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サッコ・ディ・ローマの痕跡を追って(中編)

「中編」ということで、前回の記事の続きになります。
「前編」「後編」にするつもりでいたのですが、申し訳ありません、後編がまた長いものになってしまったので、考えましたが、三編にすることにしました。
引用が多いのもあり、そもそもローマ劫掠サッコ・ディ・ローマという、重いテーマであるため、ちょっと読み辛いと、感じられる方も多い…?と想像もしてしまいます。
なのでもし、そのような方は、さらっとスクロールいただいても構いませんので、私が撮影してアップした写真だけでも、見ていただけたら幸いです。

手始めにローマではなく、息抜きに(?)トスカーナ州のプラートのものを載せることにしました。
フィレンツェから各駅電車(R)で30分くらいのところにある小さな町で、私はフィレンツェと同じくらい大好きな町です。
全くテーマに関係ないわけではなく、この町もサッコ・ディ・ローマのキーワードになるというか、同じように襲撃を受けています。それを知るまで想像もしませんでしたが。
いずれこの旧市街の名所などをテーマに、記事にするつもりですが、この機会に20年前訪れたお祭の様子、芸術作品なども先取りして、数枚アップします。



宗教的ヴェンデッタ

前半の続きになりますが、引用文です。

さらに、サッコ・ディ・ローマを悲惨なものにした最大の要因は、ランツクネヒトの大半がルター派であったことだった。彼らは教皇とカトリック教会に鉄槌を加えようという、いわば「宗教的復讐ヴェンデッタ」の念にかられていた。

教皇たちのローマ(石鍋真澄 著)より

かりに給料*が支払われなかった場合は、傭兵による略奪は報酬の代わりとして「公式に」認められたが、それでも略奪行為は一日で十分だと考えられていた。ところがサッコ・ディ・ローマの場合は、給料が支払われなかったことは事実だとしても、指揮官も命令もない無政府状態のまま、略奪が無慈悲に、組織的に、長期にわたって続いたのである。おまけに「宗教的ヴェンデッタ」という裏打ちまでされていた。このローマの略奪はプラート(1512年)、ジェノヴァ(1522年)、アントウェルペン(1576年)のそれよりも悲惨な、最悪の略奪事件だったと当時から言われていた。

教皇たちのローマより
*ローマを襲撃したランツクネヒトは、長期にわたり給料が支払われておらず、略奪で生きていくしかなかったとも伝えられている。

サッコ・ディ・ローマから遡る15年程前、プラートの街がスペイン兵に襲撃されたという史実があると知った時は、驚きましたし、ショックでした。
プラートの聖遺物、「聖母の帯サクラ・チントーラ」が無事で良かったとも思いますけど、被害にあった一般市民の人たちを想うと切なくなります。戦国時代という大きな悲劇の中の一つなのでしょうか。

プラート大聖堂 トスカーナ州プラートにて撮影
この街も1512年、スペイン兵による襲撃、略奪の被害にあっている。
大聖堂ファザードから入ると、すぐ横に聖遺物「聖母の帯」が納められている。
年一度の伝統的な「聖帯祭」の際、一般公開される。


聖帯祭の日の、街の様子(2005年)


写真の日付を見たら9月8日でした。


そのプラート襲撃よりも約半世紀前、画家の修道士フラフィリッポ・リッピが50歳を過ぎて、若い修道女だったルクレツィア・ブーティを、上記の聖帯祭の日に誘拐したのだか、駆け落ちしたのだかして、息子のフィリッピーノが生まれたという(1457年ごろ)。
漫画にもなりそうなストーリーですね。
個人的なことですがかつて、フィリッポ・リッピの弟子のボッティチェリを含め、漫画になったらいいなとシナリオを考えていた頃、旅行する時は聖帯祭が開催される日を調べ、フィレンツェと兼ねてプラートにも足を運びました。

聖帯祭の日は、大聖堂で聖遺物の帯を間近で目に出来ました。
検索したら、帯や聖帯祭のことがWikipediaにありましたね。
9月8日がお祭りの日ということは、ネットや写真の日付で確認したのですが、今年は開催するかは確認出来ませんでした。
もし、行かれる方いらしたら、是非記事をお願いします!
リッピ親子のゆかりの地でもあるので、見どころたくさんの絵画や、他にもドナテッロなどの作品がたくさんありますよ!


プラート大聖堂 フィリッポ・リッピ作 フレスコ画「聖ヨハネの生涯より ヘロデの宴」部分  
プラート プレトリオ宮美術館 フィリッピーノ・リッピ作「聖母子と聖ヨハネ、聖ステファノ」


話を戻しますが、このプラートの襲撃、劫掠のことを兼ねて、宗教的ヴェンデッタについて、AIに確認しました。
(ChatGPTは、ヴァージョンアップしたのか、箇条書きの回答で、うまく引用欄に編集できなかったため、そのままペーストしました)

私:「ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇」アンドレ・シャステル著、の中で「大衆の信仰対処であった聖遺物に対する猛烈な攻撃こそ、ローマ劫掠の極点をなすものである」と述べられ、聖パウロ、ペテロ、ヨハネの頭蓋を翻弄させたり、聖ロンギヌスの槍を自らの槍に付け嘲笑ったなど、当時のランツクネヒトの具体的な聖遺物への冒涜行為の証言、記録が載っています。 「教皇たちのローマ」石鍋真澄の著では、ランツクネヒトの多くがルター派で、これらを宗教的復讐と表現しています。そのため過去のプラートやジェノバの強奪より悲惨だったとしています。確かにプラートには「聖母の帯」という聖遺物が残存し、1512年のスペイン兵による襲撃では、それが冒涜されたとは聞きません。サッコ・ディ・ローマの大きな損害の要因は、ルター派による宗教的復讐によるものとみなされますか?

アンドレ・シャステル著の「ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇」や石鍋真澄著の著作によれば、ローマ劫掠時には聖遺物への攻撃が激しく、聖パウロ、ペテロ、ヨハネの頭蓋や聖ロンギヌスの槍などが破壊されたり嘲笑されたりしたという具体的な証言が記載されています。石鍋氏はこれを宗教的復讐と表現し、過去のプラートやジェノバの強奪よりも悲惨だったと述べています。
また、石鍋氏は、多くのランツクネヒト(傭兵)がルター派であったことから、ローマ劫掠が宗教的な復讐の側面を持っていたと指摘しています。ルター派は当時の宗教改革運動の一翼を担っており、カトリック教会に対する反発や対立が存在していました。そのため、ルター派の傭兵がローマ劫掠に関与したことが、宗教的な側面を強調する要因となった可能性が考えられます。
このような観点から、ローマ劫掠が宗教的な復讐や対立の表れであったという見方が一部でされていることが理解されます。ただし、歴史的な出来事には複雑な要因が絡んでおり、その解釈や評価は複数の視点から総合的に考える必要があります。

LINE AIアシスタント


(ChatGPT)
サッコ・ディ・ローマにおけるランツクネヒトの行動は、しばしば宗教的な要因と関連付けられています。特に、ランツクネヒトの多くがルター派であったとされることから、カトリック教会やその象徴である聖遺物への冒涜行為は、単なる略奪以上の宗教的復讐として解釈されることがあります。

宗教的背景と復讐の観点

  1. 宗教改革の影響: 16世紀初頭、ルターによる宗教改革がヨーロッパ全体に広がり、カトリック教会の権威や儀式、特に聖遺物崇拝に対する批判が強まっていました。ルター派は、カトリックの聖職者や教会の腐敗に対して激しい批判を展開しており、この思想がサッコ・ディ・ローマの際の行動にも影響を与えた可能性があります。

  2. 宗教的な象徴の攻撃: ランツクネヒトが聖遺物を冒涜した行為は、単なる略奪ではなく、宗教的な象徴に対する攻撃とみなすことができます。聖パウロやペテロ、ヨハネの頭蓋骨を翻弄したり、聖ロンギヌスの槍を嘲笑した行動は、カトリック教会の聖なる象徴を意図的に冒涜する行為であり、これは宗教的復讐の一環と見なされるでしょう。

  3. 歴史的記録と証言: アンドレ・シャステルや石鍋真澄の著作において、これらの行為が記録されており、特に聖遺物への冒涜がサッコ・ディ・ローマの極点をなすとされています。これに対して、他の都市での強奪事件、たとえば1512年のプラートの襲撃では、聖母の帯という聖遺物が冒涜されることはありませんでした。

結論

サッコ・ディ・ローマの大きな損害の一因は、宗教的な復讐によるものであったと考えられます。ランツクネヒトの多くがルター派であり、彼らがカトリック教会やその象徴に対して抱いていた敵意が、暴力的な行動に結びついた可能性が高いです。ただし、これはすべてのランツクネヒトが同じ動機を持っていたというわけではなく、個々の動機には経済的な利益や単なる混乱への参加といった他の要素も含まれていたと考えられます。 
(ここまでChatGPT3.5の回答)

ローマ劫掠サッコ・ディ・ローマのその後

サッコ・ディ・ローマから数ヶ月後、泉が壊されたこともあり、ペストなどの疫病も襲って来て、ローマ市民はさらに苦しめられることになります。そして1528年2月、皇帝軍がローマから完全撤退するまで、蛮行は断続的に行われたそうです。
その後の政治的なことなど、各著書を基に、下記要約いたしました。

サンタンジェロ城に幽閉状態だったローマ教皇クレメンス7世は、大量の賠償金の支払いなどの取り決めに署名。解放されて1527年12月オルヴィエートに向かった。その後ローマに近いヴィテルボに移り、1528年10月ローマに帰還。
神聖ローマ皇帝カール5世は、サッコ・ディ・ローマによる衝撃で各国や、スペインの聖職者からも強く避難が上がると「ローマを壊滅させろなんて命じた覚えはないから、オレの責任じゃない。全部、軍を率いてた総司令官ブルボン(5月6日戦死)のせいだ。あと教皇の教会改革の対応が悪かったからだ」と言い出した。
サッコ・ディ・ローマ以降、フィレンツェ共和国ではメディチ家(クレメンス7世の一族)が追放され、民主化されていたが、教皇と皇帝の和解が進む中で、フィレンツェの孤立を危惧した統領のニコロ・カッポーニが、教皇と秘密折衝を行っていた。それが暴露、追及され1529年4月失脚。
メディチ家の部分的復権の調停が座礁してしまい、以後フィレンツェの反メディチの機運が高まり、外交的圧力も用をなさない情勢で、クレメンスはメディチ家によるフィレンツェ支配を確保するために、カール5世の力に頼るほかはなかった。
こうして最終的な和解として、1529年6月バルセロナ条約が結ばれた。
条約の内容の一つに、サッコ・ディ・ローマに関わったすべての者に、教皇が赦免を与えるという項目も記されていた。
1530年2月22日、カール5世はボローニャでクレメンス7世から神聖ローマ皇帝として、パヴィアから運ばれたイタリア王の「鉄の王冠」を受けた。本来ならローマで行われるところだが、ローマは依然と荒廃したままだったからである。
6年後の1536年4月、カール5世は勝利者として、周到に準備されたローマでの凱旋式に臨むのである。1527年の征服行為を、善意ある正当な形の「凱旋」に置き換える理想的な手段でもあった。


皇帝カール5世の肖像 (アンソニー・ヴァン・ダイク作1621-1627年ごろ)
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

この皇帝とやらは、自分の軍隊がしでかしたことなのに、兵が給料も貰えない状態を知ってか知らずか、それで責任は死人に押し付けて自分は知らねーとか。さらにおまけがあって、金は教皇に要求して、出させたとか、全く腹立たしい対応です。この人のこの件に関しては、これ以上続けても腹が立つだけなので、私からはここまでにいたします。
サッコ・ディ・ローマという事件の内容自体、現代の常識ではあり得ないし、それ以前以降の経緯もAIによると「複雑」とよく回答してきます。

当時の教皇クレメンス7世は、のちにルネサンスと呼ばれる芸術を庇護したり、貢献したとかで、シャステル氏などの研究者からは評価されているようですが、それとサッコ・ディ・ローマを起こしてしまった問題とは全然話が別ですからね。
ローマの人たちを守れなかったことの責任は大きいですね。

当時の居住地域とメイン通り

今回、今まで赴かなかったところも出来るだけ目にしたいというのもあり、1536年の凱旋とやらの道のりを少し追ってみました。
下記地図を作りましたが、凱旋の起点となったサン・セバスティアーノ門と、壁から少し先の道まで足を運びました。
地図によると16世紀は門や壁の内側もアッピア街道になってますが、現在は門から、外側に続く道がその名前のようです(違っていたらすみません)。
7月初頭の猛暑の中、ローマを破壊した当事者が、偉そうに行進した場所なんて、何で追いかけなきゃならないんだと思うと、暑さに加えイラついたけど、当時の「街道」とはどんなものだったのかを見たかったというのもあり、、アッピア街道は古代ローマからの面影が残っていると「地球の歩き方」にありましたので、行けばイメージだけでも掴めるかも、と思った次第です。

ちなみにサッコ・ディ・ローマから約30年後、スペイン兵が侵攻しに来て、ローマは再び劫掠の危機が訪れます。その時ミケランジェロは、ローマに移住していたのですが、若い男と逃げました。
ミケランジェロが逃げて行った道はおそらく「フラミニア街道」で、アッピア街道とは逆方向なのですが、現在のフラミニア街道は近代に舗装されたような、普通の道路なので、アッピア街道で参考になればとも思いました。
いずれこの、ミケランジェロの逃亡劇(本人81歳)も、創作したいので。

1536年の皇帝カール5世のローマ凱旋の道のり。サン・セバスティアーノ門を起点に、バチカン宮殿まで行進したとのこと。
ローマ、サン・セバスティアーノ門とアッピア街道
アッピア街道(城壁の外)
梅雨明け後の日本(南関東)以上の灼熱地獄でした~!!

アッピア街道はローマ帝国時代からのものを残存させていると、ガイドブックに記載されていますが、こんな自動車の往来が激しい道ではなく、もっと先へ行くと、サイクリングコースのような道で、古代からの建築物もあったりと、道路も当時のものに近くなるらしいのですが、灼熱地獄と交通事情の影響で、サン・セバスティアーノ門付近までしか行けませんでした…。
アッピア街道の先への方へ行かれた方がおられたら、記事にしていただければ幸いです。

コロッセオと「凱旋行列」のコースに含まれたコンスタンティヌス凱旋門
「凱旋行列」はこの門のあと、今ではフォロ・ロマーノの中にあるティトゥス凱旋門に続いたとのこと

コンスタンティヌス凱旋門は、保存状態がとても良いことでも有名のようですね。
コロッセオは有名すぎますが、サッコ・ディ・ローマのことを調べなければ、こんな傍に見事な門があったことすら忘れてました。

あとは、サンタンジェロ橋にほど近く、職人の工房などが多く存在したという「バンキ通り」を見てきました。

「凱旋行列」のコースになった、当時の主要道路の一つ「バンキ通り」。サンタンジェロ橋に続く道。現在では「バンコ・サント・スピリト通り」。
「バンコ・サント・スピリト通り」の反対側はすぐサンタンジェロ橋です。

サンタンジェロ城で砲兵だったベンヴェヌート・チェッリーニが、自伝でよく「バンキ街」の地名が出て来ます。下の場所含め、この通り沿いのようです。
現在のV.エマヌエーレ2世通りなどと比べたら、路地のようにも思えますが、当時は繁華街のメイン通りだったのでしょう。凱旋行列の通り道ですしね。

ここもかつての「バンキ通り」で現在の「バンコ・ヌオーヴィ通り」。「バンコ・サント・スピリト通り」から続く道。かつてはこれら「バンキ通り」が商店が軒を並べる通りで、ベンヴェヌート・チェッリーニの工房もバンキ通りにあったとのこと。

上記の地図を思い出しながら散策すると、当時の「居住地区」と、そうでない場所、おそらく近代に舗装された場所というのが、見えて来る気がしました。
ナヴォ―ナ広場周辺とか、トラステヴェレの方は、路地のような細い道や、石畳の道が多く、テルミニ駅周辺は道幅が広くて、きちんと舗装されていて歩きやすいなど。
当時のローマは、地域も人口も、現在と比べたらずっとコンパクトだったのでしょうが、それにしても聖都の損害、損失は大きいですよね。

犠牲者の1人 ロッソ・フィオレンティーノ


命を失った人たちも多いけれど、運良くそれは失わなかったとして、街や物は再生できたとしても、心の深い傷は、一生消えません。
下記それを彷彿とさせる芸術家の一例ですが、私が好きな画家の1人です。

――他の者たちは、捕縛され、虐待され、人足や奴隷のように酷使された上に、皇帝軍の慣行に従って身代金の支払いを強要された。無一文となり、卑しめられ、あらゆる救いを絶たれたロッソは、占領軍の兵士によって裸足で重い荷物を運ぶ仕事を強要され、肉屋の商品を運び出す手伝いに駆り出された。

ローマ劫掠 1527年、聖都の悲劇 項目「芸術家たちの不幸」より

ロッソ・フィオレンティーノの絵、大好きですが、ヴァザーリの「芸術家列伝」によると、彼はサッコ・ディ・ローマから20年余り後、自殺してしまったということです。

上:フィリッピーノ・リッピ作「聖ベルナルドの幻視より 天使像」1485年
下:ロッソ・フィオレンティーノ作「天使とマンダリン」1521年
マーブル紙が有名なフィレンツェで購入したカードより
これを描いた時のロッソは、サッコ・ディ・ローマを経験する前ですね

フィレンツェはマーブル紙でも有名ですが、フィリッピーノ・リッピの絵のカードを買いに行ったら1枚しかなく、代わりにロッソ・フィオレンティーノの絵のものがありました。
目的だったフィリッピーノの絵の束はなかったけど、ロッソのこの絵も大好きなので、最後のフィレンツェの旅で、手にできてラッキーでした。

では後編に続きます。

【参考・引用文献】
『教皇たちのローマ』 石鍋真澄著 平凡社(2020年)  
『ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇』 アンドレ・シャステル著 越川倫明他訳  筑摩書房(2006年)

#忘れられない旅

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