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モダンホラーの奇才による、怪奇幻想中篇集『怪奇日和』試し読み

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怪奇日和
[著]ジョー・ヒル
[翻訳]白石朗:玉木亨:安野玲:高山真由美

(以下、本分より抜粋)


 そのときシェリー・ビュークスはドライブウェイのとっつきに立ち、わたしの一家が住んでいた薄紅色の砂岩づくりのランチハウスを、初めて見るような目つきで見あげていた。身に着けていたのはハンフリー・ボガートにこそ似合いそうなトレンチコートで、手にはパイナップルや南国のエキゾチックな花が描かれた大きな布製のトートバッグをもっていた。スーパーマーケットへ行くところだといわれても信じそうだったが、それは歩いていける距離にスーパーがあればの話で、じっさいには一軒もなかった。二度見してようやく、その姿のどこがおかしいかが理解できた。シェリーは靴を履きわすれていて、そのせいで足が汚れていたのだ――いや、はっきりいうと泥で真っ黒になりかけていた。
 わたしはガレージで“カガク”に勤いそしんでいた――“カガクする”というのは父の用語で、動作になんの問題もない掃除機やテレビのリモコンをわたしがめちゃくちゃに破壊すると決めて実行しているときを指していた。なにかをつくるよりも壊すことのほうが多かったが、〈アタリ〉のジョイスティックとラジオを巧みに接続して、〈発射〉ボタンを押せばラジオ局からラジオ局へ一気にジャンプできるように改造したこともあった。きわめて初歩的で単純な仕掛けだったにもかかわらず、八年生の科学コンテストの審査員たちが感心した結果、独創性ありとしてブルーリボン賞をもらえた。
 シェリーがうちのドライブウェイのとっつきに姿を見せた朝、わたしはパーティーガンの製作にとりくんでいた。見た目はパルプ雑誌時代のSFに出てきた死の光線銃にそっくり――あちこちへこんでいる真鍮しんちゆう製の大きならっぱと、ルガーのグリップと引金とを組みあわせたものだった(本体をつくるため、じっさいにトランペットとモデルガンをはんだでくっつけていた)。けれどもこの光線銃もどきの引金を引くとクラクションめいた音が鳴って、フラッシュが光り、同時に紙吹雪と紙テープが嵐のように噴きだすことになっていた。このパーティーガンが首尾よくつくれたら、父さんとふたりでどこかのおもちゃ会社にアイデアをもちこんでもいいし、パーティーグッズやノベルティ商品で有名な小売チェーンのスペンサー・ギフト社あたりにアイデアを貸しだすライセンス契約も結べるかもしれないと考えていた。絶賛売りだし中の発明家の例に洩もれず、わたしも基本的には一連の幼稚でふざけた思いつきを研とぎあげることで、なにかをつくろうとしていた。グーグル社内には、子供のころ女の子のスカートを透視できるX線ゴーグルの発明を夢想しなかった者はひとりもいないのではないか。
 最初にシェリーに気がついたのは、パーティーガンの銃身を外の通りにむけているときだった――照準のまんなかにシェリーが見えた。わたしは昔のらっぱ銃めいた馬鹿げた形のパーティーガンをおろすと、目を細くしてシェリーをまじまじと見つめた。こっちから向こうの姿は見えたが、向こうからこっちは見えていなかった。向こうにいるシェリーがガレージをのぞきこむのは、鉱山のひらけた入口よりも奥、先の見とおせない闇をのぞくようなものだったはずだ。
 声をかけようかと思ったが、足が目にはいるなり、のどの奥で空気が詰まって声が出なくなった。しばらくまったく声を出さずに、ただシェリーを見ていた。シェリーは唇を動かしていた。ひとりごとをいっていたのだ。
 それからシェリーは、何者かがこっそり背後から忍び寄ってくるのを恐れているかのように、いきなりうしろをふりかえった。でも、外の通りにはだれもいなかった――世界は湿気でむんむんしていて、あいかわらず垂れこめた雲という蓋ふたで覆われたままだった。いまでも覚えているが、近所の家々はどこもごみを出しおわっていたのに収集車の巡回が遅れていたせいで、外の通りには異臭が立ちこめていた。
 シェリーの姿を目にするのとほぼ同時に、この女性を驚かせるのは禁物だと感じられた。そう警戒したことに、はっきりした理由があったわけではない。しかし人間の最上の思考の多くは、意識で認識できているレベルよりも下、つまり無意識の部分でかたちづくられるもので、論理的な考え方とは縁もゆかりもない。猿の脳味噌のうみそは、わたしたち人間が受けとってはいても、そのことにさえ気づかない微細な手がかりを受信して、大量の情報を引きだしている。
 そんなこんなだから、スロープになったドライブウェイをぶらぶら下っていくときには、両手の親指をポケットにひっかけ、シェリーのほうをまっすぐ見もせず進んでいった。地平線のほうへむけた目を細くして、いかにも遠くの空を飛んでいく飛行機を見ているようなふりをしたのだ。いってみればシェリーに近づいていくときのわたしは、足を引きずっている野良犬に近づく流儀にならっていた――親しくなりたいという希望から手をぺろぺろ舐なめてくるか、あるいは上唇をめくりあげ、口中の牙を剥むきだしにして跳びかかってくるかもわからない野良犬に。だからわたしは、腕を伸ばせば相手に触れられるほど近づいてから初めて声をかけた。
「ああ、こんにちは、ビュークスさん」わたしは、これまでまったく気づかなかったような顔でいった。「どうかしました?」
 シェリーはさっと顔をわたしにむけてめぐらせ、ふっくらした丸顔の表情がたちまち愛想のいい柔和なものに変わった。「それが、なんだかわけがわからなくて! だって、ここまでわざわざ歩いてきたのに、なんで歩いてきたのかを忘れちゃったの。きょうはお宅のお掃除にうかがう日ではないのに!」
 まったく予想外の言葉だった。
 さらにさかのぼった昔々、シェリーは毎週火曜日と金曜日の午後うちに来て、四時間かけて家の床にモップをかけ、掃除機をかけ、整理整頓をしてくれていた。そのころすでに年をとってはいたが、身ごなしも筋力のたくましさもオリンピックのカーリング選手なみだった。金曜日に帰る前には、棗椰子の実デーツを詰めたケーキのように柔らかいクッキーをひと皿つくり、サランラップをかけていってくれた。絶品中の絶品のクッキーだった。あんなクッキーはいまではどこへ行こうとも食べられない。フォーシーズンズ・ホテルで食べるクレームブリュレといえども、紅茶の一杯といっしょに食べるあのクッキーにはぜったいかなわないだろう。
 しかし、わたしがあとわずか数週間でハイスクールに通いはじめるという一九八八年八月のこの時点では、シェリーが定期的にわが家を訪れて掃除をしなくなってから、すでにわたしの人生の半分が経過していた。シェリーが来なくなったのは一九八二年に心臓の三重バイパス手術を受けたあと、医者から時間をとって体を休めるように申しわたされたことがきっかけだった。そんなわけでシェリーはそのあとずっと療養生活だった。そのことを当時のわたしはあまり真剣に考えなかったが、考えていれば、そもそも最初にどうしてこの仕事についたのかと疑問を感じたはずだ。というのも、シェリーにはお金に困っている雰囲気がこれっぽっちもなかったからだ。
「ビュークスさん? ひょっとしてマリーを手伝いに、うちに来てくれと父から頼まれたんじゃないですか?」
 マリーというのはシェリーの代わりにうちの掃除に来るようになった二十代はじめの女性で、立派な体格をしていたものの、おつむはあまり立派ではなかった。笑い声は大きく、ハート形のおっぱいは当時のわたしが夜ごと股間のソーセージをしごく儀式に妄想のイメージを供給してくれた。ただし、父がマリーに手伝いが必要だと考える理由には心当たりがなかった。わたしの知るかぎり、わが家には来客の予定はまったくなかった。そもそも、当時のわが家に来客があったかどうかさえ、いまのわたしにははっきりわからない。
 つかのま、シェリーの顔から笑みが薄れた。それからまた頭をうしろへめぐらせ、不安をたたえた例の目つきで道の先のほうをながめた。そのあとわたしの顔に視線をもどしたときには、シェリーの顔にはもう愛想のよさの淡い名残がのぞくだけになり、両目は恐怖をいっぱいにたたえていた。
「わからないのよ、坊っちゃん――教えてほしいくらい! わたしはバスタブをお掃除するはずじゃなかった? ほら、先週はちゃんときれいにできなくて、ずいぶん汚れていたから」シェリー・ビュークスはトートバッグの中身をかきまわしながら、ぶつぶつひとりごとをいった。そのあと顔をあげたときには、シェリーはもどかしい気持ちもあらわに上下の唇をぎゅっと横に引き結んでいた。「ちくしょう。家を出てくるときクソったれフアツキングな〈エイジャックス〉を忘れてきたみたい」
 わたしは思わずびくんとした――たとえシェリーがトレンチコートの前をひらいて裸を見せたとしても、ここまで驚きはしなかっただろう。シェリー・ビュークスは人が思うような堅苦しくてお上品ぶったご婦人ではなかった――ジョン・ベルーシのTシャツを着て家の掃除をしていた覚えもある――が、“ファック”のような卑語をわたしの前で口にしたことはなかった。“ちくしょう”でさえ、ふだんのこの女性の会話からすれば、いささか乱暴な言葉づかいだといえた。
 シェリーはわたしの驚きにも気づかないまま、言葉をつづけていた。「バスタブはあしたには掃除しますと、そうお父さまに伝えておいて。ええ、それこそ十分もかけずに、だれもおケツを入れてない新品のバスタブみたいに、ぴっかぴかにしますって」
 シェリーが肩にかけていた布製のトートバッグの口がだらしなくひらいていた。バッグをのぞくと、そこにはいっていたのは芝生に飾る地の神ノームの汚れた人形がひとつと炭酸飲料の空き缶が数個、それにぼろぼろになったスニーカーの片っぽだけだった。
「やっぱり家に帰ったほうがいいみたい」シェリーはいきなり、ロボットっぽい口調になっていった。「あのアフリカーナーが、わたしはどこへ行ったのかと心配しそうだから」
 アフリカーナーといえばもっぱら南アフリカ共和国のヨーロッパ系白人を指すが、いま話に出たのはシェリーの夫のロレンス・ビュークスのことだった。ラリーという愛称で呼ばれていたこの人は、わたしが生まれる前に南アフリカのケープタウンからこっちに移住してきた。この話の時点で七十歳だったラリー・ビュークスは、わたしが知っているなかではもっともたくましい体格の男だった。なにせ元ウェイトリフティングの選手で、腕はまるで彫刻のよう、血管が浮きあがった首はサーカスの怪力男そのままだった。巨体であることはラリーの職業上の必要条件だった。アーノルド・シュワルツェネッガーのオイルを塗られた圧倒的迫力の肉体が、筋肉の力で大衆の意識にずんずんわけいっていったように、ラリーは七〇年代にトレーニングジムのチェーン店を次々にひらくことで富を築いた。ラリーとアニーことアーノルドは、かつておなじカレンダーに出たことがある。ラリーは二月、雪の降るなか、金玉専用ハンモックといえそうなタイトな黒い下着一枚の姿でストレッチにはげんでいた。アニーは六月、ビーチでぬらぬらと光る裸体をさらし、巨人にふさわしい太い腕のそれぞれにビキニ姿の若い女をすわらせていた。
 シェリーは最後にもう一度だけ顔をうしろへむけて視線を飛ばすと、せかせか歩きはじめた――といっても、家からはさらに遠ざかる方向へ。しかもわたしの顔から視線をはずした瞬間、もうわたしのことをきれいに忘れてもいた。シェリーの顔からあらゆる表情が瞬時にすっぱり落ちてしまったのを見れば、そのことはわかった。シェリーの唇が動きはじめて、ささやき声の疑問を自分へ投げかけていた。
「シェリーさん! すいません、あの……ぼく、ビュークスさんにたずねたいことがあって……」いいながらわたしは、自分とラリー・ビュークスが話しあえるような話題を必死にさがしていた。「……庭の芝刈りにアルバイトを雇うつもりがありませんかってききたくて! だって、ビュークスさんには大事な仕事がほかにあるでしょう? だから、ぼくもいっしょにお宅まで歩いていってもいいですか?」
 いいながらわたしは手を伸ばし、シェリーがふらふら手の届かないところへ行ってしまう前に肘をつかむことができた。
 シェリーはわたしを見ると、体をぎくりとさせた――わたしがこっそり忍び寄ってきたとでもいいたげだった。しかしすぐに、意気揚々とした挑戦するような笑みをむけてきた。
「ええ、うちの老いぼれさんには、人を雇って刈ったほうがいいと話してたの……あれを刈る……あれを……」シェリーの目の光が翳かげった。この人は“芝を刈る”という言葉の“芝”という単語が思い出せないのだ。結局シェリーは最後に小さくかぶりをふって、言葉をつづけた。「そう、だれかにあれを刈らせたほうがいいって、もうずいぶん前からいってる。いっしょにいらっしゃい。そうそう、いいことを教えてあげる」シェリーはその手でわたしの手をぎゅっと包んだ。「あなたが大好きなクッキーがあったと思うの」
 シェリーはそういってウィンクし、この一瞬にかぎっては、わたしがだれだかわかっているにちがいないと思えた――いや、それ以上に自分がだれなのかがわかっているにちがいないとも思った。シェリー・ビュークスがこの一瞬にかぎってはきっちりピントの合った姿になって……またすぐぼやけた。意識が遠ざかっていくのがありありと見えた――調光スイッチがまわされ、電灯がいまにも消えそうなほど暗くさせられるように。
 そんなわけで、わたしはシェリーを家まで送っていった。道路が熱くなっているのに裸足はだしで歩いているシェリーが気の毒でならなかった。蒸し蒸しと暑い日で、蚊が飛んでいた。ややあってシェリーの顔が紅潮し、おばあさんらしいもみあげのあいだを汗のしずくが流れているのが目について、トレンチコートを脱いだほうがいいんじゃないかと思った。ただし、そのときにもひょっとしたらコートの下は本当に全裸なのではないかという思いが頭をよぎったことは認めよう。頭がいろいろと混乱しているいまの状態では、その可能性も除外できないと思ったのだ。わたしは落ち着かない気分を抑え、よければコートをわたしが運ぼうと申しでた。シェリーはすばやく首を横にふった。
「わたしだと見抜かれたくないの」
 この最高に馬鹿らしい言葉を耳にして、わたしは一瞬いまの情況も忘れ、シェリーが昔ながらのシェリーであるかのように応じてしまった――つまりテレビの〈ジェパディ!〉を愛し、無慈悲なまでの決意をにじませてオーヴンの掃除をしていたころのシェリーであるかのように。
「見抜くってだれが?」わたしはそうたずねたのだ。
 シェリーはわたしの顔に顔を近づけ、“しゅっ”という息づかいだけのような声でこういった。「ポラロイド男マン。コンバーティブルを走らせてる、ずるがしこい鼬いたちみたいなクソ男。アフリカーナーがそばにいないときを狙って、わたしの写真を撮るの。あの男のカメラで、これまでどのくらい盗まれたのかはわからない。でも、もうこれ以上は盗ませるものですか」シェリーはわたしの手首をつかんだ。あいかわらず体の肉づきはよかったし、胸も大きかったが、手は骨ばっていて鉤爪かぎづめっぽく、童話に出てくる年老いた魔女の手そっくりになっていた。「あの男に写真を撮られないように用心おし。あの男にいろいろ盗まれるようになっちゃいけないよ」
 それからシェリーはぐいっと頭を反らして目を細め、じろじろとわたしを穿鑿せんさくしはじめた――怪しげな契約書のいちばん下に小さな字で印刷された文章を調べるときのようだった。そのあとシェリーはふんと鼻を鳴らし、肩を揺らしてコートを脱ぐと、わたしに手わたしてきた。コートの下は全裸ではなかった――下は黒いジムショーツ、上は裏返しのTシャツをさらに後ろ前に着ていて、タグがあごの下でひらひらしていた。足はごつごつしたこぶだらけで、思わずぎょっとするほど白く、静脈瘤りゆうだらけの血管がふくらはぎを這はいまわっていた。わたしは汗を吸って皺しわだらけになっているコートを畳んで片腕にかけ、シェリーの手をとって、また歩きはじめた。
 カリフォルニア州クパティーノの街の北にある、わたしたちが住んでいた住宅団地は〈黄金の果樹園ゴールデン・オーチヤード〉といい、このなかを走っている道路は一本のロープをいくたびも折ってからひとまとめにしたようなつくりで、まっすぐな道はどこにもなかった。最初にざっと見ただけでは、さまざまな様式の一軒家がごちゃまぜにならんでいるように見える――こちらはスペイン風のスタッコづくり、あちらは煉瓦れんがづくりの植民地時代様式というふうに。それでもしばらくここで過ごして近所を歩きまわれば、多少の差はあれ、どの家もおなじつくりだということがわかる。間取りもおなじならバスルームの数もおなじで、窓のスタイルもみんなおなじ――そんな家々が、それぞれ異なる衣装をまとっているだけだ。
 ビュークス家は擬似ヴィクトリア朝様式だったが、そこに海岸の雰囲気がいくぶん加味されていた――玄関前ステップに通じているコンクリートの通路のそこかしこに貝殻が埋めこまれ、玄関ドアには漂白されたひとでの飾り物が吊つってあった。もしかしたらミスター・ビュークス経営のスポーツジムは海神の名前を拝借して〈ネプチューン・フィットネス〉という名前だったのか? それとも〈アトランティス・アスレチックス〉? いや、ジムでつかわれている筋トレマシンが、同名の有名な潜水艦がある〈ノーチラス〉というブランドだったからか? そのあたりはもう思い出せない。この日――一九八八年八月十五日――の多くのことは、いまもまだ鮮明に記憶に残っているが、いま話に出た特定の部分については、当時からあまりはっきりとは記憶していなかったようだ。
 わたしはシェリーを玄関まで連れていってドアをノックし、さらにドアベルを鳴らした。なにもせずにシェリーを家のなかへ入れてもよかったのだろうが――なんといっても、ここはシェリーの自宅だ――この日の場合にはふさわしくないと思えた。わたしはご主人のラリー・ビュークスにシェリーがどこを徘徊はいかいしていたのかを伝え、シェリーの頭がどれほど混乱しているのかを――できれば相手にばつのわるい思いをさせずに――伝えられる言葉を見つけなくてはならなかった。
 シェリーは、ここが自宅だとわかっているそぶりをいっさい見せていなかった。ステップのあがり口で足をとめ、落ち着き払った顔でまわりを見わたしながら、辛抱づよくただ待っていた。ついさっきまではどこか抜け目なく、ちょっと怖いような雰囲気さえただよわせていた。それがいまでは戸別訪問で雑誌の定期購読を勧誘してまわっているボーイスカウト所属の孫息子に付き添っている、退屈顔のおばあちゃんそのままだった。
 マルハナバチたちが、お辞儀をしているように揺れる白い花にもぐりこんでいった。それを見て、ひょっとしたらラリー・ビュークスは本当にだれかを雇って庭の芝刈りをさせる必要があるのではないかという思いが初めて頭に浮かんだ。庭は手入れもされずに雑草が茂り、芝生のあちこちからたんぽぽが顔を出していた。家の外壁も高圧洗浄器できれいにしたほうがいい――外壁のずっと上、軒下のあたりには点々と黴かびがはえていた。わたしがこの家の前を最後に歩いてから、ずいぶんたっていた。おまけに、とおりいっぺんに視線を滑らせるだけではなく、最後にちゃんと見たのがいつだったかとなると、まったく見当もつかなかった。
 以前ならラリー・ビュークスが、それこそプロイセンの陸軍元帥にも匹敵する勤勉さと行動力で家と庭の維持管理メンテナンスをしていた。週に二回は筋肉をよく見せるノースリーブのTシャツ姿で庭に出て、電動ではない手押し式の芝刈機をつかっていた――よく日焼けした肩を覆う三角筋をぷるぷると小刻みに震わせ、中央に切れ込みのあるあごをこれ見よがしに空へとむけた姿で(ラリーは癪しやくにさわるほどわざとらしくポーズをとっていたのだ)。ほかの家の芝生は緑で、きれいにととのえてあった。ラリーが手入れをした芝生は彫琢されていた。
 もちろん、この話の出来事はわたしが十三歳のときのこと――当時は理解できなかったことが、いまでは理解できる。ラリーことロレンス・ビュークスはすべてを盗まれていったのだ。すでに自分の面倒を見られなくなった女性の面倒を見るというストレスに押しひしがれ、しだいに疲弊していくなかで、ラリーがそなえていた管理能力や、郊外住宅地の暮らしで求められる軽い義務をこなす能力さえ、少しずつじわじわと衰えていたのだ、と。それでもラリーが、まだすべてをこなせると自分を騙だましながら、それまでどおり先へ進んでいけたのは、ひとえに生来の楽観的な性格と精神への条件づけ――お好みならラリーならではの健康観といってもいい――のおかげだったのではあるまいか。
 やっぱりシェリーを連れて自分の家へ帰り、いっしょに待っていたほうがいいのかもしれない……そんなふうに思いはじめたところに、ラリー・ビュークスが運転する十年もののフォード・タウンカーが急ハンドルを切ってドライブウェイに乗りこんできた。刑事スタスキー&ハッチから逃げている犯罪者のような運転だったし、道路からいきなり曲がったせいで片方のタイヤが歩道の縁石にぶつかって乗りあげていた。スエット姿で車外へ降り立ったラリーは足をもつれさせ、あやうく庭にばったり倒れそうになった。
「ああ、よかった、おまえはごごにいたのか! おまえをさがして、ごれまでずっとそごいらじゅうを走りまわっていたんだぞ! おかげで心臓発作を起ごすかと思った」
 ラリーの訛なまりのある言葉をきけば、人はだれしもアパルトヘイトや拷問を、はては壁にイモリが這う大理石の宮殿で金箔きんぱくをはった玉座に陣取る独裁者あたりを連想したことだろう。残念なことだ。ラリーは不法な紛争ブラツドダイヤモンドではなく、重い鉄をもちあげることで財をなした男だ。欠点もあるにはあった――レーガンに投票したり、カール・ウェザースを偉大な悲劇役者だと思いこんでいたり、ABBAアバの曲をきくとセンチな気分になったりした――が、妻をうやまい、妻を愛慕していたことは事実で、その重みの前にはほかのあらゆる欠点が帳消しになったほどだ。
 ラリーはつづけた。「なにをしてた? 隣のバナーマンさんに洗剤をわけてもらえるかどうかきいて、すぐにもどってきたのに、おまえはデイヴィッド・カッパーフィールドのマジックショーの娘っ子ごみたいに消きえ失うせてたんだ!」
 ついでラリーはシェリーを両腕でがっしりとらえた――いかにも体を激しく揺さぶるのかと思いきや、そのまま強く抱きしめた。ラリーは妻の肩ごしにわたしを見つめた――その目は涙で濡ぬれ光っていた。
「心配ありませんよ、ビュークスさん」わたしはいった。「奥さんならなんともありません。道に迷っていただけです」
「迷ってたわけじゃないわ」シェリーはそういうと、淡い笑みをわけ知り顔にのぞかせて夫を見あげた。「ポラロイドマンから隠れていただけよ」
 ラリーはかぶりをふった。「静かに。なにもしゃべるな。さあ、おまえを日の当たらない家のなかへ連れていかなぐては――ああ、足も大変だな。家のなかに連れていぐ前に、おまえにその足をきれいにさせなぐては。そのままだと、家のいたるところに足跡が残のごりそうだ」
 血も涙もない残酷な言葉にきこえたかもしれないが、話しかけているラリーの目は涙ぐんでいたし、荒っぽい口調ではあったが、傷ついた愛情がにじんでいた――外で喧嘩けんかに巻きこまれ、片耳をなくして家に帰ってきた愛する老猫に話しかけている飼い主のような口調でシェリーに語りかけていたのだ。
 それからラリーはシェリーを歩かせてわたしの前を通りすぎ、ふたりで煉瓦のステップをあがって家のなかへ消えていった。わたしは帰ろうとしかけていた――どうせもうわたしのことなど忘れられたはずだと思っていた。しかしラリーはすぐ外へ引き返してきて、震える指をわたしの鼻先に突きつけてこういった。
「きみにわたしたいものがある。ふらふら浮かんで、どっかに行ぐなよ、マイグル・フィグリオン」
 それだけいうと、ラリーはドアを一気に閉めた。

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