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【ヨガ話】ヨガと私のつながりについて

ヨガにはまって1か月ちょっとが経ちました。……あれ?まだ1か月??なんだかもう、何年もやってるような気がしちゃうけど、本気出し始めてから数えるとまだ1か月くらいです。12月19日から「モーニングページ」という朝一番に紙のノートに1ページいっぱい、なんでも思いついたことを書きだすという「書く瞑想」を始めた日から数えてちょうど1か月。

ヨガとの「出会い」自体はもっとずっと前で、先に姉が始めたのを横目で見ながら、いいなぁ、なんか「いいなぁ」って思うひとはだいたいヨガやってたり白湯を飲んでたりするんだよなぁって、ぼんやり憧れを抱いていました。そのころのヨガのイメージは、「自分磨きや丁寧な生活を嗜んでいるひとの高尚な趣味」みたいな感じでした。始めるのにちょっとだけ気後れする感じ。羨ましがっていたらヨガのDVDやマットをお誕生日プレゼントでくれて、今思えば、そこがスタートだったと思う。ありがとうお姉ちゃん。

その「素敵だけど自分はまだそこに達していない」みたいな謎のハードルが一気に下がったのは、自宅の最寄り駅にホットヨガスタジオができたことでした。そのスタジオは全国チェーンでどこにでもあって、誰でも気軽に始められるカジュアルさがありました。スタジオの先生方とかポスターとかはキラキラしていて眩しかったけど、通っているひとたちは「選ばれし民」ではない自分でも混ざっていられそう、みたいな安心感もあり(ちょっと失礼な表現に聞こえるかもだけど、本当に地元の老若男女が通い出したので)。

始めてみて、イメージはだんだん覆っていきました。ヨガは誰にでもどんなときにでもできるのだ、と。そして、みんなひとのことなんか気にしていないから、どんなに不格好でもかまわないのだ、と。「美意識の高いひとや自己啓発に関心の高いひとたちが嗜む高級な習い事」だと決めつけていたけど、そんなこと、ただの思い込み。ポーズでよろけても左右の脚を間違えても、誰も見ていないから恥ずかしくない(正確にいうと先生は見てるけど)。それがどれだけ集中力の助けになることか。間違える→照れてごまかす→意識が途切れる、という循環から解放されて、集中力が高まる経験を毎週味わえる喜び。

仕事や人間関係だとかで気になることがあって、レッスンに集中しづらい日もあります。そんな日も、無理に思考に蓋をしなくたって、レッスンが進むうちにだんだんヨガ以外のことがお休みになっていく。そして、ヨガを始めて数年は仕事が混んでくるとヨガは休みがちになっていたのだけど、あるとき気づいたんですよ。忙しさで頭がぱんぱんなままで生み出すもの・進めるものよりも、1時間ヨガをした頭から出てくるもの・進むものの方がはるかに質も量もスピードもあるということに。「仕事が終わってないのにヨガなんて」、じゃなかった。「仕事が溜まっているからこそ、ヨガに行く」、その方が成果が上がるのだから衝撃でした。脳みそに新鮮な酸素がいっぱい入るし、思考も仕切り直しができるし、最高の気分転換。文字通りのリフレッシュ。

そしてひょんなことからRYT200の資格取得を目指すことにして、ここからさらにびっくりするほどのめりこみました。身体を動かす気持ちよさ、呼吸を深める心地よさ、だけじゃない。根底には哲学があって、解剖学と生理学も絡んでくる。実生活のどこにでもつながる・生きているものなのだと知りました。しかもそれは、私にはとてもすんなり吞み込めるものだった。私個人は、神も仏もいまいち信じられず、ひとが信じるのは止めないけど自分は信じないというか、神社もお寺も行ったら手を合わせるけど頼るつもりはない、みたいなスタンスです。ヨガ哲学もまともに学ぶまでは、宗教やスピリチュアルなものと同じカテゴリーだと思っていたので、話半分で聞いておこう、毒にも薬にもならないだろうし、と思っていました。とんでもなかったです。ヨガの「哲学・生き方・考え方」は、特別なものでも特殊なものでもない、普遍的でごく当たり前のことばかりでした。で、じゃぁ簡単なのかっていうとそうでもない、みたいなことが目白押しなのです。

ヨガが目指す境地、それは「解脱(げだつ)」とか「悟り」とか言われたりするのだけど、平たく言えば心と身体のコントロールができていて調和のとれた自分で生きることだと解釈しています。それって、たぶん、誰にとっても「いいこと」だと思うのです。でも、できてるひとなんているんですかね。私は程遠いです。もう不惑と言われる歳だけど、ぜんぜん穏やかならざる毎日。身体はうっすら不調で情緒もなんとなく不安定、みたいな時間が人生の大半を占めていました。自分の人生なのに自分が真ん中にいなくて、流されやすくて、すぐにひとのせいにして、言い訳を探すのに時間とエネルギーをいっぱい使っていた。雑念とか煩悩とかでいつも頭はぱんぱん。ヨガをやったらいきなり雑念が払われてすっきりさっぱりつるりと新しい自分に生まれ変われるわけではありません。でも、思考をお休みできる時間、にはなりえます。続けていけば、それが自分でコントロールできるようになるって、自分で自分のことを信じることができる。

アーサナ(ポーズ)をとること、つまりエクササイズ的要素というのは、ヨガ全体からみたら一部でしかない。そんなことも資格取得を通じて学びました。ヨガは8つの段階(八支則と呼ばれる)に整理されていて、アーサナの前に「控えるべきこと(ヤマ)」と「やるべきこと(ニヤマ)」があります。時代や国や文化やなんかを超えた至極真っ当なことがまとまっていて、これを知ったお蔭で私は生きやすくなったし落ち着きました。もともと感覚的に「避けるべき」だと思っていた行動についてお墨付きをもらったような、「やった方がいい」と思っていた行動について背中を押してもらったような。これを知ってから、「ヨガ」は「ヨガのレッスンに参加すること」ではなくなって、いつでもどこでも私を支えてくれるものになりました。

この素敵な考え方を少しずつでも広めていきたい。そして私自身が忘れずに大切にしていきたい。

長くかかるかもしれませんが、このnoteで「ヤマ」と「ニヤマ」のことを少しずつ考えていきたいと思っています。ここのところ特に「ヤマ」の中では「アスティア(盗まないこと)」、「ニヤマ」の中では「サントーシャ(足るを知る)」がたびたび頭をよぎるので、順不同で書いていくかもしれません。横道にそれるけど、このサンスクリット語の響きもちょっと神秘的で味わい深い。こないだヨガレッスンを一緒にやった母からは、なんだかちょっとおまじないみたいだよねーと言われました。アンジェネアアーサナ、とか。セツバンダアーサナ、とか。アルダ・ハヌマーン・アーサナ、とか。

……プロローグ的なことだけで3,000字近く書いてしまった(笑)ここまで読んでくださった皆さんありがとうございました。


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