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「生産性」議論が、実はイマイチ響いていない当事者LGBT

『新潮45』による「生産性」を巡る議論が、日々続いています。

何と言うか、つまらない歴史の授業で、アパルトヘイトを習った時のような感覚。
心がチクッとする感じはあるし、多少の憤りは感じる。でもどこか他人事で「どうしようも出来ない」諦念が浮かんでくる。正直、そんな風にしかとらえられない自分がいる。

つまり当事者であるLGBTたちは、
(これだけ盛り上がりを見せている中なんとなく言いづらいけれど)あんまり何とも思ってなかったりするんじゃないかなー。実際。

なぜかは分かっていて。
LGBTとして生きてきたこれまでの悩みとか苦しみが、自分を当事者ではなくさせているんです。誰よりもこのことについて考えてきたから、あまりにしんどいから、自分が少数者であることを遠ざけている。
対岸の火事化することでようやく、自分を保つことが出来ている。

だから僕たちにとって「生産性」発言による差別は、もうどうしようもないアパルトヘイトと一緒で、「変えたい」対象ではないんだと思う。

とか言いつつ、でも、そんな単純にはいかない自分もいるんです。

「変わらない」と分かっていつつ、「変えたい」。
他人事化してしまっている自分がいて、一方で自分事としてLBGTの生きる社会を作ろうと、もがいている人たちもいる。
そういう人たちを見ていて尊敬するし、うらやましいし、自分もそっちに行きたいと思う日もある。でも実際今僕が生きている社会を見渡してみても、一歩踏み出す勇気というか、きっかけを探すのが難しい。

だから、noteを始めることにしました。
同じような境遇の人と繋がればいいなと思うし、そろそろこれまで意識して見ないようにしていた自分のセクシャリティについて、棚卸をしないと進めない気がしているからです。

自分がマイノリティだと気づいた瞬間から、25歳の今に至るまでの経緯を、なるべく詳細に、正直に、ふり返ってみようと思う。
誰の役に立つのか分からないし、読んでもらえるものになるかは分からないけれど、この生々しい感情を社会に公開するその行為自体が、
僕にとっての自慰行為であり、自傷行為であり。

それでも誰かが救われると信じて、言葉にしていこうと思う。


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