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「本の雑誌が選ぶ2019年度文庫ベストテン」第3位! 年末ミステリランキングのダークホース『ついには誰もがすべてを忘れる』試し読み

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ついには誰もがすべてを忘れる
フェリシア・ヤップ
山北めぐみ 訳

(以下、本文より抜粋)

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殺人事件の二年前、ケンブリッジ近郊のとある村

 とっておきの秘密をいくつか教えてあげる。まずは、この写真を見て。
 これは、あたし。そう、かなり昔の。胸はぺたんこで、耳は横に張りだしている。よく見れば、目に希望の光を、心に情熱の炎を宿しているのがわかるはず。このときの希望も情熱も今のあたしにはない。長年の施設暮らしに、すべて消し去られてしまった。
 今度は、こっちの写真を見て。あら、驚かせてしまったようね。無理もない。なぜって、これはあなたの写真なんだから。最近撮った顔写真。写りはまあまあってとこかしら。肩に滝のようにかかるブロンドの髪、みごとな胸。どういうことかわかる? これからあたしはあなたそっくりに変身する。髪を脱色し、あなたみたいなおっぱいを手に入れるの。
 どうしたの? そんなに眉をひそめて。まだわからない? どうしてあたしがあなたそっくりになりたいのか。
 説明してあげる。あたしはすべてを覚えているの。噓じゃない。あたしはこの世でたったひとり、自分の過去を記憶する人間。過去のすべてを。細部に至るまでありありと。ふざけてなんかいない。つまり、あたしはとびきり特別な存在ってわけ。
 信じられない?
 まあ、それも理解できなくはない。全世界に五十億人存在するモノ。そのひとりであるあなたは、昨日の出来事しか覚えていられないんだから。毎朝目覚めると、あなたの頭を埋めているのは“事実”。念入りに編集された、あなた自身と周りの人たちに関する情報。あなたはベッドから出ると、ふらつく足取りで、ぴかぴかのキッチンカウンターに向かう。その上に置かれたiダイアリー。その電子機器こそが、あなたを過去につなぎとめる唯一の命綱。前の晩に書きとめたくだらないあれこれを、あなたは必死に学習する。それらを一刻も早く、昨日の出来事の記憶、そして、これまであなたが学習してきた、あなた自身にまつわる冷たく殺菌された事実の数々に付け足すために。
 哀れな話よね。
 でも、あなたはそんな生活にもう慣れっこなんでしょう? なぜって、あなたは十八歳になり、そのちっぽけで残念な脳が勝手にスイッチを切ってから、ずっとそうやって生きてきたんだから。あなたがデュオを羨むのも無理はない。だけど、彼らの短期記憶にしたって、あなたたちよりほんの少しましなだけ。たいして変わらない。
 みじめなのは同じ。
 さて、この辺りでもうひとつ、単純な真実を教えてあげるとしましょうか。本当のあたしがあなたにもわかってきたみたいだから。
 すべてを記憶しているということは、これまで他人にされたことを(たとえそれをした本人は覚えていなくても)思い出せるということ。どんなにささいなことも、どれだけ忌まわしいことも。そんな状況で誰かにひどく傷つけられたとしたら、人は復讐を願わずにはいられない。どれほどひどくか、って? たとえば、その人のせいで、精神科病院に十七年間も押し込められる羽目になったら。月の微笑みが消え、フクロウたちも静まり返る真夜中、あなたは狂おしいほどに願うはず。きっちり片をつけることを。
 すべてを記憶しているってことは、すべてをうまくやってのけられるってことでもある。たとえば、復讐もそのひとつ。
 ね、すごく便利でしょ?
 以上が、あたし、ソフィア・アリッサ・アイリングが絶対にしくじらない理由。
 面白くなりそうね。あなたがあたしにしてきたことを思えば、なおさら。長年にわたって、あなたが犯してきた忌まわしい罪のすべて。そのひとつひとつをあたしは覚えている。記憶された怒りの総量が憎しみをかきたてる。ええ、そう。復讐なんて、たやすいこと。
 なぜって、これからあたしがあなたにすることを覚えていられる人は誰もいないのだから。
 たったひとり、あたしを除いて。

 幸せが過程なら、不幸せは状態である。
 マーク・ヘンリー・エヴァンズの日記


1

 クレア

 キッチンで男がうめいている。男が道をふさいでいるせいで、大理石のカウンターにたどり着けない。わたしのiダイアリーはそこにあるのに。LED通知が紫色に光っては消える。目を細くすがめ、男を見る。左手をきつく押さえ、痛みに顔をゆがめる男を。人差し指から血が滴り落ちている。男の周りにティーポットの残骸が散らばっている。
「どうしたの?」わたしは尋ねる。
「手が滑ってね」男は答え、苦々しげに口を引き結ぶ。
「見せて」陶器の破片をよけながら、男に近づく。男の左手の金の指輪が、わたしを嘲るように鋭く光る。その光が、長年かけて学習してきた夫に関する主要な事実を一気に脳裏に呼び覚ます。名前:マーク・ヘンリー・エヴァンズ。年齢:四十五歳。職業:小説家。サウス・ケンブリッジシャー選出の次期下院議員の座を狙っている。わたしたちは1995年9月30日12時30分に、トリニティ・カレッジの教会で結婚式を挙げた。列席者は九名。マークの両親は出席を拒んだ。わたしはウォルターズ神父に、マークを愛していると毎朝唱えることを誓った。挙式費用は678.29ポンド。わたしたちが最後にセックスをしたのは二年以上前、2013年1月11日22時34分のこと。マークが達するまでにかかった時間は、六分と三十秒。
 わたしの脳に蓄積された夫に関するこうした事実をどうとらえればいいのだろう。気に病むべきか、嘆くべきか、あるいは、憤るべきなのか。
「床に落ちる前に、つかもうとしたんだ」マークが口を開く。「だが、食洗機に跳ね返ってしまってね」
 夫の人差し指の切り傷をまじまじと見る。長さはゆうに二センチ以上ある。目を上げ、夫の顔を見つめる。きつくひそめた眉。目尻に刻まれた皺。ゆがんだ唇。そういえば昨夜、この人はベッドでしきりに寝返りを打っていた。夢の中で何かに追われているかのように。
「ひどい傷。絆創膏を取ってくるわね」
 夫に背を向け、早足で階段を上がる。事実:救急箱はバスルームの鏡の脇のキャビネットにしまってある。手を伸ばしかけ、鏡に映る自分の姿にふと目を留める。こちらを見つめ返す目は、昨日見た何かに取り憑かれたような目とは違う。あの、焦点の定まらない目とは。けれども、顔はむくみ、目の周りが腫れぼったい。
 昨夜は泣きながら眠りに就いた。昼間もほとんどベッドの中で過ごした。
理由はわからない。鏡の中のむくんだ顔を凝視しながら、何かしら手がかりが頭に浮かぶのを待つ。だけど、昨日の苦悶のわけは、なかなか捕まらない蝶の羽みたいに、手の届かないところにひらりと飛んでいってしまう。覚えているのは、部屋にこもり、食事もとらずに、枕に顔を埋めてすすり泣いていたことだけ。もどかしさに顔をしかめる。鏡の中のわたしがしかめっ面を返す。昨日の惨状がおとといの出来事によってもたらされたことはたしかだ。でも、それは何?
 わたしには、二日前の記憶がない。なぜなら、覚えていられないからだ。思い出せるのは、昨日起こった出来事だけ。
 あの人のところに戻らなければ。ため息をつき、そう自分に言い聞かせる。キャビネットから救急箱を取りだし、一階に下りる。マークはキッチンのテーブルに向かって座っている。怪我をした指を右手でかばい、きつく閉じたままの唇を苦痛にゆがめて。
「さてと」わたしは救急箱を開けながら言う。
 綿棒で血を拭き取ると、マークが顔をしかめる。傷は思ったより深い。
「まずは消毒しないとね」消毒薬の小瓶を取りだし、栓を抜く。
「そこまですることはないよ」
「化膿した指であちこち触られるのは嫌だもの」
「ちょっと切っただけだって」
 マークを無視して、傷口にたっぷり消毒薬を塗り(またしてもマークは顔をしかめる)、指に絆創膏を巻く。マークが口を開いて何か言いかけ、むっつりした顔でまた口をつぐむ。
 マークの指にキスしてから立ち上がり、カウンターの上のiダイアリーをつかむ。右手の親指を指紋認証ボタンにのせると、紫色のLED通知――「昨日の書き込みを学習する」――が点滅を止める。スクロールして、直近の、つまり昨夜の書き込みを表示する。

 11時12分、最悪の気分で目が覚めた。重い事実が肩にのしかかる。一時間ほどベッドの中で泣いて過ごした。12時25分、書斎をのぞくと、マークは眠っていた。起こして、買っておいたプレゼントを渡した。誕生日は一週間以上先だけど。涙がまた止まらなくなり、寝室に戻った。一切の家事を――庭仕事さえも――放棄。昼食も夕食も抜いた。マークはしょっちゅう寝室にやってきては、心配そうな顔で、明日にはすべてもとどおりになるから、と言ってくれた。マークの言うとおりだ。昨日の悪夢は朝には消えてしまうだろう。21時15分、ベッドから出て、バナナ一本をおなかに入れ、いつもの薬、それにシングルモルトをなみなみ二杯飲んでから、寝室に戻った。

 たとえ不十分であれ、これは昨日の出来事の正確な描写だ。けれども、わたしがなぜ泣いたかの説明はない。昨日の落ち込みを引き起こしたのは、二日前に起こった何事かだとほのめかされるだけだ。悪夢のような何事か。さらにスクロールし、ひとつ前の書き込みを表示する。

 激しい雷雨は9時47分まで続いた。その後、ネトルを散歩に連れていった。13時30分、ローストビーフとポテトの昼食をひとり温室でとる。マークは執筆を続けたいからと言って、書斎で食べた。16時50分、グランジ・ロードに出かけ、エミリーとお茶。クランペットを食べながら、たっぷりおしゃべりをする。夜はこれといって何もなし。マークは書斎に戻り、執筆を続けた。わたしはテレビの前で膝を抱え、電子レンジで温めた残り物を食べた。

 この書き込みにはがっかりした。閉口したと言ってもいい。昨日の惨状の理由が少しはわかるかと思っていたのに。これでは簡潔を通り越して曖昧ですらある。もう一度読み直しても、やっぱりだめ。マークなら、二日前に何があったのかわかるかもしれない。わたしと違って、昨日とおととい、二日分の記憶があるデュオだから。そこが、わたしたち多数派と違うところ。この人が自分は優れていると考えるゆえんなのだ。
「昨日はほとんど一日、泣いて過ごした記憶があるの」そう言ってから、マークの眉間の皺がまだ消えていないことに気づく。「でも、それがなぜだかわからなくて」
 目と目が合う。マークの瞳に一瞬、暗い光が宿る。その光の意味がわたしにはわからない。怒り? 嘆き? それとも恐怖?
 マークはわたしから顔を背け、わたしの胡蝶蘭をしばし見つめてから、答える。
「おとといの晩、きみは薬をのみ忘れたんだ。そのせいで、昨日はまた症状が出てしまったんだよ」
 ああ、きっとそうだ。事実:わたしは2013年4月7日から二種類の薬を服用しつづけている。アデンブルックス病院のヘルムート・ジョング先生の処方により、レクサプロを一日二錠と、プリスティクを一日一錠。カウンターの上の薬瓶に手を伸ばしながら、さらなる情報を求めて頭の中を再び探る。事実:2015年6月1日14時27分、わたしはジョング先生に出してもらった最新の処方箋を持ってニューナム薬局に行き、薬を受け取った。レクサプロ六十錠、プリスティク三十錠、それぞれ一カ月分だ。
 グレーの薬瓶の中の錠剤を数える。五十錠と二十五錠入っているはず。ところが、残っているのは五十二錠と二十六錠だ。
「ほんとだわ」ため息まじりに言う。「のみ忘れてる」
 マークがうめき、椅子から身を起こす。こわばっていた肩から、ほんの少し力が抜けたのがわかる。
「片付けるよ」
 ちりとりと小さな箒を手にせかせかと動き回るマークを横目に、冷蔵庫に近づき、牛乳瓶を取りだす。おなかがぐうぐう鳴っている。ボウルにコーンフレークを山盛りよそうと、スプーンを手にキッチンカウンターに向かって腰を下ろし、ラジオのスイッチを入れる。パチパチという雑音に続いて、自動車保険比較サイトのCMソングが部屋に鳴り響く。その頃にはもう、マークは破片をすっかり掃き終えている。お茶を淹れ直すことにしたと見え、マグカップを取りだし、アールグレイのティーバッグを放り込んだところだ。
「イーストアングリアの皆さん、おはようございます」ラジオから男性の声がする。「八時のニュースをお伝えします。女王は、モノとデュオによる異階級間結婚を奨励する議会制定法に裁可を下しました。2011年の国勢調査によれば、現在、モノは人口の70パーセント、デュオは30パーセントを占めています。根強い文化的偏見が長らくモノ・デュオ間の結婚の妨げとなってきました。2014年の時点で、イギリス国内で登録された異階級間結婚はわずか389件に留まっています」
 ちらりとマークを盗み見る。マグカップに角砂糖を入れてかきまぜるその口元が、ごくかすかにではあるけれど、ほころんでいる。彼の機嫌がよくなったわけをわたしは知っている。下院議員になるべく展開中の選挙運動にとって、今のニュースが幸先のいい話だからだ。事実:マーク・ヘンリー・エヴァンズは二十年前、家族の強い反対を押し切って、モノであるクレア・ブッシーを妻にした気概ある男だ。彼なら、デュオでありながら、イギリスの多数派であるモノの要求、希望、不安に寄り添えるだろう。なんと言っても、現実にモノと結婚しているのだから。
「最新の科学研究では、モノとデュオの夫婦の間に生まれる子どもは75パーセントの確率でデュオになることが証明されています」
 子ども。事実:わたしは赤ちゃんが欲しい。世話をして愛情を注ぐ対象が欲しくて欲しくてたまらない。だけど、どうやったら赤ちゃんを授かれるというのだろう。夫とのセックスが絶えて久しいというのに。
「政府は、デュオ人口の増加がイギリスの経済的競争力と生産性を高めると考えています」ニュースキャスターが続ける。「そこで提案されたのが異階級間結婚法です。法案には、モノとデュオの夫婦に対する税制優遇措置が盛り込まれています。この法案は2016年2月15日に施行される見通しです」
この人たちはわかっていないのだ。重要ないくつかの事実を。わたしはそれらを学習せざるをえなかった。好むと好まざるとにかかわらず。
 事実:デュオと結婚したモノは、自分の記憶力の限界を日々思い知らされる。その結果、慢性的な劣等感を植えつけられてしまうのだ。わたしが長年抗うつ薬を服用してきた原因も、たぶんそのせいだと思う。それでも、わたしは社会最大のタブーを無視してわたしと結婚した男性のもとを去ろうという気になれずにいる。そんなことをしても、今より貧しい生活が待っているだけだから。事実:マークは自身最大のヒット作となった小説『死の扉にて』の前払い金として、三十五万ポンドを受け取った。おかげで、わたしたちはケム川を望むニューナムの邸宅に暮らしている。寝室六部屋に温室と1.4エーカーの庭付きの豪邸。年に二回のバカンスは、ファーストクラスでカリブ海へ飛ぶ。もし同じモノと結婚していたら、わたしは今も〈バーシティ・ブルース〉でウェイトレスをしていただろう。
 ニュースキャスターは今、昨日のサッカーの試合、イングランド対ドイツ戦の結果についてまくしたてている。
 ため息をつき、スプーンいっぱいのシリアルを口に運ぶ。コーンフレークを嚙み砕くと、シロップの甘ったるい味が舌をべっとりと覆う。わたしの人生は平穏そのもの――でも、それはうわべだけ。事実は何より雄弁だ。わたしには子どもがいない。心にぽっかりと空いた穴は年々大きくなるばかりだ。そうして、わたしは三十九歳になってしまった。せめてわたしにマークと同じだけの記憶力があれば。記憶力の差は埋められない溝となって、わたしたち夫婦を隔てている。
 ニュースキャスターがケンブリッジについて何か言っている。わたしは耳をそばだてる。
「今日未明、ケム川で中年女性の遺体が発見されました。現場はニューナム村近くの自然保護区で……」
 すさまじい音が言葉をかき消す。わたしはシリアルからはっと顔を上げる。マークがマグカップを落としたのだ。キッチンの床に破片が散らばっている。マークの足元でアールグレイの水たまりが湯気を立て、足の甲にティーバッグがぐにゃりとへばりついている。
「ケンブリッジシャー警察のスポークスマンによれば、警察は死因に不審な点があると見て、捜査を進めているとのことです」ニュースキャスターがしゃべりつづける。「続いては天気予報です。気象庁によれば、日中は風が強くなり……」
 わたしはラジオのスイッチを切る。訪れた静寂がいっそう心を波立たせる。
「どうしたの?」
 マークは答えない。目はうつろで、肩がひどくこわばっている。
「死んだ女の人のニュースのせい?」
 マークが目をしばたたく。図星なのだ。原因はその女性だ。でも、どうして?
「い、いや……ちょっと驚いただけだよ」マークがしどろもどろに答える。「女性が発見されたというのは、おそらくこの先のパラダイス自然保護区だろう。物騒な話じゃないか。どうりで今朝パトロールカーのサイレンが聞こえたわけだ」
 わたしは夫の顔をまじまじと見つめる。きつく引き結んだ口を。
「何をそんなに動揺してるの?」
「いや、何も。平気だよ」マークは答える。けれども、こわばった肩がそうではないと告げている。「ただの不注意さ。最初はティーポットで、今度はマグカップか。すまない。掃除のやり直しだな」
 マークがわたしに背を向け、キッチンから出ていく。
 わたしはボウルに残ったシリアルをじっと見る。もうおなかは空いていない。

 マークはマグカップの破片を片付けたあと、庭の奥の書斎にこもったままだ。わたしはネトルを連れて、パラダイス自然保護区に散歩に行ってみることを思い立つ。保護区内には非常線が張られ、一部区域は立ち入り禁止になっているだろう。それでも、警察の捜査の様子を垣間見られるかもしれない。
 ネトルにリードを着け、日射しのもとへ足を踏みだす。朝の空気はひんやりとして、肌寒ささえ感じる。スイカズラの香りが歩道にほんのり漂っている。わたしたちは、グランチェスター・メドウズの端の歩行者用ゲートをめざして歩く。ネトルがふいに跳び上がる。野ウサギの気配を感じたのだ。わたしはリードをぐいと引く。きしるゲートを抜け、保護区に入っていく。地面は柔らかく、ところどころぬかるんでいる。あちこちに足跡が残っているが、ほとんどが新しいものだ。少し先を一羽の蝶――キマダラジャノメ――が踊るように飛んでいく。揺らめく影が逆光を受けて浮かび上がる。
 右手にケム川の濁った支流を望みながら、柳の木が立ち並ぶ林道を進むと、くぐもった声が聞こえてくる。遠くでいくつもの黒いヘルメットが動いている。さらに近づくと、板張りの遊歩道に集まった、野次馬らしき人たちの背中が見える。警官が三人がかりでその人たちを制止している。二本の木の間に黄色いテープが張り渡され、その先端が風にはためいている。
 ネトルのリードを強く引きながら、人の群れに加わる。デニムをはき、中綿入りのグリーンの上着を羽織った男がカメラを操作している。前髪を高めに立ち上げたスーツ姿のニュースキャスターがマイクに向かってしゃべっている。人々の視線は川岸に釘付けだ。わたしはつま先立ちになり、彼らの頭越しに目を凝らす。
「撮影は禁止だ」警官のひとりがスマートフォンを掲げた少年に指を振ってみせる。
 視界に入ったのは、期待はずれな光景だ。遺体はおろか、遺体袋すら見当たらない。白い保護服とブルーのゴム手袋を着けた男がふたりいるだけ。そのうちのひとりは何かを密閉式のビニール袋に収めている。もうひとりは、ケム川に張りだした大木の写真を撮影中だ。巨大な幹は一部が水に浸かりながら六メートルほど川に突きだし、そこから葉の生い茂る大枝が上向きに伸びている。
「何があったんですか」わたしは蛍光オレンジのランニングシューズをはいた男に尋ねる。
「今朝早く、川で遺体が見つかったんだ」
「何も見えないけど」
「少し前に警察が運んでいったよ。あの道を通って」男が指さしたのは、ネトルとわたしが通ってきたのとはべつの林道だ。
「ひどい有様だったんでしょうね」
「ジョギング中にここを通りかかったら、ちょうど警察が遺体を袋に収めているところでね。二時間くらい前かな。ブロンドの長い髪だった。顔まではよく見えなかったけど」
「どんな状態で発見されたのかしら」
「あちらがしゃべってるのが聞こえたんだがね」男がマイクを握ったニュースキャスターを指さす。「葦の茂みに引っかかって、うつ伏せに浮かんでいるところをジョギング中の人が見つけたらしい。ほら、ちょうどあの大きな木の根元辺りだよ」
「まあ」
「もっと早く起きればよかったよ。第一発見者になれたかもしれない」
「身元はわかったのかしら」
「あのキャスターの話じゃ、服のポケットから免許証が見つかったそうだ。名前までは言ってなかったがね」
 わたしはうなずく。
「そろそろ行くよ。もうたいした動きもなさそうだ。いい犬だね」
 男が踵を返して走り去る。木々の隙間で、ランニングシューズがちかちか光る。ニュースキャスターがマイクを片付けるのが見える。カメラはもう回っていない。わたしはネトルのリードを緩めて、家路に就く。柳の葉が風を受け、さらさらと鳴っている。
 気の毒な人。その女性の身にいったい何が起こったのだろう。

 家に帰っても、マークの姿は見当たらない。きっとまだ書斎にいるのだろう。ネトルのリードをほどき、ボウルにたっぷりビスケットをよそってやる。それをボリボリと嚙み砕くネトルを横目に、オーバーオールと手袋を身に着ける。日記によれば、少なくとも二日間、庭仕事をしていない。刈り込みやら草むしりやらをしてほしくて、庭が悲鳴をあげているはずだ。1.4エーカーの庭全体が。
 温室の扉を押し開け、再び日射しのもとへ出る。風が強くなってきた。わたしは舗装された小道をとぼとぼと歩いていく。下向きに傾斜するこの道の先に、夫の書斎がある。おとといの朝の雷雨は、庭じゅうに破壊の爪痕を残していた。折れた大小の枝がそこいらじゅうに散らばっている。無数の落ち葉が風に吹き上げられ、渦を巻いている。小道沿いには、光沢のある黒白の小石が敷いてあったが、嵐はその一部までどこかへさらってしまっていた。草の生えていない黒ずんだくぼみが、かつての小石のありかを示している。
それにしても、居場所を追われた小石たちはどこへ消えたのだろう。ネトルがどこかに運んでいったのだろうか。あの子には、いろいろなものをしまい込む癖がある。現に日記にも、去年のクリスマスの日に、ネトルのバスケットの中から石が二個と汚れたテニスボールが一個見つかった、と書いてある。わたしはこういうささいな事実を学習するのが得意なのだ。マークはそうは思っていないけれど。
 物置小屋から熊手を取りだし、さっそく作業に取りかかる。ほどなく、家の正面の生け垣のそばに落ち葉の山ができあがる。心安らぐ土の匂いがそこから立ちのぼってくる。ガーデニングに癒しの効果があるというのは、本当だと思う。その証拠に、胃の辺りのざわざわと落ち着かない感じが消えかけている。それともそれは、うずたかい落ち葉の山が今朝は有益なことができたと証明してくれているおかげだろうか。わたしのような専業主婦は、日々の成果を綺麗にした場所や片付けた物の数で測るしかない。正気を保つ(あるいは、憂鬱をまぎらす)には、それだけが頼りなのだ。マークと違って、わたしには、何百万部もの売り上げを誇るベストセラーはない。
 それどころか、わたしはこれまでの人生で、誇れることをほとんど何もしていない。わたしの日記がその証人だ。
 おまけに、マークはデュオのご多分に漏れず、内心ではモノは愚かだと思っている。わたしたちモノの知能には、二日前の出来事を覚えていられないという限界があり、周囲の世界を近視眼的に理解するしかない、そう思っているのだ。このことをわたしに面と向かって言う勇気はマークにはない。でも、わたしが口を開くたびに、マークがそう思っているのがわかる。日記からも、わたしがこの二十年間、デュオである夫の上から目線の嘲りにずっと耐えてきたことがうかがえる。
 だけど、くよくよしても始まらない。それが真実であれ思い込みであれ、自分の無能さについて考えるのはやめにしなくちゃ。せっかく気分が上向きになってきたのだから。
 気を取り直し、物置小屋から大きなゴミ袋を二枚取ってきて、集めた落ち葉をせっせとシャベルでかき入れる。遠くで何かが鳴る音がする。ドアベルのようだ。郵便配達員にちがいない。
 生け垣の通用口の錠を開け、家の角を回り込んで正面玄関に向かう。ポーチに男が立っている。顔は向こうを向いていて、よく見えない。郵便配達員ではない。鑿で削ったような細い顔、鋭く尖った顎。こめかみには、かなり白いものが交じっている。純白のボタンダウンシャツには染みひとつなく、アイロンがけも完璧だ。オックスフォードシューズはぴかぴかに磨き上げられている。
「何かご用ですか」
 男がびくっとして、わたしのほうに振り向く。
「ああ……」
 男の視線がわたしをとらえ、次いで、汚れたオーバーオールと靴に注がれる。瞳の色は鋼のようなグレーだ。まっすぐに見つめられると、吸い込まれそうになる。男が胸ポケットに手を入れ、凝った模様の記章を取りだす。黒い二つ折りの札入れに貼りつけられたそれは、王冠を戴く雪の結晶をかたどっている。
「ケンブリッジシャー警察のハンス・リチャードスン主任警部です。マーク・エヴァンズさんとお話ししたいのですが」
「どのようなご用件でしょう?」
「わたしどもの捜査にご協力をお願いしたいのです」
「なんの捜査ですか」
「ある女性の死について」
 ぽかんと口を開け、刑事を見つめる。
「それって、まさか……今朝のニュースでやっていた女性ですか。遺体がケム川で見つかったっていう?」
「ええ、そうです」刑事がうなずく。「わたしはその事件の捜査主任です。エヴァンズさんをお呼びいただけるとありがたいのですが。あなたのご主人ですよね?」
 わたしはうなずく。何かがおかしい。目が覚めたら、世界がどうかなってしまったようだ。でも、どこがどうおかしいのかがわからない。リチャードスンの背後に視線を走らせる。家の前に、青と黄色のチェック柄のパトロールカーが停まっている。運転席には制服警官が座っているが、口ひげを生やしたその顔は、着色ガラスのせいでぼんやりとしか見えない。近所の人が何人か、外に顔を突きだしている。ひとりは紫色のガウン姿のまま、わざわざ玄関ポーチまで出てきて、こちらをじっとうかがっている。向かいに軒を連ねるテラスハウスの小うるさい住人たちには、つくづく嫌気が差す。
「マークは書斎で仕事中です」刑事を隣人たちの視界から遠ざけたい一心で、わたしは言う。「どうぞこちらへ」
 家の角を回り込むようリチャードスンを促しながら、彼のシルクのネクタイが細かい総柄入りであることに気づく。大昔に学校で習ったギリシャ文字のπ(パイ)に似ている。ネトルが駆け寄ってくる。リチャードスンが身を屈め、頭を掻くと、ネトルはそれに応えて勢いよく尻尾を振る。通用口をくぐり庭に入ったところで、わたしは思いきって尋ねる。
「その方の名前は?」
 リチャードスンはいったん口をすぼめてから、答える。
「ソフィア・アイリング」
 聞いたこともない名前だ。
「どうしてその方の死因が、その……不審だとされているのでしょう?」
「お答えできません」リチャードスンがかぶりを振る。「すみませんね。それにしても、素敵なお庭だ。じつに趣がある」
「それはどうも。夫を呼んできますね」
 リチャードスンがうなずく。わたしはマークを呼びに行くため、庭の小道を歩きはじめる。不吉な予感が胸いっぱいに広がる。マークがソフィア・アイリングなどという女と関わりがあるはずはない。彼女に関する事実をわたしは何ひとつ学習したことがない。念のため途中で足を止め、iダイアリーを取りだし、彼女の名前を入力する。何も出てこない。
 マークの書斎の前まで来ると、そっとドアを叩く。大きなうめき声が中から聞こえる。
「今、執筆中なんだ、クレア」抑えた声だが、いらだちがはっきりと聞き取れる。「仕事中は邪魔をするなと言っているだろう。今夜、日記にそう書いておきなさい。少し余分に時間をかけて、この事実を学習するように」
「急用なのよ、マーク。お願いだから出てきて」
 くぐもった悪態に続いて、ぱたぱたという足音がこちらに近づいてくる。
ドアが大きくきしんで開き、整理の行き届いたマークの書斎があらわになる。わたしの前に立つ夫はうつろな目をしている。そこには、かすかな狂気すらうかがえる。もう一時間以上も書きつづけているのだとすれば、神経がひどく昂っていても無理はない。
「警察の人があなたと話したいんですって。ケンブリッジシャー警察のハンス・リチャードスン主任警部という人。今朝ラジオでやっていた死んだ女の人の捜査をしているそうよ」
 マークの顔から血の気が引いていく。左手が震えている。

***

 『サイエンティフィック・アメリカン』誌2005年9月15日号

 すべては遺伝子によって決まる:社会における記憶格差の原因は遺伝子とタンパク質にあることが判明

 ハーバード大学の研究グループは、デュオ・モノ間の短期記憶の差の原因が特定の遺伝子スイッチにあることを発見した。この遺伝子には、環状AMP応答配列結合タンパク、略してCREBと呼ばれるタンパク質の生産を調節する働きがある。
 五千名の協力者から採取した血液サンプルから、成人デュオと成人モノのCREB濃度は十八歳以下の若者と比較して著しく低いことが確認されている。ただし、デュオはモノと比べて、血液中により多くのCREBが含まれる。そのため、デュオには一日ではなく二日分の短期記憶が備わっているのである。
 このタンパク質は、デュオでは二十三歳、モノでは十八歳で生産が抑制されることがわかっており、これが社会における記憶格差の要因となっている、と研究グループは考えている。彼らは現在、この現象の仕組みと原因を追究するとともに、例外の有無を調査中だ。
 プロジェクトの研究主任を務めるデュオ、パトリック・キルバーンは、心身双方のストレス因子が同時に作用することによって、この遺伝子スイッチがオンになる可能性を指摘する。これが起こるためには、両種のトラウマが同時に発生しなければならない、とキルバーンは主張する。実験用マウスに心身のショックを同時に与えたところ、CREB濃度が上昇し、短期記憶が改善されたことが報告されている。
 この研究に資金を提供する国際記憶基金(IMF)のスポークスマンは「この遺伝子スイッチの発見は、将来、人類がより優れた記憶力を獲得する喜ばしい可能性を提起するものだ。少なくとも、すべてのモノをデュオに変異させられる日がいずれ来ることが期待できる」と語っている。


 マーク

 今朝ラジオのニュースを耳にしたときには、これ以上悪い展開などありえないと思った。
 だが、それは間違いだった。
 無知に勝る幸福はない、と人は言う。クレアの目を見つめ返す。二十年前、〈バーシティ・ブルース〉で初めてのぞき込んだとき、ぼくを虜にした瞳だ(そう日記には書いてある)。今日、その瞳は水晶のように澄み渡り、知ることの重荷に汚されてはいない。たった一日でこれほど変わるものなのか。昨日、苦悶があふれていたラベンダー色の瞳は、今日は穏やかそのものだ。記憶がないがゆえの安らぎに満ち、知ることがもたらす罰を免れている。
 梢の上で、風が唸りはじめる。
 クレアのようなモノになれるなら、何を差しだしてもいい。とりわけ今日はそう痛感する。彼女がぼくを羨んでいるのは知っている。それはもう深く。この問題は、結婚以来たびたび蒸し返されており、いきおい、ぼくの日記にも頻出する。「クレアのデュオに対する最新の暴言はこうだ」で始まる文章を何度書いてきたことか。
 モノであるがゆえに、より幸福に生きる権利を与えられていることを、クレアはわかっていないのだ。
 深呼吸し、湧き起こる不安をなんとかなだめようとする。
「妙だな」
「リチャードスン警部が待ってるわ、マーク」クレアは腕を組み、怒ったような目でぼくを見据えている。
 しかたなく彼女のあとについて庭の小道をたどり、刑事のもとへ向かう。遠目でも、長身でたくましい体つきをしていることがわかる。がっしりとした肩。冗談の通じそうにない、しゃちほこばった肩だ。
 ぼくは目を細くすがめる。ちょうどそのとき、刑事がポケットに何かを滑り込ませる。カメラケースのようだ。クソッ。うちの庭の何を撮影したのだろう。歩幅を広げ、残りの数メートルを急ぐ。
「おはようございます、警部さん」近くに来て初めて、男が鷲鼻であることに気づく。せっかくの色男が台無しだ。
「おはようございます、エヴァンズさん」
「ぼくに話があるとか」
「ご多忙のところ、ご面倒をおかけしてすみません。じつは、ミス・ソフィア・アイリングのことで悲しいお知らせがありまして。彼女の遺体が今朝早くケム川で発見されたのです」
「なんですって?」
「こうしたケースでは、通常、ご家族や友人からお話を伺うことになっているのです。亡くなられた方の死に至るまでの行動を明らかにし、検視審問に必要な事実を揃える必要がありましてね。あなたはミス・アイリングとお知り合いだったようですね。パークサイド署までご同行いただき、供述を取らせていただけますか。そう長くはかからないはずです」
 クレアが息を吸い込む音が聞こえる。
「うちの人とソフィアが知り合いだったと……今、そうおっしゃいました?」
「ええ」刑事がうなずく。
「マーク……」クレアがぼくに向き直る。瞳孔がとがめるように広がっている。「事実なの?」
 これはまずい。妻の目にくすぶる疑念をなんとしても打ち消さなければ。
「確認してみよう」そう妻に告げ、日記を取りだす。何食わぬ顔を必死に装いながら、画面をのぞき込む。
「日記によれば、たしかにぼくはヨークでソフィアに会っている。二年前のライターズ・フェスティバルのときだ。小説家志望で、たしか……精神科病院が舞台の話を書いていると言っていた。薬漬けにされた患者たちの妄想がテーマだとか。『死の扉にて』を持参していて、そこにサインを頼まれたよ。ぼくの本の大ファンだそうでね。ぼくらに面識があることがどうしてわかったのですか、警部さん?」
「ミス・アイリングはあなたのことを日記に書いていたのです」
クソッ。つまり、この刑事はソフィアの日記をすでに手に入れているということか。
「驚きましたね。警察が彼女の日記を入手できたとは」努めて冷静な声で言う。「ぼくの学習した事実が正しければ、人権法により、国民のプライバシーに関する権利は保護されている。それには私信や日記も含まれるはずだ」
「おっしゃるとおりです。だが、例外がありまして」
 刑事が間を置く。その口元が不敵にゆがむ。
「〈1998年データ保護法〉の改正により、警察は必要に応じて個人データの開示許可を受けられるようになったのです。国家の安全のためであれば、われわれは電子日記を押収ないし閲覧することができる。あるいは、殺人や小児誘拐、すなわち、きわめて重大な犯罪を捜査するさいにも」
 思わずごくりと唾をのみ込む。
「つまり、われわれはしかるべき許可を得たうえで、ソフィアの日記を閲覧しているわけです。その内容が、彼女の死因を突きとめるのにあるいは役立つかもしれませんからね」
「ぼくについて、ソフィアはなんと?」
 刑事が無言でかぶりを振り、顎を前に突きだす。
「警部さん」彼の目を見て続ける。「さきほどあなたは、哀れなソフィアがケム川で発見されたとおっしゃった。そして今、ぼくの家の庭に立ち、ぼくに協力を求めている。これはいったいどういう状況なのか、教えていただきたいですね」
「本当にお知りになりたいと?」
「ええ、ぜひとも」
「そこまでおっしゃるなら……」刑事がぼくの目をまっすぐに見つめ返す。
 クレアがまた息を吸い込むのが聞こえる。
「ソフィアは日記にこうほのめかしています。あなた方ふたりがヨークで出会ったのち、かなり親密な関係になったと……」刑事の口の端がぴくりと動く。
 クレアが一歩後ずさる。みぞおちでも殴られたかのように。だが、さっきまで彼女の顔に浮かんでいた恐怖は今、べつの何かに取って代わられている。頬が燃えるように赤い。目はぎらつき、唇がゆがんでいる。
 自分がとんでもないミスを犯したことに気づく。最初にきっぱりとソフィアにまつわる一切の記憶を否定すればよかったのだ。なのに、クレアの責めるようなあの瞳につい動揺してしまった。ここはなんとしても、自ら掘った墓穴から這いださなければならない。二度としくじらないように気をつけなければ。
 ぼくには選択肢が四つある。

(a)浮気の事実を否定する。
(b)ソフィアの人格に疑問を呈する。
(c)ソフィアが日記に、ぼくについてなんと書いていたかを突きとめる。できれば、クレアがいないところで。
(d)右のすべて。

「噓だ」拳をぎゅっと握りしめながら言う。「そんなのはソフィアのでっち上げだ。彼女はぼくの本に夢中だと言っていた。ぼく自身にも夢中だと。それまで一度も会ったことがなかったのに」
 刑事は納得したように見えない。
「彼女は自分が信じたいことを書いたんだ。彼女はひどく錯乱していた。ここにいても時間の無駄ですよ、警部さん」
「考えられる手がかりはすべて追う必要があるのです」刑事がきっぱりと告げる。「そこには、ミス・アイリングとかなり親密な関係にあった男性たちも含まれます」
 クレアを横目で見る。ぼくと同じく、ぎゅっと拳を握りしめている。瞳の中で、なおも溶岩が煮えたぎっている。だが、幸い、彼女は根気よい説得には屈しやすいタイプだ。過去二十年の日記がその証明である。事実:たとえば1995年6月の日記には、クレアは深紅のバラに弱い、と書かれている。そして、「粘り強い懇願が頑なな心を開く鍵だ」とも。
 だからといって、安心はできない。もしもこの不倫疑惑がタブロイド紙の耳にでも入れば、下院議員になる夢ともおさらばすることになるだろう。
「警部さん、まさかぼくを逮捕するつもりでは――」
「ああ、まさか。それはありません。証人陳述書が必要なだけです」
 そう言われて警戒するべきか、それとも安堵するべきなのか、よくわからない。
 リチャードスンが咳払いをし、わずかに首をかしげる。
「ソフィアがあなたについて何を書いていたか、知りたいのですよね。じつは、開示許可にはいろいろと条項がありましてね、捜査の影響を直接受ける方々に対しては、日記の中身を開示してもよいとされているのです。署にいらしていただければ、一部をお見せできるかもしれません」
 この刑事は、ソフィアがぼくについてなんと書いていたかを知るためなら、ぼくがなんだって差しだすと思っているにちがいない。
「同行しますよ、警部さん」うめくように答える。「捜査には喜んで協力します。たとえソフィアの主張するぼくたちの関係とやらがまったくの妄想だとしてもね」
「ありがとうございます」
「信じてくれ、クレア」精一杯の哀願をこめ、クレアの目を見つめる。
 だが、クレアは返事をしない。ぼくは刑事のあとに続いて、庭の小道を警察の車に向かって歩いていく。

 てっきり取調室に連れていかれるものと思っていた。映画で見るような、テーブルと椅子の他には、哀れな容疑者の目を照らす強烈なハロゲンランプがあるだけの部屋に。
 ところが、ぼくが通されたのはリチャードスンのオフィスだった。作業机の上にはほとんど物がのっていない。コンピューターが一台とiダイアリー(ソフィアのものだろうか)、デジタル式の録音機、巨大なホッチキス。左手隅の最もいい位置に鎮座するのは、木製のチェスセットだ。ポーンたちが激しい競り合いを繰り広げている。うずたかく積まれた書類の山も、乱雑に散らばったファイルも、カビの生えた五日前の飲み残しが入ったままのコーヒーマグも、ここにはない。だが、机の奥の棚がリチャードスンの性格を雄弁に物語っている。ぎっしり詰まったノートは、マーカーで示した色ごとにきっちりと分けられ、一分の乱れもなく並んでいる。
 用心しなければ。
 怯えた素振りはおくびにも出さないことだ。
 後ろの壁に留められた金属製の飾り板にふと目が留まる。そこにはこんな言葉が刻まれている。

 才能とは、強引に手に入れるものではない。天より与えられるものだ。
 霊感もまた然り。それはふいに訪れる。
 だが、問題をその日のうちに解決したいなら、強引さがものを言う。
 巨大な棍棒を手に、ひたすら真実を追い求めるまでだ。
(出典不明)

 油断は禁物だ。細心の注意を払わなければならない。この男からは、『レ・ミゼラブル』に登場する冷酷無情な警部ジャベールと同じにおいがする。草の根を分けてでも真相を追い求めるタイプ。全身全霊を傾けて職務に没頭するたちと見える。この鷲鼻の警部は、真実を掘り当てるまでけっして手を緩めないだろう。
「ご足労いただきありがとうございます」リチャードスンはそう言うと、いっしょに部屋に入ってきた制服警官を指さす。ゲジゲジ眉の真面目そうな若者だ。「ドナルド・アンガス巡査部長があなたの証人陳述書を所定の用紙にタイプします。あなたにはのちほどそこに署名していただきます」
 ぼくはうなずく。
「では始めます。あなたはデュオですね、ミスター・エヴァンズ」
「もちろん」
「ご結婚されてから何年になりますか」
「二十年です」
「お子さんは」
「いません」
「あなたは小説家として成功している。だが、サウス・ケンブリッジシャー選出の次期下院議員をめざし、来る選挙では、無所属候補として出馬する予定だ」
「そのとおりです」
「ソフィア・アイリングは、ヨークで講演を終えたあなたに、なんと言って近づいてきましたか」
「確認させてください」
 iダイアリーを取りだし、キーボードをタップする。それから顔を上げ、リチャードスンを見る。
「彼女はぼくの小説のファンだと言ってきました。長年愛読してきたと。自分の未刊原稿もこれくらい成功したらいいのに、とも言っていました。少なくとも、ぼくの日記にはそう書いてあります」
「他には?」
「何も」
「ちょっと待ってください。ミス・アイリングはあなた自身にも夢中だと言っていたのではなかったですか」
 なかなか鋭い男だ、このリチャードスン警部は。
「ああ、はい。そうです」
「あなたはなんとお答えに?」
「光栄だ、と」
「そのあと何がありましたか」
 言葉に詰まる。ソフィアが日記にぼくたちの出会いについてどう書いていたのかがわかるなら、何を差しだしてもいい。
「食事に誘われました。断りましたが」
「ブロンド美女の誘いを断ったと?」リチャードスンの顔に訝しげな表情が浮かぶ。
「ええ」リチャードスンの目をまっすぐに見つめ返す。ぼくの供述がソフィアの日記に書かれていることと食い違っているのはわかっている。だが、ぼくはソフィアより有利だ。なぜなら、死人は自分を弁護する言葉を持たない。そこがぼくとは違う。
「でも、どうして?」
「作家どうしの会合で顔を合わせた全員の誘いを受けるわけではありませんから。たとえ相手がブロンドの美女だとしてもね」
「なぜです?」
「誰かが自分に夢中だなどと言ってきたら、頭の中で警報が鳴りだすものですよ」
「それはどういった理由で?」
 答えに窮して、iダイアリーに“夢中(クレイジー)+会合”と打ち込む。ありがたいことに、一件の検索結果が表示される。内容をざっと読んでから、顔を上げリチャードスンを見る。
「この手のイベントでは、ときおりおかしな人にからまれることがあるんですよ、警部さん。昨年の日記には、毒々しいピンク色の口紅をつけた女がハンドバッグでエージェントに襲いかかるのを目撃した、と書いてあります」
刑事が疑わしげに片方の眉を上げる。
「では、そのあとはどうなりましたか。ミス・アイリングの誘いを断ったあとは」
「彼女はがっかりした顔をしていました。でも、そのままいなくなりましたよ」
「いなくなった、というと?」
「部屋を出ていったんです」いらだちを抑えながら答える。
「べつの部屋であなたと寝るために?」
「違いますよ」
「それはたしかですか」
「いいですか、警部さん」声に怒りがにじみそうになるのを必死にこらえる。「ソフィアの死の真相をなんとかして突きとめたいのはわかります。だが、ぼくをこんなふうに問いつめるのは、まったくのお門違いだ」
「会合のあとは何があったのですか」
「何も」かぶりを振る。「彼女の日記には、ぼくたちの熱い情事はその後何年も続いたとでも書いてあるんですか」
 刑事は答えず、また顎を前に突きだす。それを見て、ぼくは次の質問に備えて身構える。
「その後彼女とは連絡を取りましたか」
 質問を受け、日記のキーをタップする。
「感情的なメールを何通か受け取ってますね。彼女はなおもぼくに執着していたようだ。すべて削除しましたがね。この手の女性ファンからのメールは、エージェントのカミラから定期的に転送されてくるんですよ」
「複数の女性にちやほやされて、さぞかし気分がいいでしょうね」
「少々迷惑に感じることもある、と日記には書いてあります」
「彼女のiダイアリーには、あなたの名前が一度ならず出てきます」リチャードスンが唐突に切りだす。「正確には、184回」
「彼女はそんなにもぼくに執着していたのか」
「彼女の日記には、なんと言うか……その……かなり生々しい内容も含まれていましてね」リチャードスンがぼくの目をひたと見据える。「わたしもまだ消化しきれていないのです。この日記はわたしがこれまで殺人事件の捜査のために閲覧したどの日記とも違う」
 ぼくは思わず椅子に座り直す。
「とりとめのない意識の流れ」リチャードスンが続ける。「いや、むしろ、荒れ狂う潜在意識の奔流とでも言うべきか。みごとなまでに思考がもつれているのです」
 ソフィアが気まぐれなのは最初からわかっていた(日記にそう書いてある)が、そこまでいかれていたとは思わなかった。
「ぼくについてはなんと書かれているんですか」
「お答えできません」
「だが……だが……署に来れば、一部を見せてくれると言ったじゃないですか」
「かもしれないと言ったはずです」
「ぼくにぞっこんだとか、そういったことが書いてあるんでしょうか」
「ここで質問する立場にあるのはわたしのはずですが」
「失礼しました、警部さん。ちょっと気になっただけですよ。彼女の日記にぼくの名前が184回も出てきたと聞いたものだから」
「話を先に進めましょう」リチャードスンの口元が不快そうにゆがんでいる。「この三日間のあなたの行動を正確に教えていただけますか。まずは昨日から始めましょう」
またしても選択肢は四つ。

(a)自分が何をしたかをリチャードスンに正直に打ち明ける。
(b)クレアが何をしたかを包み隠さず語る。
(c)噓をつく。
(d)右のいずれでもない。

「妻は目を覚ますと、ひどい気分だと訴えました。前の晩に、処方された薬をのみ忘れたせいです」ぼくは言う。「そこで、終日家にいることにしました。選挙運動のボランティアとの打ち合わせもキャンセルして、妻から目を離さないようにしたんです。幸い、妻はほとんど一日ベッドで休んでいましたから、大事には至りませんでした」
「奥さんはどこがお悪いのですか」
 思わずうめき声が洩れる。事実:クレアの病は、ぼくにとって、長年の頭痛の種なのだ。
「必要なら、お話ししますが」ため息まじりに言う。「妻はうつ病を患っているのです。それで、少々不安定になることがありましてね。ときに、このことは内密にしてもらえるとありがたいのですが。メディアに知られたくないものですから。妻の……その、健康上の問題を」
 リチャードスンはうなずくと、渋い顔でノートに何やら書きつける。
「では、あなたも奥さんも昨日は一日じゅう家にいらした、と?」
「ええ」
「他には何をなさいましたか。奥さんの様子に気を配る以外に」
「クレアが二階で休んでいる間、キッチンのテーブルで執筆を進めるつもりでした。でも、結局、あまりはかどりませんでしたね。そこで、書斎で事務作業をすることにして、クレアの様子はだいたい一時間おきに見に行きました」
「事務作業というと?」
「帳簿つけとかメールとか。インスピレーションを必要としない仕事ですよ」
「では、あなたはどんなものからインスピレーションを得ているのですか、ミスター・エヴァンズ」
「日々の暮らし。ささやかなあれこれです」
「たとえば、結婚生活に立つ波風とか? そこからインスピレーションを得たのが『死の扉にて』のあの場面なのではないですか。主人公のグンナルが妻シグリッドと口論をする場面ですよ。そのわずか二日後に、ふたりはわが子を亡くすことになる」
 つまり、この刑事はぼくの小説を読んだことがあるというわけだ。
「小説が実生活の影響を受けるとは一概には言えません。ぼくにとって文章はふっと頭に浮かぶもので、意図的にどうこうするものではないんです」
「何かからインスピレーションを得た場合、それをどうやって記憶に留めておくのですか」
 事実:ライターズ・フェスティバルでこの手の愚問をよこすのはモノと決まっている。理由はわからない。モノの劣等性はこんなところにも表れるということか。だが、まさかこの刑事はモノではないだろう? ともあれ、ここは毎度お決まりの答えを返しておくとしよう。
「もちろん、すべてを日記に書きとめておくんですよ。ショックを受けたこと、胸を締めつけられたこと、ばかげたこと。全部ね」
「小説を執筆するさい、すでに書いたことをどうやって覚えておくのですか」
「思い出せないことがあれば、そのページに戻るまでです」
「では、なぜ、あるページではヴァールベルイ出身だったグンナルがべつのページではヴァールベリ出身になっているんです? 前者はノルウェーで、後者はスウェーデンの地名だ」
 呆然と刑事を見つめる。事実:ぼくがこの誤りに気づいたのは、刊行から二カ月が過ぎた頃のことだ。それはどういうわけか、あの本に携わったすべての編集者の目をすり抜けてしまったのだ。もっとも、間違いに気づいた読者はひとりもいなかった――今日までは。リチャードスンはあの小説をさぞかし注意深く読んだのにちがいない。そう思うと、余計に緊張が増してくる。
「どうやらあなたは北欧の地理に詳しいようですね、刑事さん」
「わたしには四分の一スウェーデン、四分の一デンマークの血が流れているんですよ」
 思わず目をしばたたく。
「あなたはまだわたしの質問に答えていない」刑事が言う。
「どんな小説にも、その……多少の間違いはあるものです。あなたには本の誤植を見つける趣味でもあるんですか」
「表面上は継ぎ目などないように見えるものの、ちょっとしたひびを見つけるのがわたしの仕事でしてね」刑事の灰色の目は今や鋭い錐と化している。「質問を変えましょう。ご自身の結婚生活をひとことで表すとしたら?」
「幸せですよ、もちろん」きっぱりと断言するつもりが、声の震えを抑えられない。
「幸せというと?」
 事実に基づく適切な答えを求めてひとしきり脳内を探ったあとで、『死の扉にて』の一節を借用することにする。
「幸せをどう定義するかにもよりますね。個人的には、あとになって初めて幸せだったとわかる、そんなものだと考えます」
 リチャードスンは片方の眉を上げると、ノートに何やら書きつける。
「おととい、つまり、木曜日は何がありましたか」
 ここからは、いよいよ油断禁物だ。くれぐれも言葉に注意しなければ。
「その日も家にいました。ほぼ終日、書斎で執筆していましたね。昨日と違って、かなり生産的な一日でしたよ。八百語ほど書いたあと、午後はメールの対応に当たりました」
「つまり、ご自宅を出なかったと?」
「ええ」
「日中は誰かと話しました?」
「午後遅く、電話で。エージェントのカミラ、それから選挙運動マネージャーのローワンと」
「夜は何を?」
「とくに何も。気づいたら書斎のテレビの前で寝ていましたよ」
「その前日、水曜日は?」
 iダイアリーに手を伸ばし、水曜の書き込みを確認する。

 午前中いっぱい『存在という幸運』と格闘。昼食までになんとか八百語
ほど書き上げる。正午、キッチンで自分用にサンドイッチをこしらえる。クレアはまだ〈ケンブリッジ・フラワースクール〉から帰宅せず。昼食をとりながら妻と無意味な会話をせずに済んだのはありがたい。悲しいかな、最近は彼女といてもなんの刺激も感じないのだ。昼食後、カミラに電話。『存在という幸運』の執筆は順調だと請け合う。
「それはありがたいわ! 小説家と締め切りは水と油だと言うけれど、あなたはちゃんと締め切りを守ってくれそうね」
「寄稿した『サンデー・タイムズ』紙の記事の炎上、この数日で鎮火したようで助かったよ」

「本を売るには炎上も必要ってこと。あれは最高の宣伝になったはず。来月、続きを書いてもいいかもね」
 それからカミラは、広報担当のベンが、来春の刊行に先駆けてゴールデンタイムのテレビ・インタビューの枠を押さえるべく画策中だ、とも言っていた。記事が炎上した直後でもあり、かなり勝算は高いとのこと。
 その後、ローワンから、ケンブリッジ市庁舎で開く記者会見の日時が今週土曜の正午からに確定したとの電話あり。異階級間結婚法に女王の裁可が下るのが金曜だから、タイミングはばっちりだ。異階級間結婚をして二十年になるという事実を最大限生かさなければ。
「いいか、マーク。訪れたチャンスは必ずつかむ。これは政治の基本ルールだ。これから表舞台に立とうってときには、タイミングも大事だぞ」
 ローワンの言うとおりだ。午後の残りを費やし、予想される記者からの質問に対する答えの草案を練る。ファイルは「記者会見.doc」という名前で保存。その後は、メールなど選挙関連の連絡に対応(官僚的なことは嫌いだが、秘書を雇うべきかもしれない)。

 クレアと夕食。メニューはぼくの好物のウサギ肉のシチュー。クレアが午後いっぱいかけてこしらえたものだ。彼女がキッチンであくせく動き回るのを見るたびに、嫌な気分になる。どうしていつもあんなに必死にぼくの機嫌をとろうとするのか。向こうがいい妻を演じようとすればするほど、こちらの罪悪感は増すばかりだ。シチューは絶品だが、会話は相変わらず退屈で、知性のかけらも感じられない。なぜクレアは美術や古典文学に関心がないのだろう。イプセンの戯曲、ワーグナーのオペラ、あるいはヴァージニア・ウルフに。彼女のベッド脇のテーブルに積んであるのは、くだらない女性誌ばかり。あんなもののどこが面白いのか。なんだってぼくは、『存在という幸運』の意外な展開について語ろうとしては、彼女みたいなモノに理解できるわけがないと気づき、慌てて口をつぐまなければならないのか。
 夕食後は、書斎のテレビの前でだらだらと過ごした。『存在という幸運』の執筆より、ワイン――1996年物の〈シャトー・ラフィット・ロートシルト〉――のほうがはるかに進んだ。

「午前中は執筆をして過ごしました」日記から顔を上げて言う。「サンドイッチで昼食を済ませたあと、電話でカミラとローワンと話しました。午後はメールなど、細々とした用事を片付けて、夜はテレビの前で過ごしました」
「驚きましたね。あなたの毎日はまるで同じことの繰り返しだ」刑事が左の眉を上げてぼくを見る。「あなたが水曜日にしたことは、あなたが木曜日にしたこととまったく同じに聞こえる」
 クソッ。またしてもヘマをしでかしたか。
「ぼくは小説家だ」努めて抑えた声で言う。「長くこの仕事をしていると、ライターズ・ハイとも言うべき症状に見舞われることがありましてね。ぼくはそれを最大限生かしたい。だから、今週は家にいて、ひたすら書きつづけた。日記にもそう書いてあります。出かけるのは必要に迫られたときだけですよ」
「ライターズ・ハイね」リチャードスンが意味ありげに額に皺を寄せ、ぼくの言葉を繰り返す。「その表現はソフィアの日記でも目にした記憶があります」
 驚くには当たらない。というのも、それはそもそもソフィアから借りた言い回しなのだ。事実:初めて会ったとき、ソフィアはぼくとの会話でその言葉を口にした。あまりに印象的な言い回しだった――ぼくがときおり経験する多産な時期をみごとに要約していた――ため、ぼくはそれを書きとめ、翌日学習したのだ。
「だってほら、ソフィア自身が小説家志望でしたから」リチャードスンに思い出させる。
「ほとんどの作家が、いつかはライターズ・ハイの発作に襲われたいと願っているはずですよ」
「それにしては、彼女の日記からは、自分を小説家だとみなしているふしは一切うかがえないのですがね」
 刑事の視線がじりじりとぼくを焼く。
「未刊の原稿についても、まったく触れられていない。それどころか、そもそも小説を執筆していたとすら書かれていないのです」
「おかしいですね、警部さん」なおも必死に平静を装いながら言う。「間違いなく彼女は精神科病院の入院患者が登場する小説を書いていると言っていました」
「それは面白い」リチャードスンの口がぴくりと動く。「たしかにミス・アイリングはその種の病院についてよく知っていたようです。現にそれが彼女の日記のおもな舞台だったのですから」
 口の中にふいに嫌な味が広がる。
「どういうことですか」
「彼女は精神科の施設に長期間入っていたようです。退院したのは二年前と書かれていますね」
「彼女が施設に?」
「ええ、十七年間」
「それは知らなかった」
 刑事はぼくの語尾のかすかな震えを聞き逃さなかったはずだ。その証拠に、ぼくをひたと見据えたまま、身を前に乗りだした。そのさまは獲物を狙う飢えたヒョウを思い出させる。
「何者かがミス・アイリングを殺害したのです」刑事が低い声で告げる。その顔は今やぼくから十センチも離れていない。「これはわたしの勘です。もっとも、わたしの助手は自殺だと考えているのですがね。いずれにせよ、検視報告書が今日じゅうに上がってきます。それによって、わたしの勘が正しかったことが証明されるはずです。ソフィア・アイリングはもともとコートを着ていなかった。自分でポケットに石を詰めてケム川に入ったわけじゃない。ヴァージニア・ウルフとは違うんです。ええ、これでも小説家には詳しいんですよ。わたしは今日じゅうにソフィアを殺した犯人を特定してみせます。覚えておいてください、ミスター・エヴァンズ。これは絶対です」

***
 
十八歳/二十三歳の誕生日にモノ/デュオに移行するための公式ガイドライン:日記の細部を事実に変換する方法

 1.一日の終わりには、必ず日記を付けましょう。二日間の猶予があるデュオであっても、この習慣を怠ってはいけません。あなたにとって重要なこと、意味があると思われることを詳しく書きとめておくことが肝心です。
 2.事実とは何かを理解しましょう。事実とは、あなたが日記から学習した細部のことです。一度学習した事実は、二度と忘れることはありません。事実が即座に頭に浮かぶのは、それらがあなたの脳内の長期保管庫に移送されたためです。
 3.朝起きたらすぐに前の晩の日記を読みましょう。これを毎朝の習慣にすることです。日記の学習に力を注げば注ぐほど、脳内に保持できる事実の量は多くなります。研究によれば、日記の学習に熱心に取り組んだモノは、自分自身に関する事実をデュオと同じだけ保持できるとされています。日記の学習に関して言えば、モノとデュオは同等なのです。
 4.肩の力を抜きましょう。どんなに熱心に取り組んだとしても、日記に書いたすべての事柄を脳内で事実に変換することは不可能です。科学的研究によれば、モノもデュオも、学習できる上限は日記に書いたことの70パーセントだと言われています(もちろん、この基準には例外もあります)。


 ソフィア

 2013年9月2日
 息が詰まりそうな熱気。部屋には小説家の卵がうじゃうじゃいた。礼儀正しい微笑みとみすぼらしい服の裏に野望を隠した人たちが。あの男が演壇に立った。すっかり中年になって。前よりおなかが出ているし、髪はもう豊かではない。それどころか、生え際が少し薄くなりかけている。だけど、あの部屋にいた誰がそんな変化に気づいただろう。痩せっぽちでもじゃもじゃ頭の二十五歳の彼を知らないかぎり。
 皆があの男に喝采を送った。それもそのはず。マーク・ヘンリー・エヴァンズのような作家は他にいない。彼ほどの売れっ子はいないのだ。あたしは部屋の後ろのほうでおとなしくしていた。皆に合わせて拍手だってした。そうせざるをえなかった。肝心なのは溶け込むこと。普通にしてなきゃ。マリスカのアドバイスどおりに。
 あの男はインスピレーションについて語った。集中力が高まり、いくらでも書ける時期があること。作家としての名声と成功に伴う罠について。でも、彼が話す間も、あたしの頭はべつの罠のことでいっぱいだった。あの男にしかける罠のことで。
 講演を終えた彼に近づいた。悪いけど、容姿には自信がある。つややかに波打つプラチナブロンド。完璧に整えた眉。血の色のネイル。男を惑わせる深紅の口紅。当然、服にもこだわった。体のラインにぴったりと沿う黒のミニ丈のワンピースは〈アレキサンダー・マックイーン〉。深く開いたデコルテがその下に潜む豊かな膨らみへの期待を駆りたてる。
「お話、とても興味深く伺いましたわ、ミスター・エヴァンズ」そう声をかけ、メガワット級の笑みを浮かべた。あの男が微笑み返す。視線はたちまち下に逸れ、あたしの体の曲線をじりじりと焼くようになぞる。どうやらまったく気づいていないようだ。ありがたい。あの整形外科医はみごとな仕事をしてくれたわけだ。
「創造性についてのお話、とても心に響きました」甘い声でささやく。「あれって、ライターズ・ハイのことですよね? ときとして狂気は躁状態という形をとってあらわれる。創造性と狂気って表裏一体ではありません? ミスター・エヴァンズ、あなたのような優れた小説家は、そのふたつが交わるところに立っているのではないかしら」
 あの男の目がすべてを物語っていた。
 あたしの言葉に心を、色気に股間を鷲掴みにされたことを。ここまでくれば、落としたも同然。
 男なんて、ちょろいものだ。
「ごいっしょに食事でもいかがかしら」脱色した髪を指でくるくるともてあそびながら尋ねた。それから、さりげなく、なまめかしく、とどめを刺す。「ライターズ・ハイの魅力について、ゆっくりお話ししましょうよ」
「食事よりずっといいことを思いついたよ」あの男はそう言って、含み笑いを洩らした。あたしの胸から視線を離さずに。
 その晩、あの男はその“いいこと”をした。
 あたしを食べ尽くした。
 あたしの乳房からクリームを舐め取った。
 ええ、そう。噓じゃない。


2013年9月5日
 ああ、最悪。例の頭痛がまたあたしを殺しにかかってる。
 ヨークでの遭遇から今日で六日。なのに、電話一本メール一通来やしない。
 あたしの連絡先をなくしたとでもいうのだろうか。
 あの馬鹿、なんで連絡してこないのよ?


2013年9月6日
 聖オーガスティンから解放されて今日でちょうど九カ月になる。あのときのあたしときたら、体は痩せこけ、顔はやつれ果て、髪なんて羊の毛みたいに刈り込まれていた。自分のお下げ髪を垂木にかけて自殺を図ったありがたい先輩のおかげだ。それはあたしが入院する十二年前のことで、以来すべての入院患者の髪は短く刈り込まれることになったのだ。少なくとも、そう聞いている。あたしと同じ、みっともないツンツン髪のマリスカが、彼女にしては気分が落ち着いていたときに裏庭で教えてくれた。屋外を歩き回るのを許されていたのは、一部の症状がましな患者だけだった。夏の日の午後遅く、ふしだらけで発育不良のポプラの木の下での出来事だ。
 悲しいことに彼女はもうこの世にいない。死因は心不全。三十六歳の若さだった。
 看守たちに今のあたしを見せてやりたい。誰ひとり、あたしだとは気づかないはず。あの日以来、つくべきところに肉がつき、頬にも柔らかさが戻った。もうやつれていないし、肌も土色じゃない。まるで陶器のようなきめ細かさだ。肩までの髪にはふんわりとウェーブがかかっている。最初に聖オーガスティン行きの船に乗せられたときと同じように。あたしは女らしさを取り戻したのだ。鼻だって見違えるほどよくなった。こういうのをすっと通った鼻筋というのだろう。耳ももう張りだしていない。頬と顎はミロのヴィーナス風に彫り直した。ぽってりとした唇は、ヒアルロン酸のおかげ。ツンと上を向いた張りのあるバストは、シリコン注入のたまものだ。
 うぬぼれ屋と呼びたければ呼べばいい。だけど、狂人とは呼ばせない。
 あいつらは、あたしの人生の十七年間を盗んだ。クソみたいな十七年。二度と取り戻せない年月。
 だけど、容姿なら取り戻せる。
 そして、必ず復讐をやり遂げるのだ。


2013年9月7日
 雨だれが窓ガラスの向こうを滑り落ちていく。
 暗闇がそれをのみ込む。
 恐ろしい夢を見た。また同じ夢だ。看守たちがあたしの上にのしかかっている。体のあちこちを押さえつける、いくつもの手。どうしても振りほどけない。身動きすらできない。息が苦しくてたまらない。頭上で光が渦を巻いている。暗闇が破片となって散らばっていく。星々は楕円のきらめきを放ち、夜空を踊り回っている。まるでゴッホの《星月夜》みたいに。けれど、夢の中の星たちは神秘的でも楽しげでもない。悪意ある存在を隠している。容赦なき手を忍ばせている。あたしを押さえつける手。あたしから自由を奪う手。
 あたしの首を絞める手を。
 自由でいることには、たくさんの慰めがある。好きなだけお酒が飲める。誰とでもファックできる。飲酒もセックスも、聖オーガスティンでは気楽に楽しむわけにはいかなかった。アルコールが手に入るのは、しかるべき手段で病棟スタッフを買収できたときだけ。ファックできたとしても、相手は女に限られる。しかも、ぶっ壊れた女だ。
 自由のもうひとつの利点。それは、この小さな日記に書きたいことをなんでも書き込めることだ。看守たちに向けて取り繕う必要はない。下手な芝居を打ち、脳が“正常”であるふりをしなくてもいいのだ。あのクソどもは、あたしの日記の中身をずっと監視していた。最初から、あいつらが読みたがっていることを書けばよかったのだ。そうすれば、聖オーガスティンで十七年間も過ごす羽目にはならなかった。刑期を短縮できた。あたしを縛りつける邪悪な手から、もっと早く逃れられたはずなのだ。
 あたしの目を開いてくれた、今は亡き哀れなマリスカに感謝しなければならない。たとえ気づくのが遅くても、気づかないよりはましだったから。
あの日、あたしたちは裏庭にいた。木漏れ日が発育不良のポプラから降り注いでいた。遠くの海で、白い波頭が砕け散るのが見えた。マリスカは芝生に腰を下ろし、手にした草の葉をしげしげと眺めていた。生まれて初めて草を目にしたとでもいうように。
「調子はどう?」あたしはそう声をかけてみた。マリスカは黙ったまま、嘲るようなまなざしをちらりとあたしに投げかけた。それから、指でつまんだ葉っぱをくるくると回しはじめた。最初はゆっくりと。次第に猛スピードで。
「あたしにしちゃ、ましなほうだね」マリスカが答えた。「あんたはどう?」
「どう思う?」あたしは訊き返した。
「ここ、焼けそうに暑いね」マリスカがそう言って、恨めしげにポプラをにらんだ。島を取り囲むように生えるポプラの木々は、あたしたちと自由の間に立ちはだかる壁だった。
 それから、彼女は前に身を乗りだすと、芝生に葉っぱを放り投げた。その目には、共謀者めいた光が宿っていた。
「ゆうべ遅く、看守ふたりがあんたのことを話してるのが聞こえたんだ。どれだけソフィアが珍しく、どれだけソフィアが他と違うかって」
「自分が特別なことくらい、最初からわかってるわ」
「あんた、あいつらに渡されたiダイアリーに何も書いてないっていうじゃないか」彼女が目を険しくせばめた。
「日記なんて、わざわざ書くもんですか」
「どうして?」マリスカはどうでもよさそうに肩をすくめながら訊いた。だけど、その顔には好奇の色がにじんでいた。
「必要ないから」あたしは答えた。
「でも、自分の過去を取っておきたくない? 将来、重要になるかもしれないんだよ?」
 リスカは訝しげに片方の眉を上げると、刈り込んだ髪に指を滑らせた。「誰だって日記は付けるもんさ。誰にだって、ひとつやふたつ、自分についての重要な事実が必要だからね。過去の何かしらが必要なんだ」
 あたしは自分の頭を指さした。
「事実なら、ここにある。ひとつ残らず全部。あたしは自分の身に起きたすべての出来事を覚えていられるの。二十三歳を過ぎてからもずっとね」
 マリスカは首をかしげ、興味深そうにあたしを見つめた。あたしの言葉を消化しようと、いや、信じようとさえしてくれていたのだ。聖オーガスティンに収容された患者の大半がそうだった。結局のところ、あたしたちはお互いの病と共存せざるをえなかったから。偏執病。統合失調症。幻覚。妄想。その他ありとあらゆる精神疾患。あたしたちはともに苦しむほかなかった。逃れる術はないのだ。みじめな島にともに閉じ込められているかぎり。
「すごいね、全部覚えていられるなんて」マリスカは真面目な顔で言った。それが皮肉だったのかどうかはわからない。「あんたのその超人的な能力のこと、看守たちにしゃべってないといいけど」
 あたしは鼻を鳴らした。
「そんなこと、するわけないでしょ」
「よかった。前にも、自分には完全記憶があるって看守たちに自慢した患者が三人いたんだけどさ、その人たちみんな、今は島のはずれの地下二メートルのとこに埋まってるよ。なんとも気の毒な話さ」
 目をすがめ、マリスカが指さすほうを見た。風に揺れるふしだらけのポプラのずっと向こうを。
「その人たちに何があったの?」
「さあね、誰も知らない」マリスカが肩をすくめた。「というか、知りたくもないって感じかもね。あたしの日記には、そのあと看守たちが箝口令を敷いて、誰もその話題を口にしないようにしたって書いてある。だから、あんたはマジで日記を付けなきゃだめだよ。毎晩。他のみんなと同じように。普通の人間みたいに。あたしみたいに」
「時間の無駄よ」あたしは鼻で笑った。
「時間の無駄なんかじゃない。無駄なんてことは全然ないよ。あたしたちの電子日記は看守たちにも読まれてるんだから」
「まさか、噓でしょ?」
 マリスカがぐるりと目を回し、憐れむような顔であたしを見た。こんな間抜けな人間には会ったこともないというように。
「看守たちはあたしらの指紋を持ってる。あたしらの日記の中身に目を光らせて、継続的な精神異常の兆候を探してるんだよ。でなきゃ、期待できそうな回復の兆しをね。正常と異常の差なんて、知ってのとおり、紙一重だけどさ。自由になりたいなら、せめて正常に見せる努力はしなくっちゃ。それが、日記を付けるってこと。さっさと始めれば、それだけここから出られる日が近くなる。この施設とおさらばできる日がね。あんただって、また自由になりたいだろ?」マリスカが喉の奥を震わすようなしゃがれた笑い声をあげた。「これだけ長いこと煉獄に閉じ込められたとあっては、ここから抜け出す手段はふたつにひとつ。棺桶か船だけさ。あんたにはまだ帰りの切符を手に入れる望みがある。そのためには日記をちゃんと付けることだよ」
 あたしは思わず背筋を伸ばした。
「日記には、あんたっていう人間の大事な事実を記録するんだ」マリスカはやれやれと言わんばかりにため息をつくと、まるで子どもを相手にするかのように説明を始めた。「日付、時間、重要な出来事。将来、必要になりそうな事実。そういうのを看守たちが納得できるように書くんだよ。なんなら、あたしの日記を見せてあげてもいいよ」マリスカがいたずらっぽく笑った。どこか面白がるように唇をめくり上げて。「インスピレーションが必要っていうんならね」
 だけど、何よりあたしを驚かせたのは、彼女が次に言ったことだった。
「その昔、あんたの継母があんたのパパに、ゴミ箱からあんたの日記を見つけたって言いつけた。あんたのパパは、あんたの頭がおかしくなったと思い込んで、あんたをケンブリッジの精神科病棟に引っぱっていくことにした。で、最終的にあんたはここに送り込まれた。看守たちがあんたの記を読みたがるのも、あんたをここにこんなに長いこと入れておくのも、あんたが例の完全記憶だのなんだのっていう妄想を持つ手合いのひとりだからさ。それを恐れてのことなんだ。だから、あいつらは特別に骨折って、あんたがここから出られないようにしてる。でも、あんたが渡された日記をきちんと付けるようになれば話はべつだ。あたしはあんたにこのことを教えなきゃって思ったんだよ。昨日の看守たちふたりの会話があたしの頭にはっきり残ってるうちに。あんただって、島の最果てに埋められたあの三人の愚か者の仲間に入りたいわけじゃないだろう?」
 頭の中で何かがカチッと音を立てた。ポプラの木をすり抜ける弱い日射しがふいに不吉な色を帯びる。すべてがすとんと腑に落ちた。視界がぱっと開けた気がして、だけど同時に恐怖も感じた。マリスカのおかげで、あたしは聖オーガスティンの真実に目を向けることができた。新たな可能性が見えてきたのだ。
 たとえば、復讐もそのひとつ。あたしは復讐を強く願った。あいつらに当然の報いを。
 あたしはもごもごとお礼を言った。なぜって、マリスカがあたしの背中を押してくれたのだから。何がなんでもここを出ようという気にさせてくれたのだから。
 そして今、あたしは雨に濡れそぼるひさしを見上げながら膝を抱えている。悪夢につきまとわれて。慰めてくれるのは、ウォッカの大瓶だけだ。
だけど、少なくともあたしは自由だ。マリスカはあたしの恩人。彼女の命を奪った心不全が憎い。二度とアムステルダムに帰れなかったなんて。マリスカが遺体安置室に運ばれる前、あたしはその冷たい唇にキスをした。自分で言っていたとおり、彼女は棺桶に入れられて、アウターヘブリディーズ諸島から出ていこうとしていた。
 聖オーガスティンへあたしを導いた過ちを繰り返すつもりはない。過去を覚えていられない人間は、間違いを繰り返すほかない。だけど、覚えていられるのなら、ある程度の間違いは防げるはずだ。あたしにはこれからやるべきことがたくさんある。集中力を維持しなければ。もう一度眠ろう。もちろん、このウォッカを飲み干してから。
 まずは、あたしの人生を台無しにした男を締め上げることから始めよう。
手加減はしない。


 今朝起きて、二日前の出来事を覚えていないことに気づいた。なんたる悲劇。大きなナイフで心臓をひと突きされた気分だ。ほぼ一日、呆然と街をさまよい歩いた。自分はデュオだとずっと思っていた。周りの皆も確信していた。おれは(モノの母親ではなく)デュオの父親の血を受け継いでいるにちがいないと。なにしろ、七歳以降に在籍したどのクラスでも、成績はトップだったのだ。階級登録法(1898年)にのっとって、明日はモノ省に登録に行かねばならない。ケンブリッジシャー警察の上司にも報告する必要がある。出世の夢はあえなく砕け散った。平(ひら)の刑事のまま、退職の日を迎えることになるだろう。
[自分用メモ:しばらくは何も言わずに様子を見るつもりだ。自分さえ黙っていれば、モノだと知られることもあるまい。必ず抜け道はあるはずだ。こと日記の学習に関するかぎり、モノとデュオは同等と言われている。これからはとにかく詳細を記録して、念入りな学習に努めよう。毎朝早く起きて、それを日課にするのだ。おれならできる。努力次第で、70パーセント以上の事実を脳内に保持することも可能なはずだ。夢も野望もみすみす手放すつもりはない。]
 ハンス・リチャードスンの日記、1990年



 ハンス

 日付が変わるまであと十三時間十五分

 マーク・ヘンリー・エヴァンズを帰さざるをえなかったのが悔やまれる。できることなら、署の奥の独房にぶち込んでおきたかったのだが。
 あの男は噓つきだ。ひどく怪しい。ぷんぷん臭う。
 だが、証拠がない。死んだ女が残した、支離滅裂でとりとめのない日記以外は。女はなんらかの恨みを抱いて、あの男を情事に誘った。ボトックス漬けで、元過食症で、精神科病院で十七年間を過ごしたというその女は、ある日突然開眼し、自分が過去をすべて覚えていられることに気づいたそうだ。こんなものがエヴァンズを取り押さえるために必要な決定的証拠になるわけがない。
 チェス盤の上に並んだ駒をじっくりと眺め、白のポーンを前に進める。
あの男は噓つきだ。おれはあいつを信じていない。だが、女のほうがもっとひどい。あの日記は一語たりとも信用できない。事実:短期記憶に関わるタンパク質は二十三歳を境に生産が抑制される。完全記憶を持つというソフィア・アイリングの主張は、科学にも理屈にも逆らっている。
 こんなばかげた話、聞いたことがない。
 今度は黒のポーンを前に進める。明らかな自殺行為だ。
 昨日の出来事は一点の曇りもなくおれの脳内に収まっている。何もかも覚えているのだ。鮮やかな総天然色で。朝、軽い二日酔いで目を覚まし、夜、『出世するために知っておくべき10のこと』を読みながら眠りに就くまでの、あらゆる場面をひとつ残らず。十八歳の誕生日以前に起こったことも、同じくらい鮮明だ。受講した犯罪学講座の内容だって、細部に至るまで記憶している。〈犯罪学序論〉を担当した(授業で使った全五巻の教科書の執筆者でもある)ごま塩頭の教授の顔の毛穴まで、ありありと目に浮かぶ。すえた煙草と洗っていないコーデュロイと焦げたソーセージの臭いがしたことも。
 だが、いったいどうすれば、二十三歳以降もすべてを覚えていられるというのだ? そんなことは不可能だ。
 白のビショップを斜め前に進め、自滅した黒のポーンを盤外に追いやる。
とりとめのない妄想。たぶんそういうことなのだろう。ソフィアの日記を今日じゅうに読み終えるべきか、明日まで放置するべきか、迷うところだ。事実:事件発覚後最初の二十四時間に注視すべきは、具体的かつ議論の余地がない証拠だ。その事件に殺人がからむなら、なおのこと。そのうえ、おれには、日付が変わる前に殺人者の正体を突きとめなければならない事情がある。
 椅子から身を起こす。脳がもう一杯コーヒーを欲している。だが、自動販売機に向かって足を踏みだしたちょうどそのとき、若きトバイアスがオフィスに飛び込んできた。
「彼女の指紋を各種データベースと照合してみました」トバイアスが口を開く。「ですが、何も上がってはきませんでした」
 驚くには当たらない。ソフィアは前科者には見えなかった。
「運転免許庁に登録されたデータも改めて確認しました。それによると、ソフィア・アリッサ・アイリングは1970年11月20日、バミューダ生まれのデュオ。運転免許を取得したのは2013年8月です。いっぽうで、歳入関税庁は、庁内のデータベースにソフィア・アリッサ・アイリングなる人物の記録はないと言って譲りません。戸籍本署、内務省、選挙登録事務所にも記録はなし。記憶省、デュオ省に関しても結果は同じです」
「堀りつづけることだ、いいな? 彼女の名前はそのうちどこかのデータベースにひょっこりあらわれるはずだ」
「了解」トバイアスがうなずく。「車両登録番号も当たってみました。彼女は2013年8月22日、ケンボーンのディーラーから車を購入しています。中古の黒のフィアットを2900ポンドで」
 おれは凍りつく。
「ですが、医療記録がまだ見つからなくて」トバイアスが両手を上げてみせる。「国民健康保険(NHS)には、ソフィア・アリッサ・アイリングという人物の記録がないんですよ。アデンブルックス病院にもね。念のため、彼女の生年月日の十年前までさかのぼってみたんですが、何も見つかりませんでした」
 ソフィアの日記は、こちらが思っていた以上に噓にまみれていたようだ。トビーの調査結果によって、その信憑性はますます失われた。とは言え、彼女の日記が本当にでたらめなのかどうかについては、具体的な確証を手に入れておくべきかもしれない。
「あとふたつ、調べてほしいことがある」おれは言う。「ひとつ目は、アイリングの財務記録の全明細だ」
 トビーがうなずく。
「ふたつ目。彼女が聖オーガスティンという名の精神科病院に入っていたことがあるかどうか、調べてもらえるか。この施設については、あまり情報がない。ひょっとしたらアウターヘブリディーズ諸島のどこかにあるかもしれない、ということ以外はな」
「アウターヘブリディーズ?」トビーが目をせばめておれを見る。
「長旅になるな」おれは肩をすくめる。「だが、行ってくれ」
 トビーが首を振り振りドアの向こうに消える。おれは音声レコーダーを取りだし、ソフィア・アイリングのファイルをタップして、こう吹き込む。「バミューダ生まれ」、「1970年11月20日」、そして「中古の黒のフィアット、着色ガラス付き」。事実:どんなにささいな、一見取るに足らないことでも、謎を解く手がかりになりうるのだ。
 再生ボタンを押し、たった今口にしたことがきちんと録音されていることを確かめる。ちょうどそのとき、デスクから数メートル離れたところで、引きずるような足音が聞こえる。助手のヘイミッシュにちがいない。いまだにあの重たい長靴をはいているのだ。クソッ。せめて鑑識がもう数時間、彼を自然保護区に足止めしておいてくれたら、今しばらく厄介払いができたはずなのに。
「まだ彼女が自殺したと考えているなら、検視官のそばに貼りついて報告書を待つことだな」おれは言う。
「こっちに戻る途中で、遺体安置所に寄ってみたんですがね。マージのチームはすでに作業を始めていました。そこで、内々に途中経過を教えてくれるよう頼んでみたんです。捜査に必要だからと言ってね。彼女、渋々承知してくれましたよ」
 ヘイミッシュの顔に得意げな笑みが広がる。
「で?」
「自殺の可能性もまだ除外できないそうです。少なくとも、この段階では。今のところ外傷らしきものは一切見つかっていないようで」
「ふうむ」
「どうしてそう犯罪の線に固執されるのか、理解できないのですが」
「念のため言っておくがな、彼女が着ていたトレンチコートはかなり大きいサイズだった」いらだちが声ににじむ。「彼女にはあまりにも大きすぎた。あれは彼女のコートじゃなかった」
「ですが――」
「何者かが彼女に着せたんだ。パニックを起こした何者かが。彼女の死体を一刻も早く片付けたくてね。ポケットの石は下手な思いつきにすぎない」
「おっしゃることがよくわからないのですが」
「今週、ケム川は普段より流れが速くなっている。このところ雨が多かったからな」
「だから?」
「重しになっていた石の一部が川の流れにさらわれたのにちがいない。それで遺体が浮かび上がり、葦にからまったというわけだ」
「だとしても、自殺の可能性は残る」ヘイミッシュが食い下がる。「サイズの大きいコートのことは、あまり深読みすべきではないでしょう。今シーズンの流行りらしいですよ。おとといの晩も、ケンブリッジからイーリーに向かう最終列車で何人か見かけました。着ている者をのみ込んでしまいそうでしたよ。うちのやつだって持ってるくらいだ。昨日もそれを着て、コーン・エクスチェンジへコンサートに出かけました」
 ため息が洩れる。事実:ときとして、ヘイミッシュは助けどころか邪魔になる。原因のひとつは彼の頑なな自尊心だ。それは、ケンブリッジシャー警察に在籍するほとんどのデュオの刑事に共通する欠点でもある。おまけに、この男には既成概念に囚われがちなところがある。これは刑事の仕事をするうえで致命的な欠陥だ。だが、同情の余地がないでもない。自明のことを見逃してしまうのは、わが助手の悪い癖なのだ。それに、もしマージェリー・シェルドン医師の仕事場に立ち寄ったというのが本当なら、彼から引きだせる情報はまだあるはずだ。
「遺体の外部からは、なんらかの残留物が見つかったのかね」おれは尋ねる。
「訊きませんでした」
 思わずうめきたくなる。まともな刑事なら、病理学者に尋ねてしかるべき基本的な質問だろうに。「死亡推定時刻は?」
「現在調査中です。ただ、マージは、三十二時間から三十八時間前の間のどこかに落ち着きそうだと言っていました。死後硬直の進み具合から推察したそうで」
 ということは、ソフィア・アイリングが殺されたのは木曜の晩。
 つまり、おとといだ。
 彼女を殺したのがモノでないことを願う。犯人がモノの場合、捜査はあらゆる意味で複雑になる。いっぽう、やったのがデュオなら、日付が変わるまでにその犯人を特定する必要がある。それまでは、殺人者が自分のしたことを覚えていられるからだ。それにより、正直な自白を引きだしやすくなる。
「他にマージが気づいたことは?」
「あのプラチナブロンドは偽物です。アイリングの地毛はブルネットでした。彼女は他にもたくさんの美容整形手術を受けていました。顎、鼻、耳、頬。胸はシリコンだし、ボトックスやら詰めものやらも」
 少なくとも整形手術にかかった費用に関しては、でたらめではなかったということか。
「他には何か?」
「残念ながら、それだけです。マージは日付が変わるまでに報告書を上げたいと言っていました」
 正確な死因を一刻も早く知りたい。だが、それについてはシェルドン医師の報告書を待つほかに道はなさそうだ。いっぽうで、ヘイミッシュにこれ以上邪魔されないよう手を打つ必要がある。何かしら餌を与えて、注意を他に向けさせるのだ。
「ひとつ頼まれてくれないか」黒のビショップを斜め後ろに数マス動かし、白のポーンを盤上から取り去りながら言う。「マーク・ヘンリー・エヴァンズが正午に市庁舎で記者会見を開くことになっているはずだ。その会見に出席し、結果を報告してほしい」
「マーク・ヘンリー・エヴァンズ?」ヘイミッシュの声に驚きが混じる。「ここに戻ってくる途中、選挙ポスターを見かけましたよ。サウス・ケンブリッジシャーの無所属候補として出馬するんですよね?」
「ああ、そうだ。彼は信用できない男だよ。あのエヴァンズ先生は」
「で、ソフィア・アイリングとそのマーク・エヴァンズとの間にどんなつながりが?」
「片方はファックしたと言っていた。もう片方はしていないと言っている」

 さらに捜査を進める前に、己の嘆かわしい現状について、重要な事実をさらっておくべきだろう。iダイアリーを取りだし、指紋認証センサーに親指をのせ、二日前の晩の書き込みを表示する。その最後の部分にはこう書いてある。

 今日はふたつもヘマをしでかした。ヘイミッシュと雑談中、「念のため二日前の日記を確認してみる」と言ってしまったのだ。ヘイミッシュは困惑とかすかな疑念の入り混じる顔でおれを見た。もちろん、訂正はした。二日前ではなく三日前と言うつもりだった、と。それから、すぐに話題を変えた。こんなに派手な間違いをやらかすとは、自分の不注意が信じられない。
[自分用メモ:ヘイミッシュの前では、くれぐれも言葉に気をつけること。今度しくじったら、やつはおれのことを調べようとするだろう。何年もかけて築き上げてきたすべてが頭上に崩れ落ちてきたとしたら。想像するだに恐ろしいことだ。おれがデュオのふりをしていたとわかれば、上層部は直ちにおれを降格処分にするだろう。下手をすれば、解雇手当もなしでクビになるかもしれない。警察でのおれの輝かしい業績――おれはこれまで数々の事件を一日以内に解決してきた。その間なら、頭の中にすべてを留めておけるからだ――も彼らにとってはなんの意味も持たない。結局のところ、ことモノに関するかぎり、警察の意識はジュラ紀ばりに古いままだ。モノには、上官としての能力などはなから期待されていない。まだここに書いていなかっただろうか。メイヒュー警視総監が2014年のインタビューで、モノはそもそも巡査として雇ってもらえるだけでも、警察の寛大さに感謝すべきだ、と述べたことを。

 ふたつ目のヘマをしたのは、晩になってからのことだ。おれは十八時二十分に仕事を終え(つまりは、平穏な一日だったわけだ)、グランチェスターまでぐるりと一周、ジョギングすることにした。おんぼろのフィアットを見かけたのは、ニューナム村のはずれ、牧草(メドウズ)地を横切る歩道の手前だ。運転席には、ブロンドの女が座っていた。着色ガラスのせいで、顔はよく見えなかった。おれが走り過ぎようとすると、女が顔を上げてこっちを見たので、会釈をして、そのままジョギングを続けた。
 すると、女が「ねえ」と叫んだ。驚いて振り向くと、女はすでに車から降りていて、こちらに向かって突進してくるところだった。頭からつま先まで車と同じ黒ずくめのいでたちだった。

「あんた、ハンス・リチャードスンでしょ?」女はすごい形相でそう言った。おれはうなずいた。女がおれの名前を知っているとは驚きだった。
「このクソ野郎!」女は甲高い声で叫んだ。気づいたときには、女の右手がおれめがけて飛んできていた。
 すんでのところで身をかわした。どうして自分がクソ野郎なのかわからなかった。女がなぜおれの顔を引っぱたこうとしたのかも。だが、女が警官を襲おうとしたことは理解できた。

 ここまで読めばじゅうぶんだろう。震える手でiダイアリーのスイッチを切る。今日おれがやるべきことはふたつ。

 1.ヘイミッシュに気をつけること。もう一度ヘマをしたら、絶対に怪しまれてしまう。なにしろ、やつはおれと違って、二日前の出来事をはっきり覚えていられるのだから。やつとは常に距離を置いたほうがいいだろう。
 2.この事件を今日じゅうに――すべてを頭の中につなぎとめておけるうちに――解決すること。事実:日曜警邏隊は明日も活動するだろうが、トビーをはじめとする有能な部下たちはほとんどが休みだ。ソフィア・アイリングの事件の捜査が月曜まで持ち越しになれば、頼れるものは、音声レコーダーとノート、それにiダイアリーに残った乏しい事実だけだ。今日おれが記録したり録音したりできるすべて。それだけではじゅうぶんとは言えないだろう。さらに悪いことに、ヘイミッシュは月曜になっても、今日のことをすべて覚えていられる。重要なこともそうでないことも、細部に至るまで全部。だが、おれにはそれが不可能なのだ。

 壁の時計をにらみつける。先を急がなければ。午前零時まで残るはあと十三時間のみ。おまけに、おれにはヘイミッシュを遠ざけておくという課題もある。
 不可能な任務のようにも思える。なにしろ、現時点で手がかりと呼べるものはほぼゼロに等しいのだから。秘密を握る白黒の庭の小石、そして、噓つきな政治家志望の小説家を除いては。
 ことによると、死んだ女のiダイアリーにもう一度目を向けるべきなのかもしれない。

***

『サンデー・タイムズ』2015年5月24日付

 人類の大半が完全記憶を持つ世界について知っておくべき10のこと
 文=マーク・ヘンリー・エヴァンズ

 1.同じ相手とのセックスから関心が失われ、不倫がはびこる。反復は退屈を生む。正常位ばかり二十年も繰り返してきた記憶があるとすれば、なおさらだ。
 2.付き合いの長い人々(たとえば、結婚二十年目の夫婦など)は自分たちがいまだにいっしょにいるわけを理解するようになる。
 3.人々は記憶の続く日数ではなく、肌の色で区別されるようになる。
 4.十八歳未満の子どもたちは今ほど生意気ではなくなり、両親に対して少しは敬意を払うようになる。
 5.事実とフィクションが難なく区別できるようになる。
 6.物ではなく経験を求めるようになり、自宅を役に立たないガラクタで埋め尽くす人はいなくなる。
 7.現在からも過去からも逃避する必要があるため、酒(あるいはドラッグ)に溺れるようになる。
 8.日記を付けることが必要な日課ではなく、単なる退屈しのぎになるため、アップル社の時価総額は現在の半分になる。
 9.完全記憶を持たない人は、精神病患者向けのしかるべき施設に入れられ、社会から追放される。
 10.人々は、愛と憎しみの本当の意味を理解するようになる。

マーク・ヘンリー・エヴァンズの小説『存在という幸運』は、ほとんどの人が完全記憶を持つ、暗くゆがんだもうひとつの現代イギリスで起こる殺人事件をめぐる物語だ。2016年2月刊行予定。ハードカバー版価格11.99ポンド。

***

『サンデー・タイムズ』2015年5月31日付

 編集者への手紙

 マーク・ヘンリー・エヴァンズの『知っておくべき10のこと』(2015年5月24日掲載)はとんでもない駄文だった。かの小説家は近々出版される作品の読者に、人々が完全記憶を持つ並行世界のディストピアを現実として受け入れ、支持するよう求めている。だが、いかにも大衆受けを狙ったその設定はあまりにも強引で、ばかげていると言うほかない。あのような世界が存在するわけがない。もし人々が(エヴァンズ氏の主張どおり)憎しみの本当の意味を理解するとしたら、互いを遠慮なく殺し合うようになるだろう。世界戦争やテロ攻撃、誇大妄想の独裁者や宗教的過激派の台頭など、ありとあらゆる恐ろしい出来事が現実になるはずだ。文明はたちまちその歩みを止め、内なる憎悪により機能不全に陥るだろう。ことによると、核戦争により、人類は自ら滅亡の道をたどるかもしれない。
 貴紙がひとりの小説家の新刊の宣伝のためにこのような戯言で知的な読者の目を汚すとは、まったく嘆かわしいことだ。同じ11.99ポンドなら、もっといい使い途がいくらでもある。わたしならその金でiダイアリーのハードウェアをアップグレードするだろう。
編集者殿には恥を知っていただきたい。
 オックスフォード在住、怒れる読者より

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