見出し画像

まわり道

海外生活とは、どのようなイメージだろうか。

ドイツで就職が決まった時、日本にいる知り合いから『勝ち組だね』と言われた時の衝撃が、今でも忘れられない。

その言葉の流行を知らなかった私は、人生を勝ち負けで評価する不気味さに、思わず眉をひそめた。

私の生活は、正直なところ、とても地味だ。
しかし私は、今の生活に満足している。
過不足のない、満ち足りた生活。
だが、この生活を、何の苦労もなく手に入れた訳ではない。
誰かと比較して、勝った負けたの問題ではない。
私は、ひっそり自分自身と戦っていた。

ドイツとの出会い

私とドイツとの出会いは、学校を通じての国際交流だった。
初めて覚えた単語は、Danke ありがとう。
そして、今一番多く使う言葉も、Danke。

初めてドイツを訪れたのは、それから数年後で、私にとっては初海外旅行だった。
強烈かつ圧倒的なインパクトで、その思い出は私の中に深く刻み込まれた。

高校時代、ドイツにいる友人とは英語で文通をしていた。
そのうち、私がドイツ語を話せたら、より簡単に意思疎通できると考えた。
本屋さんでドイツ語文法の本を手に入れ、勉強を始めたが、思うように進まない。
近くの大学のオープンキャンパスにドイツ語を学びに行ったのが、私がドイツ語と向き合ったスタートだ。

英語と比較すると、ドイツ語を話せる人は少ないので、ドイツ語はまるで秘密めいた暗号のように感じられ、ワクワクした。

そんな日々を送りつつ、私の大学入試が近づいてきた。

幼い頃からの私の夢は、看護師だった。
しかし、私の人生にドイツという存在が加わった時、私の興味対象は大きく変わった。

だが、語学だけを学ぶというのは、小さな違和感が生まれた。
これは、決して外国語学部に対する批判ではない事をお断りする。

私はその時、語学を『目的』ではなく『手段』として学びたいと考えた。
語学ができて、それを使って『何が』できるだろうか。

語学習得を第一目標に設定しないというのが、その時に私が出した結論だった。
私はドイツとは無関係の分野を専攻し、第二外国語でドイツ語を選択する事にした。

ドイツ語を学び始めた頃

第二外国語の授業では、残念ながら一年経ってもドイツ語は全く上達しなかった。
私は、ドイツ語の教授からドイツ政府が運営しているゲーテ・インスティテュート(Goethe-Institute) という語学学校を教えて頂き、通うことにした。

当時私はドイツ語検定3級を取得していたが、入校時のレベル分けテストで一番初めのクラス、A1に振り分けられ、動揺した。
アルファベットのabcから学ぶなんて、スタート地点に引き戻された気分だったからだ。

教授に相談すると、ゲーテの授業は他とは異なるので、基礎から学び直す方がむしろ身になるだろうと助言して下さった。
私はその言葉を信じ、A1のクラスから通い始めた。

それからは、大学での講義後、夕方からドイツ語を学んだ。
クラスには元在独のかた、他大学のドイツ語学科やドイツ文学専攻のかた、旅行がお好きな社会人のかたがいらっしゃり、そのお陰でドイツに関わる多くのお話を聞く事ができた。

授業は全てドイツ語で行われ、文法の説明も、単語の説明も、日本語は全く使わない。
こうして、ドイツ語のみで考える力を、自然と身に付けることができた。
あの時、適切な助言を下さった教授には、心から感謝したい。

夏休みには、ゲーテのドイツ校へ、一か月の語学留学も体験した。
朝から晩までドイツ語で考え、ドイツ語しか話さない。
私はこの一ヶ月が、とても貴重な体験だったと思っている。

大学時代は、大学の勉強とドイツ語、そしてアルバイトで予定が一杯だった。
アルバイトで得た収入は、語学学校費用と、毎年の欧州諸国への旅費になった。

初めての挫折

私の通っていた大学は、ドイツにある姉妹校との交換留学制度があった。
ドイツ語を真剣に学び始めていた私は、それに参加したいと考えた。

交換留学の担当者は、私の相談内容を聞くと困惑の表情を浮かべた。
交換留学は外国語学部の為に設けられたもので、募集人数制限もあり、他学部の生徒を受け入れる余地はないらしい。
ただし、休学し、個人的にドイツの大学に留学する事は可能。
だが、休学中に大学に学費の半額を納める必要があり、更にドイツでの単位は認められない。

担当者の方は、こんな希望を持つ生徒は前代未聞だと驚き、外国語学部への転部を勧められた。

私は転部希望がない事を伝え、前代未聞ならば、誰もやった事がない事を、私がやってみたいと返答した。
そして私はその晩、父に尋ねた。

一年間、ドイツに留学したいと考えています。
でも、その為には、私一人では支払う事のできない費用がかかる事が分かりました。

父は、私の真面目なお願いに耳を傾けてくれていたが、こう言った。

やりたい事があるなら、好きにするといい。
ただし、その費用は自分で捻出する事。
それができるのなら、反対はしない。

淡い期待は、無残にも砕け散った。
貯金をしていたけれど、充分な資金が貯まる前に、私は卒業を迎えてしまうだろう。
父の言葉に、私はうな垂れるしかなかった。

しばらくしてから、私に追い打ちをかけるニュースがあった。
友達が、一年休学してドイツ留学をしたのだ。
彼女とは同学部で、ドイツ語を通じて仲良くなった。
交換留学課でのやり取りを彼女に話したところ、そんな方法があるのねと言い、彼女はその方法を、いとも簡単に実現してしまった。
私が描いた道を、私より先に歩く人がいる。
その時の私は、友達の夢が叶ったことを素直に喜べず、そんな自分を嫌いになりそうだった。

父は決してお金を渋ったのではなく、私の本気度を試す為だったのは、今ならちゃんと分かる。
私が何度もお願いをすれば、父はきっと援助してくれただろう。
しかし当時は、私は夢を応援してもらえないと受け取ってしまった。

いつか、自分の力でドイツに行く。
それが私の夢になった。

葛藤の日々

私は、ドイツへの夢を捨てきれぬまま、資金も充分に貯まらぬまま、いつの間にか卒業を迎えてしまい、就職した。
会社は、同僚だけでなく、上司にも恵まれた。
人生初の直属上司は女性で、とても厳しいかただった。

『残業をさせる程の仕事は与えていないのだから、あなたの無能さに対して、会社は残業代なんて払わないわよ』

配属直後のその言葉に、私は少なからず驚いたが、それは彼女流の哲学だった。

与えられた時間内で、いかに効率良く仕事をこなすか、自分で計画し、そして実行する。
彼女は、仕事とは何かを教えてくれた、大切な人だ。

しばらくして部署が変わり、男性上司になった。
そのかたも厳しいかたで、会社のトイレで泣いた事もあった。

そんな時、彼女と廊下ですれ違った。
新しい部署はどうかと声を掛けて下さり、私は、慣れない事ばかりでうまく行きませんと弱音を吐いた。

『あなたは、今のままのあなたでいいのよ』

今までにない優しい言葉が胸に沁み、私はまた会社のトイレで泣いた。

仕事は、半分面白く、半分つまらなかった。
就職してからの数年間、私の心はまだ半分半分だった。

せっかく就職したのだから、ここで頑張りたい。

仕事をしながら語学も向上させ、いつかドイツに行きたい。

通帳残高は増えていくが、勉強時間は充分に確保できず、この語学力で留学できるのだろうかと不安になる。

ドイツに行きたい。

ドイツに行くのが怖い。

それでも、ドイツの情報に触れる度に、ドイツの友達から手紙が届く度に、ドイツへの夢は膨らんでいく。

まさに、心ここにあらず。

そんな時には、奥の細道の一節が頭に浮かんできた。

そぞろ神のものにつきて 心を狂わせ
道祖神の招きにあい 取るもの手につかず

私は松尾芭蕉と同じように、旅、すなわち新しい人生への旅を、こんなにも熱望しているのだ。

これは脳科学的にも証明された現象、ツァイガルニク効果と呼ばれている。
達成できた事より、達成できなかった事や中断した事をよく覚えている現象だ。
(心理学者クルト・レヴィンとブルーマ・ツァイガルニク提唱)

私は、この効果を嫌というほど味わった。
既に手に入れた安定した職場より、自分が達成できなかったドイツ行きに、いつまでもこだわり続けたのだ。

ついに私は、こう決心した。

私がおばあちゃんになった時、ドイツに行っておけば良かったと後悔したくない。
ドイツに行って、辛い事があってもいい。
行かないで後悔する事だけは、嫌だ。

私は父に、ドイツ行きを報告した。
相談ではない。
報告だ。
何が起きても、たとえ自分が望んでいたようにならなくとも、決めたのは自分。
だから、誰のせいにもしない。

父は私の話を聞くと、やっぱり諦めていなかったかと優しく笑った。

退社の意思を上司に伝えると、引き留めて下さったし、同僚は悲しんでもくれた。
半分つまらないと思っていた仕事が、急に楽しく思えてきて、私は自分の決断を何度も考え直した。

でも、私はやはり、ドイツに行く事にした。
悲しんでくれた人も、私の決意を聞くと、最後は笑顔で応援してくれた。

渡航手続を進め、語学勉強を本格的に再開し、大切な人に会いに遠くまで出かけ、そして日本の美味しい物を心ゆくまで味わった。

父は、いつでも帰ってきなさいと言って、成田空港まで見送ってくれた。

私はその日、一度も泣かなかった。
ようやく夢が叶う喜びで、胸が張り裂けそうだったのだ。
見送りに来てくれた皆んなに、両手で大きくバイバイをして、搭乗口に向かった。

まわり道のあと

これまで、たくさんのまわり道をした。
ドイツ語に興味があったが、大学では敢えて他分野を専攻した。
外国語学部卒の方々の深い知識には敵わないし、ドイツ文学を集中して勉強した事もない。
だから、今でも気後れしてしまう事もある。
しかし今は、大学の専攻分野に関わる仕事を、ドイツ語でこなせている。
学生の頃の理想像を、私はどうやら叶えられたようだ。

そして、ドイツ語を基礎からやり直したゲーテの授業。
まわり道に見えたが、それがドイツ語の力になった。

交換留学に参加できず、個人留学をした事も、まわり道。
何のサポートもない個人留学は、心細かった。
英語圏への留学情報に比べ、独語圏の物は圧倒的に少なかった。
インターネットもそれほど普及していなかったので、大学とのやり取りは郵送、全てが非常に時間と手間がかかるものだった。
しかし、もし交換留学をしていたら、一年で帰国していただろう。
完全なる自由だったからこそ、留学後にそのままドイツで就職するというチャンスに恵まれた。

そして、日本で就職をした事。
これは、夢への資金調達だけではなかった。
誰かが準備した道ではなく、私自身が一つ一つ敷いたレールの上を歩く。
その経験は、私に自信を与えてくれたのだ。
そして、仕事への向き合いかたを教えてくれる人に出会えた。
また、長い時間をかけ、じっくりとドイツ行きを検討できた。
更には、今の仕事に就く際も、日本での経験を非常に高く評価して下さった。

人生は、まわり道も悪くない。
新幹線の便利さや乗り心地は素晴らしいけれど、各駅停車でしか見えない風景もあるだろう。

そして、どのまわり道を歩いた時にも、私を導いて下さる方がいた事を、私は決して忘れない。

おばあちゃんになった時に、後悔したくない。

それだけの理由で、私はスーツケース1つで日本を飛び出した。
これは決して、夢に向かって頑張った美談などではない。
私は、不器用なくせに欲張りで、馬鹿の一つ覚えのようにドイツの事ばかりを考え、諦めの悪い性格だっただけだ。

ドイツに来てからも、全てが順調だった訳ではない。
留学生活も、仕事も、生活も、山あり谷あり、まわり道だらけ。
キラキラした海外生活ではない。
むしろ、泥臭い努力の日々で、何度も涙を流した。
でも不思議な事に、ドイツに来た事を後悔をした事は、一度もないのだ。

塞翁が馬。
まわり道をしたからこそ、後の人生に必要だった物を手に入れる事ができた。
まわり道を選ぶ事もまた、選択の一つ。
たくさんのまわり道をした後の、私のあの選択は間違っていなかったようだ。

地味だが、穏やかな生活が、今私を満たしてくれているから。










この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?