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書くということ

思えば私は幼い頃から文章を書くことが好きで書いた文章を周りの人から褒められることが多かった。

小学校で出された宿題の日記は2,3行書いて終わりのクラスメイトが多い中、
私は毎日2ページみっちり埋めて文章の終わりには担任の先生へのメッセージまで書いていた。
暑中見舞い、クリスマスカード、誕生日カード、年賀状、お手紙。毎月のように誰かに向けてメッセージを書いて送ることは自分にとって当たり前の日常だった。祖父母にプレゼントしてもらった本の感想を書いてファックスで送る、なんてこともあった。
このように日常的に「書く」ということに慣れ親しんできたおかげか両親、祖父母、友達など周りの人からよく「文章が上手い」と言われた。
阪大外語に進学した語学が堪能な友人から「書く日本語は上手い」という言葉をもらったりもした。

その中でも特に「私は文章を書くことが好きだ」と確信した出来事がある。
10年前の小学6年生の頃、習い事で空手の昇段審査があった。審査の中には「昇段にあたり空手の強さとは何か」で課される作文がある。
400字詰め原稿用紙4枚という小学生にしてはまあまあな分量だ。
そして空手の意義を問われる難しい題目。
ほとんどの小学生は真っ白な原稿用紙を前に頭を悩ませやっとの思いで書き上げることが多いという。
当時、学校の休み時間や放課後に図書室通いし本が友達であった私はこの課題に真摯に向き合った。そして全員の前で作文発表後、先生方から「今まで見てきた中で1番よく出来た作文」「素晴らしい文章だ」と正直、空手の実力よりも褒められた。
聞いていた他の親御さんからもたくさん賞賛を浴びた。この時から書くことは私のアイデンティティのひとつになったのだと思う。

小学校高学年の頃は怪盗ルパン、シャーロックホームズなどミステリーものが大好きで全巻制覇したり源氏物語や枕草子などの古典に夢中になっていた。しかし小学6年生をピークに私の読書量はだんだんと減っていった。部活が忙しいから、テストが大変だからと言い訳を繰り返し、自分の心にある「静」と向き合わなくなっていった。今でもネットの文章、音楽や動画などのコンテンツに触れることの方が多く、時々紙のページをめくる程度だ。おそらく自分の語彙力と文章力は基本的には小学6年生の頃から更新されていない。22歳の大人の文章としては稚拙だなと思ってしまう。「もしあのままたくさんの本を読み続けていれば私はもっと豊かな語彙力に恵まれたのではないか。もっと素敵な文章を書けたのではないか。」とかすかに後悔の念がよぎる。

しかし今からでも遅くはない。人生100年時代と言われているのだ。これから5年10年と積み重ねていけばたくさんの言葉が宝石となって自分の中に蓄積されていく。色々とりどりに光ることばの宝石箱は私の未来だけではなく日常生活さえも輝かす。
そもそも私は語彙力や文章力のためでなくとも心を魅了するような精巧な文章や美しい日本語に触れたいと思っている。知らない言葉や表現を通じてまた新しい世界を見たいと望んでいる。言葉や表現を深く吟味し自分のものにする_____私は言葉を食べながら生きていきたい。


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