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ドイツ最古の街トリア①ドイツのローマ遺跡 

Trier

トリア
トリル
トリール
トリアー
トリーア

この街の日本語表記をいくつか見かけたのだが、一番馴染みの良いトリアとして記述。

トリアは、ドイツの西、ルクセンブルクに近い位置にあり、街には南北にモーゼル川が流れている。
州はラインラント・プファルツ州に属する。
そしてこの街は、ドイツ最古の街として知られている。
その歴史は古く、発掘調査によると7000年前の新石器時代まで遡る事ができるそうだ。

以下、ライン州立博物館での展示品を交え、重要な歴史的出来事を年代順に記載。

氷河期にはマンモスがいたそうだ
発掘された新石器時代の道具

元々、この土地にはケルト人のトレヴェリア族(Treverer)が住んでおり、この名前がトリアの語源になっている。

紀元前390年頃、ローマ皇帝カエサルは、ガリアと戦う。(ローマ・ガリア戦争)
紀元前58年〜50年頃、このトレヴェリア族とも戦い勝利をあげた。
その後、反乱防止のために、この地に陣営を置くことが決定された。
つまり、ここはローマの植民都市であった。

ローマの支配下地図

私がトリアと聞いて思い描いていたものは、ドイツにあるローマ遺跡。
実際に街を歩いてみても、この街はまるでローマのミニチュアのよう。

1986年に世界遺産登録された建造物は、全部で9つ。
うち、8つはトリア市内で見学可。(★にて記載。記事②にて残りの2つを記載)
残りの1つ、イゲルの円柱はトリアから南西10kmほどのイゲルの街にあり、今回は見学できなかった。

ローマ橋★

紀元前17年、皇帝アウグストゥスはローマを平定した後、植民地への道路網拡張のため、この地にあるモーゼル川に橋をかけさせた。
この出来事から、この土地はアウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)と呼ばれるようになる。
アウグスタは皇帝の名前、そしてトレヴェロールムは、トレヴィア族が由来。
つまり、この橋の建設が、街の発展のスタートとなった。

紀元前17年頃に造られた木造の杭が基礎となっているため、ドイツ最古の橋とも言われる。
かつては、モーゼル橋と呼ばれていた。
(ドイツ最古の石橋で、現在も存在しているのは、レーゲンスブルクの石橋)

ライン州立博物館では、この橋の木造の杭が展示されていた。
私は思わず、ウソ?と声を上げてしまった。
今もこうして残っているなんて、信じられなかったからだ。

こちらは、初期ローマ橋の杭の断面。
木材年代測定により、伐採時期は紀元前17年と判明した。
これらの事柄から、最初のモーゼル橋の建設が紀元前18年から17年にかけて行われたことが証明された。

フォーラム

以降、この橋を起点に街が造られていく。
街は碁盤の目のように綺麗に整えられ、橋の麓にフォーラムと呼ばれる首都機能を持った区域が出来上がる。

ガラス張りのフォーラム

(紀元後)44年辺りには、この街は特に裕福な街の1つであり、栄華期とも言える。
この時期に、今も残る遺産の多くの建造物が造られた。

ライン州立博物館では、それらが保存されている。

144年には、ローマ橋は木造から玄武石造りに建て替えられ、これが今も橋の一部として機能しているというのだから驚きだ。

バルバロッサ浴場★

第二のローマを造るという目的のため、ローマ市内と同じように、浴場やコロッセオのような円形競技場跡が造られた。
ローマ橋の麓には大規模な浴場が完成し、これは、当時ローマにあったトラヤヌス浴場よりも大きく、また温水が使われていたというのには驚いた。

ポルタ・ニグラ★

160年、街を守るために築かれた城壁。
その長さは6.2km、高さは6m。
この城壁の北門が、現在のポルタ・ニグラ。
黒い門という名の通り、中世以降はその黒い色から、この名前で呼ばれるようになったそうだ。

美しいレリーフ

後に教会として利用されるも、取り壊しされ、今の形として残っている。
こちらが、教会として使われていた頃の模型。(記事②にて詳細記載)

夜のポルタ・ニグラは妖しいほど美しい

円形闘技場★

円形闘技場として有名なローマのコロッセオ。
それと同じ施設が、この街にも造られた。
猛獣の戦い、剣闘士同士の戦いなど、血生臭い見せ物が、この楕円形の闘技場で行われていた。

控えの間や、闘技場への迫り出しなど、地下部分も見学できる。

こちらは、州立博物館に展示されている、闘志達の戦いのモザイク画。

他にもサーカスと呼ばれる競馬場もあったそうだが、今は形としては残っていない。

平和な時代が長く続いていたが、275年頃にはゲルマン族とフランク族の戦いにより、この街は大きな被害を受けた。
306年より、コンスタンティヌス帝はこの地に滞在し、ローマ帝国自治に力を注いだ。
この頃の人口は5万人とも言われ、まさに第二のローマと言われる繁栄だった。

ライン州立博物館の展示物の一部。

モザイク画
ローマ三神 
ミネルヴァ ジュピター ユピテル


この頃に造られたものが、バシリカと皇帝の浴場の2つ。
コンスタンティウス帝は、313年にキリスト教を公認した事でも有名。
330年には新都をビサンティオンに遷都し、コンスタンティノープルと命名した。

コンスタンティヌス帝のバシリカ(Aula Palatina)★

この場は、コンスタンチィヌス帝が造らせた皇帝の玉座の間。ラテン語のアウラ・パラティーナとも呼ばれている。
高さ36m、長さ71mという、巨大な建物だ。
支柱が一つもない事に驚く。
現在は、建物の内部は復元されていない。

皇帝の浴場★

バルバロッサ浴場とは別に、皇帝の為に大規模な浴場が造られた。
建物の一部は、今も残っている。

全体図
地下部分は、まるで迷路

ここまでは、ローマ帝国の影響が強い時代の街の歴史。
とにかく、ローマ帝国の力の強さを見せつけられる歴史の数々だ。

長くなってしまったので、②はキリスト教文化の影響下の街の繁栄について。

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