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わかりあいたいという欲望
人間にはわかりあいたいという根源的な欲望があるんじゃないか。
と、最近気づきました。
わかるとは、理解すること。
そして「分かる」と書く通り、感情や思考をシェアすること。同期すること。
さみしいとは、わかりあえないこと。、、と、いう場合が多い。
そういう意味で言ったら、私はさみしい人間なのかもしれません。
身近な人と十分わかりあえないから。
でも「十分わかりあう」なんて元からとても難しいから、そのさみしさは許容範囲だ。
許容範囲なんだけど、たまにそのさみしさをどうにかしたくなってしまう。
だから私はこうしてもの書きをすることを選びました。
(ほかにも理由はあるけれど。たとえば世界や心のしくみを詳らかにしたいという、私の個人的な人生の目標とか。)
そうしたらそれは正解の一つだったのかもしれない。
こんな記事を見つけました。
有料なので多くは紹介できませんが、この記事には「魂を遠くに投げ」ればしかるべき人たちに届く、と書かれています。
私にとってのnoteやSNSは、そういう行為なのかもしれません。
いや、やっぱり言ってしまおう。まさにそういう行為です。
そして受け手としては、読書も当てはまります。
読むこと。書くこと。
それは物理的・社会的・心理的な距離を超えて、私たちが心の深く重たい部分でさえも分かち合いわかりあうことのできる、なんとも夢のある手段ではないでしょうか。
もちろん言葉は諸刃の剣ですから、何を読み書きするかには注意が必要ですが。
特に書くことには分別が必要です。自分の社会的立場の自覚、他者への配慮、等々…。私もそれはわきまえているつもりです。
それでも読むことや書くことで、「わかりあえない悲しみ」を取り払うことができたなら。
そうしたら今自分の周りにいる人たちとも、たとえ十分わかりあえなくてももっと「うまくやっていける」のではないでしょうか。
ちなみに届けられる「遠さ」は少し減りますが、ラジオやポッドキャストも遠くの人たちとわかりあう手段ですね。近頃は、だれでも音声配信ができる時代ですし。
今日はここまで。
あなたの言葉も、また今度受け取らせてくださいね。
楽しみにしています。
2024.6.4
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