『金閣寺』

 ある面において、僕は三島由紀夫も僕と同じ様なものを抱えていたのだと思っている。僕は自分に迫ってくる美の崩壊というものを極度に恐れては恐周章狼狽していた。そしてそれは彼も同様であったと思う。金閣寺の美は戦後の混沌から無縁であり、超然と屹立し、その威容と美を誇っていた。
 三島は自分の中に、自らにとっての絶対的かつ理想的美の形象を見出していた。それは、その絶対的美は、彼にとって決して手の届かないものであった。永遠の憧憬であった。そこに彼の屈折があった。闇があった。
 金閣寺という絶対美に対し、三島は倒錯した愛情を抱懐することになる。何故に彼は金閣を破壊しなければならないと決断したか。彼にとって金閣の美は己が幾ら渇望しても絶対に掴むことの出来ぬものであったからだ。自分とは凡そ逕庭した金閣の超越的美に彼は畏敬する。確かに畏敬するが、そこに彼は隔絶された不可侵な美をもみる。みてしまう。自分自身、人間や世相とは無縁に存在している金閣の侵すべからざる優美が彼をして苦悶させていく。どうあがいても手の届かないその事実が彼を懊悩の陥穽に滑落させる。
 この撞着の末、彼は決意するに至る。金閣を破壊すれば美は絶対のもの、永遠なるものではなくなり自分にとって己の内に引き込むことが可能なものへと"変容"する、と。その衝迫は激甚なるものであり、彼は空襲で金閣が破壊されることを切願した。だが、空襲、世相、世界と無関係な存在者たる金閣寺において、爆撃という地上の論理が通用する事はなかった。形をなした形而上的なるものこそが金閣であった。そして破壊衝動が芽生える。自らの手をもって殺害する事でこそはじめて金閣と自分との乖離が、不条理がなくなると考える。
 言うまでもなく、主人公溝口の内面は三島のそれが投影されたものである。小林秀雄はこの小説は小説にあらずしてコンフェッション、つまり告白であると述べたが、まさしくこれは告白である。三島の美への熱情を吐露した告白文。それが『金閣寺』である。
 美が崩壊していくことを耐えがたき懊悩と感ずるのは、自らの内に理想としての美というものが確固として存在しているからである。これは偶像崇拝。そして、その偶像をただ崇めるのみならず、自分もその一部たらんと志しながらも、もはや自分がそこから不可避的に、仮借なき摂理によっては離れてしまったのだと確信するとき己の奥底で何かが瓦解し破壊的衝動が生まれるのを意識する。

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