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今日たまたま見ていたテレビで、愛知県にあるチベット仏教寺院の住職がインタビューを受けておられて、こんな趣旨のお話をされていました。

自分自身、世間から出家した身で、より世間一般の方々の目線で相談を受けることができる。
いろんな相談を受けます。人間関係やお金の問題、家族の問題。
そういう「縁」から隔絶したところにいるから私にはそれが良かった。

なるほどと腹落ちしました。
私は、見えない縁に助けられているのと同時に、囚われてもいたんだなと思いました。
自分自身を守る手段として離れてみるという手段もある。


お互いに理解をし合おうとした場合、なんとか向き合ってぶつかって認め合うことができればこれ以上ないことだと思うんです。
でも、そうもいかない時もあります。
どうしようもない状況や、冷戦状態が長く続いてしまう場合もあります。


私の知り合い同士でも、ある事件がきっかけで裁判までいってしまい、現在も解決の糸口がつかめない状態の方々がいます。
悲しいことです。
お互いがお互いを憎み合い、認めることができず泥沼化しています。
法的な面での決着というのは、一応は決着がつきます。
でも、人間の心はいくら法的な面での決着がついても、納得がいかなければ納得はできません。


どうすることが正解なのかなんてわかりません。
それでも、自分が壊れてしまうなら、自分が自分でいられなくなってしまうなら、そうした縁から隔絶した所に自分の身を置く、または手放すことも必要なんじゃないかなと思います。


徹底的に向き合うことも必要です。向き合うことによってお互いを認め合い、許すことができればそれはそれは本当に美しいことだと思います。

それでも、どうしても許すこと、認めることができず、向き合う過程で壊れてしまうくらいなら、手放すという選択肢も私たちにはあるんじゃないかなと思いました。

縁に連(つ)るれば唐の物を食う
縁があれば、遠い所の物でも食べることができる。
何かの因縁で思いがけないものと関係ができることのたとえ。
                          【goo辞書より】

繋がるのも縁。手放すのも縁。
どういう選択をしても、縁が連なり、自分自身にとって思いがけない発見、気づきがそこにあれば、それでいいのかもしれません。

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