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箕輪編集室に入ってからの7年間。

2017年7月、幻冬舎 箕輪厚介さんが主催していた、箕輪編集室に入りました。入った日の決意の投稿が残ってました。(絵文字が痛い…)


36歳 ここではない、どこかへ。

この時、私は36歳。当時ブロガーかつWebライターだった私は、悶々としていました。

ブロガーでマネタイズすることは、どうやら自分には向いてない。Webライターとしても、SEOを狙う記事より、取材をして濃い記事を書きたい。

私は、がっつり濃いモノづくりがしたかったのです。もちろんWebメディアにもそのような場所はあると思います。しかし、駆け出しの私がそこに辿り着くのは容易ではありませんでした。

ここではない、どこかへ。
GLAYの歌みたいになってますが、私は違うどこかを探し求めていました。その鍵が、どうやら「編集」や「本作り」にあることも感じていました。

はあちゅうさんとイケハヤ(池田勇人)さんのお二人が箕輪さんをおすすめしていたことも大きかった。ブロガーだった私からすれば、このお二人は神なわけで。お二人そろって箕輪さんのことを絶賛されていました。そういうこともあって、箕輪編集への入会は、秒で決断しました。これや!と思ったら一切熟考しないところが、私のいいところ(悪いところでもある)なのです。



30歳 私の市場価値は0かもしれない!

そこから遡ること数年前。30歳の頃、私は仕事を探していました。大学を卒業してからは、IT業界の会社の事務員でした。今のように猛烈に働くタイプではなく、ワークライフバランス重視。

理由は、自分の家族を早く持ちたかったから。それ以外に、人生の目標はありませんでした。

27歳で結婚し、28歳で出産と同時に会社を退職。1年くらい専業主婦期間を過ごしましたが、向いてなかったようで飽きました。「働きたいな」と思ったので長男を抱えてハローワークに通うわけですが、30歳になった私は残酷な事実に気づきます。

事務職で、かつ経理事務とか社会保険事務とかのように何か専門性が高い仕事ができるわけではない。30歳、1歳の子どもがいる。そういう私にマッチする求人はごくごく限られていました。(事務職自体を低く見ているわけではありません。)

私の市場価値低い!

この時ようやく、今のままの働き方ではよくないなと焦り始めました。とはいえ、私は子どもを持つなら2人以上と決めていたので、下の子を産みたかったんですね。だから本格的に自分のキャリアと向き合ったのは、下の子が3歳になった34歳の頃でした。


34歳 猛烈にあがきはじめる。

簿記→壊滅的に向いてなかった

最初は、事務職のままで資格を取ろうと思いました。ちょうど会社で経理の仕事を少し手伝って欲しいと言われたいた頃だったので。あとは、ハローワークに通っていた頃、簿記3級持ってるか否かで、求人の数が全然違うことを覚えていたから。
今思えば安直な理由ですが、とにかく簿記を勉強し始めました。でもダメでした。自分で言うのもなんですが、割と何事においても頑張り屋さんな方なのですし、気合いで乗り切るタイプなんですが、どうしても簿記の勉強は頭に入らなかった。向いてないなと思い簿記でキャリアアップする道は諦めました。

クラウドソーシング→手数料取られたくない!

その次は、インターネットで仕事を探しました。最初はいわゆるポイ活(クリックしたら1円貯まるようなやつ)もやりましたが、あまりにも地道すぎて無理だなと思いすぐ辞めました。そんなある日、ネットでクラウドソーシングの存在を知りました。ふむふむ、ベビーカーのレビューを書いたらお金くれるの? そんな仕事があるんだ! と思いやってみました。

唯一の特技があるとするなら、昔から読書感想文を書くのは得意だったので、レビュー記事のお仕事をどんどんこなすようになりました。報酬はいくらだったか覚えてないけど、1文字1円以下のお仕事だったと思います。

クラウドソーシングの仕事は楽しく、クライアントさんからいい評価をいただきました。しかし、徐々に疑問に思うのです。私が書いた記事が掲載されているサイトを見てみるとごくごくフツーのブログのようなメディアでした。失礼ながら、見た感じ大きなメディアでもなさそうなのに、私に支払う原稿料はどこから捻出しているのか?

そうして気づくのです。ブログに広告を貼ってるからマネタイズができている。だから私に原稿料を支払える。

じゃあ私が自分でブログ作ればいいやん。

繰り返しますが、これだ!と思ったら、石橋は一歳叩かずにダッシュし始める女なので、次の日にはブログの作り方を調べ独自ドメインを取得していました。ググってググってググりまくってWordpressの自分のブログを作ったわけです。

そんな紆余曲折があり、ブログを作ってブロガーになり、Webライターのお仕事も受けるようになった。でも、ここじゃない。もっと濃いものづくりをしたいと考えるようになり、箕輪編集室に入ったわけです。


自信のなさゆえの戦略

時は再び2017年に戻ります。

箕輪編集室に入ったからには手を動かす。でも、怖気付いている自分にも気がついていました。

自己紹介欄を見ると「〜の書籍化プロジェクトを手伝いました」とか「〜の本を編集しました」とか、なんか凄そうな人が多いと感じられたから。

対して、私はどうだ?
ライターもブロガーもなって日が浅いし、それで何か実績を作れたわけでもない。ましてや本の編集なんてやったことがない。そんな私が前のめりに何か立候補したところで、できるのか? みんな、相手にしてくれるのか? そういう不安があったんだと思います。

みの編ができてすぐの頃、コミュニティ的な目玉プロジェクトは、大物インフルエンサーさんの電子書籍化プロジェクトでした。みんな、そのプロジェクトに関わりたいわけです。すごい熱を帯びているのがわかりました。

だからこそ、私はそのプロジェクトには参加しませんでした。そのインフルエンサーの方について、私は詳しくない。自分が詳しくない、かつ競争率の激しい場所に行っても私は力を発揮できないと思ったんです。


で、企画スレッドをのぞいていたら、ある方が

noteの『嫌われ者たちのリレー式コンテンツ会議 』を電子書籍にしませんか?

と書いているのを発見しました。


あ、私、これやりたいかも。


直感で思いました。このnoteは、はあちゅうさん、イケハヤさん、箕輪さん、新R25編集長の渡辺さんが、リレー形式でお題を出し合ってコラムを書くというスタイルのnoteのマガジンでした。


著者全員を知ってるし、全員に興味がある。しかも、企画スレッドに眠っているけど、誰もやろうと言わない。だったら私がやりたいな。そう思い、恐る恐る書き込みしました。

その結果私がプロジェクトリーダーになるのですが、決心がついたのは、「たむけん」さんこと田村健太郎さん(オンラインサロンという概念を作った方)が「今必要なのは経験があるかないかということよりも、この本のことを一番に考えられる人です。」と言ってくれたからです。

経験はない、でもやる気はある。私にもできる、私もやっていい。そう背中を押してもらえたから。



私が作った本がAmazonに!

『嫌われ者たちのリレー式コンテンツ会議 』の電子書籍化プロジェクトが動き出しました。もともとnoteにあったものを電子書籍にするだけですし、ボリュームもそう多くない。

とはいえ、電子書籍の形式に変換するのもはじめてでしたし、不慣れなことが多かったので何もかも手探りでした。著者の方々、とくに憧れのはあちゅうさんともやりとりさせていただきました。おわりには、箕輪さんが書き下ろしてくれて、その原稿を最初に見た時は震えました。「私、本作ってる!」って感じがしました。

私がこのプロジェクトに参加するようになり、友人(当時は私はNASU社員ではなかった)のデザイナー前田さんはデザイン面で参加し、イラストを描いてくださいました。

プロモーションや製本など小規模ではあるけれど、チームでものづくりもしている感覚も心地よかったです。一人でWebライターやってた時には味わえなかった感覚、これを求めていたんだと思います

わけあって、この電子書籍は今はAmazonにはありません。しかし、私にとって人生初の書籍のプロジェクト経験です。自分が作ったものがAmazonにラインナップされて市場に接点を持つ編集未経験でも熱意があればこんなこともさせてもらえるのかと感動しました

本を作る面白さ、プロモーションの大変さ、自分の力不足、全部ひっくるめて経験させてもらいました。



編集を学びに来たのに、なぜかコミュニティマネージャーに

『嫌われ者たちのリレー式コンテンツ会議 』を作ったあと、しばらくコミュニティの活動からは身を引いていました。燃え尽き症候群みたいな感じだったんだと思います。

あとは、自分の活動を加速させるためのコミュニティ活動。本業のライター活動をもっと頑張らねばとも思っていたからです。

でもそこから数ヶ月後、今度は箕輪編集室のコミュニティ運営という形で、これまで以上にみの編に関わるようになります。いや、関わるじゃないな。「ベット(賭ける)してる」と言えるようになったのは、この頃からだと思います。

コミュニティ運営は、最初は乗り気ではありませんでした。だって、私は編集を学びに来てるのに、なぜコミュニティ運営? しかもよくわからないし、自分が向いているとも思わない。

でも、リーダーの柴山さんはじめ、他の運営メンバーとのやりとりが刺激的で楽しかったんだと思います。コミュニティをよくするために、24時間メッセンジャーに張り付いてずーっと運営メンバーとやりとりしています。

ほんと、今思えばよくやっていたと思います。でもこの時真剣にみの編のことだけをずっと考えて、行動した時間、やりとり、考えた数は私にとっての資産です。

https://minohen.com/n/nb3e758670703


みの編で、コミュニティ運営をする人としてのきっかけを作ってもらえたから、後に前田デザイン室ができた時も、同じ役割をスムーズにやれた。今は前田デザイン室のみ見ていますが、一時期は他のコミュニティのお仕事もさせてもらっていた。コミュニティマネージャーは、今や私の肩書きの一つでもあるわけで。その武器を作るきっかけをくれたのもみの編です。

みの編運営チームのみんなと



人生初、紙の本のの編集長に

電子書籍の編集は経験した。次は、紙の本を作りたいなと考えるようになりました。ちょうど前田高志さんのコミュニティ「前田デザイン室(現マエデ)」で、雑誌を作るプロジェクトが始まることになったので、編集長に立候補しました。

みの編で電子書籍を作ったとはいえ、たった1冊です。しかも紙の本は未経験。またもや、向こう見ずで熱意だけで立候補したところが私らしいと思います。でもやりたいことは、思った時に行動しないとあとで後悔するから。それに、自分がやりたくて仕方のないことなら、苦しい思いも楽しく感じられる

だから、知識も経験も足りてないことはわかっていたけれど、今やるんだ。かくして私は『マエボン』の編集長になりました。でもなっただけで、何も知らないことには変わりありません。じゃあどうやったかというと、雑誌を作ったことのあるメンバーが一から教えてくれたからです。

「台割ってなに?」「ノンブルってなに?」からのスタート。「表1?」「ノド?」「無線閉じ?」全部わからないことだらけでしたが、面白かった。

『マエボン』は、マエデにとって初めての雑誌であり、2ヶ月で作るという無謀なプロジェクトではありましたが、最高に大変で面白い2ヶ月でした。

その半年後には、同じくマエデで作った本『NASU本 前田高志のデザイン』の編集長もさせてもらいます。

これらの本は箕輪さんのおかげもあって有名書店で取り扱いいただけ、トークイベントも開催させてもらいました。小さいながらもコミュニティで作った本が市場を動かしたわけです。コルクの佐渡島さんには「素人出版革命」と評していただきました。


これを仕事にしたい

「これを仕事にしたい。ずっとこんな風に本を作りたい」

みの編で学び、マエデを通して経験したこれら一連の本づくり、出版活動があたりにも楽しくて、仕事にしたくなりました。

とはいえ、「やりたいこと」と「できること」は往々にして一致しないもので。私の場合当時オファーが増えたのでコミュニティマネージャーのお仕事でした。

「私はライターなんだから、コミュニティ運営は卒業、筆一本で食べていく!」と虚勢を張っていた時期もありました。

でもコミュニティがあるから今の私があるわけで。こんな卒業noteを書いたくせに、半年後くらいにはコミュニティのお仕事もライターも両方やると決めました。


箸にも棒にもかからない

コミュニティマネージャーとして仕事をしながら、本作りの仕事をできるようになりたいと思いました。

当時の私はフリーランスのライター。出版社や編集プロダクションに所属しているわけではない。その中で本に関わるには? と考えたとき、取材した著者の言葉を本の原稿にするブックライターのお仕事をしたいと考えるようになりました。

でも、なり方がわからない。自分なりに編集とかライターコミュニティで情報収集したところ、一般的にブックライターはそんなに広く募集はしてないようだ。でもオーディションをしている編集者さんもいることを知ったので、受けてみました。

2回受けて、2回とも選ばれませんでした。この時に「ああ、私はこの仕事は向いてないんだな」と悟りました。だから、ここにしがみついて間違った努力を続けても無駄だ。何よりむなしい。やっぱりコミュニティの仕事を続けながらライターの活動をしようと思いました。

(でも後に、このオーディションを主催していた編集者さんに、私が応募した二回のオーディションにおいて、私は二回とも2位だったことを聞きました。力不足ではあるが箸にも棒にも引っかからないわけじゃなかったとちょっと胸を撫で下ろしました。)


簡単に諦めることなんてできない

簿記も、ブロガーも、これまでの私ならダメだと思ったら簡単に諦めていたはずなのに。本を作る仕事に関してはなかなか諦められませんでした

マエデでは、ブックライター風の企画をやりたいから勝手に前田さんの地方公演を書籍みたく再構成した企画を立ち上げます。(私もこういことがやれるんだって誰にいうでもなくアピールしたかったんだと思う)


そして、デザイナーの前田さんのブログの執筆をお手伝いしていた経験を通して、前田さんの考え方は商業出版として本にした方がいいと思ったこと。前田さんも出版に興味があったので、書籍化に向けて一緒に企画を考えるようになりました。

そうして形になったのが『勝てるデザイン』です。

その半年後には『鬼フィードバック』の書籍の編集にも関わることができました。


本も、コミュニティも全部仕事になってた

そこから、2年が経過。ソシムさんから『勝てるデザイン』をデザイナー向けにした本を作りませんか? とオファーいただき制作したのが『デザイナーが最初の3年間に身につけるチカラ』です。

デザイン書を編集、制作したのは初めてでしたので、戸惑いもありましたが、自分自身の可能性とNASUの新しい可能性を知れた気がして楽しいお仕事でした。

そして、同じく去年から『勝てるデザイン』の続編『愛されるデザイン』の制作も始まりました。勝てると同様、前田さんの本を編集は片野さん、装丁は戸倉さんと作るわけです。2作目ですから、前回以上に内容的にもいいもにと思うと大変です。また勝てるデザインを作っているときよりもはるかに忙しくなりました。でも、幸せな時間だなと噛み締めながら日々原稿に向き合っています。

そして、まだ詳細は内緒ですが、いくつかの書籍のオファーをいただいており、絶賛製作中です。


2017年に私が思い描いていた、編集、本作り、濃いものづくりをすること。そしてマエボンの制作を通して感じた「この楽しい経験を仕事にすること」は叶いました。

全ては箕輪編集室に入ったことが人生が変わったきっかけでした。箕輪編集室を通して書籍の編集の仕事をするようになったわけです。

私は出版社や編集プロダクションの編集者ではありません。デザイン会社のライター、編集です。本を作り続けるためにはオファーが必要で、オファーが続くためには売れないといけないんです。

その点で私は、まだまだまだまだ力不足だと感じることが多々あります。そこで、箕輪編集室を通して、編集を背中で教えてくれた箕輪厚介さんと対談する機会を社長の前田さんの企画で実現しました。

私の目標はデザイン書で10万部を超える書籍の制作に関わること、そしてジャンルは問いませんが『嫌われる勇気』のように、世界中で愛される本を作ることです。つまり、多くの人に読まれるヒットを作ることです。

その極意をヒットメーカーの箕輪厚介さんに伺います。こんなことを話そうと思ってます。


今週水曜日の6月19日(水)18時半〜 梅田蔦屋書店様にて、みの編卒業生として、箕輪さんと対談させていただきます。配信無しのオフラインのみ。来れる人は限られると思うのですが、レアな機会なのでみに来て欲しいです。

また、開始時間がちと早めなので、音声データをアーカイブとして配布します。(聞ける期間は2週間)。ですから、仕事でちょっと遅れる方も途中入場でもいいので来て欲しいです。


お待ちしてます!

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