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想いを聞いてもらえた、という事実がもたらす癒し~『あふれでたのはやさしさだった』読書録

森の妖精

 ひとつ前の投稿でご紹介した、『あふれでたのはやさしさだった』(西日本出版社 2018)について、引き続き書いてみたいと思います。
▶前回記事はこちら

 奈良少年刑務所で、2007-16年の約10年にわたって実施された、受刑者である少年たちの社会復帰をサポートするための教育プログラムが、社会性涵養プログラム。著者の寮さんは、主に詩の創作や物語の朗読などの表現活動を主とした講座を担当され、ここで、少年たちの、目を見張るほどの成長を目の当たりにされます。

■少年たちの変化

 とはいえ、はじめは書けない。ここに至るまで、いわゆる「まとも」な教育を受けてこなかった子が多いクラスにおいて、(宿題、という単語の意味も、わからない子がいたそう)「〇〇を書いてね」と言って、すんなりと課題が仕上がるわけはありません。

それでも、この場では、一貫して守られていた了解事項がふたつありました。それは

・決して強制しない
・少年たちの表現を否定しない

とにかく、この場に来てくれたことを「ありがとう」と認める。また、質問をするも、何も言えずに5分、10分と経ってしまう子がいたとしても、(良かれと思ってであっても)合いの手を入れず、ひたすら待つ!ということを徹底されたようです。

すると、次第に、ぽつりぽつり、と、少年たちの口から、「想い」や「気持ち」や「感覚」を表わす言葉が発せられるようになっていったと、本書では書かれていました。

こうして、寮さん、および見守り役でもあった、刑務所職員の方々の配慮と努力により、次第に、その場に承認空間が出来上がってゆきます。そして次第にその「承認」の空気は、参加する側の少年たちの心にも芽生えてゆくのです。例えば、「好きな色」というテーマで詩を書こう!という日。

「僕の好きな色は〇〇色と▲▲色です」

とだけ書かれて提出された作品ができあがったとき。さて、この内容にどう評価を加えよう。どこを褒めたらいいものか…出てくる言葉がなかった寮さんでしたが、ここで助け舟を出してくれたのは、他の受講生である少年でした。この詩にたいして、皆さんなら何てコメントされますか?


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その少年は、「Y君(詩の作者)の好きな色を、二つも教えてもらえて、嬉しかったよ」ってコメントしたんですって。単純に、ほんとうに単純に、こんなこと言える人は優しい人だなぁって思いました。

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■荒野に水が染みわたる

 社会性涵養プログラム、とは本当に的を射たネーミングだなぁと感じます。雨も降らなくて、カラカラに干からびていた(かのように見えた)土地に、恵の雨がしとしと降って、少しずつ水が染みこんでゆくように、少年たちの心にも、花が育つ土壌ができあがってゆきました。

それは、寮さんが「奇跡」とすら形容されていたほどの変化。こちらの本の題名にもなっている、ある少年による詩。「亡くなったあとも、自分は空にいるから」と言い残して去った母親を思っての作、だったといいます。

寮さんは、「これだけのものが書けるあなたたちが、どうしてここに来たの」と感じたそう。

育った環境が悪かった、とか、セーフティネットがあれば、とか、私たちもまた彼らと同じだ、とかいうことをこの場で議論はいたしません。私はただ、この少年たちが、プログラムの中で見せたという奇跡とも呼べる変化を前に、自らのありのままの内面を“表現”し、それを自分意外の他者に“そうだったのだね”と受け入れてもらえるというただこれだけのことで、人の心は癒されてゆくんだなぁと強く感じました。

自己表現と、承認

この二つは両輪である必要があると思います。これがあると、人は、癒される。

■表現することの意味

 ほんとうに思っていること、感じていることを「こうなんだ!!」と言えている、という姿は、周りの人も、自分をも救いうるのかもしれません。生きる助けになるのだろうと感じます。

とはいえ、人が自分の内面を外の世界に出せるためには、世界を信頼できていないとできないこと。ここまで考えて、ああ私はやっぱり、たとえ小さくはあっても、今自分が創っている作文教室で、子どもたちに安心な世界を渡して行ければなぁと思います。片隅でもいいので、その世界の一端を、担って行ければと、本書を読んだ後に切に願うのでした。

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