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自己紹介note お仕事編

みなさまはじめまして。静岡で、中小企業や個人オーナーさん向けのマーケティング支援をしているハルと申します。

ただいま私は「マーケティングをより深く学びたい」という思いのもと、マーケター桜井さんのHONEで修行中です。先日、「自己紹介が下手すぎる自分」に気づき悩んでいたところ、桜井さんよりアドバイスをいただいたので、この機会に自分自身について、棚卸しをしていこうと思います。


初noteということで、まずはお仕事編の自己紹介を書いていきたいと思います!(プライベート編も書くとちょっと情報量が多めなので、そちらはまたどこかで改めてご紹介できればと思います)


職人の祖父を見て育つ。

幼少期、スーツ職人の祖父の元で育ちました。祖父のクローゼットには、ブランド物の高級ネクタイが数えきれないほど並んでいたのですが、それは全てお客さんからの感謝の贈り物だというのをあるとき知りました。「自分の仕事で誰かを喜ばせるって素敵!」と感動した私は、モノづくりや絵を描くことが大好きな子どもとして育ちました。

《初めての成功体験》
小学生の時、お花係さんになった私は「どうしたら教室にお花が増やせるのかな?」と考えて、お花を持ってきてきてくれた子に素敵なメダルを贈ろう!と考えました。画用紙で作ったペンギンメダルが人気になり、クラスがお花でいっぱいになりました。それが、初めての私の成功体験だったように思います。


メーカーで0→1しまくる日々。

新卒で入った会社は、土木商材メーカー。地元清水で有名な商社グループの企業でした。別会社であった営業部門と製造部門が統合されるというタイミングで、「デザイン室」の立ち上げ1人目に採用されたのが私でした。

私が1人目ですから、当然のように上司や先輩もおらず、仕事の仕組みすらも無い状態でした。採用してくれた取締役が「いつか業界でNo. 1になるぞ」と言ったその一言が、私の行動指針になりました。なので、必要だと思ったことは全て自分の手で形にする、というのが私の新卒1〜3年目の仕事でした。

《こんな仕事をしてました》
自社商品の提案のためのパースやシミュレーションをCADやAdobeソフトで作成したり、それをゼネコンや役所に持っていき営業担当者とプレゼンしたり。カタログ作成やWebサイトの立上げ、イベントの企画や運営、商品開発、採用活動に至るまで、本当に幅広くお仕事を経験させていただきました。

静岡駅のロータリーには「静岡=富士山だから、富士山デザインの舗装にしちゃお。」という当時の私の拙いデザインアウトプットが、そのまま残っていたりします。もしご興味ある方がいましたら、ぜひ探してみてください。(正直めちゃめちゃ恥ずかしいですが…)


広告営業としての成功と挫折。


25歳の時、全国大手の営業会社に転職し、ブライダルの広告営業になりました。ちなみに転職した理由は、「営業の人が言ってることって本当なのかな?自分でお客さんの声を聞きたい」「将来はおじいちゃんみたいに独立もいいな。だったら経営者と話す仕事がしたい」というのが主な理由です。

初年度からそこそこ売上をあげたりタイトルをもらったりしていた私は、入社して2年目にはグループ内で一番大きな売上目標になっていました。(静岡という地方で2年目社員が2億近くの目標を持たされるというのは、今思えばかなり珍しかったかもしれません。)

広告営業をやっていた頃、売上が未達になったことは一度もありませんでした。でも、広告でクライアントの売上を上げることは、未熟な自分にとって本当に難しいことで、苦い経験もたくさんしました。

広告売上を伸ばそうするほど、クライアントに手をかけられる時間がなくなっていく。クライアントの売上への寄与<自社広告を売ることでの評価という図式に徐々に疑問を感じはじめていました。そのころ、尊敬していた上司から、パワーマネジメント強めの上司にかわり、組織の中にも社内評価のためだけの仕事がどんどん増えていきました。

結果的にはメンタル不調で営業会社を退職をしました。

その頃の忘れられないエピソードをひとつ。

静岡の山の上にあるホテルさんが一大リニューアルを迎えるタイミングで当時転職したばかりの私が担当になりました。入社の翌月に、年間のプロモーション提案をしなければならず、必死でマーケット知識を詰め込みロープレを繰り返し、迎えた当日。総支配人やコンサル、10名以上の上層部の人々が並ぶ中でプレゼンを無事に終え、私は安堵していました。しかし、直後にコンサルさんが一言「それでハルさん、あなたはこの提案で私たちが勝てると思いますか?」と私に問いました。

頭が真っ白になりました…。当日までの準備で精一杯でしたし、とっさに上手い言い返しなどできる技術もありません。

悩んだ結果、私はこう言いました。
「これで勝てるかの可能性について、私はまだ答えられる人間ではありません。でも、小さい時から知っているこのホテルが、静岡を象徴する場所になって欲しいと願っています。その気持ちは、私は誰にも負けません。



その後、ランキング最下位常連だった老舗ホテルが、今では静岡を代表する婚礼施設になっています。「いつもうちの社員よりも、うちのことを考えてくれてありがとう」と開業準備室で支配人に言ってもらえた夜のことも、きっとこれから先、私は忘れないだろうと思います。

当時、まだ工事の足場が残る再開発中のホテルで、四苦八苦しながらディレクション撮影をした写真が、いまだに使われているのを目にします。ブライダルの広告ビジュアルの寿命は3年が相場。あれから10年ほどが経っているので、今となっては、結果的になかなかコスパの良い撮影になったのではないでしょうか。


社会復帰とともにベンチャーへ。


徐々にメンタル不調から回復してきた頃、広告会社時代の先輩が会社を設立することになり、ベンチャーの立ち上げメンバーとして働くことにしました。事業開発を進めながらデザイン業務をまわしたり、あるときは新規開拓営業をしまくったり、産休に入ったマネージャーの代わりに急きょマネジメント業務をしたりなど、再び0→1ばかりの日々を過ごしました。

その後、奇跡的に縁のあった男性と結婚をして、産休育休を迎えていた頃にパンデミックに見舞われ、元いた会社には戻ることが叶わなくなりました。

たまたま求人が出ていた「広告代理店の静岡拠点の立ち上げ責任者」という求人に応募して、育休復帰とともに転職をしました。再び当然のように0→1に向き合う日々でしたが、幼い子供を抱えながら全ての仕事を1人でまわす日々は今思うと我ながら相当ハードでした。(あの頃は夫にも本当に負担をかけてしまっていたなと反省です。)


そしてフリーランスへ。

ある時、自分にとって大きな事件がおこり、「自分が一緒に働きたいと思った人以外とは、もう仕事をしたくない」と思ったことがキッカケで、フリーランスになる道を選びました。

組織の中にいると、仕事に対する価値観が全く異なる人もいて、私にとってはそれが仕事をする上ですごくストレスになることだと気づいたので、環境は自分で選び自分でつくっていこうと決意しました。

独立してはじめの頃は、生活の安定を優先して、デザインやディレクション、SNS運用やライティングなどの仕事をしていました。でも、いきつくところお客さんが困っているのはいつも集客や売上でした。

正直自分にとって肩書きというのはどうでもいいものだったりしますが、「コンサル」は何だかしっくりこないなと思いました。教え導いていくよりも、二人三脚で向き合うのが自分のスタイルに近いと思っているからです。ある意味で消去法に近い形なのかもしれませんが、一番しっくりくる肩書きが「マーケター」だったので、現在私はマーケターを名乗っています。

ありがたいことに、徐々に周りに人も集まってきて、一緒に働きたい人たちが増えてきました。まだまだ本当に未熟で、自分1人でできることはすごく少ないけど、自分が心から信頼できる人たちと、これからもお客さんに向き合っていきたいと思います。

目の前のお客さんを幸せにして、
その先にいるユーザーを幸せにする。
そして、その集合体である世の中全体をもっと幸せにする。

そんな仕事をしていきたいなと思っています。



冒頭でもお伝えしたとおり、私は今、一流のマーケターの近くで、自分に足りないブランディングや戦略論をもっと深く実地で学びたい、という思いのもとマーケター桜井さんのHONEをお手伝いさせてもらっています。

Twitterでは、マーケターとは?に向き合う日々をつぶやいています。
もしよかったら、ぜひぜひ気軽にお友達になってくださいね!


長くなりましたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!!

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