もカウンセリングの大事な要素だ。ただ、共感的理解を伴わず”専門的に”提案しただけなら、それがクライエントさんにも伝わって信頼関係を損うようなことは起きかねない。

「坊主の不信心」という言葉もある


修行し説法を説いておきながら本当には信心していない僧の姿を言い表したもので、医者の不養生と同義語だが、不養生が行動の問題とするならば不信心は精神面での問題と言えそうだ。
最近私は、いつしか新しい知識やクライエントさんのことを理論上で受け止めて対応しそうになる自分に気がついた。カウンセラーは状態に応じカウンセリングでやるべきことが見えてきたりする。その一方クライエントさんは、やるべき取り組みの心理療法的方法自体に様々な思いを抱くのかもしれない。無意識に向き合うことの苦しみや考え方を見直す苦労、正解が見えない対話を続ける根気などだ。心理臨床として前提的でカウンセラーとしては当たり前になっていることが、クライエントさんにとってはセンセーショナルなのだ。
そこの小さな体験のズレが生じるのは、カウンセラーが知見が深まるにつれて自分ごとで捉えたり自分に置き換えたりして実感を伴っていなくとも、理解できるようになってくるからではないかと思った。今一度、私自身問いたい。クライエントさんに提案した課題を自分も実践しているのか。クライエントさんに必要と思ったことを自分では体験していないのではないか。

悩める心を持つ一人の人間として


医師も僧もまたカウンセラーも「先生」と呼んでいただける仕事だ。しかし、誰しもが一人の人間である。仏教のなかには悟りを開き”仏となる”ことを目指すものもあるようだけれども。心理臨床の大家の先生にも、知見が海のように深遠で悟りの境地に達せられたかのような方がおられる。だが、そういった方こそ人間臭く、一つ一つのことに動く心を持っていて、欲や恐れがあることを隠さない。自分の個人的な感情を認めたうえ、動く自分の心を持って自分とは違う心のあり様を理解しようと努めようとするプロセスが大事なのではないかと考えさせられる。自分自身の心に目を向け、一周回って経験レベルで心理臨床と向き合いたい。

カウンセラーの心の自己管理方法


カウンセラーだって自分の人生を生きていて苦しいこと・悲しいこと・辛いこと・悔しいことを経験する。それが心理臨床にもよくも悪くも影響しうる。自分とクライエントさんを守るためにも、そして経験レベルで心理臨床と向き合うためにも、心の自己管理に勤めることの必要性を考えた。その方法についても色々と模索している。ぼちぼちnoteにまとめていけたらと思ってる。

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