【ヨガ話】この記事こそが実践、かも(タパス)
ヨガ哲学を学ぶと生き方は変わるのかシリーズ第8弾です。バックナンバーはここを見るとそれぞれに飛んでいけるリンクがあるよ。ヨガにはやんないほうがいいことが5つ(ヤマ)と、やったほうがいいことも5つ(ニヤマ)ある。そのお勧めされてる方の3つ目が「タパス」です。
タパスの定義
修行、鍛錬、苦行などと訳される。「タプ」は熱を起こす、という意味があって、悪い習慣を熱で断ち切るのがタパス、とのこと。断食とか滝行とか厳しい修行を積んで悟りを開く的なイメージ、あるいは人生における試練などを指している。…のだと理解していたのだけど。今回の記事を書くにあたってタパスをネットサーフィンしたら、なんかちょっとイメージが変わったかもしれないのでそこんところを書いていこうと思います。
タパス的な断食と単なるダイエットは違う
この夏、私はバレエの発表会に出た。私の体形・体格は日常生活を営むには特に不満・不足はないのだけど、「ひとまえでバレエを踊る」というと話が違う。見栄えの問題もあるし、重いと単純に踊りにくい。
で、手っ取り早く体重を落としたいのであれば、「1食抜く」というのが常套手段である。食べたいものを我慢して、お腹は減ってもタパスタパスと思っていた。ところが、である。どうやらこういう「結果を求めるプチ断食」はタパスとは言わないっぽいのである。
タパスは悪習慣を断ち切る、自制心を養うことそのものが目的なので、たとえば「夜中のおやつがやめられない」「ついつい食べ過ぎてしまう」みたいな悪いとわかっているのにやってしまうことをやめる、とか、「規則正しく3回に分けて適量の食事を摂る」「身体にいいものを選んで食べる」みたいなやったほうがいいと思われることにチャレンジする、とかだったらタパスに当てはまるといえよう。が、「発表会までに〇キロ痩せる!」「目指せ、ウエスト〇センチ減!」みたいなのはタパスではなくてただのダイエットなのであった。つまりこの観点では私はタパス実践はできていなかった、となる。ううう。
勝てない勝負をしない癖
タパスを調べていて気付いたことがある。それは、私がこれまでタパスをできるだけ回避して生きてきたのではないか、ということ。
どこかで書いたかもしれないけど、中学時代、テストの目標点数はいつも「確実に採れる点数」を提出していた。目標が低すぎると担任にも母にも言われてしぶしぶ書き直していたけれど、その癖は就職してからもついて回って、たとえば営業成績の目標もいつも低めぎりぎりだったし、「自分で立てた目標が達成できないなどありえない」という思考が人一倍強かったと思う。「勝てない勝負はしない」と当時の先輩営業に言われたときも、あまりにも言い得て妙すぎて反発する気すら起きなかった。
タパスには悪習慣を断ち切る、という意味合いのほかに、「苦手なことを克服する・挑戦する」という意味合いが多分に含まれている。
たとえばヨガのエクササイズでいったら、「難易度の高いアーサナ(ポーズ)に挑戦する」「キープがきついアーサナを長く保つ」などがわかりやすい。私はハンドスタンドと言われる腕で身体を支える系のアーサナはほぼできないので、レッスンで出てきたら一応やってみるけど最初からあきらめがち。プランク(板のポーズ)も苦手なので、キープが続かずに途中で負荷を軽減しちゃったりする。息をつめて無理をせよ、ということではない。だけど、もう少しがんばってみてもいいよね、と自分でも思うときがある。
生活習慣でいうと、「毎朝早く起きて瞑想する」とか「規則正しい生活をする」みたいなことが、めっぽう朝に弱い私にとっては非常に難しい。仕事が不規則だから、疲れているから、1分でも休んで体力を回復したいから、となにかにつけ布団にいる理由を探そうとする。だけど本当は、瞑想から始まる朝に憧れているし、規則正しい生活リズムが身体によい、というのもあたまではわかっているのだ。やると言ったのにできなかったら恥ずかしいから言わない、挑戦してできなかったら悔しいからそもそも挑戦しない。こういうマインドが、私のできることを狭めてきたんだろうな、と、ちょっと寂しい気持ちになる。
タパスとアヒンサを両立する
こんな私でも、掘って掘って掘り出したらひとつ、タパスの実践かもと思えることが思いあたった。
ヨガの資格を取るにあたって最初に出された課題の中に、「毎朝ノートを書く」というのがあった。これって、もしかして、タパスなのかもしれない。朝に弱いだけでなく、日記が3日と続いたためしのなかった私が、かれこれ1年10か月も書き続けている。体調が悪いときとか、気分がどうにも乗らないときとか、あるいは起きた時点でもはや書いている時間がないときとかももちろんある。朝じゃない時間に書いている日もあれば書けずに終わってしまった日もゼロではない。けれど、続けている、と言える範疇では続けられていると思う。
目標未達がありえない、できない・勝てないなら最初からチャレンジしない、というマインドにこのノートは乗っからなかったのだ。資格取得の課題だった、とは書いたのだけど、この課題が提出不要だったのがよかったのかもしれない。書いてなくても誰にも咎められない。やらなかった、できなかったとしても、自分の外面が傷つくこともない。
ひとによっては、誰かに話すこと、口に出すことで達成意欲が促進されることもあるとは思うのだけど、私個人の場合はそれがあんまりポジティブな推進力にはならないのだと思う。口に出したからにはやらなくちゃだめ。できなかったときに自分で自分を責めて追い詰めないために、できる範囲でできることだけを涼しい顔でやる。自分で自分の大きさを、広げないように広げないように生きてきたのだと思う。
タパスを調べていると、やろうと思っていたことができなくても自分を責めなくていい、自分を責めるのはアヒンサに反するからむしろ避けるべき行いなのだ、という言説に何度も出会った。こどもの頃から自分を傷つけたくなくて、守りたくて、挑戦を避けて生きてきたのかもしれないのだけど、自分を傷つけなくても挑戦はできる、のだなぁ。まなび。
タパスの記事自体がタパス
これまでヤマ・ニヤマを書いてきて、タパスで急に書き進められなくなったのだけど、これこそが私のタパスだったのかもしれない。物理的に忙しくなったのは事実なんだけど、それ以上に、書きづらい、エピソードが出てこない、ヤマ・ニヤマを全部書くつもりで始めたのに間が空いてしまった自分をどこか責める気持ちもあってますます手が止まる、という数か月だったように思う。書けなくても自分を責めなくていい。書けたらよかったね、てだけの話だ。肩の荷が下りた感、今夜はよく眠れそうである。
次回はスワディヤーヤ、いつ書けるかはわからない。書けない期間があってもよし。書けたらいいね、でいいのだ。