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人づきあいは、そもそもが面倒くさいものだ。ワクワク教からの脱却。

先週末は、2泊3日の野外フェスに行ってきた。
3年ぶりの開催で、みんなめちゃくちゃ楽しそうだった。
マスクをしている人なんて1人もいなくて、
「やっぱマスクなしがいいよね」
と会話しながら、やっと正常な場所に戻ってきたような感覚になった。

自然の中で、大好きな音楽に囲まれながら、踊って、キャンプして、温泉に入って。久々に再会した友人たちと、たわいもない会話を楽しんだ。



最近また人に会う機会が増えてきて、だんだんと思い出してきたことがある。
人づきあいとは、そもそも若干の面倒くささを伴うものだということ。
それは仲のいい友達であっても、家族であっても、お互いに気を使ったり相手に合わせたりする瞬間って必ず少なからずあって、意識的にしろ無意識的にしろ、そういうものの擦り合わせの上に人と人との関係は成り立っている。
そういう、完全に一人でいる時とは違うちょっとした面倒くささも含めて誰かと一緒に過ごす楽しみってあるし、何かを共有できることで、その喜びは何倍にもなる。
それに、今すごく実感していることは、人と会うことで最もエネルギーが動くということ。それは外面的にも、内面的にも。

私の場合、コロナ禍以前から数年間、人に会うのがだいぶ億劫になっていた。
人と交流する中でいちいち気を使ったり感情が動いたりするのが面倒くさくて、そんなのは仕事だけでたくさんだ、となっていた。笑
人と交流したくない時期って誰しも必ずあるものだけれど、それにしても私の場合は、やたらとその期間が長かった。



「ワクワクすることをしよう」とか、
「心地よさを大切にしよう」とか、
そういうここ数年のブームに、囚われ過ぎていたかもしれない。
自分の中でいつの間にか、そうではないことが許せなくなっていた。
心地よくないと感じることに対して不正解のレッテルを貼りまくり、それでなんとなく、八方塞がりになっていた。
結局私のしていたそれって現状に対する否定でしかなくて、それは何の解決にもつながらないんだということが、ようやく分かってきた。



そもそもこの地球という星は、何かと面倒くさい場所なのである。
その面倒くささを受け入れた上で、それでも楽しむ道を見つけてゆく。
自分にとっての心地よさを、追求してゆく。
“いいも悪いも乗りこなす”
そういう心意気じゃなきゃ、目の前のことや世界に対して、心を開けない。

人づきあいも同じで、確かに色々面倒くさいことはある。
特に、新しい人間関係を構築していこうというのなら尚更。
それでも、そういうのを超えて仲良くなりたい人であったりいい影響を与え合える人って絶対にいて、それって若干の面倒くささを受け入れた先にあるものなんだなぁ…と最近しみじみ感じるようになった。

精神的なひきこもり期間を経て、また心が、外へ向かって開き始めている。
衝動的にまた人とのつながりを大切にしたくなってきているのは、“横のつながり”がことさら重要な時代に入ってきたことを、どこかで感じ取っているからなのかもしれない。

「面倒くささ」を許容できるには、余裕が必要。
そのための余力とスペースを、いつでも持てている自分でありたいと思う。



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