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350.労働は逃避である、考えることは過酷な仕事である

いろんな仕事をしています。
時折スポットバイトで他業種にも触れたりしています。

基本的には従業員というのは時間労働、時給制で働いていますよね。

朝も昼も夜も深夜も仕事していると、ふと気づくのです。

本当に重労働なのは何なのだろうか、と。

かの有名なアメリカ合衆国の大企業家、ヘンリー・フォードはこう言っています。

考えることは最も過酷な仕事だ。
だからそれをやろうとする人がこんなにも少ないのだ。

仕事を工夫するとか、考えて仕事をやるとかそういう表面的な意味ではないのです。

仕事をゼロから生み出すこと。
お金を何もないところから調達してくること。

従業員である以上、絶対に触れられない領域。

良いとか悪いとか、すごいとかすごくないとか、偉いとか偉くないとかの話ではなくて。

単なる領域の違いです。

ただ、僕は仕事もお金も生み出したいと思っているからこそ、僅かながら上記の名言の意味がわかるような気がします。

考えることは、本当に過酷なのです。

労働に逃げ出したくなる

そもそも経営者の仕事は労働という感覚でやっていないので、労働基準法も何もありません。
永遠に仕事をしてもいいし、そもそも仕事の捉え方が違います。

働いて、休む。
そういった感性ではないのです。
働いて、働く。それが生きていると同義だと思うのです。

経営や独立の勉強をするなら、知識や人脈に加えて、この感覚を磨くことは必須だと思います。

僕はまだ準備中勉強中の身ですが、保証のないものに先出しをして回収し、決めた数字を事情状況関係なく達成するという練習を繰り返していて感じます。

そしてお金がないときにたまにバイトをします。
与えられた場で与えられた仕事をこなしていると、どうもそれに集中せざるを得ないので、一時の間解放されたような気になります。

バイトの仕事が終わったら、またすぐに思い出すのです。

どうやって大きなお金を調達しよう。
どうやって人のつながりを広げよう。
どうやってこれから立ち上げていく仕事が拡張していくだろうか。

考えなくていいから、与えられた労働に逃げてしまう。

それほど過酷なものなのです。

逃げ出したくなるときも、諦めたくなるときも、そんなに頑張らなくていいじゃないかと基準を下げたくなるときもあります。
ありますというか、ほとんどの時間がそうです。

ただそれを一切やろうとしないのは、意地というかなんというか、意地で経営はできないのですが、そうしないメンタリティとか姿勢とか、物の考え方とか自分との約束とか、そういった長く発展するに必要なものを今鍛えているという感覚を大事に握り締めています。

従業員として働いている人をどうこう言っているわけではありません。

互いに目指す先とどういう人生にしたいかと、生きる領域が違うだけなので、例えるならアメリカで土足で家に入る人に対してどうこう言っているつもりではないのと似ています。
正解不正解とか立場がどうこうではなく、単なる自らのスタンスの違いです。

何となく思ったから書き出してみただけの文章でした。

今日も、考え続ける。

生み出す側でいたいから。

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