私が指導者を目指した理由

 自分はバスケットのセカンドキャリアは引くほどいい話が流れるようになった。勿論その背景には現役時代の伝手も大きい。他チームとの交流も多かったし先輩後輩とも仲は良かった。だがここまで経験させてもらえてるのは自分の気持ちが大きいのではないのかなと、考えている。
 私の選手生活はいいものではなかった。小学3年生にバスケをはじめ、5年生からひざなどの足を痛め毎週接骨院に通うようになった。正直しんどかったし、やめようと何度も思った。小学校の時は4番をつけていたこともありスタメンだった。中学に入って初めは試合に出ていたが次第に抜かれて出場機会も減った。とどめを刺したのは中学2年の夏。半月板を損傷した。自分の代の新人戦では松葉杖だった。半月板は治らない。ケアしながらプレーをしていた時に興味を持ったのが審判だった。

 自分はよく審判の判定に対して不満を持つことが多かった。だからこそ根拠をもって言い返したいって思うようになり審判を始めた。
 それと同時に指導者にも興味を持った。母校の顧問はC級審判員であり指導者としても尊敬できる方だったからこそ志したのかもしれない。進路相談でもそのことを話したらいろんな先生に広まったのは別の話ですが。ww ただ、どの先生もいいねと言ってくださり、本格的に勉強し始めた。
 審判に関しては3年の春には2パーソンで吹けるようになっていた。プレーしていた時も審判と試合後、議論するようになり技術も格段と上がっていった。それと同時に、春にけがをしていたこともあり、3年の春には1年生の指導をするようになった。少しメニューを考えてまとめるだけだったが。そこが指導者としての原点。その時あらゆることを1年生から教えてもらったし、自分の知識は枯れるほど出した。その時の自分は少しの優越感を覚えてしまった。今考えればその優越感は選手との壁
を作ることになるのになーと思う。幸いそういう風にはならなかったので良かったが。受験があって、その時にずっと一緒にいてくれた塾の先生にもあこがれを持ち、人に教える仕事がしたいと思うようになった。
 高専に入ってロボコンに熱中していた時、中学時代一緒にバスケをしていた1人が同じ学校でバスケ部に所属しており、誘われた。そこで練習を見ていた時にそこで行われていたのは練習ではなく遊びだった。基礎連なし。一対一などばっかり。そこでこのチームを変えたいと思うようになった。その気持ちが今の5年には伝わらなかったというか意見の相違がなかなかうまくまとまらなかったなと思いながら。ただ自分が一番に考えるのは先輩の位置と意見。これは一番大切にしている。5年の方針に対して2年が口出しするのは抵抗があった。もちろん5年もイラついただろう。その中で同級生、3年生の話をいっぱい聞いて話して今どうすべきなのかとこれからどうしたいのかはひたすら話した。
 その結果今こうしてメニューを考えたりしている。代が変わった時にお前はコーチだと言ってくださった部長には本当に感謝しています。だからこそ重圧もある。ただそれが相乗効果になっている。

いろいろ脱線しましたがこれが私の指導者を目指した理由。半生を振り返ったような気分でした。
 次回は指導をしていて意識していることを書こうと思う。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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