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『視取る』

読まれる方によっては、
非常に不快に感じたり、怒りを禁じえない方も
沢山おられると思います。
今回は そんな内容です。

人を見送る。
「看取る」
変換だと こうなる。
看ていないから「視取る」
他人事じゃないから「観」じゃない。

寺でもない。
病院勤務でもなく、警察関係でもない。
ごくごく一般的な家庭環境であろうに。
人生の行事の九割は「人の死を視取る」こと。

とにかく死にまつわる話と出来事しか起こらない家。
これまで見送った人の数は幾人か。
早くに数えるのは止めてしまった。
意味がない。
数えている間に次が「くる」



歯を磨く。
呼吸する。
寝る、起きる。
夜になれば、次は朝。
人が死ぬ。
日常の当たり前の姿だ。

生を終えた人は
死体に変わる。
当たり前のことなのだが
物理的な冷たさは
異様だ。
あの冷たさは 何か違う。
「持っていかれる」
そんな思いに駆られる。
死を恐れる生き物としての本能的な部分だろうか。
立ち昇るような「気配」
冷気か。



友人・知人に
何度か葬儀の立ち合いを頼まれた。
葬儀屋を頼めない人だった。
湯灌から骨になるまで終わらせる。

その中には友人もいる。
友人は溶けて原型をとどめていなかった。
前日一緒に笑って食事して
デザートはアイスクリームだった。
一人、湯灌しながら
「賑やかなアイスになったなあ」
一緒にいた友人は笑わなかった。
骨は とても綺麗だった。

「今 生きている者の方が大事」

忘れていてもいいと思います。
想いをぶつけるだけでもいいと思います。
見送った人々と、
接した、触れ合った その経験は
生きている者の中で きちんと生きています。
それで十分「活かされている」

「出会ってくれて ありがとう」
それで十分だと思います。

悲しい時には泣き喚き。
嬉しい時には喜びまくり。
楽しければ 大声で笑う。

がんばらなくていいんです。
過ぎた過去は記憶の記録。
その中での時間は止まったままです。

前に進みましょう。

【世志光 夜志光】 世(夜)のメンタルアップマスターフォロバ100さんの
記事を読んで書いたコメント




人が死ぬと、周囲の者は冷静ではいられない。
全員動揺している。
幼児期から そんな光景を日常としていると
冷静な人間は必要だと学ぶ。
観察している中の「大人」は
いつも動揺している様にしか見えなかった。
常に冷静さが必要だと学ぶ。

上手く説明できる言葉が今ないが
この「感覚」「感触」
どう言ったらいいんだろうか。

経験や、この感覚を共有する人間には
今のところ 殆どいない。



死体が転がる 当たり前の日常の中。
やはり「生き物」故に
どこかで「生きる糧」は必要で。

「ホラー作品」は必須だ。
「スプラッタ映画」は偉大だ。
物語の中で人は恐怖している。
バッサバッサと刻まれて
悪魔に憑りつかれ
異形のモノと闘い
勝利したり、時には敗北もある。

映像や作中の人々の死骸と化した姿も
過去に次々と見送った人々と
創作上での死者と同化していく。
記憶の記録と作品という名の記録。

数々の「ホラー作品」のおかげで
元気に生きていられる。
この世にあってくれて ありがとう。
心から想う。
壊れずに済んだ。



これを書いていて一つ気が付いた。
過去に感覚の共有する人がいないなあ、と
思っていたのは
「ホラー作品の世界」に住む人と
共有するエピソードや記憶、
感覚を持って暮らす人はいないから。

ホラー映画を見ている時の
一時の緊張感や恐怖心は 大抵娯楽だ。
お化け屋敷が人気なのも娯楽だからだな。
これが通常モードなのは普通じゃない。
子供の頃には必死すぎて、当たり前すぎて
当たり前じゃないことにすら気が付かない程
日常だったのだ。
そりゃ 気が付かない訳だ。
納得。



自分語りで
長げーよ!
とは思うが、仕事では消化できない
形にならない「モノ」が見えてくるのは
かなり いいカンジだ。

オチの無い「怖い話」とでも思ってくれると
有難い。







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