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目指してたのは話せるようになることじゃなかった。ただ、人と触れ合いたかったんだ。

歌のレッスンを受けていたとき、休符がとても苦手だった。
どうしても語尾を伸ばしてしまったり、休符からの出だしをフライングしてしまったり、

どうしても休符が苦手だった。

ある時、先生が言う。
「休符もこの人が何かを伝えようとしているんだよ」
「休符もことばをしゃべっているんだよ」

ハッとする。

歌もある意味ではその曲(を作った人)との会話なのだ。
だとすると、わたしは歌うとき、一方的にしゃべったり、主張したり、
なんなら、相手のことばをさえぎって前のめりにしゃべりだしているのだ。

ここで、またハッとする。

日常会話でもそんなときがある。

間が怖くて不自然にしゃべりだす口。
自分のペースのみを感じながら、気づいたら相手を置き去りにしているおしゃべり。

こういうときはたいていうまくいかない。



あるライターさんが言っていた。

「まず全体像を書いてみる。出来上がった原稿を読んで、今度は必要のないろこを削っていく。いろんな情報を詰め込みたいと思うけれど、相手が知っている情報はもういらないから」

わたしは何に対しても不足より余剰をとってしまう人だ。

旅行にいくときに「何かあってはいけないから」と普通の人より荷物が多くなるのがその良い例かもしれない。

それは行動だけじゃなくて、会話や文章でもよくある。

過不足なく自分の気持ちや情報を伝えたい。だから、これも入れたい、あれも入れたい、
詰め込めすぎて、気づいたら長文になってたなんてことがよくある。

でも、これほんとうに相手に伝わってる?
それ、相手のためじゃなくて、自分のためにやってない?

最近、やっとそのことに気づく(遅!!!)

あるライターさんの言葉が響く。

きっとこの人は相手のことを信じているのかもしれない。
100%同じ気持ちや情報を伝えることは難しいと、
その重みを背負った上で、
相手がちゃんと受け取ってくれるのを。



気持ちをうまく伝えたいと思った。

だれかとわかり合いたいと思った。

ことばがでてこない自分を疎んだ。

そのために話すことをうまくなりたいと思った。

でも、わたしに必要だったのは
話すことの練習じゃなかったのかもしれない。

必要だったのは

「待つ」ことや

相手をしっかりみること

相手を信頼すること

そういう姿勢だったのかもしれない。










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