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クライムノベルの金字塔『犬の力』『ザ・カルテル』のシリーズ第3弾『ザ・ボーダー』試し読み

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ザ・ボーダー 上
[著]ドン・ウィンズロウ
[翻訳]田口俊樹

(以下、本文より抜粋)


 アート・ケラーはグアテマラの密林を出て、難民のように歩いている。
 密林には殺戮の爪痕が残されている。ドスエレスの小さな村に積み上げられた死体の山。篝火にくべられ、くすぶる熾火の中で半分だけ焼け残った死体もあれば、村の空き地で銃弾に倒れ、そのまま放置されている死体もある。
 死者のほとんどが麻薬商(ナルコ)だ。名目上は和平会談のために集まった敵対するカルテル――シナロアとセータ隊――のいずれかの手勢の者たち。両者は交渉の末、合意に至ったものの、和解を祝す享楽三昧のパーティでセータ隊が銃やナイフや鉈(マチエーテ)を取り出し、シナロア人を惨殺しはじめた。
 ケラーは文字どおりその現場に落下した。彼が乗っていたヘリコプターがロケットランチャーの攻撃を受け、銃撃戦のさなかに急旋回しながら硬着陸したのだ。ケラーの目的はあろうことか、シナロア・カルテルの首領アダン・バレーラと共謀し、民間軍事会社の傭兵部隊を率いてセータ隊を抹殺することだった。
 バレーラは敵に罠を仕掛けた。
 が、問題は敵のほうがさきにバレーラに罠を仕掛けたことだった。
 それでも、ケラーの暗殺作戦の標的、セータ隊の幹部二名は死亡した。ひとりは頭部を切断され、もうひとりは燃え上がる松明たいまつとなって。その後、邪悪で不安定な休戦合意に従い、ケラーはバレーラを保護するために密林にはいった。
 彼は成人してからの人生のすべてを費やしてアダン・バレーラを追ってきたといっても過言ではない。
 二十年間追いつづけた末、ついにバレーラをアメリカの刑務所にぶち込んだ。が、結局、バレーラはメキシコの重警備刑務所に移送され、そこから手ぎわよく“脱獄”したあと、かつてないほど強力なシナロア・カルテルのゴッドファーザーとして返り咲いた。
 ケラーはメキシコに戻り、またバレーラを追いはじめたが、その八年後、バレーラと手を組むことになった。セータ隊を殲滅するために。
 ふたつの邪悪のうち、より凶悪な邪悪を殲滅するために。
 バレーラと手を携えて叩きつぶした。
 が、そのバレーラも消えた。
 だから今、ケラーはひとりで歩いている。
 国境警備隊にいくばくかのペソを渡して、メキシコに越境する。それから十マイル歩いて、セータ隊奇襲作戦の拠点となったカンペチェの村にたどり着く。
 歩くというよりよろめきながら。
 夜明けまえに始まった銃撃戦で分泌されたアドレナリンはすでに底をつきかけている。太陽の光と熱帯雨林の蒸し暑さばかりが感じられる。脚が痛み、眼が痛み、炎と煙と死のにおいが鼻を突く。
 生きながら焼かれる肉のにおいは決して消えることはない。
 熱帯雨林を切り拓いて造られた小さな滑走路で、ロベルト・オルドゥーニャがケラーを待っている。メキシコ海兵隊FESの指揮官である彼は、ブラックホーク・ヘリコプターのコックピットに坐っている。ケラーとオルドゥーニャ提督は、セータ隊との戦争では“必要なものをなんでもいつでも提供し合う”関係を築いていた。ケラーはアメリカの最高レヴェルの機密情報をオルドゥーニャに提供した。オルドゥーニャのほうは、メキシコ国内の作戦でしばしばケラーのために海兵隊のエリート特殊部隊を出動させた。
 しかし、今回の作戦ではそれができなかった。セータ隊の幹部を抹殺するチャンスが訪れた場所がグアテマラ――メキシコ海兵隊には手出しできない地域――だったからだ。それでも、オルドゥーニャはケラーの民間傭兵部隊に中継基地と兵站支援を提供し、カンペチェまで航空輸送したあと、こうして友人であるアート・ケラーの生存を確認するために待っている。
 熱帯雨林からケラーが姿を現わすと、オルドゥーニャは笑みを浮かべる。それからクーラーボックスから冷えたモデロ・ビールを取り出して、ケラーに渡す。
「ほかのメンバーは?」とケラーは尋ねる。
「もう出発させた」とオルドゥーニャは答える。「そろそろエルパソに到着している頃だ」
「味方の被害は?」
「戦死者一名、負傷者四名。きみの安否を心配してたところだ。日暮れまでに戻ってこなかったら、あとでなんと言われようと(ア・ラ・ミエルダ・トード)、国境を越えて捜しにいくつもりだった」
「バレーラを捜してたんです」とケラーはビールを咽喉のどに流し込みながら言う。
「それで?」
「見つかりませんでした」
「オチョアは?」
 オルドゥーニャはセータ隊の隊長オチョアを憎んでいる。ケラーのアダン・バレーラに対する憎しみに匹敵するほどの激しさで。“麻薬との戦争”は私的な戦いになりがちだ。オルドゥーニャは、セータ隊の同盟相手であるディエゴ・タピアの隠れ家に急襲を仕掛けたとき、部下であるFES隊員の中尉を殺された。さらに葬儀の夜、セータ隊はその死亡した若い中尉の母親とおばと妹と弟を殺害した。中尉一家惨殺の翌朝、オルドゥーニャはFESの内部に“マタセータ”――セータ隊の抹殺――という名の新しい部隊を創設した。そして機会があるたび、セータ隊員を殺害した。情報入手の必要があれば捕虜にすることもあったが、用済みになれば処刑した。
 ケラーはそれとは異なる理由でセータ隊を憎んでいた。
 異なっても憎むには充分な理由で。
「オチョアは死にました」とケラーは言う。
「確かか?」
「この眼で見ました」ケラーはエディ・ルイスが負傷したセータ隊の隊長の体に灯油缶の中身をぶちまけ、火のついたマッチを投げるところを見た。オチョアは悲鳴をあげながら死んだ。「40(クアレンタ)も死にました」
 40(クアレンタ)というのはオチョアの右腕で、セータ隊のナンバーツーだった男だ。隊長同様、サディストだった。
「やつの死体を見たのか?」とオルドゥーニャは尋ねる。
「やつの頭を見ました」とケラーは答える。「ちなみに胴体はついてませんでした。それなら合格点をもらえますか?」
「いいだろう」そう言って、オルドゥーニャは笑みを浮かべる。
 正確に言えば、ケラーは40(クアレンタ)の頭は見ていない。彼が見たのは40(クアレンタ)の顔――頭部から剥がされ、サッカーボールに縫いつけられた顔だ。
「ルイスは来ましたか?」とケラーは尋ねる。
「いや、まだだ」とオルドゥーニャは答える。
「最後に見たときには生きてたんですが」
 ルイスがオチョアを発煙筒に変えたときには。そのあと古いマヤ時代の石造りの中庭に立ち、少年が不気味なサッカーボールを蹴るのを見ていたときには。
「たぶんとんずらしたんだろう」
「そうかもしれません」
「きみの上司に連絡したほうがいい。十五分おきに電話してきてたからな」オルドゥーニャは使い捨て携帯電話に番号を打ち込んで言う。「テイラーか? ここに誰がいると思う?」
 ケラーは携帯電話を受け取る。ティム・テイラー――麻薬取締局(DEA)南西地区長――の声が聞こえる。「本物か? てっきりきみはもう死んだものと思っていた」
「がっかりさせてすみません」

 麻薬取締局の面々はテキサス州クリント――エルパソから数マイル東にある田舎町――のハイウェー沿いにある〈アドビ・イン〉でケラーを待っている。
 その部屋は、標準的なモーテルの“効率(エフイシエンシー)”ルームで、キッチンスペース――電子レンジとコーヒーメーカーと小型冷蔵庫がある――が備えられた広い居間に、ソファとコーヒーテーブル、椅子が二脚、それにテレビが置かれ、サボテンの背後に夕陽を描いたへたくそな絵が飾られている。左手にあるドアは開け放たれ、その奥に寝室とバスルームがある。任務遂行後の事情聴取にこそふさわしい、なんの特徴もない部屋だ。
 テレビがつけられていて、小さな音でCNNが流れている。
 ティム・テイラーはソファに腰かけ、コーヒーテーブルの上のノートパソコンを見ている。パソコンの横には衛星電話が立てて置かれている。
 急襲作戦を担当した傭兵チームのリーダー、ジョン・ダウニーは電子レンジのそばに立ち、何かが温まるのを待っている。迷彩服を脱ぎ、シャワーを浴びてひげを剃そったようで、濃紫色のポロシャツにジーンズにテニスシューズというなりだ。
 もうひとり、確かロリンズという名のCIAの男が椅子のひとつに坐って、テレビを見ている。
 ケラーがはいっていくと、ダウニーが顔を上げる。「いったいどこにいやがった、アート? 衛星画像でも調べたし、ヘリコプターまで飛ばして捜したんだぞ……」
 ケラーはバレーラを無事に帰還させる任務を負っていた。それが合意事項だった。ケラーは尋ねる。「チームのメンバーはどうしてる?」
「びゅうん」と言って、ダウニーは両手でウズラの群れが飛び立つような恰好をしてみせる。特殊作戦部隊は十二時間以内に、世界じゅうとは言わないまでも、国内のあちこちに散らばることができる。それまでどこに行っていたのか、もっともなつくり話を携えて。「行方不明者はルイスだけだ。あんたと一緒に帰ってくるんじゃないかと思ってたんだが」
「銃撃戦のあと、ルイスを見た」とケラーはダウニーに言う。「どこかに行くところだった」
「ルイスは姿をくらましたのか?」とロリンズが横から口をはさむ。
「あいつの心配は要りませんよ」とケラーは答える。
「きみには彼を連れ帰る責任があるはずだが」とロリンズは言う。
「ルイスのくそったれ」とテイラーが言う。「バレーラはどうなった?」
 ケラーは言う。「私のほうこそ知りたいです」
「こっちにはどんな情報も届いていない」
「それなら、どこかでくたばったんじゃないですか」
「きみは撤収のヘリに乗るのを拒否した」とロリンズが指摘する。
「ヘリを待たせるわけにはいきませんでしたからね」とケラーは答える。「私にはまだバレーラを捜す任務があったし」
「しかし、見つけられなかった」
「特殊作戦部隊はルームサーヴィスじゃありません。そういつもいつも注文の品を届けられるとはかぎらない。予想外のことが起こるものです」
 最初の降下からそうだった。
 ケラーたちがヘリコプターで現地上空に到着したときにはもう銃撃戦が始まっていた。セータ隊がシナロア人を虐殺していた。さらに、ケラーが乗っていた先導ヘリは地対空ロケット弾を被弾し、メンバーのひとりが死亡、もうひとりが負傷した。ファストロープでの降下もできず、ヘリは激しい交戦地帯に硬着陸した。その後、撃墜を免れた二機目のヘリでメンバーをシャトル輸送し、後方に撤収せざるをえなかった。
 撤収できたのはただ運がよかったからだ。ケラーはそう思う。撤収できたばかりか、セータ隊の幹部の処刑という主要な目的まで達成できたのは。まあ、バレーラを連れて帰ることはできなかったが……
「この作戦の第一の任務はセータ隊の指揮統制の解体だったはずです」とケラーは言う。「不運にもバレーラがその巻き添えになったのだとしたら……」
「そのほうがずっといいか?」とロリンズは尋ねる。
 ケラーがバレーラを憎んでいることはこの場の全員が知っている。
 あの麻薬王がケラーのパートナーを拷問して殺害したことも。
 ケラーがそのことを赦さないだけでなく、一秒たりとも忘れるはずがないことも。
「アダン・バレーラのために嘘の涙を流すつもりはありません」とケラーは言う。が、ケラーはこの部屋にいる誰よりメキシコの状況を熟知している。好むと好まざるとにかかわらず、シナロア・カルテルはメキシコの安定の鍵を握る存在だ。もしバレーラが死んだことでシナロア・カルテルが崩壊すれば、かろうじて保たれていたメキシコの平和も崩壊しかねない。バレーラもそのことを知っていた。“我が亡きあとに洪水よ来たれ(アプレ・モア・ル・デリュージュ)”のカードをちらつかせて、ケラーを動かした。ケラーはメキシコ政府とアメリカ政府の双方を相手取ってタフな交渉をおこない、麻薬取締局を離れた。そして、バレーラの敵であるセータ隊を倒す暗殺チームに加わることになったのだった。
 電子レンジがチンと鳴り、ダウニーがトレーを取り出す。「〈ストウファー〉のラザニア。もはやこれは古典だな」
「ただ、バレーラが死んだかどうかもまだわからない」とケラーは続ける。「死体は見つかったんですか?」
「いや」とテイラーが答える。
「現在D2が現場で捜索にあたってるところだ」とロリンズが言う。D2とはグアテマラ軍情報局のことだ。「バレーラはまだ発見されていない。ついでに言えば、主要な標的二名もまだどちらも見つかっていない」
「標的二名が死んだことは私が断言できます」とケラーは言う。「オチョアはだいたいのところ木炭化しました。それから40(クアレンタ)については……まあ、知らないほうがいいでしょう。ともかくふたりとも過去形になったのは確かです」
「バレーラはまだ過去形になっていないことを願おう」とロリンズが言う。「シナロア・カルテルがぐらつけば、メキシコもぐらつく」
「意図せざる結果の法則、ですね」
「メキシコ政府とわれわれはアダン・バレーラを守るという具体的な合意に至った。彼の身の安全を保障した。これはヴェトナムとはちがうんだ、ケラー。フェニックス作戦でもない。もしきみがその合意に違反したことがわかれば、私たちとしても……」
 ケラーは立ち上がる。「あなたたちにしても何もできやしない。なぜならこれは正式な許可を得ていない、存在しなかったことになっている非合法な作戦だからです。実際、どうするつもりです? 私を裁判にかけるんですか? 証人台に立たせるんですか? アメリカは世界最大の麻薬商(ナルコ)と取引きしたと宣誓証言させるんですか? バレーラの敵を殺すために合衆国が支援した奇襲作戦に参加したと? われわれのような汚れ仕事をやる人間の鉄則を教えてあげましょう――引き金に指をかけるまえに銃を取り出すな、です。あなたたちはもう引き金に指をかけてるんですか?」
 返事はない。
「まあ、そうでしょう」とケラーは続ける。「私はバレーラを殺したいと思ったし、殺しておけばよかったと思ってる。しかし、実際には殺してない。記録にはそう書いておいてください」
 ケラーはドアに向かう。
 テイラーがあとを追う。「どこに行くんだ?」
「あなたには関係ありません」
「メキシコに行くつもりか?」とテイラーは尋ねる。
「私はもう麻薬取締局の人間じゃありません。もうあなたの部下じゃない。どこに行けとか行くなとか指図されるいわれはありません」
「殺されるぞ、アート。セータ隊がやらなければ、シナロア・カルテルがやる」
 たぶん。ケラーもそう思う。
 しかし、メキシコに行こうと行くまいと、どのみちやつらはおれを殺そうとするだろう。
 ケラーは車でエルパソに行く。エルパソ情報センター(EPIC)の近くに借りているアパートメントで、汚れた汗まみれの服を脱ぎ、熱いシャワーを長々と浴びる。それからベッドに横になる。そのとたん、丸二日ほど寝ていないことに気づく。体はぐったりと疲れ、消耗しきっている。
 それなのに、疲れすぎて眠ることができない。
 ケラーはベッドから起き上がり、ジーンズを穿き、白いボタンダウンのシャツを羽織る。それから寝室のクロゼットの中にある銃器保管庫からコンパクトな九ミリ口径のシグ・ザウエルを取り出し、ホルスターをベルトにつけると、紺のウィンドブレーカーを着て外に出る。
 そして、メキシコのシナロア州に向かう。

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