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「嫌ってはいけない」の呪縛が解かれた話

この記事で伝えたいこと

  • 相手の嫌いなところは嫌いでいい。それでいて、好きでいていい。

  • 家族だからってすべてわかり合おうとしなくてもいい。大切なのはそこに「愛」があるか。

  • こどものときはたくさん暴れて、たくさん泣いて、たくさん怒って、たくさん笑って、たくさん甘えて、甘えて、甘え倒そう。こどものときできなかったら、おとなになってから信頼できる人に甘え倒そう。自分で自分を甘え倒そう。いつからでも大丈夫。

  • つらいことは合理化よりまずは自分の感情を大切に。

今日は少し長くなったので、自分が結局何を伝えたいのかを先に整理してみました。
もしお時間ある人はこの下も読んでいただけたら嬉しいです。

では、今日もお読みいただきありがとうございました!



何年か前まで、人を嫌ってはいけない病を患っていた。
みんなに好かれたいという欲望はもちろんあったけど、それ以前になんていうか得体のしれない「相手を嫌ってはいけない」みたいな圧力みたいなものがずっと重くのしかかっていた。

仕事場である人に出会った。
その人は誰に対しても、何に対してもはっきりいう人で、それでいてとても誠実な人だった。(今はとても尊敬する人であり友人)

その人は相手の嫌なところを、さらっという。ときには相手にも直接いう。少しオブラートに包みながら(優しさのかたまりみたいな人)。

でも、どんなにはっきり言ったとしてもその人自身を否定することはない。

何より、嫌なところは嫌といっても、話したい時は話すし、遊びにも誘う。
そして良いところは素直に良いという。

あっそっか。

そのときにふっと何か腑に落ちたような、いや、肩の荷が降りたような気がした。

わたしは今まで、相手を嫌ったらすべて黒になるような気がしてた。
自分が真っ黒になるような気がしてた。
そしてそんな自分がどうしても許せなかった。
だから相手の嫌なところをみても、何かわけがあったにちがいない、いや、そこも相手の一部だから好きにならなくちゃみたいなことを思ってた気がする。(たぶんこじらせ女子はこうやって形成されていくんだと思う…みんな気をつけて…!)

でも、その人と出会って、

嫌なところは嫌でいいんだ。それでいて、好きでいていいんだ。

そう自分で自分に許可をだしたら、見違えるほど生きるのが楽になった。

それまでわたしの世界には「苦手な人」だらけだった。
でも、それをきっかけにだんだん世界が中和されていった。


そこから家族に対しても大幅に楽になった。
家族の傷がだんだん癒され始めたのもこの頃からかもしれない。

昔は家族だから父も母もすべてを好きでいなきゃいけないと思ってた。
喧嘩するのも物を投げてキレるのも不器用だから、わたしの欲しいものはこれじゃないけど、良かれと思ってわたしのためにしてくれてるもん、わかりあえない(価値観が違うからことばが噛み合わない)けど、どうにかわかりあわないと、だって家族だもん…!みたいな。

物分かりのいい大人のような子供だったわたしは、結局、大人になって物分かりのわるい子供になった。とっても手のかかる子供になった。

でも、嫌だったことを嫌と認めたら、ときに本人に言ってみたら、なんていうか、相手からの反応がどうであれ、わたしの中で何かが変わっていった。

無理やり嫌なことを正当化していたときより、家族のことを愛おしく思えるようになった。(もちろん今でも喧嘩はするし、嫌なとこは相変わらず嫌笑)
そして、何より「愛されてた」っていう記憶が蘇ってきた。
無理やり好きにならなきゃって思ってたときは、嫌な記憶ばかりフラッシュバックしてた。でも、今は楽しかったこと、めいいっぱい愛してくれたこと、そしてわたしも家族が大好きだってこと。そんなことが自然と思い出される。

たぶんわたしは順番が逆だったのかもしれない。
いろんなことを合理的に納得する前に、まずは自分の感情を認める方が先だったのかもしれない。
それこそ、こどもから大人になる過程のように。


今日は書いていてだいぶ話が逸れてしまった、、、(すみません)
ここにでてくる先輩でもある友人に、相変わらず話すのが下手ねって呆れられそう笑。それでもその後真剣にアドバイスくれるやっぱり優しさのかたまりみたいな人。

その人のおかげでまたひとつ自分の固定観念を取っ払うことができて、
今のわたしがいる。

今日もたくさんのありがとうを込めて。













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