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「本の雑誌が選ぶ2019年度文庫ベストテン」第1位!『戦場のアリス』第一部試し読み

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戦場のアリス
ケイト・クイン
加藤洋子 訳

(以下、本文より抜粋)

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1 シャーリー


 1947年5月 サウサンプトン

 イギリスでも、わたしは幻影を見た。わたしが連れてきた幻影だ。ニューヨークからサウサンプトンに向かう遠洋汽船に乗ったわたしは、悲しみに打ちのめされ感情をなくしていた。
 港にほどちかいドルフィン・ホテルのラウンジで、鉢植えの椰子に囲まれた柳細工のテーブルに、わたしは母と向かい合って座り、目が捉えているものを無視しようと努めていた。フロントデスクのそばにいるブロンドの少女は、わたしが思っている人とはちがう。ちがうとわかっている。家族の荷物の横に人待ち顔で立つイギリスの少女は、見ず知らずの他人だ――が、頭はそれを認めようとせずに、ほかの誰かだと言いつづける。わたしは目を逸らし、隣のテーブルのイギリスの若者三人に視線を向けた。彼らはウェイトレスに払うチップを少なくすませる算段に忙しい。「チップは五パーセントでいい、それとも十パーセント?」大学のオフィシャル・ネクタイをした若者が、請求書をひらひらさせながら言うと、連れの二人は笑いだした。「かわいい子にしかチップはやらないよ。脚があんなにガリガリじゃ……」
 わたしは三人を睨み付けたが、母は気付いてもいないようだ。「五月だというのにこの寒さと湿気、嫌になるわ(モン・デュ)!」そう言ってナプキンを広げた。たくさんの荷物に囲まれて、ラベンダーの香りを忍ばせたスカートを揺らす姿は、女らしさそのものだった。仏頂面で服はしわくちゃなわたしとは正反対だ。「胸を張りなさい、あなた(シエリ)」母は父と結婚してからずっとニューヨークに住んでいるのに、いまだにフランス語を会話にちりばめる。「猫背はみっともない」
「こんなに締め付けられたんじゃ、猫背になりようがないわ」コルセットが鉄の帯となってウェストを締め付けていた。小枝みたいに細い体にコルセットは必要ないのに、それがないと泡立つスカートがきれいに流れないのだから仕方がない。ディオールのせいだ。ニュールックだかなんだか知らないけれど、ディオールと一緒に地獄で腐ってしまえ。母はその時どきの流行の服を見事に着こなす。体つきからしてわたしとはちがうのだ。背が高く、ほっそりしたウェスト、胸も腰も豊かでメリハリがきいており、ギャザーたっぷりのスカートの旅行着姿は非の打ち所がなかった。わたしの旅行着もヒラヒラとひだ飾りがついているけれど、まるで布地の海に溺れているみたいだ。ニュールックを着こなせない、わたしみたいなただの痩せっぽちにとって、1947年は地獄だ。それを言うなら、〈ヴォーグ〉より微積分が好きな娘にとって、アーティ・ショーよりエディット・ピアフが好きな娘にとって、左手薬指に指輪をしていないのに身ごもった娘にとって、一九四七年は地獄だった。
 わたし、シャーリー・セントクレアは、表向きは模範的な娘だ。母がわたしにコルセットをつけさせたもうひとつの理由がそれだった。まだ三カ月目に入ったところだが、母としては、娘のお腹が目立ってくる前になんとかしたかったのだ。ふしだらな娘をこの世に産み落とした母親と、後ろ指をさされるなんてまっぴらなのだろう。
 フロントデスクにちらっと目をやる。ブロンドの少女はまだそこにいて、わたしの頭は説得しようと必死だ。彼女はほかの誰かなのだと。ウェイトレスがほほえみを浮かべてちかづいてきたので、わたしはぎゅっと目を瞑って顔を背けた。「アフタヌーン・ティーをご用意いたしましょうか?」注文を受けて遠ざかるウェイトレスは、たしかに脚がガリガリだった。隣のテーブルの若者たちは、チップを置くかどうかでまだもめていた。「一人五シリングだから、二ペンスも置けば充分……」
 花柄の陶器がカチャカチャ鳴って、じきにアフタヌーン・ティーが運ばれてきた。母がほほえんで礼を言った。「ミルクをもっとくださいな。おいしそうだこと(セ・ボン)!」どこがおいしそうなのだろう。硬くて小さなスコーンに干からびたサンドイッチ、砂糖はなし。ヨーロッパ戦線勝利の日から二年が経つのに、イギリスではいまだに配給制度がつづき、立派なホテルといえども、メニューは一人五シリングの配給価格だ。ニューヨークとちがって、ここには戦争の名残がいまも残っている。軍服姿の兵士がロビーをうろつき、メイドを冷やかす。一時間前に遠洋汽船を降りたときにも、埠頭に並ぶ家々は砲撃の跡も生々しく、まるで歯抜けの美女のようだった。はじめて見るイギリスは、埠頭からホテルのラウンジに至るまですべてが灰色、戦争で疲弊した姿を晒していた。衝撃から立ち直れていないのは、わたしだけではない。
 霜降りグレーのジャケットのポケットに手を入れ、紙があることを確かめた。この一カ月、片時も離したことがない。毎晩、パジャマのポケットにしまって寝たぐらいだが、これをどうすればいいのか、わたしにはわかっていなかった。これを使って、わたしになにができる? わからない。でも、紙はお腹の赤ん坊よりも重く感じられた。もっとも、赤ん坊の存在を感じているわけではないし、ひとかけらの感情を抱くこともできない。つわりはなかった。妊婦の味方のえんどう豆のスープやピーナツバターが無性に食べたくなることもない。妊娠につきものの体の変化はまったくなかった。心が麻痺していた。赤ん坊がいるなんて信じられない。なぜなら、なにも変わらなかったから。わたしの人生以外のなにひとつ。
 隣のテーブルの若者たちが席を立ち、ペニー硬貨数枚をテーブルに放った。ウェイトレスがミルクを手に戻ってきた。痛そうに足を引き摺っている。三人の若者はこちらに背を向けたところだった。「あの、失礼ですけど」わたしは声をかけ、三人が振り返るのを待った。「一人五シリングとして――三人の合計は十五シリング、チップが五パーセントなら九ペンス。十パーセントなら一シリング六ペンス」
 三人はぎょっとした。こういう表情には慣れっこだ。女の子に計算ができるとは誰も思っていないのだ。まして暗算ができるとは思っていない。たとえこんなにやさしい計算でも。だが、わたしはアメリカ南部のベニントン大学で数学を専攻していた。数字は理にかなっている。人間とちがって、数字は規則正しく合理的で理解しやすい。どんな請求書でも、計算機より早く合計金額を出せる自信があった。「九ペンスにするか、一シリング六ペンスにするか」目を見開いたままの若者たちに、わたしはうんざりして言った。「紳士なら紳士らしく、一シリング六ペンスを置いていかれたら」
「シャーロット」母がたしなめるように言う。若者たちは苦虫を嚙み潰したような顔で去っていった。「なんてお行儀の悪いこと」
「どうして? ちゃんと“失礼ですけど”って言ったわ」
「みながみなチップを置いていくわけではないのよ。それに、あんなふうに出しゃばるものではありません。あつかましい娘は嫌われます」
 数学を専攻するような娘や、妊娠するような娘や、それに――でも、言葉を呑み込んだ。疲れていて口答えする元気もなかった。大西洋を渡るのに特別室で母と二人きり、六日も過ごしてきたのだ。海が荒れたため予定より長くかかったうえ、母との言い争いは白熱するにつれ言葉遣いが丁寧になってゆくのだから耐えられない。その根底にあるのは、わたしの屈辱に満ちた沈黙と、母の口には出さない激しい怒りだ。だから、わたしたちは下船できる機会に飛びついた。それがたったひと晩でも、閉ざされた特別室から出ないことには、相手に跳びかかって首を絞めかねなかった。
「あなたのママって、いっつも誰かに跳びかかろうとしてるよね」フランス人のいとこのローズが、何年も前に言ったことがあった。エディット・ピアフを聴いたといって、母がわたしたちを責めたときのことだ。小言は十分間におよんだ。子供が聴くような音楽ではありません。下品のきわみです!
もっともわたしときたら、フランスのジャズを聴くよりももっと下品なことをやってのけたのだ。わたしにできたのは、感情を締め出し、“それがなに”と言いたげに顎を突き出して小首を傾げ、まわりの人間たちを撥ねつけることだけだった。ウェイトレスに払うチップを出し渋った無作法な若者たちにはこれが効いたが、母には通用しない。いつでも好きなときに鎧をまとって、何事もなかったように振る舞える人だから。
 母のおしゃべりは留まるところを知らず、いまは船旅の文句を言っている。「――こんなことになるとわかっていたら、遅い便にしていたのに。そうすれば、イギリスに寄り道なんてせずに、カレーに直行できていたわ」
 わたしは無言のままだった。サウサンプトンに一泊し、あすフランスのカレーに向かう。そこから列車に乗り換えてスイスへ。ヴヴェーのクリニックに予約を入れてある。こっそり処置してもらうためだ。感謝しなくちゃね、シャーリー。そう自分に言い聞かせてきた。繰り返し何度も。母には、わたしに付き添う義理はなかったのだから。父の秘書か、金で雇われた無関心な付添い人と一緒に、スイスに送り出されても文句は言えない。毎年恒例、パーム・ビーチのバカンスを返上してまで、わたしに付き添う義理はないのに、母は付き添ってくれた。努力してくれているのだ。頭の中は怒りと屈辱のごった煮であっても、母に感謝することぐらいはできる。母がわたしに激怒し、わたしを面倒ばかり起こすふしだら娘だと思うのも無理はない。わたしみたいに自分から苦境に飛び込んでいくような娘は、そう思われても仕方がない。ふしだらのレッテルに慣れるしかないのだ。
 母のおしゃべりはつづく。空元気を出している。「あなたの予約のほうが片付いたら、パリに行こうと思っていたのよ」母が“予約”という言葉をわざと強調して言っているように思えてならない。「ちゃんとした服を買いしょうね、あなた(マ・プティ)。髪もなんとかしないと」
 母の本心はこうだ。秋には、シックなニュールックに身を固めて大学に戻るのよ、いいわね、誰もあなたのささいな問題に気付きはしない。「そんな方程式で帳尻が合うとは思えないんだけど、母さん(ママン)」
「いったいなにが言いたいの?」
 わたしはため息をついた。「大学二年生一人からささいな足手まといを引いて、六カ月の旅行で割って、パリ製のドレス十枚とあたらしい髪形を掛けたからって、名誉挽回という解答は出ない。そんな魔法みたいなこと、起きないのよ」
「人生は数学の問題とはちがうのよ、シャーロット」
 人生が数学の問題なら、わたしはもっとずっとうまくやっている。数式を解くように人間を理解できたらどんなにいいだろう。人間を共通項で分けて公分母で割れればどんなに楽だろう。数字は噓を吐(つ)かない。答えはかならずあるし、答えは正しいか間違っているか、ふたつにひとつだ。単純明快。でも、人生に単純なことなどひとつもないし、解こうとしても答えがないのだ。混沌としているだけ。母親とテーブルに向かい合うわたし、シャーリー・セントクレアがまさに混沌のきわみで、母親とのあいだに共通項を見出せないでいた。
 母は薄い紅茶を飲みながら、明るくほほえむ。わたしを憎みながら。「客室の準備ができたかどうか、訊いてくるわね。背中を丸めない! 旅行カバンを足元に引き寄せておきなさい。おばあさまの真珠が入っているのでしょ」
長い大理石のカウンターと、忙しく立ち働く従業員たちのほうへ、母は漂っていった。わたしは旅行カバンに手を伸ばす――使い古しの四角いカバン。わたしのためにあたらしいカバンを注文する時間はなかった。荷造りのときに、真珠がおさまる平べったい箱の下に、封を開けたゴロワーズの包みを滑り込ませた(スイスのクリニックに行くのに真珠を持っていけと言うのは、母ぐらいなものだ)。外で煙草を一服できるなら、カバンも真珠も喜んで置いていく。盗まれてもかまわない。いとこのローズとわたしがはじめて煙草を吸ったのは、彼女が十三歳、わたしが十一歳のときだった。兄の煙草を失敬し、大人の悪習を経験してみようと木に登った。「わたし、ベティ・デイヴィスみたいに見える?」ローズが鼻から煙を吐こうとしながら尋ねた。わたしは最初の一服をした直後で、笑いながら咳き込んだものだから転がり落ちそうになった。ぺろっと舌を出して、ローズは言った。
「お馬鹿なシャーリー!」わたしのことを、シャーロットではなくシャーリーと呼ぶのはローズだけだった。やわらかなフランス語の軽快な調子で、シャル=リィイとふたつの音節に区切って発音した。
 いま、ホテルのラウンジの向こうからわたしをじっと見つめているのは、もちろんローズだ。それでいて、ローズではなかった。積み上げられた荷物の横で、うなだれるイギリスの少女。だが、わたしの頭は頑固に言いつづける。おまえが見ているのはいとこだ、と。十三歳でブロンドで、すてきに美しいいとこ。二人で過ごした最後の夏、木の枝に座ってはじめての煙草を吸ったときの、彼女の年だ。
 いまでは彼女も大人になった。わたしが十九だから、二十一……。
 もしまだ生きているなら。
「ローズ」目を逸らすべきだとわかっていながらできない。「ああ、ローズ」
 想像の中で、彼女が茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、おもての通りに顎をしゃくる。さあ、行くのよ。
「行くって、どこへ?」わたしは声に出して言った。でも、答えはわかっていた。ポケットに手を突っ込んで、この一カ月持ち歩いた紙に触れた。最初のうちはピンと張っていたけれど、時間とともに擦れてやわらかくなった。紙には住所が記されている。そこに行きさえすれば――。
 馬鹿なこと考えないの。鋭い叱責の声が頭の中に響く。紙で切った傷のようにヒリヒリする。階段をのぼってホテルの客室に行く以外、どこにも行き場のないことはわかっているでしょ。糊のきいたシーツが待つ客室、母の冷ややかな怒りから逃れられる客室、心穏やかに煙草を吸えるバルコニーがある客室に。あすはべつの船に乗り換え、その先に待っているのが、両親が遠まわしに呼ぶところの“予約”だ。わたしの“ささいな問題”を解決してくれて、すべてを丸くおさめてくれる“予約”。だが、うまくいくはずがない。すべてが丸くおさまるはずがない。いまならできる。イギリスのこの場所からはじまる道へ、一歩を踏み出すのだ。
 最初からそのつもりだったんでしょ。ローズがささやく。自分でもわかっているくせに。そう、わかっていた。この数週間、鈍った惨めさに浸り込んだ受身な状態でいたあいだも、フランスに直行する遅い便ではなく、イギリスを経由する船にしたいとしつこく言いつづけていたのだ。どうしてそこまで固執するのかを考えないようにしながら、そう主張しつづけた。なぜなら、イギリスの住所が書かれた紙がポケットに入っているから。行く手を塞ぐ海がなくなったいま、わたしに不足しているのはそこへ行く勇気だけだった。
 見ず知らずのイギリスの少女、ローズではない少女は、両手いっぱいに荷物を持つベルボーイのあとから階段をのぼってゆく。いまは空っぽになったローズがいた場所に、わたしは目をやった。ポケットの中の紙に触れた。少し尖った切れぎれの感情が、麻痺した感覚をチクチクと刺した。それは恐怖? 希望? 決意?
 走り書きの住所ひとつと小さな決意ひとつを足して、十乗しなさい。さあ、計算するのよ、シャーリー。
 解きなさい。
 解Xを求めるの。
 いましかないんだから。
 わたしは深く息を吸い込んだ。ポケットから紙を取り出すと、一緒にくしゃくしゃの一ポンド紙幣が出てきた。若者たちがわずかなチップを置いて去った隣のテーブルに、わたしは一ポンド紙幣を叩きつけ、旅行カバンとフランスの煙草を手にラウンジをあとにした。広いドアを抜けると、ドアマンに尋ねた。「すみません、駅までの道順を教えていただけませんか」

 けっして賢明な行動とはいえない。不案内な都会に娘一人。立てつづけに不運に見舞われ――例の小さな問題、フランス語で泣き喚く母、冷たい沈黙をつづける父――ぼうっとやり過ごした数週間、わたしは導かれるままどこへでもついていった。抗うことなく崖っぷちから身を躍らせても不思議はなかった。そうして落ちる途中でようやく、なぜ落ちているのだろうと思うのだ。人生は穴と化し、わたしはくるくると回転しながら落ちていった。だが、いま、わたしは手がかりを掴んだ。
 たとえそれが幻影にすぎないとしても。何カ月ものあいだ、通りすがりのブロンドの少女の顔に、ローズの顔を重ねてきた。気がつくとそうしていた。最初はぎょっとした。ローズの幽霊を見たと思ったからではない。自分が正気を失ったと思ったからだ。きっと正気を失っていたのだ。でも、幽霊を見たのではない。両親がなんと言おうとも、わたしはローズが死んだと思い切れていなかった。
 わたしは希望にしがみついて、実用向きではないコルク底のハイヒールで駅に急いだ。“あなたみたいな背の低い娘にハイヒールは必需品なのよ、あなた(マ・シェール)、さもないといつまでたっても子供扱いされますからね”ドックに向かう荒っぽい港湾労働者や、洒落た身なりの商店の売り子や、あてもなくたむろする兵士たちが歩道に溢れていた。そんな人ごみを掻き分けて先を急ぐと息があがったが、希望は萎んでいなかった。大きく膨らんで胸が痛くなり、涙が込み上げてきた。
 引き返しなさい。良心がうるさく言う。いまならまだ戻れる。ホテルの部屋へ、なんでも決めたがる母親のもとへ、外界を遮断する真綿の霧の中へ。だが、わたしは歩きつづけた。汽笛が聞こえ、石炭殻のにおいがして、渦巻く蒸気が見えた。サウサンプトン・ターミナル。乗客が固まって降りてくる。フェドーラ帽の男たち、顔を赤くしてぐずる子供たち、小糠雨からカールした髪を守ろうと古新聞をかざす女たち。雨はいつ降りだしたの? 母が選んでくれたグリーンの帽子のつばの下で、黒い髪がぺたんこになっている。この帽子のせいで、わたしはまるでいたずら好きの小妖精だ。帽子のつばを押し上げ、駅舎へと走った。
 車掌が叫んでいる。ロンドン行きの列車は、あと十分で発車します。
わたしはもう一度、握った紙を見た。ハンプソン・ストリート十番地、ピムリコー、ロンドン。イヴリン・ガードナー。
 どこの誰だか知らないけれど。
 ドルフィン・ホテルにいる母は、いまごろわたしを探して大騒ぎしているだろう。偉そうにフランス語でまくしたてて、ホテルの従業員を辟易させているにちがいない。わたしの知ったことではない。ロンドンのピムリコー、ハンプソン・ストリート十番地までわずか百キロ、しかも、汽車がお誂え向きに停まっている。
「発車まで五分!」車掌が大声を張り上げる。乗客たちが荷物を持ちあげ、急いで乗り込む。
 いましかないんだから。
 切符を買って汽車に乗り込んだ。煙に紛れて、わたしは姿を消した。

 夕暮れがちかづくにつれ、車内は冷え込んできた。わたしは着古した黒いレインコートを着込んだ。おなじコンパートメントには、洟をすする三人の孫を連れた白髪の老婆が乗っていた。指輪も手袋もしていないわたしを、老婆が胡散臭そうにちらちら見る。ロンドンまで一人旅なんていったいどんな娘なのかしら、と思っているのだろう。戦争が女の一人旅をあたりまえにしたはずなのに、わたしのことは認めたくないようだ。
「妊娠してるんです」老婆が三度目の舌打ちをしたので、わたしも言わずにいられなかった。「わたしと一緒が嫌なら、席を換わったらどうですか?」老婆は体を強張らせ、つぎの駅で降りた。「おばあちゃん、なんで? 降りるのはもっと先の――」と半べその孫たちを引き摺っていった。わたしは“それがなに”の角度に顎を突き出し、老婆の非難がましい一瞥を受け止めた。ドアが閉まって一人になると座席にぐったりもたれかかった。紅潮した頬を両手で挟む。浮かれ気分と混乱、希望と疚しさ。感情の嵐に揉もみくちゃになる。無感覚の殻に戻れたらいいのに。わたしはいったいなにをしているの?
 住所と名前を書いた紙一枚握り締めて、イギリスで逃亡を企てているのよ。意地悪な心の声が言う。自分になにができると思っているの? 役立たずが、人助けなんて聞いて呆れる。
 わたしはたじろいだ。役立たずではない。
 いいえ、役立たずよ。前に人助けしようとして、その結果どうなった?
「だから、名誉挽回したいのよ」わたしは空っぽのコンパートメントに向かって言った。役立たずだろうとなかろうと、わたしはここにいる。
 疲労と空腹を抱えロンドンで汽車を降りたときには、あたりは暗くなっていた。とぼとぼと通りに出ると、大都会は黒い霧にすっぽりと覆われたひとつの大きな塊だった。遠くにぼんやりと、ウェストミンスター宮殿の大きな時計塔の輪郭が見えた。雨水を跳ね散らして車が通り過ぎる道端にたたずみ、数年前、イギリス空軍のスピットファイア戦闘機やドイツ空軍のメッサーシュミット戦闘機が、この霧を切り裂いて飛び交っていたころのロンドンに思いを馳せた。頭を振って想像を締め出す。歩こうにも、ハンプソン・ストリート十番地がどこにあるのか見当もつかず、財布には硬貨が数枚しか残っていなかった。タクシーを停めようと手をあげながら、これで足りますようにと祈る。タクシー代を払うのに、祖母のネックレスから真珠をひと粒抜き取るなんて、考えるのも嫌だった。ウェイトレスへのチップに一ポンドをそっくり置いてこなければ……でも、後悔はしていない。
 タクシーの運転手は、ここがピムリコーだと言って、テラスハウスが並ぶ通りでわたしを降ろした。雨は本降りになっていた。幻影を探して見回したけれど、ブロンドの髪がちらっとでも見えることはなかった。暗い通りと、降りしきる雨、十番地のペンキの剥げかけたドアに通じる磨り減った階段があるだけだ。旅行カバンを持ち上げ、階段をのぼり、勇気が尽きる前にノッカーを叩いた。
 応答はなかった。もう一度叩く。雨脚が強くなり、絶望が波のように押し寄せる。手が痛くなるまで叩きつづけると、ドアの横のカーテンがわずかに動くのが見えた。
「そこにいるんでしょ!」わたしはドアノブをひねった。雨が目に入ってなにも見えない。「入れてください!」
 驚いたことにドアノブが回ってドアが内に開き、わたしはつんのめった。実用的でない靴が脱げて、暗い廊下の床に膝をしたたか打ち、ストッキングが破れた。うずくまるわたしの背後でドアがバタンと閉まる。カチリと拳銃の撃鉄を起こす音がした。
 低くしゃがれた声が聞こえた。不明瞭で物恐ろしかった。「あんた誰なの。あたしの家でいったいなにしようっていうの?」
 カーテン越しに射し込む淡い光が、暗い廊下をぼんやりと照らしていた。目に入るのは、痩せた長身の女性、ほつれた髪、煙草の先の真っ赤な火。わたしに向けられた拳銃の銃身が放つ鈍い光。
 ショックと拳銃と投げかけられた言葉に、竦み上がってもいいはずだった。ところが、無感覚の霧は怒りによってきれいに吹き払われ、わたしは立ち上がろうと脚を引き寄せた。破れたストッキングが床のささくれに引っ掛かる。「イヴリン・ガードナーを探しています」
「あんたが誰を探していようが、こっちの知ったこっちゃない。どうしてヤンキーなまりのお嬢ちゃんに家に押し入られなきゃならないのか、わけを説明しないかぎり撃つからね。あたしは老いぼれの酔っ払いだけれど、こいつはルガーの九ミリP08で、状態はすこぶるいい。この距離なら、酔っ払っていようが素面だろうが、あんたの頭を吹き飛ばすことができる」
「わたしはシャーリー・セントクレア」目にかかる濡れた髪を掻きあげる。「いとこのローズ・フルニエが、戦時中にフランスで行方知れずになりました。あなたなら、彼女を探す手がかりをご存じかもしれないんです」
 壁の電気が不意についた。目障りな明るさの光に、わたしは目をしばたたいた。目の前にそそり立つのは、色褪あせたプリントのドレスを着た痩せた長身の女性で、白髪交じりのほつれ毛が、長年の苦労を刻んだ顔を縁取っている。五十歳にも七十歳にも見える。片手にルガーを握り、もう一方の手に火のついた煙草。彼女がその手を上げて長々と一服するあいだ、わたしの額を狙う銃口はピクリとも動かなかった。彼女の手を見ているうち、胆汁が喉まで込み上げた。その両手、いったいどうしたの?
「あたしがイヴ・ガードナー」彼女がようやく言った。「それと、あんたのそのいとことやらのことは、なにも知らない」
「ご存じのはずです」わたしは必死だった。「きっとご存じです――どうか話を聞いてください」
「それはあんたの都合だろ、ヤンキーのお嬢ちゃん」緑がかった灰色の目をすがめてわたしを眺める様は、傲慢な猛禽そのものだ。「暗くなってから人の家に押し入ってきて、挙句が、あんたのその、ゆ、ゆくかた知れずのいとことやらについて、あたしがなにか知ってるはずだと言うのかい? そんなこと、万にひとつもないね」
「だって」拳銃を突き付けられ嘲られてもなお、ローズを見つけ出すことが、崩れ落ちたわたしの人生で最優先事項となったわけを、わたしは説明できないでいた。自分でも不思議なほど一途でがむしゃらな思いを、そんな思いに駆られてここまで来てしまったことを、どう説明すればいいのだろう。口をついて出たのはひとつの事実だった。「来ずにいられなかった……」
「あら、そう」イヴ・ガードナーは拳銃をさげた。「こ、こういうときは、お茶でもいかが、と言うべきなんだろうね」
「はい、いただけるなら――」
「あいにくうちにはないね」彼女は踵を返し、暗い廊下を大股で奥へ進んでいった。素足がまるで鷲の鉤爪のようだ。左右に揺れる体の脇でルガーも揺れている。指は引き金にかけられたままだ。この人、イカレている。イカレた老女。
 それに両手――すべての関節がグロテスクに歪んで、醜い瘤だらけの塊。手というよりロブスターのハサミだ。
「もたもたしない」彼女が振り返らずに言い、わたしは小走りになった。彼女はドアを乱暴に開けて明かりをつけた。底冷えする居間だった。散らかった部屋。暖炉に火は熾きておらず、カーテンを閉め切っているので、街燈の明かりがまったく射し込まず、古新聞や汚れたままのマグカップが散乱していた。
「ミセス・ガードナー――」
「ミス」散らかった部屋をすっかり見渡せる、みすぼらしい肘掛け椅子にドサッと体を預けると、彼女はかたわらのテーブルに拳銃を放った。わたしは思わず身を竦めたが、拳銃は暴発しなかった。「あたしのことは、イヴと呼べばいい。人の家に押し入るぐらい図々しいんだから。そういうの、あたしは嫌いだけどね。名前は?」
「わたし、べつに押し入ってなんか――」
「いや、押し入った。あんたには欲しいものがあって、なにがなんでも手に入れようとしている。なにが欲しいの?」
 わたしは濡れたレインコートをなんとか脱ぎ、長椅子に腰をおろした。にわかに不安になった。どこから話せばいいのだろう。ここに来ることだけで頭がいっぱいだったから、どこからどう話すかなんて考えていなかった。二人の少女掛ける十一の夏、割ることのひとつの海とひとつの戦争……。
「さ、さっさと話したらどう」イヴには軽い吃音があるようだが、酔っているせいなのか、ほかの障害があるのか判断がつかなかった。彼女は、拳銃の横に置かれたクリスタルのデカンターに手を伸ばし、指をぎこちなく動かして栓を開けた。ウィスキーの香りが立つ。「あたしが素面でいるのはあとわずかだから、時間を無駄にしなさんな」
 わたしはため息をついた。この老女はイカレているうえにアル中だ。イヴリン・ガードナーという名前からわたしが連想したのは、イボタノキの生垣の屋敷と低い位置でまとめたシニョンだった。ウィスキーのデカンターと弾が装填された拳銃ではなかった。「煙草を吸ってもいいですか?」
 彼女が痩せた肩をすくめたので、わたしはゴロワーズを取り出した。彼女はグラスを探しているようだ。手が届く場所にないとわかったのか、花柄のティーカップに琥珀色の液体をドボドボ注いだ。わたしは魅了されつつぞっとし、煙草に火をつけながら思った。おやおや、あなたっていったい何者?
「そんなに見つめて、失礼な」彼女もあからさまに見つめ返してきた。「なんとまあ、ひらひらの。あんたが着てるそれ――このごろじゃ、女はそんなものを着てるの?」
「外出されないんですか?」つい口が滑った。
「あんまりね」
「ニュールックって呼ばれてるんです。パリの最新ファッション」
「どう見たって、きゅ、窮屈そうだわね」
「たしかに」わたしは煙草を一服した。「まずはじめに自己紹介します。わたしはシャーリー、シャーロット・セントクレアです。ニューヨークから着いたばかりで――」母はいまごろなにを考えているのだろう? 怒り心頭、半狂乱でわたしの頭の皮を剥ぐ算段をしているかもしれない。そのことは、ひとまず置いておこう。「父はアメリカ人で、母はフランス人です。戦争がはじまるまで、夏はフランスで過ごしていました。フランス人のいとこたちと。彼らはパリに住んでいて、ルーアン郊外に別荘を持ってました」
「あんたの子供時代って、ドガの風景画みたいだ」イヴはウィスキーをぐいっと呷った。
「話が、も、もっとおもしろくならなけりゃ、飲むピッチをあげるからね」
たしかにドガの風景画みたいだった。目を閉じると、いくつもの夏が混ざり合って、ぼんやりとしたひとつの長い季節になる。曲がりくねった細い路地、物が詰め込まれた屋根裏と擦り切れたソファーのあるだだっ広い別荘、床に散らかる古い日付の〈ル・フィガロ〉、かすむ緑の木々、木の間越しに射し込む陽光に浮かび上がる塵。
「いとこのローズ・フルニエは――」目頭が熱くなる。「いとこというより姉みたいで、彼女のほうが二歳年上でしたけど、わたしを子供扱いしませんでした。なんでも分け合って、なんでも話し合える間柄でした」
 二人の少女はサマードレスが草の汁で汚れるのもかまわず、男兄弟たちに張り合って鬼ごっこでも木登りでもなんでもやった。ローズの胸が膨らみはじめたころ、わたしはあいかわらず痩せっぽちで膝を擦り剥いていたけれど、ジャズのレコードに合わせて歌ったり、エロール・フリンに心ときめかせてクスクス笑ったりしていた。つぎからつぎへと奇想天外な遊びを思いつくのは、もっぱら勇敢なローズで、わたしは忠実な子分だった。いたずらがばれて叱られると、彼女は母ライオンさながらにわたしをかばってくれた。彼女の声が聞こえる。おなじ部屋にいるようにはっきりと。「シャーリー、あたしの部屋に隠れてなさい。おばさまに見つかる前に、服の鉤裂きを縫っといてあげる。あんたを無理に岩に登らせたあたしが悪いんだから――」
「泣かないでよ」イヴ・ガードナーが言う。「メソメソする女は我慢がならない」
「わたしもです」この数週間、ひと筋の涙も流さなかったのは感情が麻痺していたからだ。いまは目がチクチクしている。思い切り目をしばたたく。「ローズと過ごしたのは、三九年の夏が最後になりました。誰も彼もがドイツの心配をしていました――いえ、わたしたちはべつ。ローズは十三歳、わたしは十一歳。考えることといったら、どうすればこっそり抜け出して映画を観に行けるか。そっちのほうが、ドイツで起きていることよりよっぽど大事だった。合衆国に戻ってすぐに、ドイツのポーランド侵攻がはじまりました。両親はローズ一家をアメリカに呼び寄せようとしましたが、一家がぐずぐず迷って――」ローズの母親が、体の弱い自分には長旅は無理だ、と言い張ったせいだ。「旅の手配をする前に、フランスが降伏してしまいました」
イヴはまたウィスキーを口に運んだ。半眼に閉じた目は瞬きしない。わたしは気持ちを落ち着けようともう一服した。
「手紙は届きました。ローズの父親は力のある実業家で――コネがあり、家族の動向を外の世界に伝えることができたんです。ローズは元気そうでした。再会したらなにして遊ぼうとか、そんなことを書いてよこしました。でも、ニュースを見ればわかります。あっちでなにが起きているか、みんなが知っていました。パリには鉤十字旗がひるがえり、人々はトラックで連れ去られ、それきりになった。ほんとうに大丈夫なのかと、彼女に手紙で尋ねると、返事はいつもおなじ、元気だから心配しないで、とそれだけ、でも……」43年の春に、写真を交換した。長いこと会えずにいたから――十七歳になったローズは、カメラの前でピンナップガールみたいにポーズを決めて、まばゆいばかりの美しさだった。いまもその写真をお財布に入れている。擦り切れて縁がヘナヘナになったけれど。
「ローズの最後の手紙には、親に内緒で会っている男の子のことが書いてありました。心が躍るものよって、書いていた」吸う息が喉でつかえた。「それが43年の春のことです。それ以来、ローズからなにも言ってこなくなって。彼女の家族とも連絡が途絶えました」
 わたしをじっと見つめるイヴのしわ深い顔は、まったくの無表情だった。わたしを憐れんでいるのか、蔑んでいるのか、それとも気にも留めていないのか、その顔から読み取ることはできなかった。
 わたしは煙草を根元まで吸っていた。最後にもう一服し、吸殻が山となったカップソーサーに押しつけて火を消した。「心配することはないのかもしれません。ローズから音沙汰がなくたって、戦時中の郵便事情を考えれば。戦争が終わるのを待つしかありません。終わりさえすれば、また手紙のやり取りができると思っていました。でも、戦争が終わっても、手紙は来なかった」
 また沈黙。すべてを語ることは、思っていたよりも難しかった。「フランスに照会しました。大変な時間と手間がかかったけれど、返事を得ることができました。母方の伯父は44年に亡くなっていました。伯母のために闇市で薬を手に入れようとして銃殺されたそうです。ローズの二人の兄も、43年の暮れに爆撃で亡くなった。伯母は健在です――母はアメリカに呼び寄せようとしたけれど、伯母が来たがらなかった。ルーアン郊外の別荘に引きこもったきりです。それから、ローズは――」
 わたしは唾を呑み込んだ。おぼろにかすむ木立の向こうを、ローズがのんびり散歩している。フランス語で悪態をつき、まとまりのつかない髪に引っかかる枝を押しのけて。あのプロヴァンスのカフェにいたローズ、わたしの人生最良の日……。
「ローズは姿を消しました。43年に家族のもとを離れたきり。どうして家を出たのかわからずじまいです。父が調べてくれましたが、ローズの足取りは四四年の春で途絶えたきりです。なにもわからない」
「あの戦争ではそういうことが多かった」イヴが言った。もっぱらわたしばかり話していたので、イヴのだみ声を聞いてぎょっとした。「たくさんの人が行方不明になった。まさか、彼女がまだ生きているとは思っちゃいないんだろ? ひ、ひどい戦争が終わって二年も経つ」
 わたしは歯嚙みした。両親はとっくの昔に、ローズは死んだにちがいない、と結論付けていた。戦争のどさくさで命を落とした。両親の言うことにも一理ある、それでも――。
「確実なことはわからないわ」
 イヴが呆れた顔をした。「彼女が死ねば、む、虫の知らせでわかったはず、なんて言わないでほしいね」
「信じてくれなくていいです。協力してくだされば」
「どうして? いったいこ、このあたしとどう関係があるって言うの?」
「父が最後に照会したのがロンドンの役所で、ローズがフランスからイギリスに移住したかどうか問い合わせたんです」大きく息をつく。「あなたはそこで働いていらした」
「45年と46年に」イヴは花柄のティーカップにまたウィスキーを注いだ。「去年のクリスマスに首にされた」
「どうして?」
「朝っぱらから酔ってたせいだろ。上司に向かって、性悪のクソばばあって言ったからかもしれない」
 わたしはたじろいだ。イヴ・ガードナーみたいに口の悪い人に出会ったことがなかった。まして女性がこんな口をきくなんて。
「つまり――」彼女はウィスキーの入ったティーカップをグラスのように回した。「あんたのいとこのファイルが、あたしのとこに回ってきたと思ってるんだね? お、憶えてないね。いま言ったとおり、朝っぱらから酔っ払ってることが多かったから」
 女の人がこんなふうに飲むのを見るのもはじめてだった。母が飲むのはシェリーで、それも小さなグラス二杯どまりだ。イヴはストレートのウィスキーを水みたいにがぶ飲みした挙句、呂律が回らなくなっていた。軽い吃音はお酒のせいなのかもしれない。
「ローズについての報告書の写しを手に入れました」わたしは必死に食い下がった。ここで彼女を失うわけにはいかない。興味を失われるにしても、ウィスキーで正体をなくされるにしても。「あなたの署名がありました。それで名前を知ったんです。アメリカにいるあなたの姪と偽って電話をして、ここの住所がわかりました。手紙を出そうとしましたが、そのころ――」ちょうどそのころ、“小さな問題”がわたしのお腹に根をおろした。「ローズのことでほかにわかったことがあるんじゃありませんか? ほんとうになにも憶えてないんですか? もしかしたら――」
「いいかい、お嬢ちゃん。協力なんてできないね」
「――なんでもいいんです! 彼女は43年にはパリを出て、つぎの春にリモージュに行きました。伯母に尋ねて、そこまでは聞き出したけど――」
「言っただろ、協力なんてできない」
「してください!」わたしは立ち上がっていたが、自分がいつ立ち上がったのか憶えていなかった。絶望が体の中心で形作られてゆく。それは、実体のない影みたいな赤ん坊よりもはるかに中身の詰まった硬い塊だ。「協力してくれなきゃ駄目! その確約がとれなきゃここを動かないから!」大人に向かって叫んだことはなかったが、いま、わたしはたしかに叫んでいた。「ローズ・フルニエ、彼女はリモージュにいて、十七歳で――」
 イヴも立ち上がっていた。わたしよりずっと背が高い。口にするのもおぞましいその指でわたしの胸を突きながら、恐ろしいほど静かな声で言った。「あたしのうちで、あたしに向かってがなりたてるんじゃない」
「――彼女は今年二十一歳で、ブロンドの美人で、愉快で――」
「彼女がジャンヌ・ダルクだろうが知ったこっちゃない。あんたのことだってそうだ!」
「――彼女はムッシュー・ルネが経営する〈ル・レテ〉というレストランで働いていて、そのあとのことは誰もわからず――」
 そのとき、イヴになにかが起きた。表情はなにも動いてはいないが、でも、なにかが起きた。深い湖の底でなにかが動いて、それが微妙なうねりとなって水面に届いた、そんな感じだ。小波というほどではない――でも、底のほうでなにかが動いたことがわかる。わたしを見る彼女の目がギラリと光った。
「どうかしましたか?」何キロも走ったあとのように動悸が激しくなり、カッと頬が火照り、肋骨がコルセットの鉄の帯を押し開く。
「〈ル・レテ〉」彼女の声は小さかった。「その名前なら知っている。レストランの経営者は、だ、誰って言った?」
 震える手で旅行カバンを開き、着替えを押しやって裏地のポケットをさぐった。畳んだ紙が二枚、それを差し出した。
 イヴは一枚目の紙に目をやった。短い報告書で、最後に彼女の名前が記されている。「レストランの名前はどこにも書いてないじゃない」
「あとになってわかったから――二枚目を見てください、わたしのメモ。あなたと話ができたらと思って、役所に電話したんだけど、もう辞めたあとでした。事務の人に頼んで、情報元の資料がないかファイルを調べてもらいました。そこに〈ル・レテ〉の名前と、経営者の名前が書いてあったんです。苗字はなくて、ムッシュー・ルネとだけ。まるで要領を得ない情報だから、報告書に記載されなかったんだわ。でも、報告書に署名したのはあなたなんだから、情報元に目を通したはずでしょ」
「通してない。もし目にしていたら、署名しなかった」イヴは二枚目に目を通した。
「〈ル・レテ〉……その名前なら知ってる」
 希望が胸を焼く。怒りよりもずっと激しく。「どうしてご存じなんですか?」
 イヴは体をひねり、ウィスキーのデカンタに手を伸ばした。ティーカップに注ぎ足すと、ひと息に飲み干した。また注ぐと、そこに突っ立ったまま虚空を見つめていた。
「あたしの家から出ていって」
「でも――」
「ほかにい、い、行くあてが、な、ないんなら、ここで寝ればいい。ただし、あすの朝までには出ていったほうが身のためだよ、ヤンキーのお嬢ちゃん」
「でも――でも、あなたはなにか知ってる」彼女は銃を取り上げ、出ていこうとした。その骨ばった腕を、わたしは掴んだ。「お願い――」
 不自由な手の動きの速いこと。とても追いつかなかった。銃を向けられるのは、その晩、それで二度目だった。後ずさるわたしに、彼女は半歩ちかづくと銃口をわたしの眉間に押し当てた。丸く冷たいものに触れて、肌がジンジンする。
「くたばり損ない」わたしはつぶやいた。
「そうさ」彼女がだみ声で言う。「だから、あたしが起きたとき、まだぐずぐずしてたら撃つよ」
 彼女はおぼつかない足取りで居間を出ていき、床板が剥き出しの廊下を去っていった。


2 イヴ

 
 1915年5月

 ロンドン彼女の唇が一文字になる。しばらくのあいだ、彼女はただ虚空を見つめ、両脇に垂れた例の恐ろしい指は丸くなっては伸び、丸くなっては伸びを繰り返した。ようやくわたしに向けられた彼女の目は、擦り板ガラスのように中を覗き込めなかった。「もしかしたら、あんたを助けてあげられるかもしれない」

 チャンスはツイードを着てイヴ・ガードナーの人生に現れた。その朝は遅刻したが、午前九時十分過ぎに法律事務所に滑り込んだことに、雇い主は気付かなかった。サー・フランシス・ガルバラは競馬記事以外に興味がない。「これがきみのファイルだ、マイ・ディア」入ってきたイヴに、サー・フランシスが言った。
 イヴは白魚のような手でファイルを受け取る。長身で栗色の髪、やわらかな肌、人を迷わす雌鹿のような瞳。「はい、サ、サ、サー」“S”の音はとくに出にくい。たった二度つっかえただけだから、上出来だ。
「それから、こちらのキャメロン大尉が、きみにフランス語でタイプしてほしい手紙を持ってこられた。彼女はカエル野郎(イギリス人がフランス人を揶揄する呼び名)のがさつな言葉をパチパチとすごい速さでタイプしますからね」サー・フランシスはつぎに、デスクの向かいに座る痩せぎすの兵士に向かって言った。「うちの宝ですよ、ミス・ガードナーはね。半分フランス人だから! わたし自身はカエル言葉はさっぱり話せません」
「わたしもです」大尉はパイプをいじくりながらほほえんだ。「まるで頭に入ってこない。おたくのお嬢さんをありがたくお借りしますよ、フランシス」
「どうぞ、どうぞ!」
 誰もイヴの都合は尋ねもしない。尋ねる必要がどこにある? ファイルガールはいわばオフィス家具の一部だ。鉢植えのシダとちがって動き回るが、言わざる、聞かざる、はおなじだ。
 この仕事に就けたのは運がよかったからだ、とイヴは自分に言い聞かせた。戦争がなかったら、ここのような法廷弁護士事務所の仕事は、もっとよい推薦状を持ったポマード頭の若者に持っていかれただろう。運がよかった。ほんとうに運がよかった。イヴが任されているのは、封筒の宛名書きや書類のファイルといったかんたんな仕事で、たまに手紙をフランス語に訳すこともあり、おかげで不自由なく一人暮らしが送れている。戦時下の砂糖とクリームと新鮮な果物不足にうんざりしたとしても、平和と引き換えなら我慢できる。ドイツに占領されたフランス北部で、飢えに苦しんでいたかもしれないのだから。ツェッペリン飛行船が飛んできやしないかと空を見上げながらだから、ロンドンの街を歩き回るのは恐ろしい――でも、イヴが生まれ育ったロレーヌ地方は、新聞によるといまや泥と死骸の海だ。イヴは貪るように新聞を読んだ。無事にこっちに移れて運がよかった。
 とっても運がよかった。
 イヴは黙って手紙を受け取った。キャメロン大尉はこのところ事務所によく顔を出していた。カーキ色の軍服ではなく、しわくちゃのツイードジャケットを着ているが、すっと伸びた背筋と歩き方が、階級章よりも雄弁に彼の位を表していた。年のころは三十五歳あたり、かすかにスコットランド訛りがあるが、それ以外はまったくのイギリス人。ひょろっとした体つきといい、白髪交じりの髪といい、よれよれの服といい、コナン・ドイルの推理小説に出てきそうな典型的な英国紳士だ。イヴは訊いてみたかった。「煙草はパイプにかぎるんでしょ? ツイードを着なきゃならない決まりでもあるの? 決まりごとばかりで、嫌になりませんか?」
 大尉は椅子の背にもたれ、ドアへ向かう彼女に会釈した。「手紙ができあがるのを待っていますよ、ミス・ガードナー」
「はい、サ、サー」イヴはもごもご言い、後ずさってドアを出た。
「遅刻よ」ファイルルームでは、ミス・グレグソンが鼻をフンと鳴らして彼女を迎えた。ファイルガールの中で最年長のミス・グレグソンは、やたらとボス風を吹かす。イヴは目を見開き、なんのことかわかりませんという表情で応えた。自分の見てくれが嫌でたまらなかった――鏡に映るすべすべの肌の女は、未成熟なかわいらしさ以外にこれといった特徴もなく、若いという以外は記憶に残らず、十六か十七にしか見えない――が、困ったときにはこの外見が大いに役立った。目を大きく見開き、戸惑ったふうにまつげをパタパタさせれば、たいてい目こぼししてもらえた。ミス・グレグソンは苛立だちの小さなため息をつくと、せかせかと歩み去った。あとで彼女がほかのファイルガールにささやくのを、イヴは聞き逃さなかった。「あの半分フランス人の子だけど、ほんとうにおつむが弱いのか疑いたくなることがあるわ」
「あら」――小声で肩をすくめ――「あのしゃべり方なのよ、わかるでしょ?」
 イヴは両手を組んで、ぎゅっと二度ばかり力を入れた。そうでないと拳を握ってしまうからだ。それからキャメロン大尉の手紙に意識を向け、完璧なフランス語に訳した。彼女が雇われた理由がそれだった。完璧なフランス語と完璧な英語を操れること。両方の国の血を引いていても、彼女はどちらにも居場所がない。
 あとから思い出すと、その日の退屈は波乱含みだったような気がする。タイプし、ファイルし、昼には弁当のサンドイッチを食べた。夕暮れどき、通りをとぼとぼ歩いていると、通りすがりのタクシーが撥ねかけた泥でスカートが汚れた。ピムリコーの下宿屋は〈ライフブイ〉の石鹸と揚げたレバーの饐えたにおいがした。下宿人の一人に律儀にほほえみかける。中尉と婚約したばかりの若い看護婦で、夕食のテーブルで小さなダイヤをこれみよがしに光らせた。「病院で働いたらいいのに、イヴ。未来の夫が見つかるわよ。ファイルルームなんかでくすぶってちゃ駄目!」
「あたし、べ、べつに夫を見つけたいなんて思ってないわ」看護婦も下宿の女主人も、ほかの二人の下宿人も、揃ってきょとんとした。なんで驚くの? イヴは思った。夫なんていらないし、子供も欲しくない。居間に敷くラグも結婚指輪もいらない。あたしが欲しいのは――。
「あなた、もしかして婦人参政権論者(サフラジェット)じゃないわよね?」女主人がスプーンを持つ手を止めて言った。
「まさか」投票用紙にチェックマークを付けたいとは思わなかった。いまは戦時中だ。イヴは戦いたかった。吃音のイヴ・ガードナーがお国のために戦えることを証明したかった。昔から彼女を頭ごなしに馬鹿だと決め付ける、ふつうに話せる幾千の人々と変わらず戦えることを。だが、サフラジェットの活動家と一緒に窓に煉瓦をいくつ投げようと、前線に行くことはできない。救急看護奉仕隊や救急車の運転手といった支援任務に就きたくても、吃音を理由に撥ねられてしまう。ごちそうさま、と皿を押し、イヴは二階の自室に引き揚げた。がたがたの書き物机と狭いベッドだけの、きれいに片付いた部屋だ。
 髪をおろしていると、ドア口からミャオと泣き声がした。イヴはほほえんで、女主人の猫を入れてやる。「レ、レバーを残しておいてあげたよ」ナプキンに包んで持ってきた夕食の残りを与えると、猫はゴロゴロいって背中を丸めた。ネズミ退治のために飼われている猫で、台所の残飯と自分で狩った獲物で命をつないでいるが、イヴは騙しやすいとみて、彼女の夕食の残りをせしめ、肉をつけていた。「猫になりたい」イヴは虎猫を抱き上げた。「猫はしゃ、しゃ――しゃべる必要ないものね。童話の世界以外では。それより男になりたいと願うべきかしら」男に生まれていたら、吃音を揶揄する相手を殴れるのに。女はなにを言われても、失礼にならないようほほえんで許すしかない。
 虎猫がゴロゴロと喉を鳴らす。イヴは撫でてやる。「いっそ、つ、つ、月になりたい」
 一時間後、ドアにノックがあった――女主人は唇が見えなくなるぐらい口を引き結んでいた。「お客さんよ」責めるように言った。「紳士のお客さん」
 イヴは抵抗する虎猫を脇にどけた。「こんな時間に?」
「無邪気そうな目をしても駄目。夜に男の訪問者は入れない、それがうちの決まりだからね。軍人ならなおのこと。紳士にそう言ってやったけど、緊急の用だって言い張るものだから。客間に通したから、お茶を飲むぐらいはかまわないけど、ドアは少し開けておくこと、いいわね」
「軍人?」イヴはなおさらきょとんとした。
「キャメロン大尉だって。軍の大尉があんたを訪ねてくるなんて、よっぽどのことだと思うわよ。それも自宅に、こんなに夜遅く!」
 イヴもそう思った。垂らしていた栗色の髪をまとめて留め、ハイネックのブラウスの上にジャケットを羽織った。出勤の格好だ。ショップガールやファイルガール――働いている女は誰でも――声をかければかんたんになびくと思うような紳士なんて、ろくなものではない。言い寄るつもりで訪ねてきたのなら、顔を叩いてやる。サー・フランシスに言いつけて、あたしを首にしようとかまいやしない。
「こんばんは」礼儀は守ろうと決めて、ドアを勢いよく開けた。「まさかあなたが訪ねてこられるとは、た、た、た――」固く握り締めた右手を無理に差し出す。「た――大尉。あたしに、ど――どんなご用ですか?」つんと顔を逸らした。恥ずかしがって頬を染めたりするものかと思った。
 驚いたことに、キャメロン大尉はフランス語で応えた。「フランス語で話しませんか? あなたがほかの女性たちにフランス語で話しかけるのを耳にした。あまりつかえずに話していましたね」
 イヴは目を丸くした。硬い椅子にもたれて、脚をゆったりと組み、刈り込んだ小さな口ひげの下でかすかな笑みを浮かべる彼は、完璧なイギリス人だ。フランス語は話せないはず。ほんのけさがた、彼がそう言うのを聞いたばかりだ。
「もちろん(ビアン・スール)」フランス語で返す。「コンティヌエオンフランセ、シルブプレ」
 彼がフランス語で言う。「廊下をうろうろして、聞き耳をたてている女主人の鼻を明かしてやりましょう」
 イヴは椅子に座って青いサージのスカートを直し、花柄のティーポットに手を伸ばした。「お茶はどのように?」
「ミルク、砂糖は二杯。教えてください、ミス・ガードナー、ドイツ語はどれぐらい堪能ですか?」
 イヴははっと顔をあげた。職探しをするために書いた履歴書の資格欄に、ドイツ語が堪能と書いた覚えはなかった――1915年は、敵国の言葉を話せると認めるのに適した時代ではない。「あ、あたし、ドイツ語は話しません」そう言って彼にカップを渡した。
「ふうむ」彼がカップ越しに見つめてきた。イヴは膝の上で両手を組み、穏やかな無表情で見つめ返した。
「あなたのその顔、たいしたものだ」大尉が言った。「表情の裏になにもないように見える。とにかくなんの感情も現れない。わたしは人の顔を見るのに長けていましてね、ミス・ガードナー。たいていの場合、目のまわりの小さな筋肉の動きに感情が現れる。あなたはうまく感情を抑えている」
 イヴはまた目を見開き、無邪気に困惑しているふうにまつげをパタパタさせた。「あたし、あの、なにをおっしゃってるのかわかりません」
「いくつか質問をしてもかまいませんか、ミス・ガードナー? 失礼にあたるようなことは口にしませんから、ご安心を」
 彼は身を乗り出して、イヴの膝を撫でようとはしなかった。「もちろんですわ、た、た、大尉」
 彼は椅子にもたれた。「あなたは身寄りがないそうですね――サー・フランシスがそう言っておられた――だが、ご両親のことを話してもらえませんか?」
「父はイギリス人でした。フランスの銀行に勤めようとロレーヌに渡りました。そこで母と知り合ったんです」
「お母さんはフランス人? どうりで発音が正しいわけだ」
「はい」発音が正しいかどうか、どうしてわかるの?
「ロレーヌ地方で生まれ育った女性ならドイツ語も堪能だろうと思ったんですよ。国境からそう遠くない」
 イヴはまつげを伏せた。「習ったことはありません」
「あなたはたいした噓吐きだ、ミス・ガードナー。あなたとカードゲームはしたくないな」
「レディはカードゲームをいたしません」全身の神経が気をつけろと叫んでいたが、イヴはすっかり緊張を解いていた。危険を察知するとかえって緊張が解ける。葦の茂みの中、鴨猟で、弾を発射する寸前。指は引き金に、鳥は息をひそめ、弾が飛んでいこうとする――すべてが静まり返るその瞬間、彼女の鼓動はかならずゆっくりになった。いまも鼓動はゆっくりになり、彼女は大尉のほうに首を倒した。「両親のことをお尋ねですよね? 父はナンシーに住み、働いていました。母はもっぱら家のことを」
「それで、あなたは?」
「あたしは学校に通い、毎日お茶の時間には家に戻りました。母がフランス語と刺繍を教えてくれ、父が英語と鴨猟を教えてくれました」
「育ちのよいお嬢さんだ」
 イヴはやさしくほほえみながら、思い出していた。レースカーテンの向こうで繰り広げられる騒動を、下卑たののしり合いを、底意地の悪いいがみ合いを。育ちのよさを身につけたかもしれないが、よいところの出とは程遠かった。絶え間のない諍いに、飛び交う食器、無駄遣いばかりしやがって、と母を責める父、どうせまた女給に貢ぐくせに、と言い返す母。そういう家庭で育った子は、家の中で騒音が轟くやいなや、見つからないように部屋の隅に移動して、闇夜の影のように消えてなくなる術をたやすく身につける。なにも聞き逃すまいと耳を澄まし、頭の中で両親を天秤にかけながら、ひたすら目立たぬよう身じろぎひとつしない。「ええ、たいへんためになる子供時代でした」
「失礼だが……あなたの吃音は、ずっと前からですか?」
「子供のころは、もうちょっと、ひ、ひ、ひどかったです」彼女の舌はつねに、引っかかり、つまずいていた。彼女の中で唯一滑らかでも、控えめでもないのがそれだった。
「ついた先生がよかったのでしょうね。あなたが吃音を克服する手助けをしてくれた」
 先生? 彼らがしたことといえば、言葉が途中でつっかえて顔を赤くし、いまにも泣きそうな彼女を見つめるだけ、さっさとつぎに移り、打てば響くの答えをする子を当て直すだけだった。教師の大半が、彼女のことを、言葉がつかえるだけでなくおつむも弱いと思っていた。子供たちが彼女を囲んではやしたてても、叱って追い払ってはくれなかった。
「名前を言ってみろ、ほら言え! ガ、ガ、ガ、ガ、ガードナー――」ときには一緒になって笑っていた。
 イヴは凶暴なまでの意思の力で、吃音を押さえつけた。自室でつっかえつっかえ大声で詩を朗読し、舌に貼りつく子音を叩いてほぐし、解き放った。ボードレールの『悪の華』の序詩――フランス語のほうが発音しやすかった――をもたつきながらも読み終わるまでに十分かかったことを思い出す。ボードレールは言っていた。『悪の華』を怒りと忍耐をもって書いたと。イヴにはそれがよく理解できた。
「あなたのご両親だが」キャメロン大尉がつづけて言った。「いまはどちらに?」
「父は1912年に死にました。し、心筋梗塞で」ある意味、血の流れが滞ったのだ。妻を寝取られた夫が振るう肉切り包丁が心臓に突き刺さって。「母はドイツ軍の侵攻を恐れ、あたしを連れてロンドンに渡ることにしました」ドイツ野郎ではなくスキャンダルから逃げるために。「母は昨年、インフルエンザで死にました。神よ、彼女の魂を安らかにさせたまえ」死ぬまで辛辣で下品でおしゃべりだった母は、イヴにティーカップを投げつけて悪態を吐きちらした。
「神よ、彼女の魂を安らかにさせたまえ」大尉は敬虔に言葉を繰り返したが、イヴにはその敬虔さが本物だとはとても思えなかった。「そしていま、あなたはわれわれのものとなる。イヴリン・ガードナー、身寄りなし、正しいフランス語と正しい英語を話す――ドイツ語のことはほんとうかな?――わたしの友人、サー・フランシス・ガルバラの事務所で働いている。おそらくは結婚までの暇潰しに。美しい娘だが、できるだけ目立つまいとしている。内気なせいかな?」
 虎猫がドアの隙間をするりと抜けて、ミャオと様子を窺いながら入ってきた。イヴは手元に呼んで抱き上げた。「キャメロン大尉」十六歳に見える笑みを浮かべて言い、猫の顎の下を撫でた。「あたしを誘惑なさるおつもりですか?」
 まんまと彼を驚かせた。背もたれに寄りかかり、困惑して顔を染めている。「ミス・ガードナー――わたしは夢にもそんな――」
「だったら、ここになにしにいらしたんですか?」ずばり尋ねた。
「あなたを評価するために来た」彼は足首を組み合わせ、落ち着きを取り戻した。「何週間も前に、フランス語を話せないふりを装い、友人の事務所を最初に訪れたときから、あなたに目をつけていました。どうだろう、正直に話しませんか?」
「あたしたち、正直に話していませんでした?」
「あなたが正直にものを言うとは信じられないな、ミス・ガードナー。仲間の女性たちに、もそもそと言い逃ればかり言うのを聞いてましたからね。あなたが退屈だと思う仕事から逃れるために。けさも、遅刻した理由を問い詰められて、平気な顔で噓を吐いてましたね。タクシーの運転手につきまとわれて、それで遅れたとかなんとか――あなたはけっしてうろたえないし、いたって冷静だが、うろたえたふりをしてまわりを煙に巻いていた。いや、お見事。あなたは好色なタクシー運転手のせいで遅刻したのではない。事務所の扉に貼ってある新兵徴募のポスターを、たっぷり十分間も見つめていたから遅刻した。わたしは時間を計っていたんですよ。窓から下を眺めながらね」
 今度はイヴのほうが、背もたれに寄りかかって赤くなった。たしかにポスターを見つめていた。きりりとした顔の陸軍兵士の列、揃いも揃って勇ましく、真ん中の余白にはこう書かれている。“行列の中にまだ空きはある、きみのための!”その上には派手なヘッドラインが。“さあ、空きを埋めたまえ!”イヴはその場に立ち尽くし、苦い思いを嚙みしめていた。やっぱり駄目だ。兵士の列のその余白には、もっと小さな文字でこう記されていたからだ。“この空きを埋めるのは壮健な男子である!”だから、駄目だ、イヴは適さない。まだ二十二歳で壮健であっても。
 膝の上の虎猫が抗議の声をあげた。毛皮に埋まる彼女の指が強張るのを感じ取ったからだ。
「それじゃ、ミス・ガードナー」キャメロン大尉が言う。「わたしが質問したら、あなたは正直に答えてくれますか?」
 そんな口車に乗ってはいけない、とイヴは思った。彼女は息をするのとおなじぐらいたやすく噓を吐き、言い逃れできる。生まれてからずっとそうやってきた。噓、噓、噓、デイジーみたいな顔で噓を吐く。最後に真正直にものを言ったのがいつだったか、思い出せない。受け入れがたく心掻き乱される真実を言うよりも、噓を吐くほうがずっとかんたんだ。
「わたしは三十二歳だ」大尉が言った。しわ深くやつれた顔は、年より老けてみえる。
「この戦争で戦うには年をとりすぎている。だからべつの仕事に就いた。祖国の空はドイツのツェッペリン飛行船の攻撃に曝され、いいですか、ミス・ガードナー、祖国の海はドイツのUボートの攻撃に曝されている。毎日、攻撃に曝されているんです」
 イヴは大きくうなずいた。二週間前、ルシタニア号が撃沈された――何日も、下宿の仲間たちが目頭を押さえていた。イヴは涙一滴流さずに新聞を貪り読み、怒りに燃えた。
「これ以上の攻撃を食い止めるためには、人材が必要なのです」キャメロン大尉が言う。「特定の能力を持った人材を探すのが、わたしの仕事だ――たとえば、フランス語とドイツ語を話せる能力を持った人。噓を吐ける人。表向きは害のない人間。その実、勇気のある人間。そういう人たちを見つけ出して仕事に就ける。ドイツ野郎どもがわれわれになにを仕掛けるつもりか探り出す仕事です。あなたにはその能力が備わっていると思うんだが、ミス・ガードナー。だから尋ねる。イギリスのために立ち上がりたいと思いますか?」
 その質問がハンマーの一撃となってイヴを打った。震えながら息を吐き出し、猫を脇に置いて、なにも考えずに答えた。「はい」彼の言う“イギリスのために立ち上がる”のがなにを意味しようとも、答えはイエスだった。
「どうして?」キャメロン大尉は、さらに問いただしてきた。
 卑怯な男たちとか、前線にいる兵士たちのために応分の務めを果たしたいとか、聞こえのいい言葉をひねり出そうとした。だが、もう噓は吐くまい。イヴはゆっくりと言った。「あたしは自分に能力があることを証明したいんです。あたしがうまくしゃべれないせいで、あたしを純真だとか、頭が弱いとか思っている人たちに。あたしは、た、た、た――あたしはた、た、た――」
 その言葉をなんとか言おうと必死になるうち、イヴの頬がじわっと熱を帯びてきたが、彼はけっして急かさなかった。たいていの人が、彼女になんとか最後まで言わせようと急かすものだから、いつも彼女は怒りでいっぱいになった。彼は静かに座っているだけだ。イヴはスカートに隠れた膝を拳で叩いて、なんとか言葉を解き放った。食いしばった歯のあいだから、猫が驚いて逃げ出すほどの激しさで、言葉を吐き出した。
「戦いたい!」
「きみが?」
「はい」正直な答えをつづけて三つもしたのは、イヴにとっては大事件だ。彼の思慮深い視線を浴びて、彼女は震えながら泣き出しそうだった。
「だったら質問する。これで四度目だ。五度目はないと思いたまえ。あなたはドイツ語を話せますか?」
「ヴィーアインアインハイミッシャー」母国語のように。
「すばらしい」セシル・エルマー・キャメロン大尉は立ち上がった。「イヴリン・ガードナー、スパイとして国王に仕えたいと思いませんか?」



3 シャーリー

 
 1947年5月

 脈絡のない夢を見た。ウィスキー・グラスの中で火を吹く拳銃、車両の陰に消えるブロンドの少女たち、〈ル・レテ〉とささやく声。それから男の声が言った。「きみは誰、お嬢さん(ラス)?」
 めやにで塞がるまぶたを無理に開ける。わたしは居間のガタがきた古いソファーで眠っていたのだ。ルガーを持つ頭のおかしな女がうろつく家の中を、ベッドを探して歩き回る気にはなれなかったからだ。ふわふわした旅行着を脱いで、擦り切れた手編みの掛け布をかぶり、スリップ一枚で丸くなって眠っていた――そしていま、どうやら朝になったようだ。分厚いカーテンの隙間から日が射し込み、ドア口から誰かがこっちを見つめている。着古したジャケット姿の黒髪の男が、ドア枠に肘をもたせて。
「どなた?」わたしは寝ぼけ眼で尋ねた。
「先に質問したのはおれだ」男の声は低く、わずかにスコットランド訛りがある。「ガードナーを訪ねてくる人間がいるとは驚きだ」
「彼女、まだ起きてないのね?」男の背後に慌てて目を配る。「朝、目が覚めたときあんたがまだいたら銃で撃つからねって、脅かされたものだから――」
「あの人らしいな」スコットランド男が言った。
 ゆうべ脱いだ服を探したいけれど、見ず知らずの男性にスリップ姿を見られるわけにもいかず、立つこともできなかった。「ここから出ていかないと――」
 それで、どこに行くの? ローズがささやく。とたんに頭がズキズキしてきた。ここからどこへ行けばいいのかわからない。頼りはイヴの名前を記した紙切れだけだった。ほかになにがある? 涙が込み上げる。
「慌てることはない」スコットランド男が言った。「ゆうべ、ガードナーが酔っ払っていたのなら、なにも憶えちゃいないから」彼は背を向け、ジャケットを脱いだ。「紅茶を淹れるとするか」
「あなたはどなた?」言いかけたものの、ドアがバタンと閉まった。思い切って掛け布をめくると、剥き出しの腕に鳥肌がたった。脱ぎっぱなしの旅行着を目にして鼻にしわを寄せる。カバンにドレスがもう一着入っているけれど、そっちもふわふわで、ウェストを締め付けるから窮屈すぎる。だから古いセーターと、母が忌み嫌うダンガリーのズボンを身に着け、裸足でキッチンを探しに行った。二十四時間なにも食べていないので、グーグーいう胃袋がすべてを凌駕した。恐ろしいイヴの拳銃さえも。
 キッチンは驚くほど清潔でピカピカだった。やかんが火にかけられ、テーブルは整えられている。スコットランド男は着古したジャケットを椅子に掛け、おなじように着古したシャツ姿で立っていた。「あなたはどなた?」好奇心を抑え切れずに尋ねた。
「フィン・キルゴア」男はそう言うとフライパンを棚からおろした。「ガードナーのなんでも屋。紅茶は自分で注いで」
 彼が男同士でするように、“ガードナー”と呼び捨てにしたことに興味を覚えた。「なんでも屋?」シンクの脇に置いてあった欠けたマグを手に取る。この家の中で、キッチン以外に人の手が入った場所があるとは思えない。
彼は冷蔵庫から卵とベーコン、マッシュルーム、それに半斤のパンを取り出した。「彼女の手を見たんだろ?」
「……ええ」紅茶はわたし好みの濃さだった。
「あんな手で、彼女にどれほどのことができると思う?」
 わたしは噴き出した。「ゆうべ見たかぎりでは、拳銃の撃鉄を起こせたし、ウィスキーの栓も上手に開けていたわ」
「そのふたつはなんとかできる。ほかの用事をやらせるために、彼女はおれを雇ってるんだ。雑用をこなすためにね。郵便物を取ってくる。彼女が外出するときは運転手を務める。料理もする。もっとも、キッチン以外の部屋の掃除はやらせてくれない」彼は薄切りのベーコンを一枚ずつフライパンに入れた。長身で手足が長く、身のこなしはしなやかで優雅だ。年のころは二十九か三十、無精ひげ、くしゃくしゃの黒い髪はシャツの襟にかかるほど伸びている。「きみはここでなにをしてるんだ、ミス?」
 わたしは口ごもった。母なら、なんてぶしつけな、と言っているだろう。なんでも屋が客に質問するとは。でも、わたしは客とはいえないし、このキッチンにいる権利は彼のほうが持っている。「シャーリー・セントクレア」わたしは紅茶を飲みながら、イヴの家の玄関に(それからソファーに)流れ着いた顛末をかいつまんで話した。悲鳴をあげたことや、拳銃を眉間に突き付けられたことは省いた。ほんの二十四時間で、人生が完全にひっくり返ってしまったことの不思議さを、あらためて嚙みしめる。
 それはあなたが、サウサンプトンからずっと亡霊を追いかけてきたからでしょ、とローズがささやく。あなたがちょっとばかりイカレているせいよ。
イカレてなんていない。わたしは言い返す。あなたを助けたいの。イカレた人間にはできないことでしょ。
 あなたはみんなを助けたいのね、シャーリー、マイ・ラブ、わたしにジェイムズ、それに子供のころ街で見かけた野良犬――。
 ジェムイズ。わたしはピクッとする。良心の意地悪な声がささやく。兄さんを助けるために、そりゃもう頑張ったものね?
 その声に耳を傾ければ、罪悪感の渦に巻き込まれて身動きがとれなくなる。だから、イヴのなんでも屋と名乗る人にもっといろいろ訊いてほしかった。わたしの話はどう考えても荒唐無稽だ。でも、彼は黙ったまま、フライパンにマッシュルームと缶詰の豆を加えるだけだ。男の人が料理するのを見るのははじめてだった。父はトーストにバターを塗ることすらしない。それは母やわたしの役目だ。だが、彼は慣れた手つきで豆を混ぜ、ベーコンをカリカリに炒めていた。脂が撥ねて腕を焼いても意に返さない。
「イヴに雇われてどれぐらいになるんですか、ミスター・キルゴア?」
「四カ月」そう言うと、パンを切りはじめた。
「その前はなにを?」
 彼の手が止まった。「王立砲兵、第六十三対戦車連隊」
「それからイヴのところで働くようになった。大変身ね」彼はどうして手を止めたのだろう。ナチス相手に戦った人間が、拳銃を振り回すおかしな女のために家事をやるのは、恥ずかしいと思っているのかもしれない。「彼女はどんな……」
 自分の質問の向かう先がわからす、言葉が尻つぼみになった。彼女はどんな雇い主なの? 彼女はどうしてあんなことになったの? けっきょく口から出たのはこんな言葉だった。「彼女はどうして手に怪我を負ったの?」
「話してくれない」彼は卵をひとつずつフライパンに割り入れた。わたしのお腹がグーグーと鳴る。「でも、想像はつく」
「どんな想像?」
「指のすべての関節を順番に砕かれた」
 わたしは身震いした。「どんな事故に遭うとそんなことになるのかしら?」
 フィン・キルゴアは、はじめてわたしの目を見た。まっすぐな黒い眉の下の黒い瞳は用心深く、どこかよそよそしい。「事故だと誰が言った?」
 わたしは(どこも折れていない)指でマグを掴んだ。紅茶がにわかに冷たく感じられる。
「これぞイギリスの朝食」彼はフライパンをコンロからおろし、切ったパンの隣に置いた。「水道管の漏れを直さなきゃならない。勝手にやってくれ。ガードナーの分は残しておいてくれよ。ひどい頭痛を抱えておりてくるだろうし、ここブリテン諸島では、フライパンひとつで作る朝食が、二日酔いの特効薬だ。すっかり平らげたりしたら、ほんとうに撃たれるかもしれない」
 彼は振り返ることなくのんびりと出ていった。わたしは皿を取り、ジュージューいうフライパンに向かった。唾が湧く。ところが、おいしそうな卵とベーコンと豆、それにマッシュルームを見たとたん、胃袋がでんぐり返った。手で口を押さえ、フライパンに背を向けた。ブリテン諸島における二日酔いの特効薬の上に吐いてしまわないうちに。はじめての経験とはいえ、どうしてこうなるのかわかっていた。お腹はすいているのに、胃袋が喉元にせり上がってきて、たとえイヴのルガーをまた頭に突き付けられても、ひと口だって食べられないだろう。これはつわりだ。わたしの“ささやかな問題”が、はじめての自己主張を行なったのだ。
 ただ胃がむかつくだけではなかった。呼吸が浅くなり、掌がじっとりと汗ばむ。“ささやかな問題”は三カ月を過ぎたころだが、これまでは、曖昧な概念でしかなかった――なにも感じなかったし、想像もできなかったし、なんの兆候も現れなかった。わたしの人生の真ん中を列車のごとく猛スピードで突っ走っただけだ。両親が介入してきてからは、ばつ印をつけて消せばいい、つまらない等式にすぎなくなった。“ささやかな問題”足すスイスへの旅行、すなわちゼロ、ゼロ、ゼロ。いたって単純。
 ところが、いまやそれは“ささやかな問題”で片付けられなくなった。単純どころの話ではない。
「わたしはどうすればいいの?」小さく声に出して言ってみる。ようやくいまになって、わたしはその問題に直面したのだ。ローズのために、あるいは両親のためになにをすべきか、秋に大学に戻るためになにをすべきかではない――そうではなくて、自分のためになにをどうすればいいのか?
 どれほどの時間、そこに突っ立っていたのかわからない。刺々しい声にはっとわれに返った。「アメリカ人の侵入者が、まだここにいたのね」
 振り返る。ゆうべ着ていたのとおなじプリントのハウスドレス姿で、イヴがドア口に立っていた。グレーの髪はぼさぼさ、目は充血している。覚悟して足を踏ん張ってはみたが、どうやらミスター・キルゴアの言うとおりらしい。彼女はゆうべの脅し文句など忘れたふうで、わたしにかまうことなくこめかみを指で揉んでいた。
「頭の中で黙示録の四騎士が激しく争ったにちがいない」イヴが言う。「口の中がチェップストーの公衆便所の味がする。スコットランド人のあの男、ちゃんと朝食を作ったんでしょうね」
 でんぐり返る胃を抱えたまま、わたしは手をひらひらさせた。「フライパンひとつの奇跡」
「でかした」イヴは引き出しからフォークを取り出すと、フライパンから直に食べはじめた。「それじゃ、フィンに会ったんだね。なかなかの男前だろ? あたしがこんな醜い婆さんじゃなかったら、ほっときゃしないんだけどね。いの一番によじ登ってる」
 わたしはコンロから離れた。「ここに来るべきじゃなかった。無理に押しかけてごめんなさい。そろそろ行かないと――」どこへ? 母のもとにすごすご戻り、ひとしきり叱られたあと、“予約”を果たすため船に乗る? ほかに行くあてがあるの? 無感覚の真綿がわたしをまたくるもうと戻ってくる。ローズの肩にもたれて目を閉じたい。トイレで丸くなり、すっかり吐き出してしまいたい。気分が悪い。わたしは無力だ。
 イヴはパンの塊で卵の黄身を拭い取っていた。「す、座ったらどう、ヤンキーのお嬢ちゃん」
 たとえ言葉がつかえていようと、しゃがれ声には有無を言わさぬ迫力があった。椅子に座るしかない。
 イヴは布巾で指を拭き、ハウスドレスのポケットから煙草を取り出した。長々と煙を吸い込む。「一日の最初の一服」そう言いながら煙を吐いた。「いつだっていちばんうまい。ひどい二日酔いをほぼ帳消しにしてくれる。な、な、名前はなんていった、あんたのいとこの」
「ローズです」心臓がまた動きだす。「ローズ・フルニエ。彼女は――」
「あたしに言わせりゃさ」イヴは人の言うことを聞きやしない。「あんたみたいなお嬢ちゃんには、金持ちのママとパパがいるんだろ。かわいそうな迷子の子羊のいとこを、見つけ出す算段ぐらいつくだろうに。なんでやってくれないんだい?」
「やってくれました。問い合わせてくれました」いくら両親に腹をたてていても、彼らが最善を尽くしてくれたことには感謝していた。「二年のあいだ手を尽くしてくれて、それで父は言いました。ローズは亡くなったにちがいないって」
「どうやら賢い男のようだ、あんたの父親は」
 たしかに賢い。父は国際法を専門とする弁護士だから、海外で情報収集するための情報網を持っており、それを駆使して調べてくれた。ローズが誰にも――親戚じゅうでいちばん仲良しだったわたしにさえ――電報の一本もよこさなかった事実から、導き出される合理的結論はひとつだ。彼女は亡くなった。わたしはその考えに慣れようとした。受け入れようと努力した。六カ月前までは。
「わたしの兄は、戦争で片脚を失ってタラワ島から戻ってきて、六カ月前に拳銃自殺したんです」声が震える。わたしたちは、けっして仲のよい兄妹ではなかった。兄にとってわたしは、いじめの対象にすぎなかった。でも、髪の毛を引っ張って泣かす時期が過ぎると、兄はだんだんやさしくなった。おまえとデートしようなんて奴は、おれが許さない、ボコボコにしてやる、と冗談を言うようになった。兄が海兵隊に入って髪をバッサリ切ってくると、変な髪形、ぜんぜん似合わない、とわたしがからかう番だった。たった一人の兄だった。もちろん愛していたし、両親にとっては自慢の息子だった。兄が死ぬと、入れ替わるようにローズがわたしの記憶から抜け出し、視界に入ってくるようになった。わたしの前を走っていく少女はみんな、六歳か八歳か十一歳のローズだった。大学のキャンパスをのんびり歩くブロンドの娘はみんな、大きくなったローズだった。背が高くて、女らしい体つきになりはじめたローズ……記憶が仕掛けてくる無情ないたずらに、わたしは日に幾度となく心臓が止まる思いをし、打ちのめされたものだ。
「儚い望みだって、わかってます」なんとか理解してほしくて、わたしはイヴの目をじっと見つめた。「いとこはたぶんもう……見込みはないんです、きっと。生存の可能性を、実際に計算してみました。それこそ小数点以下まで。でも、諦めたくない。どんな小さな手がかりでも、最後まで追いつづけなきゃいられない。ごくわずかでも可能性があるのなら――」
 喉が詰まって言葉がつづかなかった。この戦争で、わたしは兄を失った。ローズを忘却の淵から引き戻す可能性がほんのわずかでも残っているなら、追い求めずにいられない。
「助けてください」何度でも言う。「お願い。わたしが探してあげないで、ほかの誰が探すっていうんですか」
 イヴはゆっくりと息を吐いた。「で、彼女は〈ル・レテ〉という名のレストランで働いてたんだね――どこの?」
「リモージュ」
「ふーん。オーナーは?」
「ムッシュー・ルネなんとか。あちこち電話したんだけど、誰も苗字までは知らなかった」
 彼女の唇が一文字になる。しばらくのあいだ、彼女はただ虚空を見つめ、両脇に垂れた例の恐ろしい指は丸くなっては伸び、丸くなっては伸びを繰り返した。ようやくわたしに向けられた彼女の目は、擦り板ガラスのように中を覗き込めなかった。「もしかしたら、あんたを助けてあげられるかもしれない」

 イヴの電話は芳しい成果をあげられなかったようだ。わたしが聞いたのは会話の半分、受話器に向かって怒鳴るイヴの声だけだったが、話の内容は充分に見当がついた。イヴは床板が剥き出しの廊下を行ったり来たりし、手に持った煙草が憤慨した猫の尻尾みたいに前後に揺れていた。「フランスに電話をかけるのにいくらかかろうが知ったこっちゃない。椅子にでっかい尻を据えてるだけの事務員風情が、つべこべ言ってないで電話をつないだらどうなの」
「誰に連絡をつけるつもりなんですか?」わたしが尋ねるのはこれで三度目だが、前の二度と同様、イヴは聞こえないふりで電話交換手を叱りつづけた。
「その見え透いた奥さまって言い方、さっさとやめたらどうなの。それより少佐に電話をつなぎなさい……」
 玄関を出てもなお、彼女の声がドア越しに聞こえた。きのうは灰色にじめついていたロンドンが、きょうは見事に晴れ上がり、ちぎれ雲が浮かぶ青い空に陽光がまぶしかった。額に手をかざし、ゆうべタクシーの窓から見たものを探した――通りの角に、それはあった。イギリスの伝統そのものの真っ赤な電話ボックスは、どこか滑稽だ。歩いて向かうと胃がまたでんぐり返る。イヴが謎の少佐に電話をはじめてから、わたしは硬くなったトーストをなんとか呑み下し、それで“ささやかな問題”が原因の吐き気はおさまっていた。いまのこれはまたべつの気持ち悪さだ。わたしも電話を一本かけなければならず、イヴの電話に負けず劣らず厄介なものになると察しはついていた。
 まず電話交換手と言い争いになり、つぎに、サウサンプトンのドルフィン・ホテルのフロント係とすったもんだの末どうにか名前を告げた。ようやく電話がつながった。「シャーロット? アロ、アロ?」
 受話器を耳から離してじっと見る。やれやれ。まわりに人がいるところで、母はけっしてこんなしゃべり方をしない。でも、身重の娘がイギリスで出奔したのだから、ドルフィン・ホテルのフロント係にまで体面を繕う余裕はないのだろう。
 受話器から甲高い叫び声が漏れる。耳に当て直す。「おはよう、ママン」わたしは早口にまくしたてた。「誘拐されたわけじゃないし、死んでもいないわ。いまロンドンにいるの。無事だから心配しないで」
「マ・プティ。あなた、気はたしかなの? こんなふうに姿をくらますんだもの、もう生きた心地がしなかったわ!」鼻をすする音につづけてメルシとつぶやく声。フロント係が涙を拭くハンカチを差し出したのだろう。目のまわりの化粧は流れ落ちているにちがいない。わたしってば、意地悪だ。でも、本心だからしょうがない。「ロンドンのどこにいるのか教えてちょうだいな、シャーロット。さあ」
「駄目なの」吐き気以外のなにかが胃の中で膨らむ。「ごめんなさい、でも、言えない」
「馬鹿なこと言ってないで。うちに帰らなきゃ駄目でしょ」
「そのうちね。ローズの身になにがあったか突き止めたら」
「ローズですって? いったいなにを――」
「また電話するわ、ちかいうちにかならず」わたしは受話器を置いた。
 イヴの家の玄関を抜けてキッチンに入ると、フィン・キルゴアが振り返ってわたしを見た。「布巾を取ってくれないかな」腕まくりしてフライパンをゴシゴシ磨きながら、彼は顎をしゃくった。わたしはまた目をみはった。汚れたコーヒーカップは奇跡が起きて勝手にきれいになる、と父は思っている。
「彼女はべつの電話をかけている」フィンは言い、わたしから布巾を受け取りながら廊下を目顔で示した。「フランスにいるイギリス人少佐と連絡をとろうとしたんだけど、休暇をとって留守だった。いま電話で怒鳴りつけている相手は女性だけど、誰なのかおれは知らない」
 こんなこと頼んでいいものか、わたしはためらった。「あの、あなた、イヴの運転手もしているって言ってらしたわよね。お願いできるかしら――連れていってほしい場所があるんだけど。ロンドンは不案内で歩いていくのはちょっと……。それに、タクシーに乗るお金がないの」
 断られるだろうと覚悟していた。わたしはアメリカから来た見ず知らずの娘だ。でも、彼は肩をすくめて手を拭いた。「車の用意をする」
 わたしはいま着ている古いダンガリーのズボンとセーターに目をやった。「着替えなきゃ」
 支度をして玄関に向かうと、フィンは開いたドアの横に立ち、足でトントンと調子をとりながら通りを眺めていた。わたしの靴の音を耳にすると、引き締まった肩越しに振り返り、まっすぐな黒い眉を両方とも吊り上げた。見間違えようのない称賛の眼差しだ。このアンサンブルはカバンに詰めてあった唯一のきれいな服で、わたしが着ると中国の女羊飼いみたいに見える。クリノリンを幾重にも重ねたペチコートで広げたふわふわの白いスカート。ハーフベール付きの帽子。まっさらな手袋。体の曲線をすべてなぞるぴったりしたピンクのジャケット。もっともわたしの体には、なぞるべき曲線などないけれど。わたしは顎をあげ、馬鹿げたベールをさげて目を隠した。「国際銀行のひとつなんだけれど」住所を書いた紙を彼に手渡す。「ありがとう」
「ペチコートを何枚も重ね着するラスは、運転手にありがとうなんて言わないもんだ、ふつうは」フィンが開いたドアを押さえてくれたので、わたしは彼の腕の下を抜けておもてに出た。ヒールの靴を履いていても、彼の肘にぶつからないよう頭をさげる必要はなかった。ドアを閉めようとすると、廊下の奥からイヴの声が聞こえた。「うすのろのフランスの雌牛が、よくも先に電話を切った……」
 どうしてわたしを助けてくれるの、と尋ねたくて足を止めた。ゆうべはけんもほろろだったのに。彼女の骨ばった肩を思い切り揺すって、知っていることを吐き出させたいのはやまやまだけれど、いまは根掘り葉掘り訊いてはいけない。彼女を怒らせて手を引かれては元も子もないからだ。彼女はなにか知っている。わたしはそう確信していた。
 だから彼女のことはほうっておいて、フィンと一緒に外に出た。車を見て驚いた。ダークブルーのコンバーチブルで幌は開けてある。古いけれど、鋳造したてのコインみたいに磨き上げてある。「すてきな車ね。イヴの?」
「おれのだ」無精ひげやつぎの当たった服にそぐわない車だ。
「なんていう車、ベントレー?」父はフォードに乗っているが、イギリスの車が好きで、一緒にヨーロッパを旅すると、ほら、あの車、と指差す。
「ラゴンダのLG6」フィンがわたしのためにドアを開けてくれた。「さあ、乗って、お嬢さん」
 運転席に乗った彼が手を伸ばしたシフトレバーは、広がったスカートに半ば埋もれていた。わたしはにっこりする。わたしの汚れた過去を知らない他人ばかりで気が楽だ。人の目を覗き込み、そこに敬意を込めて“お嬢さん”と呼ばれるのにふさわしい自分が映っていると安心する。この数週間、両親の目に映るわたしは、ふしだら――期待はずれ――出来損ないだった。
  “あなたは出来損ない”心の意地悪なささやきをきっぱりと振り払う。
 ロンドンが滲んで過ぎ去ってゆく。灰色、丸石敷き、いまも残る瓦礫、ひび割れた屋根、剥がれ落ちた穴だらけの壁。すべてが戦争の傷跡だ。いまはもう1947年なのに。戦勝記念日の何日かあと、父が新聞を読みながら、満足のため息をついて言った。「すばらしいことだ。これでなにもかも元どおりだ」平和が宣言されれば、ひび割れた屋根も穴だらけの建物も粉々になった窓も、たちどころに元の姿に戻るような言い様だった。
 まるでスイスのチーズみたいに穴だらけの道路を、フィンは巧みにラゴンダを操っていく。ふと思いついて、尋ねずにいられなくなった。「どうしてイヴに車が必要なの? ガソリン不足のご時勢なんだから、地下鉄を使うほうが安上がりなんじゃない?」
「彼女は地下鉄が苦手なんだ」
「どうして?」
「さあな。地下鉄、閉所、人ごみ――彼女をおかしくさせるもの。このまえ、彼女は地下鉄に乗って、手榴弾みたいに爆発しそうになった。大声を張り上げ、買い物に来ていた主婦たちを肘でぐいぐい押しのけてね」
 わたしが呆れたように頭を振っていると、ラゴンダは威風堂々たる大理石の建物の前で停まった。目的地の銀行だ。不安が顔に出たのだろう。フィンが意外にもやさしく言った。
「おれでよければ付き添いましょうか、お嬢さん」
 そうしてほしかった。でも、得体の知れない無精ひげのスコットランド男に付き添われて、わたしの体裁がよくなるとは思えなかったので、頭を振り車を降りた。「ありがとう」
 銀行の磨き抜かれた大理石の床を歩くとき、母の滑るような歩き方を真似てみたが、付け焼刃はすぐにぼろが出る。名前と用件を伝えると、通された部屋には千鳥格子の背広姿のやさしそうな頭取がいた。表に数字を書き込む手を止めて、頭取は顔をあげた。「わたしでお役に立てますかな、お嬢さん?」
「そう願っています、サー」わたしはほほえみ、世間話をはじめた。「いまなにをなさってるんですか?」男性の手元の数字が並んだ表を指差す。
「百分率、数字。退屈な代物です」頭取は立ち上がり、椅子を勧めた。「お座りなさい」
「ありがとうございます」ハーフベールに隠れて深呼吸する。「お金をいくらかおろしたいのですけれど」
 父方の祖母がわたし名義の信託基金を遺してくれた。大金ではないがそれなりの金額だ。十四歳で夏休みに父の法律事務所を手伝いはじめてから、無駄遣いはせず、アルバイト代をそこに上乗せしてきた。これまでそれに手をつけたことはなかった。大学の授業料は親が出してくれたし、ほかにお金を使うこともなかったからだ。通帳は化粧箪笥の下着をしまう引き出しの奥に入れてあるのだが、今度の旅行の荷造りをしたとき、ふと思いついて旅行カバンに放り込んだ。イヴの住所を書いた紙とローズの居場所が記された報告書を、カバンに忍ばせたのとおなじ思いに突き動かされてのことだった。はっきりとした計画はなかったけれど、心のささやきに耳を傾けた。必要になるかもしれないでしょ、ほんとうにやりたいことをやる勇気を奮い起こせたときに……。
 あのささやきに耳を傾け、通帳も持ってきてよかった。まったくの文無しになったから。イヴがなぜ手伝ってくれるのか真意はわからないが、親切心からとは思えなかった。もしそうだとしたら、彼女に謝礼を渡さなければ。わたしをローズのもとに連れていってくれる人には、誰であれお礼をする必要がある。そのためには元手が必要だ。だから、通帳と身分証明書をデスクに置き、銀行の頭取にほほえみかけた。
 それから十分間、わたしがほほえみつづけられたのは、ひとえに意志の力によるものだ。「わたしには理解できません」そう言うのはこれで四度目だ。「わたしの名前と年齢を証明するものがここにあるし、口座に充分なお金があることもわかっています。それなのにどうして――」
「それだけの金額を動かすことはですね、お嬢さん、ふつうはまずやりません。それに信託基金というのは、あなたの将来のためのものでしょうに」
「でも、将来のための基金だけじゃありません。わたしが自分で貯めたお金もそこには――」
「だったら、お父上と話をなさってはいかがです?」
「父はニューヨークです。それに、それほど大きな金額じゃない――」
 またしても頭取は人の話を遮った。「お父上の法律事務所の電話番号を教えていただければ。お父上とお話をして了解が得られれば――」
 今度はわたしが話を遮る番だ。「父の了解はいりません。口座の名義はわたしです。わたしが十八歳になったら自由に口座のお金を出し入れできる取り決めになっていて、わたしは十九歳です」身分証明書を彼のほうに押しやる。「わたし以外の誰の了解も必要ありませんわ」
 革張りの椅子の上で、頭取はわずかに身じろぎしたが、やさしそうな表情は少しも揺らがなかった。「お父上とお話ができれば、ある程度の便宜をはかり――」
 わたしは歯軋りした。「お金を引き出したい――」
「それはできかねます、お嬢さん」
 彼の懐中時計の鎖と、肉厚な手と、髪の薄くなった部分を通り抜ける光を、わたしはじっと見つめた。彼はこっちを見ようとしない。デスクの上の表を引き寄せ、数字を書き込んだり、線を引いて消す作業に戻った。
 失礼は承知のうえでデスクに手を伸ばし、わたしは彼の手元から表を引き抜くと、並んだ数字にざっと目を通した。彼に気色ばむ暇も与えず、デスクの端から鉛筆を取り上げ、彼が書き込んだ数字に線を引き、正しい数字を記した。「0.25パーセントちがっています」表を彼に返す。「差引残高が合わないのはそのせいです。念のため計算機で検算してください。お金に関して、わたしは信用がないようなので」
 彼の顔から笑みが消えた。わたしは立ち上がり、“どうでもよくってよ”の角度に顎を思い切り突き出し、肩をそびやかして日差しの中へ出ていった。わたしのお金なのに。相続したお金だけでなく、自分で稼いだお金までも、父の承諾なしには一セントだって引き出せないとは。こんな不公平ってあるだろうか。歯軋りが止まらない。でも、こういう成り行きを頭のどこかで予想していた。
 だから、次善の策を用意していたのだ。
 わたしが助手席に座り、スカートがはみ出しているのもかまわずドアを閉めると、フィンが顔をあげた。「不躾を承知で言うけど、あなたっていかがわしい感じがするわよね」わたしは言い、ドアを開けてはみだしたペチコートを引っ張り上げた。「なにかいかがわしいことでもしてるの、ミスター・キルゴア、それとも、ひげを剃るのが嫌いなだけなの?」
 彼は読んでいた古いペーパーバックを閉じた。「両方だな」
「よかった。質屋に行きたいの。若い娘がものを売りに行っても、余計な詮索をされない店」
 彼は呆れた顔をしたものの、途切れることのない車列にラゴンダを滑り込ませた。父方の祖母は信託基金の形でお金を遺してくれた。母方の祖母は見事な二連の真珠のネックレスを持っていて、亡くなる前にそれをふたつに分け、一連のネックレスに作り直させた。「かわいいシャーロットと、美人のローズにひとつずつ。娘たちに遺すべきなんだろうけれど、あの人たちったら、いつの間にか老けてしわくちゃ」祖母はフランス人らしい率直な物言いをする人で、わたしとローズは疚しさを覚えつつクスクス笑った。「だから、おまえたちに遺すのよ。結婚したらこれをしてほしいの、花のようにきれいなおまえたちに、そしてわたしのことを思い出しておくれ」
 わたしは祖母を思い出しながら、バッグの中のなまめかしい真珠の粒を手で探った。小柄でかわいらしかった祖母は、愛するパリに鉤十字旗が翻るのを見ずに亡くなった。神のご慈悲だろう。どうか許して(パルドネ・モア)、おばあさま(グランメール)。どうしようもないの。貯金をおろせないけれど、手元に真珠がある。母は“予約”を果たしたら、なにがなんでもわたしをパリに引っ張っていき、あたらしい服を買い、古い友人たちを訪ねるつもりだ。なにも外聞を憚はばかることはなく、ヨーロッパに来たのはもっぱら社交のためだと世間に知らしめるために。そこで真珠の出番となる。わたしは真珠と別れを惜しんだ。留め金にスクエアカットのエメラルドをひと粒あしらった、乳白色の見事なネックレス。フィンが車をつけた質屋に威張って入ってゆくと、カウンターに真珠をドンと置いて、言った。「いくら出せます?」
 質屋の主人は目をぱちくりさせたものの、愛想よく応えた。「しばらくお待ちを、お嬢さん。大事な注文を片付けてしまいますから」
「常套手段だ」意外にも今度はわたしについてきたフィンが、小声で言う。「客を苛立たせて、言い値で買い取る魂胆だ。しばらく腰を据える覚悟でいることだ」
 わたしは顎を突き出した。「一日じゅうだって粘るつもりよ」
「おれはガードナーの様子を見てくる。ここから家までそう遠くないからね。おれをまいたりするなよ、お嬢さん」
「いちいち“お嬢さん”をつける必要ないわよ」“お嬢さん”と呼ばれてまんざらでもなかったが、かえって馬鹿にされている気がしないでもない。「バッキンガム宮殿じゃあるまいし」
 彼は肩をすくめ、出ていった。「わかったよ、お嬢さん」ドアが閉まる間際に彼が言う。わたしは頭を振り、祖母の真珠を握ったまま座り心地の悪い椅子に腰をおろした。それから三十分以上経ってようやく、店主がわたしに注意を向け、宝石鑑定ルーペで真珠を調べた。「あなた、騙されましたね、お嬢さん」店主がため息混じりに言った。「ガラス真珠ですよ。良質なガラスだが、ガラスはガラス。せいぜい数ポンドですな、勉強させてもらっても――」
「もう一度調べてください」このネックレスにいくらの保険がかけられているか、セントの位まで憶えている。頭の中でドルをポンドに換算し、その十パーセントを提示してみた。「出所を記した書類などお持ちでは? 売渡証の類は?」店主のルーペがキラリと光り、彼の指がエメラルドの留め金のほうに動く。わたしはネックレスをジリッと引き戻し、押し問答をつづけた。さらに三十分が経過したが、彼はいっさい譲歩せず、わたしはつい声を上ずらせた。
「ほかを当たってみます」わたしがきつい声を出しても、彼は愛想よくほほえむばかりだった。
「よそでもこれ以上の値はつきませんよ、お嬢さん。出所がはっきりしないかぎり。お父上かご主人と一緒なら――あなたがこれを処分する許可を得ていることを証明してくれるような誰か……」
 まただ。はるばる大西洋を越えてきたというのに、わたしにはいまだに父の紐がついている。怒りを見られたくなくて窓に顔を向けると、通行人の中にローズの金髪がちらりと見えた。よく見れば、小走りに急ぐ女学生だ。ああ、ローズ。惨めな気持ちで女学生の後ろ姿を目で追った。あなたは家を出てリモージュに向かったのよね。どうすればそんなことができるの? 若い娘に許されることじゃないのに。わたしは自分で稼いだお金を使うこともできない。自分のものを売ることも、自分の人生をどう生きるか決めることもできない。
 押し問答をいま一度はじめようと気を引き締めたとき、店のドアがバタンと開き、女の声が響きわたった。「シャーロット、あなたって人は――もう、待ってなさいって言ったじゃないの。た、たいした品じゃないにしても、いざ手放すとなったら、年老いた哀れな心が張り裂ける思いなのは知っているはずでしょ。わたしを出し抜けると思っていたの?」
 度肝を抜かれた。イヴ・ガードナーは颯爽と店に入ってくると、目の中に入れても痛くないという顔でわたしを見つめた。着古したプリントのハウスドレスは朝とおなじだが、ストッキングにちゃんとしたパンプスを履いている。節くれだった手を子山羊の革の手袋で隠し、ぼさぼさの髪は結い上げて昔流行った大きな帽子で隠していた。帽子のてっぺんには羽根飾りまでついている。驚きに声も出ないわたしの目にも、彼女はレディに見える。エキセントリックなレディでも、レディはレディだ。
 フィンは腕を組んで目立たぬようにドア枠に寄りかかり、かすかに笑みを浮かべていた。「いざお別れとなると名残惜しいわね」イヴはため息をつき、犬にするようにわたしの真珠を軽く叩き、店の主人によそよそしい笑顔を向けた。「南洋真珠ですのよ、もちろんね、な、亡くなった主人からもらいました」ハンカチで目を拭う。わたしはあんぐり開けた顎が床に落ちないようにするのがせいいっぱいだった。「それから、このエメラルドはインド産ですのよ。ずっと昔に祖父がカウンポールから持ち帰りました。ヴィ、ヴィ――ヴィクトリア女王の時代にね。セポイの反乱、イギリス軍の圧勝」声を落として語るイヴには、ロンドン社交界の優雅さが備わっていた。「そのルーペでもう一度この艶をじっくり見て、正しい値段をつけてもらいましょうか、あなた」
 主人の視線が手入れの行き届いた手袋から、揺れる羽根飾りへと動く。没落した上流階級の婦人そのもの。時代に翻弄されたイギリスのレディが、質屋に宝石を持ち込むの図。「出所を示す書類をお持ちで? なにか証拠となる――」
「ええ、ええ。持ってますとも、どこに入れたかしら」イヴが巨大なハンドバッグをカウンターにドンと置くと、ルーペがカタカタいった。「ほらここに――あら、これはちがうわ。わたしの眼鏡、シャーロット――」
「バッグの中でしょ、おばあさま」わたしは驚愕からなんとか立ち直って言葉をひねり出し、茶番に加わった。
「あなたが持ってるとばかり。そっちのバッグを調べてみて。ないの、ちょっと押さえててちょうだい。たしかこれじゃないかしら? あら、ちがうわね、これは中国のショールの売渡証、どれどれ……出所を示す書類でしょ、ここに入ってるはず――」
 カウンターの上に何枚もの紙が舞い落ちる。なんでも溜め込むカササギみたいに紙を選り分けぺちゃくちゃ囀る姿は、まるで女王とのお茶の時間をちょっと抜け出してきた貴婦人のようだ。ありもしない眼鏡を探してバッグを引っ掻き回し、紙を一枚一枚ご丁寧に光に透かして見ている。「シャーロット、あなたのバッグをもう一度調べてちょうだいな。眼鏡が入っているはず――」
「奥さま」べつの客が入ってきたので、主人が咳払いして声をかけた。イヴはおかまいなしだ。そのやかましさは、ジェーン・オースティンの小説に出て来る未亡人といい勝負だ。「あら、どうか急かさないで。これがそうよ、ええ――あら、ちがうわね、ここに入れておいたはず――」羽根飾りが激しく揺れて、防虫剤のにおいのする羽根を撒まき散らした。主人があたらしい客の応対をしようと動くと、イヴは彼のルーペでその指を叩いた。「ここにいてくださらないと、あなた、まだ話は終わっていないじゃないの! シャーロット、これを読み上げてちょうだいな、年寄りは目が……」入ってきた客はしばらくその場にいたが、埒が明かないと出ていこうとした。
 わたしが映画の端役みたいに突っ立っていると、仏頂面になった主人が言った。「もういいですよ、奥さま。書類は必要ありません――わたしも紳士の端くれですからね、レディの言葉を信用しましょう」
「あら、そうなの」イヴが言った。「それじゃ、値段を聞かせてもらいましょうか」
 しばらく駆け引きがつづいたが、勝負はついたも同然だった。じきに主人が負けを認め、手が切れそうな新札を数えながらわたしの掌にのせていった。わたしの真珠がカウンターの向こうに消える。回れ右をすると、目だけで笑ってドアを押さえるフィンの姿が目に入った。「奥さま?」彼は真顔で言い、老いた公爵未亡人然としたイヴは羽根飾りを揺らしてドアを抜けた。
「ああ」店のドアが閉まると、イヴの声から上流階級のアクセントは消えてなくなった。「おもしろかった」
 ティーカップでウィスキーを呷り、ルガーを構えていたゆうべの酔っ払い女とはまるで別人だ。それを言うなら、けさ会った二日酔いのしわくちゃ婆さんと同一人物とも思えない。まったくの素面できびきびしていて、いまの茶番を意地悪く楽しんでいた。グレーの目がキラキラ輝いている。窮屈なショールを脱ぎ捨てるように、その骨ばった肩から、年齢も、没落貴族の未亡人のオーラも消えてなくなっていた。
「あなたってすごいのね」わたしは札束を握ったまま言った。
 イヴ・ガードナーは手袋をはずしてグロテスクな手をあらわにすると、バッグから煙草を取り出した。片時も手放せないのだろう。「人間なんて愚かなもの。鼻先にもっともらしい話といいかげんな書類をぶらさげておけば、騙すなんてかんたんなのさ。こっちが冷静さを失いさえしなけりゃね」
 まるで他人事のような言い方だ。「いつでも、かならず?」つい突っ込みたくなった。
「いや」彼女の目から輝きが消えた。「いつでもってわけじゃない。でも、きょうのあれは、ちょ、ちょろいもんだった。威張りくさったあの店主、自分の言い値で買い取れると思っていた。だから、あたしを一刻も早く追い出したいと思うように仕向けた」
 彼女の吃音はどうしてひどくなったり、出なかったりするのだろう。質屋で芝居を打っているときには、ほとんどつっかえず、いたって冷静だった。そもそも彼女に芝居っけがあること自体、不思議だ。煙草を掲げてフィンに火をつけてもらうイヴを、わたしはしげしげと眺めた。「わたしのこと嫌いなのに」口から出たのはそんな言葉だった。
「そうさ」彼女は言い、半眼の目でわたしをじろっと見る。高いところにある巣から見下ろす鷲そのものだ。おもしろがっている。でも、そこには好意もやさしさもない。それでもわたしはかまわなかった。彼女はわたしを好いていないけれど、対等に扱ってくれる。子供扱いしないし、身持ちの悪い女扱いもしない。「だったら、あの店でどうして助けてくれたんですか?」
「金のためだって言ったら?」彼女はわたしが握る札束に目をやった。そういうことか。「あんたのいとこの消息を知ってるかもしれない人間のところに、あんたを連れていってあげてもいいけど、ただってわけにはいかない」
わたしは目を細めた。長身のスコットランド男と長身のイギリス女に挟まれて、自分の背の低さを呪いたくなった。「けさ、電話をした相手が誰なのか教えてくれなければ、一ペニーだって払いませんから」
「いまはボルドーに配置されているイギリス人将校」彼女は間髪をいれずに答えた。「三十年来の知り合いでね、彼とは。でも、休暇で留守だった。だから、べつの知り合いに電話してみた。なにか知っていそうな女。〈ル・レテ〉という名のレストランのこと、オーナーだった男のことを尋ねたら、電話を切りやがった」鼻を鳴らす。「あの女、なにか知ってる。直接会って話をすれば、な、なにか探り出せるはず。それが無理でも、イギリス人将校からは情報を得られるにちがいない。ラ・マルシュで鴨を撃ってるそうだよ。戻るころを狙って会いに行く。それだけでも一ポンドの価値はあるんじゃないの?」
 彼女が実際に要求してきたのは一ポンドどころではなかったが、それはそれでかまわなかった。「わたしがムッシュー・ルネの名を出したとき、あなたは急に興味を示した、あれはどうしてですか?」わたしだって負けてはいられない。「苗字もわからない人間を、あなたが知ってるのはなぜ? それとも、レストランの名前のほうだった?」
 イヴが紫煙の向こうでにやりとする。「とっととうせな、ヤンキーのお嬢ちゃん」彼女がにこやかに言った。
 こういうときは吃音が出ないのね。こんなに荒っぽい言葉遣いの女は、イヴ・ガードナーがはじめてだ。フィンは何食わぬ顔で空を見上げていた。
「いいでしょう」わたしは紙幣を一枚ずつ数えながら彼女の手に握らせた。
「それじゃあたしの要求した額の半分じゃないか」
「残りはあなたのお友達と会って話をしてから」わたしもにこやかに言った。「そうじゃないと、わたしをそっちのけで酒浸りになりそうだから」
「かもしれないね」イヴはそう言うが、そんなことにはならないとわたしは思っていた。彼女が欲しがっているのは、わたしのお金だけではない。きっとそうだ。
「それで、どこへ行けばあなたの古いお友達の、その女性に会えるのかしら?」ラゴンダに乗り込むと、わたしは尋ねた。フィンは運転席に、イヴは真ん中に座り、さりげなく彼の肩に腕を回した。わたしはドアに押し付けられながら、残りの紙幣をバッグにしまった。
「どこに行くんですか?」
「フォークストン」イヴが煙草をダッシュボードに押し付けて消そうとすると、フィンが引ったくって窓から捨て、彼女を睨む。「フォークストンから船で――フランス」



4 イヴ

 1915年5月

 フランス。イヴがスパイとして活動することになる場所。スパイ。イヴはとりあえずその言葉を思い浮かべ、子供が乳歯の抜けたあとの穴を突くように、その言葉を突いてみる。みぞおちのあたりがザワザワする。不安と興奮で。あたしはフランスでスパイになる。
 でも、フランスの前に、フォークストン。
「きみをファイルルームから引き抜いて、そのまま敵の領土に落とすとでも思っているのか?」キャメロン大尉が言った。イヴの荷物が詰まった旅行カバンを持ってくれた彼と、二人で汽車に乗り込んだ。下宿屋の居間で紅茶のポットをあいだに、彼がイヴを勧誘したつぎの日だった――あの晩、イヴはそのまま彼についていきたかった。礼儀作法などどうでもいい、着の身着のままでかまわないと思ったが、大尉は日をあらためてちゃんと迎えに来ると言ってきかなかった。そんなわけで、彼が差し出す腕に手を添え、まるで休暇に出掛けるように駅に向かった。イヴを見送ってくれたのは猫だけだった。イヴは虎猫の鼻にキスしてささやいた。お隣のミセス・フィッツを頼りなさい。あたしがいないあいだ、おまえに残り物をやってくれるよう頼んでおいたからね。
「もし人に尋ねられたら」空いているコンパートメントに落ち着くと、キャメロン大尉が言った。「わたしのことはおじと紹介するんだ。かわいい姪っ子を連れてフォークストンに日光浴に行くところだ、とね」ドアをしっかりと閉め、コンパートメントには二人きりで、話を聞かれる心配はないことを確認した。
 イヴは首を傾げ、彼の顔としわくちゃのツイードのジャケットを見回した。「あたしのおじさんにしては若すぎるんじゃありませんか?」
「きみは二十二歳だが見た目は十六歳だ。わたしは三十二歳だが、四十五歳に見える。きみのおじのエドワードで通す。それがわれわれの隠れ蓑、いまもこれからも」
 彼の本名はセシル・エルマー・キャメロンというそうだ。私立初等学校、王立陸軍士官学校、かすかにスコットランド訛りがあるのは、最初の配属地がエジンバラだったからだろう――彼の公の経歴を知っているのは、申し出を受けたときに事細かに話してくれたからだ。秘密厳守のこの仕事では、私生活については最小限必要なことしか教えてもらえない。それを思い知ったのがこれだ。コードネーム。いまから彼は“エドワードおじさん”だ。みぞおちがまたしてもザワザワした。「あたしのコ、コードネームは?」キプリングやチルダーズやコナン・ドイルの小説を読んだことがある――『紅はこべ』のようなくだらない小説の中でさえ、スパイはコードネームを持ち、変装する。
「いずれわかる」
「フランスのど、ど――どこへ行くことになるんですか?」彼の前でなら、言葉がつっかえても気にならない。
「そう先走らずに。まずは訓練だ」彼がほほえむと目尻のしわが深くなった。「落ち着いて、ミス・ガードナー。興奮が顔に出ている」
 イヴは即座に陶器の人形のような顔を作った。
「それでいい」
 フォークストン。戦前は眠ったような海辺の町だった。いまは、毎日のように難民を乗せた船が着く、賑やかな港町だ。桟橋で飛び交うのは、英語よりフランス語やオランダ語だ。人でごった返す駅舎を出て、比較的すいている海辺の遊歩道を歩きはじめてようやく、キャメロン大尉が口を開いた。「オランダのフリシンゲンを出た船の最初の寄港地がフォークストンなんだ」そぞろ歩きの恋人たちに話を聞かれないよう、彼は足早に歩いていた。
「難民たちに入国を許す前に面接を行なうのもわたしの仕事だ」
「あたしみたいな人間を見つけ出すためですか?」
「それに、きみみたいに海の向こうで働く人をね」
「そ、それぞれ何人ぐらい見つけたんですか?」
「こっちで六人、向こうで六人」
「女性が多いんですか?」イヴにとって知っておきたいことだった。「その――勧誘した人のうち、女性は何人ぐらい?」そういう人たちをなんと呼ぶのだろう? スパイ見習い? スパイ訓練生? なんだか馬鹿みたいだ。いま自分に起きていることが、いまだに信じられない。「女性にそういう役割が巡ってくるなんて、考えたこともなかった」イヴは思ったままを口にしていた。キャメロン大尉(エドワードおじさん)には、彼女から正直な気持ちを引き出す不思議な能力があるようだ。きっと尋問の天才なのだろう。こちらはしゃべったという意識がないままに、すんなりと情報を引き出されてしまう。
「まったく逆だ」大尉が言う。「女性にこそ向いているとわたしは思う。男が疑われたり呼び止められたりする場面でも、女性は目立たずに通り抜けられる。生来の能力なんだろうな。数カ月前にフランス人女性を勧誘したんだ」――彼がふっとほほえんだのは、よほどいい思い出だったからだろう――「彼女はいまや、百以上の情報源を束ねるスパイ網を運用している。しかもそれを苦もなくやってのけた。彼女が送ってよこす大砲の設置場所は最新で正確だから、ものの数日で爆撃できる。驚嘆に値するよ。彼女はすばらしく優秀だ。男女を問わず」
 イヴの競争心がメラメラと燃え上がった。これからはあたしが一番になる。
 彼はタクシーを停めた――「パレード、八番地」そこはイヴが住んでいた下宿屋と大差ない、うらぶれた家だった。詮索好きの隣人が訪ねてきたときには、きっと下宿屋で通しているのだろう。ところが、大尉に案内されて擦り切れた絨毯の居間に入ったイヴを出迎えたのは、仏頂面の萎びた老嬢ではなく、軍服姿の長身の男性だった。
 蝋で固めた立派なひげの先を摘みながら、怪訝な表情でイヴを眺め回す。「若すぎないか」非難がましい口調だった。
「まあ、見ていてください」キャメロン大尉は落ち着いたものだ。「ミス・イヴリン・ガードナー、こちらはジョージ・アレントン少佐だ。あとはお任せしますよ、少佐」
 キャメロンのツイードのジャケットが見えなくなると、イヴはふっと恐怖を覚えたがすぐに打ち消した。怖がっちゃ駄目。自分に言い聞かせた。ここでしくじるわけにはいかないんだから。
 少佐は気が乗らないようだ。女性の勧誘について、彼はキャメロン大尉と意見が合わないにちがいない。「二階の最初の部屋を使いたまえ。十五分後にここに報告に来ること」こうして秘密の世界が開かれた。
 フォークストンにおける訓練は二週間で終わる。麗らかな五月にもかかわらず窓を閉め切った天井の低い部屋で二週間。とてもスパイには見えない生徒たちは、とても兵士には見えない男たちから奇妙で不気味なことを教わった。
 勧誘時にキャメロン大尉はあんなことを言っていたが、生徒のうち女性はイヴただ一人だった。講師は端から彼女を相手にせず、めったに彼女を指すことはなかった。クラスメートを観察する時間が持てて、イヴにはかえってありがたいぐらいだった。クラスメートは四人。ひとつとして似たところのない四人だ。イヴがいちばん驚いたのがそこだった。新兵徴募のポスターには、似たような顔の強く逞しい兵士がずらっと並んでいたが、あれは理想の兵士だったのだ。似たり寄ったりの壮健な男たちの列、連隊、大隊。スパイ徴募のポスターに登場するのは、まるで似ていない人々、まるでスパイに見えない人々だ。
 グレーのひげを蓄えた無骨なベルギー人。フランス人が二人。一人はリヨン訛りがあり、一人は片足が不自由だ。最後が細身のイギリスの若者で、ドイツ人を忌み嫌うこと、憎しみの炎で体が燃え上がりそうだ。彼は優秀なスパイにはなれない、とイヴは判定した。自分を抑えられない――足が不自由なフランス人にもそれは言える。自分の思いどおりにならないと、すぐに拳を握り締める。極度の緊張に曝される状況でいかに自制するか、訓練の眼目はそれで、面倒な技能を身につけるには無限の忍耐力が必要になる。錠のこじ開け方、単語ごとに暗号書を作るコードの読み方、変換表を使って文字をほかの文字に置き換えるサイファーの仕組み。いろいろな種類の不可視インクの作り方と読み方。地図の読み方と書き方、情報を記したメモの隠し方――数え上げればきりがない。ライスペーパーのごく小さな切れ端に情報を記す練習で、ベルギー人は四苦八苦していた。その手ときたらハムの塊みたいに太いのだから。でも、イヴはタイプライターのカンマほどの文字をすぐ
に書けるようになり、細身のロンドンっ子の講師は、その出来栄えに満足し、目をかけてくれるようになった。
 たったの二週間。二週間でこんなに変われるとは、イヴには驚きだった。それとも、変わったのではなく、ほんとうの自分がおもてに出ただけでは? 古い殻がなくなった気がする。心にも体にも重くのしかかっていた殻を、薄紙を剥ぐように一枚また一枚と脱ぎ捨てたのだ。毎朝、元気に目覚めると布団をパッとはねのけてベッドから飛びおりる。きょうはどんな驚きに出会えるか待ち遠しくてたまらない。器用な指を自在に操り、小さな紙の切れ端に文字を記し、秘密を打ち明けてと錠を説得する。錠のタンブラーがはじめてカチッというのを感じたときの強烈な喜びときたら。それに比べれば、はじめて男性にキスを求められたときの喜びなんてたいしたことはない。
 あたしはこのために生まれたんだ、とイヴは思った。あたし、イヴリン・ガードナーの居場所はここ。
 一週間が過ぎると、キャメロン大尉が様子を見にやって来た。「わたしの生徒はどうしているかな?」空気のこもった粗末な教室にふらっと入ってきて尋ねる。
「順調ですわ、エドワードおじさま」イヴは澄まして言った。
 彼が目だけで笑う。「いま練習しているのはなに?」
「メモの隠し方」袖口の縫い目を手早く切り、小さく丸めたメモを差し込むやり方、それをさっと取り出すやり方。それにはスピードと指の器用さが求められ、イヴにはその両方が備わっていた。
 大尉は机の端に尻をのせた。その日は軍服を着ていた。はじめて見る軍服姿で、よく似合っていた。「メモを隠す場所はいくつぐらいある? きみがいま着ている服に」
「袖口、裾、手袋の指先」イヴは言う。「髪に差すのは言うにおよばず。指輪の内側に沿わせる。く、靴の踵――」
「なるほど、最後のは忘れたほうがいい。靴の踵のトリックはドイツ軍にばれてしまった」
 イヴはうなずき、記憶に刻んだ。白紙の小さなメモを丸めると、ハンカチの縁にさっと差し込んだ。
「きみのクラスメートは射撃訓練を受けている」大尉が言った。「どうしてきみは受けないんだ?」
「アレントン少佐が、その必要なしと考えているから」女が拳銃を撃つ姿など見ていられない。少佐のそのひと言でイヴは外され、クラスメートは貸与されたウェブリーを構えて的を狙っている。クラスメートは三人に減っていた――細身のイギリスの若者は不適格と判断され、泣く泣く去っていった。ドイツ軍と戦いたいなら陸軍に入りなさいよ。イヴはまったく同情しなかった。
「きみも射撃訓練を受けるべきだ、ミス・ガードナー」
「少佐の命令に背くことになりませんか?」キャメロンとアレントンは馬が合わない。イヴは初日に気付いた。
 キャメロンが短く言う。「わたしについてきなさい」
 彼がイヴを連れていったのは射撃訓練場ではなく、桟橋の喧騒から遠く離れた浜辺だった。肩にかけたリュックを一歩ごとにガチャガチャいわせながら、水辺へ向かって歩いていく。イヴがあとを追う。ブーツが砂に埋まり、きれいに巻いた髪が風になびく。午前中なのに気温が高かったのでジャケットを脱ぎたかったが、おじさんでもなんでもない男と人気のない浜辺を歩くだけでも不道徳とみなされる。ミス・グレグソンやファイルガールたちがこれを見たら、きっと眉をひそめるだろう。イヴはそんな思いを脇に押しやり、ジャケットを脱いだ。世間体なんて考えていたらスパイになれるわけがない、と自分に言い訳しながら。
 大尉は流木を見つけると、ガチャガチャいうリュックから空き瓶を何本も取り出し、流木の上に並べた。「これでいい。十歩さがりたまえ」
「もっと遠くから狙ったほうがいいんじゃありませんか?」イヴは言い返しながら、打ち上げられた海草の上にジャケットを置いた。
「人を狙う場合、ちかづいて撃つほうが命中する確率は高い」キャメロン大尉は距離を測り、自分のホルスターから拳銃を抜いた。「これはルガーの九ミリP08――」
 イヴは鼻にしわを寄せた。「ドイツの、け、拳銃?」
「馬鹿にしちゃいけない、ミス・ガードナー、イギリスの拳銃よりはるかに精巧で頼りになる。わが軍はウェブリーMkⅣを使っている。きみのクラスメートが訓練に使っているのもそれだ。きっと苦戦しているだろう。ウェブリーをうまく扱えるようになるには何週間もかかるからね。そこへいくとルガーは楽だ。数時間練習すれば的に当たるようになる」
 大尉は手早く拳銃を分解して部品の名前を教え、イヴに組み立てさせては分解させた。そうこうするうち、ぎこちなかった指の動きがなめらかになっていった。コツを呑み込んで扱いに慣れてくると、興奮の波が押し寄せてきた。地図を読み解き、暗号を解読できるようになったときとおなじ、ワクワクする感覚だ。もっともっと与えてちょうだい、とイヴは思った。
 つぎに大尉は弾の込め方や抜き取り方を教えてくれた。彼は待っている。部品をいじくるだけでなく撃たせてくれ、とイヴが言い出すのを。忍耐の緒が切れるのを待ち構えているのだ。イヴは風に乱れる髪を耳にかけ、おとなしく指示に耳を傾けた。一日じゅうだって我慢できるわよ、大尉。
「さて」ついに大尉が言い、流木の上に並ぶ空き瓶を指差した。「弾は七発。銃身の先の照準を合わせる。ウェブリーのように跳ね返りはしないが、それでも反動はある」それから、イヴの肩と顎と指関節に触れながら姿勢を直させた。下心など微塵も感じさせない触れ方だった――ナンシーで鴨猟に出掛けると、フランス人の少年たちが寄ってきたものだ。獲物の狙い方を教えてやるよ。そう言うと腕を彼女の体に巻き付けてきた。
 大尉はうなずいて一歩さがった。強い海風が彼の短い髪を揺らし、背後で紺鼠色の海峡を波立たせた。「撃て」
つづけて七発撃つと、銃声が誰もいない浜を震わせたが、一発も命中しなかった。失望が胸をチクチク刺したが、イヴは顔には出さなかった。ただ弾を込める。
「きみはなぜこれを望んだんだ、ミス・ガードナー?」大尉は尋ね、もう一度やってみろとうなずいた。
「自分の本分を尽くしたいからです」イヴはまったくつっかえなかった。「そんなにおかしいことですか? 去年の夏、戦争がはじまると、イギリスの若者たちは我先にと入隊して男をあげました。彼らに、なぜそうしたんだと尋ねた人がいましたか?」イヴはルガーを構え、慎重に間をおきながら七発すべて撃った。そのうち一発が瓶をかすり、ガラスの破片が飛んだが割れるまではいかなかった。失望がチクリと胸を刺す。でも、いつかきっと一番になる。イヴは誓った。リールで勧誘したあなたの秘蔵っ子よりも優秀なスパイになってみせる。
大尉がべつの質問をした。「きみはドイツ人を憎んでいるのか?」
「あたしが生まれ育ったナンシーから、ドイツはそう遠くありません」イヴはまた拳銃に弾を込めた。「そのころは憎んでなかった。でも、フランスに侵攻してズタズタにし、フランスの、よ、よいものをすべて分捕っていきました」最後の一発を込める。「彼らにそんな権利があるんですか?」
「ないな」大尉がじっとイヴを見つめる。「だが、きみのは愛国心というより、自分の能力を発揮したい衝動だな」
「そうです」自分に正直になるのは気分がいい。彼女がいちばん望んでいることだ。胸が苦しくなるぐらい望んでいた。
「心持ち握る力をゆるめて。引き金を引くというより握り締める感じ。引くことばかり考えるから、狙いが右にずれる」
二発目で空き瓶が吹き飛んだ。イヴはにやりとした。
「これをゲームと考えるな」大尉がじろりとイヴを睨む。「ドイツの豚野郎を打ち負かそうと、多くの若者がカッと熱くなるのを見てきた。兵士ならそれもいい。塹壕で過ごす最初の週に、そんな幻想は打ち砕かれる。傷つくのは彼らの無邪気さだけだ。だが、スパイは何事にも熱くなってはならない。これをゲームだと考えるスパイは命を落とす。仲間を道連れにする。ドイツ兵は賢くて情け容赦ない。馬鹿なドイツ野郎の噂を耳にしているだろうが、きみがフランスの地を踏んだその瞬間から、彼らはきみを捕まえるのに血眼になる。きみは女だから、壁の前に並ばされて撃ち殺されることはないかもしれない。先月、わたしがルーベに送り込んだ十九歳の少年が、そういう末路を辿った。きみの場合は、ドイツの牢獄で朽ちるに任せられるだろう。ネズミに囲まれゆっくりと餓死する。誰も助けてくれない――わたしすらも。わかるか、イヴリン・ガードナー?」
またあたしを試すのね、とイヴは思った。鼓動が激しくなる。ここでしくじればフランスに近寄ることさえできない。しくじれば、下宿屋に戻り、手紙をファイルして暮らす。そんなのいやだ。
でも、正しい答えはなに?
大尉は待っている。じっとこちらを見つめて。
「ゲームだなんて思ったことはありません」イヴは思い切って言った。「ゲ、ゲームなんてやらない。子供がやるものだもの。見た目は十六歳でも、あたしは子供じゃありません」拳銃にまた弾を込める。「しくじらないと約束はできませんけど、たとえしくじったとしても、遊びだと考えたからではない」
イヴは彼の視線をがっしり受け止める。鼓動はまだ速かった。正しい答えだった? わからない。でも、思いついたのはこれだけだ。「きみはドイツに占領されたリールに送り込まれることになる」ようやく大尉が言った。安堵のあまりイヴの膝がガクッとなった。
「だが、その前にル・アーヴルに行ってもらう。そこで連絡員に会うんだ。きみの名前はマルグリット・ル・フランソワ。自分の名前のように、呼ばれたらすぐ反応できるよう頭に叩き込んでおくんだ」
マルグリット・ル・フランソワ。英語に直せば“フランスのデイジー”。イヴの顔がほころぶ。無知な女の子にぴったりの名前。誰も洟もひっかけない女の子。無害な小さなデイジー、草に埋もれて清らかな花を揺らしている。
キャメロン大尉もほほえんだ。「ぴったりだと思った」彼は空き瓶を指差す。残りは六本――彼の日焼けした手、左手に金色の結婚指輪が光る。「さあ、もう一度」
「もちろん(ビアン・スール)、エドワードおじさま(オンクル・エドゥワール)」
夕方ちかくには、空き瓶すべてが吹き飛んでいた。彼の指導のもと、あと数日練習すれば、七発の弾で七本の空き瓶を吹き飛ばせるだろう。
「たいそう長い時間をきみにかけているじゃないか」ある日の午後、射撃訓練を終えて教室に戻ったイヴに、アレントン少佐が言った。訓練初日以来、話しかけてくることのなかった少佐が、意味ありげな視線をよこす。「せいぜい気をつけることだな」
「お、おっしゃることの意味がわかりません」イヴは席に着いた。暗号解読のクラスにいちばん乗りだった。「大尉は完璧な紳士ですから」
「それほど完璧ではないかもしれない。悪事がばれて三年の刑に服した過去があるんだからな」
イヴは椅子から転げ落ちそうになった。かすかにスコットランド訛りのあるキャメロンの紳士的な声、私立校で身につけた非の打ち所のない文法、穏やかな眼差し、優雅な身のこなし。その彼が、刑に服した?
少佐は蝋で固めたひげをいじくりながら、彼女が詳しい話をせがむのを待っている。イヴはスカートのしわを伸ばしながら無言を通した。「詐欺だよ」彼のほうから言う。位の下の者の噂話をするのが楽しくて仕方ないようだ。「きみも知りたいだろうから話すが、彼の女房が、真珠のネックレスを盗まれたと訴えてね。それが保険金詐欺だったんだ。巧妙な犯罪だよ。女房の代わりに彼が罰を受けたんだが、実のところはどうだったんだか」イヴの表情に、少佐は満足したようだ。「刑に服したなんて、彼から聞いていないんだろうな、ええ?」ウィンクする。「女房のことも」
「どっちにしても」イヴは冷ややかに言った。「あたしには関係ないことですから。国王の軍隊に復職し、要職に就いているのですから、あたしがと、と――とやかく言う立場にはありません」
「果たして要職と言えるかどうか疑問だがね。戦時だからおかしな連中も入ってくる。総力戦だからな。脛に傷を持つ連中も迎え入れるってわけだ。キャメロンは恩赦になって復職を果たしたが、わたしだったら娘を彼と二人きりで浜辺に行かせたりはしない。一度は塀の中にいた男だから――」
キャメロンの長い手がルガーに弾を込める様は思い浮かべることができるが、その手がなにかを盗むなんて、イヴには想像できない。「お、お、お話はそれだけですか、サー?」むろんもっと知りたかったが、滑稽なひげを蓄えた底意地の悪いセイウチみたいな男に尋ねるぐらいなら、首を吊ったほうがましだ。少佐はがっかりして去っていった。翌日、イヴはキャメロンの様子をこっそり窺ったものの、彼に直接尋ねることはしなかった。フォークストンにいる人たちはみな、秘密のひとつやふたつ持っているのだから。訓練の最終日、彼女がきちんと荷物を詰めた旅行カバンに、キャメロンは贈り物だと言ってルガーを忍ばせてくれた。「あすの朝、きみはフランスに向けて出発だ」
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