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自己紹介note プライベート編


はじめに

はじめましての皆さまは、はじめまして。
その他の皆さまも、お久しぶりです。

すみません、何だかすっかりnoteの間が空いてしまいました。

相変わらず変化の大きな日々を過ごしていたのもありますが、書こうとしていた「自己紹介noteのプライベート編」について、なかなか自分の中で整理がつかず まとめきれなかった、というのも要因のひとつです。

また挫折することがないよう、今回はまず先に要約を書いてみます。

《自己紹介noto プライベート編》
1.母の精神疾患と貧困に悩まされた幼少期
2.心の支えが無くなり荒んでいった思春期
3.ようやく幸せが…と思っていた一度目の結婚
4.母の自死と共に自分を見失う低迷期
5.そして、ようやく人並みの幸せを…

という感じのプライベート年表。
我ながらジェットコースター感強めの人生です。
ひとつずつ、振り返っていきたいと思います。

1.母の精神疾患と貧困に悩まされた幼少期


私の母は、私が物心ついたときから重度の精神疾患で、今で言う統合失調症やパニック障害といった病気を複数併発しているような状態でした。

主な症状としては幻覚や幻聴・被害妄想など。病状が悪化すると暴言や暴力といった対人への攻撃性が高まっていくような病気を抱えていました。

当時、精神疾患というのは今のように理解が進んでいませんでした。今でこそ「脳に異常をきたしている、れっきとした病気である」という認知も進んでいますが、当時は「キ◯ガイ」「変人」「頭のおかしな人」といった呼ばれ方をしており、それが病気が故の行動・発言なのか、元からの人格であるのかの区別は(私も含めてですが)とても曖昧でした。

母は元々は少年課の刑事で、私の父にあたる人は「別に本妻がいるカタギではない人」だったそうです。

母は私を産むために職を失い、周囲から絶縁されました。厳しい環境下の中で私を女手一つで育てる孤独や、周りからの無理解に苦しみ、精神的・肉体的な負荷も積み重なり、徐々に精神が蝕まれていったようです。


2.心の支えが無くなり荒んでいった思春期


私が小学校の高学年くらいの時に、徐々に加害が増えてきた母は強制入院という措置になり、私は母の父にあたる祖父の家にひきとられました。

祖父の家には他に叔父が暮らしており、しばらく祖父・叔父・私の3人の生活が続いた後、退院してきた母との4人暮らしが始まりました。

少しだけ穏やかな時期があったのですが、再び母の病状が悪化し始め、時を同じくして、叔父が職場で凄惨なイジメを受けていることが発覚しました。

そして、ある日突然、祖父が脳梗塞で倒れ、植物人間状態となってしまいました。

その頃、私はちょうど専門学校生の頃だったのですが、病気の母や叔父を家事や労働で支え、先の見えない祖父の入院が続く日々というのは当時かなりしんどくて、毎日何の悩みもなく(という風に当時の私には見えていた)キラキラ過ごす周囲の人間に対しては、勝手に憤りを感じたりもしていました。

今思えば、当時の自分は周りの人に敵意を振り撒いているような相当に荒んだ人間だったと思います。(正直、記憶から葬り去りたい頃の自分ですが、自戒のために残しておきます…)その数年後に、祖父は他界しています。


3.ようやく幸せが…と思っていた一度目の結婚


「とにかく、母や叔父を養っていくくらいに自分は稼がなければいけない」と思った私は「激務だが稼げる」という噂のデザイン設計事務所に就職しました。

結局1ヶ月ほどで退職するのですが、その間、家に帰れたのは10日も無かったと記憶しています。辞めたきっかけは、当時付き合っていた年上の男性からのプロポーズでした。「君の人生を僕が背負っていくよ」という言葉に「これからは1人で戦わなくていいんだ。実家を出て自分の人生を歩んでもいいんだ」と肩の荷が降りる思いでした。

22歳、社会人1年目の時に17歳上のその男性と結婚をしました。学生時代の終わり頃に「結婚を前提に」と言われて付き合い始めたのがきっかけでした。ちなみにその後、6年ほど結婚生活を続けるのですが、最後の年には彼は「週に1日3時間だけアルバイトに行く人」になっていました。(これに関しては今ではもう良いネタですが。)


4.母の自死と共に自分を見失う低迷期


結婚生活の1年目で「俺、仕事辞めてきた」とのたまう夫を目の当たりにした私は「やはり誰かに依存して生きるなんてまっぴらだ」と思い改め、2社目のメーカーの仕事に打ち込んでいました。実績が認められ、目標も叶えられた私は次のステージに移ることを決め、その時に選んだのがリクルートという会社でした。

リクルートに入社する日の前日の朝、一本の電話が入り、実家にいる母が亡くなったことを知りました。死因は薬の大量摂取による服毒自殺でした。

私は喪主として最低限の小さな家族葬を執り行いました。葬儀会社の人と一緒に母に死装束を着せた時の何とも言えない感触は、今でも忘れられないものです。

入社後しばらくは、違う環境に身を置くことの緊張や、働く仲間たちとの遅れてやってきた青春のようなものが私を突き動かしてくれていたのですが、数年たち徐々に仕事や組織に対する疑問が大きくなっていきました。

同時に夫婦関係の歪みなども広がっていき、メンタルに不調をきたした結果、会社を退職しました。

離婚後の財産分与も雀の涙で、安定した職も失い天涯孤独の身となった私は、そのころ日々を生き延びることだけで精一杯でした。製造工場のライン工から高級クラブのホステスまで、できることは何でもやって1日1日をただ食い繋いでいました。



5.そして、ようやく人並みの幸せを…


徐々にメンタル不調から回復してきた私は、住宅会社の営業やベンチャー企業の立ち上げなどを掛け持ちしながら、社会復帰をしていきました。

相変わらず営業実績は誰よりも良いし、任された立ち上げ事業も軌道に乗り始め、徐々に少しずつ「この先、もし自分がずっと1人だったとしても、私は生きていけるんだろうな」という自信の様なものが芽生えてきました。と同時に「このまま1人で生きていくよりも、やはり誰かのために生きたいな」とも思うようになりました。

そんな頃に出会ったのが今の旦那さんです。

今では子供も産まれ、どん底を支えてくれた犬と共に家族4人での生活を毎日必死ながらも楽しんでいます。


これを書いていてようやく気づいたことが、一つあります。

産まれた時から「母を支えて生きるという道」を決められていた私は、母というある種の足枷が道標でもあったのだと思います。

どんなに辛い環境に置かれているときよりも、目指すものが無くなってしまったその時に、人は心折れてしまうものなのかもしれませんね。

今の私には、自分の守りたいものがあって、自分が叶えたいと思う夢があって、その為に頑張れる環境や、一緒にいてくれる仲間もいます。

本当にありがたいことだなと思いますし、「これって、もう無敵なんじゃないか?」と思っていたりもする訳です。

これからも、何度でも立ち上がって、自分と大切な人たちのために精一杯生きていきたいなと思います。




ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。



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