『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』映画評・世界を変えろ
どうも、ササクマです。また再び、映画評の地に戻ってしまいました。他にやることないのか。
今回の映画評は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man』です。
Ⅰ. はじめに
こちらは2002年にTVシリーズで公開されたアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』について、作中の「笑い男事件」エピソードを中心に再編成されたものです。厳密に言えば映画ではなく総集編なのですが、あまり細かいことは気にせず行きましょう!
で、TVアニメ26話を160分にまとめたわけですから、けっこう物語の進行がスピーディに感じるかもしれません。TVシリーズから笑い男事件の関連エピソードだけ追うのも良いですが、わたし自ら物語をプロット化してやりました。Wikipediaには負けない。
そもそもの攻殻機動隊について。1991年に刊行された士郎正宗の漫画『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』が原作。そして押井守が監督を務め、1995年に劇場用アニメ映画として公開。国内外から高い評価を受け、攻殻機動隊は大人気作品となりました。
その人気は2021年現在も根強く、Netflixにてフル3DCGアニメーションの『攻殻機動隊 SAC_2045』が配信中です。他にも『攻殻機動隊 ARISE』や、はたまたハリウッドでの実写版映画など、長年に渡り愛され続けてきた作品。
攻殻機動隊の魅力は、現実世界においても実現不可能ではないリアリティの高さだと思います。従来のSFアニメは巨大ロボットや超能力が主流でしたが、本作は義体化と電脳化です。義体化については義肢の技術が昔からあり、近年は競技用義肢の成果が目覚ましく、電脳化はスマートフォンに置き換え可能です。現実にもありえるかも知れないフィクショナリティだからこそ、物語が人間社会に深く刺さります。
「GHOST IN THE SHELL」は機械の中に魂は宿るのか、という哲学的なテーマが主であったのに対し、SACは社会問題に元のテーマを落とし込んだオリジナルストーリーです。中でも笑い男事件は攻殻機動隊でやるからこそ、相反する心とデータ情報との間に親和性が発生する、非常に完成度の高い作品となりました。
監督は神山健治さん。1996年、プロダクションI.Gにて押井守が主催した押井塾に参加。押井監督を心の師匠と仰ぎつつ、「攻殻機動隊TVシリーズ」の企画を通しました。
当時のインタビュー記事もあるので、参考にどうぞ。
他の監督作は『精霊の守り人』『東のエデン』『CYBORG009 CALL OF JUSTICE』『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』など。2021年現在は株式会社CRAFTARの代表取締役であり、『攻殻機動隊 SAC_2045』の監督を務めています。
本来であれば『攻殻機動隊 SAC_2045』評を書くべきでしょうが、まだ完結していないので『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man』について書かせてください。
では、どうぞ!
Ⅱ. 鉄の三角形
本作の社会不正は薬害事件をひとつのモチーフとしています。公開前の90年代は薬害事件が多発しており、厚生省と薬品会社の杜撰な管理が明るみに出ました。当時にしてはタイムリーかつ、デリケートな問題を扱ってはいるものの、本作は薬害事件そのものを批判しているわけではありません。
こんな事件が発生してしまう、政治構造に問題があるよねと、警鐘を鳴らしたいわけです。
日本は民主主義なので、国民の投票により議員を決めます。選ばれた代表者は、公約に沿って政治を行わなければいけません。理想としては、以下の図1の流れになるはずです。
図1
国民(主権・税金)
↓
政治家(立法・頭脳)
↓
官僚(行政・手足)
しかし、実際には国民の意見が政治に反映されません。なぜなら、国民は政治から締め出されているからです。これを鉄の三角形と呼びます。図2を参照してください。
図2
政府
/ \
官僚 ー 財閥
企業側に有利な法案を通すため、政治家に賄賂を渡すと。政治家は資金が増える上、票数も確保できます。官僚としても出世競争から外れた場合は、企業への天下りが魅力的に見えるわけです。利害が一致した三者によって政治が完結してしまうため、主権者たちの国益が無視されてしまいます。
作中では警視総監も買収されているので、警察も頼りになりません。唯一、犯罪に対し常に攻勢でいる公安九課だけが捜査を進めるのですが、それとは別行動で政治構造に風穴を開けようとしたのがアオイです。
なぜ、アオイは社会不正を正そうと行動したのか? そしてなぜ、世の中に絶望したのか? その理由を説明したいと思います。
Ⅲ. 笑い男の犯人像
笑い男の犯人はアオイであり、特A級の天才ハッカーです。一方で彼の生い立ちなどは謎に包まれており、どんな人物かまでは語られません。
しかし、作中にJ・Dサリンジャー著書『The Catcher in the Rye』が登場したことから、アオイの人格形成に強い影響を与えたことは間違いないです。この本を愛読しているキャラは、子どもの夢と大人の現実との境で葛藤していることを示します。
以下の映画評でも書いてるので、参考にどうぞ。
『The Catcher in the Rye』のあらすじ
学生である16歳の主人公ホールデンは、クリスマス直前に学業不振で退学処分となってしまう。ルームメイトと喧嘩をして学生寮を飛びした彼は、生まれ故郷のニューヨークに戻るが、そこに彼の居場所は無い。なぜならホールデンにとって社会や大人の存在は全て欺瞞に満ちていて、それらを受け入れることができないからだ。
かくして、ホールデンは心の繋がりを求めて放浪の旅に出る。過去の知人や、旅先で出会った人と交流するが、全てが気に入らない彼は結果的に孤独を深めていく。すっかり落ち込んだ彼は疲弊し、純粋無垢な妹のフィービーに会いたくなる。そして彼は、妹に向けて自分がなりたい存在について語った。
アオイはホールデンをモデルにした人物だと思われるので、ホールデンの性格についても記述します。
ホールデンの人物像
世の中の大人が作ったインチキ社会が大嫌いで、逆に子供などの純真なものは好き。彼が他の人物と違うのは、相手から「幸運を祈る」と言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならばそんなことは絶対に言わないだろうと思う感覚である。相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。
しかし、ホールデンの住む世界には、そうした彼の思考と感情に共感する人間はいなかった。そこで彼は、「孤独だ」「気が滅入った」と繰り返しながらも、心のつながりを求めて遍歴を続ける。
「これがいつも僕には参るんだな。会ってもうれしくもなんともない人に向かって『お目にかかれてうれしかった』って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ」
本書のテーマは「子どもの夢と大人の現実」です。ホールデンが子どもから大人へと変化していく途中で、世の中のことをどう思っているかが書かれます。
純粋に考える子どもと比べ、大人は社会の営みのための嘘や建前を使い分けていく。こうした大人の無責任さと嘘を嫌う青年で、それでいて大人になりつつある自分への自己嫌悪に苦悩するのでした。
とはいえ、ホールデンは捻くれた性格をしているため、一人でネチネチと悩み続けます。その中の思考に、とても印象的な文章がありました。
「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」
I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes
その一文の後に、アオイは小説には無い言葉を書き加えています。
「だが、ならざるべきか」
or shoud I ?
これはつまり、世の中の「インチキ」に対してホールデンができなかったことを、アオイがやっちゃったことを示しています。
彼らが最も烈しい嫌悪と侮辱を示すのは「インチキ」なものです。既成の価値観に縛られず、かと言って自らの価値観も確立されていない彼にとって、これが法律上の罪や倫理的な悪などであろうはずはなく、単なる嘘や誤魔化しでさえなくて、精神の下劣さ低俗さ、欺瞞、追従といった性質のものが動機にあたります。その不潔さを、思弁的に決定するのではなくて感覚的に感じ取り、反射的に反撥した結果が笑い男事件の発端です。
以上のことから、アオイの人物像をまとめてみました。
立場 = 子供の世界にありながら、大人の世界に片足を突っ込んだ不安定な姿勢。
意識 = 彼という一個の人間の中に、子どもの夢と大人の現実とが混在している。
見方 = 大人たちが巧妙に、あるいは狡猾に案出した現実処理の方法は十分に会得していない。
行動 = そのため自分独自の方法で対処するか、方法も見つからぬままに体ごとぶつかる。
アオイは社会不正を許せないけど、どうやったら正せるのか方法が分からないから、瀬良野社長を直接脅迫するという、劇場型犯罪を実行に移すしかなかったわけです。
でも、世の中は何も変わりませんでした。センセーショナルな笑い男の話題ばかりが独り歩きした上、逆に利用されてしまいます。
そこでアオイは悟りました。政治構造以前に、社会構造にこそ問題があるのではないかと。人間社会そのものが「インチキ」で構成されているから、社会不正を正すのは無意味だと絶望したわけです。
次は社会構造について、サブタイトルにもある「STAND ALONE COMPLEX」と関連させて説明します。
Ⅳ. STAND ALONE COMPLEX
そもそも「STAND ALONE COMPLEX」とは、そのまんま訳すと「孤立した個人の複合」です。
■ 個人
孤立した個人については、個人化社会で説明できます。まず前提として、我々は自由です。先人たちの偉大なる功績により、庶民も男女も等しく投票権を有します。
個人が自由である一方、それらを支配していた国、組織などの集団が崩壊しました。何かリスクが発生しても国や組織は守ってくれず、個人の自己責任として対処するのが望ましい社会となります。
自由だけども生活が不安定な状態になると何が起こるか? 人々は自由の重荷に耐え切れず、安定を求めて集団へ帰属しようとします。しかし現代は帰属すべき集団も、対抗すべき大きな壁もありません。
ゆえに人々は孤立した個人でありながら、 「外界と関係を結ぼうとする要求」と、「孤独を避けようとする要求」を潜在的に合わせ持っていることになります。(エーリッヒ・フロム/日高六郎訳『自由からの逃走』創元社、1951年)
■ 複合
集団に帰属できないはずの個人が、どうして複合化されるのか? それが発生するメカニズムを構築したのがインターネットです。
ネットが普及したことにより、我々の生活で何が変わったのか? 従来の社会は図3のように、コミュニティとコミュニティの間には大きな壁がありました。
図3
Aーー|壁|ーーB
この壁は時間だったり、距離だったり物理的な要因が多かったところ、ネットにより容易に飛び越えることが可能になりました。それは良いことなのですが、コミュニティが独自に持つ情報が特殊でなくなります。
つまり、コミュニティに属する必要性が失われたわけです。例えば以前はアニメについて語りたくなったら、アニメ好きのコミュニティに入ることでしか、知識人の蘊蓄やノウハウを聞くことができません。
それが今やネットの普及により物理的な壁が取り払われ、コミュニティに属さずとも情報を検索することが可能になったので、ますます個人は孤立していくことに。中には自ら情報を発信し、コンテンツ化する者まで現れます。
コミュニティが持つ特殊な情報が解放されたことで、情報の外部性が失われた結果、個人たちの情報が並列化されました。知識において自分と他人との差異が小さくなり、どんどん画一的になっていきます。
で、孤立した個人は「外界と関係を結ぼうとする要求」と、「孤独を避けようとする要求」を潜在的に持つため、新しい情報が衝撃的であればあるほど、並列化中に伴う複合が発生します。
並列と複合で何が違うのか。それは模倣者の有無です。作中では次々と笑い男と名乗る人々が現れました。なぜ模倣者が誕生してしまうのか、図4を参考に説明します。
図4
A
↑
権威 | | 権力
↑ | | ↓
(象徴) | | (金・暴力)
↓
B
この図は人が命令に従わされる、従いたくなる両者の関係を表したものです。
他人を支配して強制的に従わせる権力に対し、権威は自分の意志でBからAへ従います。なぜなら、Bは象徴というレンズ越しにAを見ているため、心の底からAを尊敬していたからでした。
この象徴こそが「笑い男マーク」です。しかし笑い男の正体は不明であるため、マークだけが先行して人々に強い印象を与えます。
衝撃的な情報、社会不安を抱えながらの並列化、印象的なマーク、オリジナルの不在。これらの条件が揃った時、人々は見えない不安を見出そうとして、笑い男を模倣(複合)するのです。この現象を「STAND ALONE COMPLEX」と呼びます。
詳しくは以下の映画評にも書いてるので、参考にどうぞ。
Ⅴ. まとめ
人間が画一的な思考に陥る限り、不正を正そうと何か行動を起こしても、複合化として意志が吸収されてしまう。それはまた別の画一性でしかないことから、アオイは社会に絶望します。
しかし、画一的な思考から抜け出せる唯一の手掛かりとして、タチコマの存在は実に興味深いものでした。
タチコマは人工知能を搭載した、自律する思考戦車です。ただ定期的に情報を共有するため、全機体の思考が常に並列化されるはずでしたが、予想と反して機体ごとに個性を獲得していきます。
なぜ機械のタチコマが自我を持ち、並列化される情報の中で個性を発揮できたのか? その理由を少佐は「好奇心」と推測します。奇なるものを好む心を抱くことで、画一的な思考から抜け出せる可能性があると。
少佐の説にアオイも納得します。なぜなら、彼も笑い男の模倣者だったからです。たまたま一通の告発メールを好奇心で読み、オリジナルの意志を引き継ぐのが自分の使命だと錯覚してしまいました。
確かに「STAND ALONE COMPLE」は情報の並列化の果てに個を喪失する社会システムかもしれませんが、意志ある者たちによる事件解決の糸口となったのも事実です。最後には少佐まで笑い男を模倣してましたからね。
そして意志ある者たちは「好奇心」により、情報の並列化から逸脱できます。そう考えると絶望の始まりに感じた「STAND ALONE COMPLE」も、腐敗した世界を変える希望に思えませんか?
物語の冒頭、犯人を追い詰めた少佐は、以下の言葉を投げかけます。
「社会に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌なら……」
この先の台詞を少佐が言うことはありません。わざと台詞を途切れさせ、観客に反芻させる演出となっています。わたしは何も知らず最初に聞いた時、何もかもが嫌なら「死ぬ」しかないと思っていました。
生きてなお個を喪失することの絶望。しかし「STAND ALONE COMPLE」について調べた今、わたしは希望を捨てずに生きています。「好奇心」により情報を得て、これまで何本もの映画評を書きました。
社会の言いなりになるのも、社会から隔離されるのも嫌なら、世界を変えるべく行動するしかありません。
ただし、それはテロなどの破壊行為ではなく、衝動的な劇場型犯罪でもないです。荒巻課長は証拠を集めて隠ぺいを暴き、逮捕した後は司法の手に委ねます。己の正義を信じて貫く荒巻課長には、以下の台詞がありました。
「我々の間にはチームプレーなどという都合の良い言葉は存在せん。あるとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」
チームプレーはチームのために貢献することで、チームワークは目的達成のために行動することです。
公安九課は表立っては存在しない組織であり、犯罪に対し常に攻勢であり続けます。そのため少数精鋭で独立性の強いメンバーが揃っていますが、物語途中で散り散りになった後も、最後には社会正義の実現のために再集結しました。
何か世界を変えたいと考えた時、それが目的を達成するためのものであるなら、「STAND ALONE COMPLEX」によって意志ある者たちが集うかもしれません。
世界を変えるって別に大それたことじゃなくて、例えば選挙に投票するだけでもいいんです。わたしが敬愛するバンドマン、マキシマムザ亮君もこんなことを書いてます。
以下、要約。
・みんなが納得するルールを全員で決めていくべき。
・別にいいじゃないかという考えではなく、どんな些細な事でも不満を言うべき。それが政治。
・ルールを決めていく段階で違ったルール案が出てくる。だから多数決でルールを決める。それが選挙。
・自分の信じたルールを作り、それを勝ち取ることができたなら、扇動者やメディアの情報を真に受けることはない。
で、日常生活の中にも政治はあると。職場、友達、恋人、家族、いきなり会った知らんやつとも、目的があって集まったなら意見を言ってルールを決めなければいけません。逆に目的も何も無くて、ただ上からの命令に従うだけの場所なんて息が詰まります。
いやでも、何か言ったら変な人だと思われそうだし、みみっちぃ面倒な男だと思われそうだし、とか考えなくていいんです。ただ漠然とした社会通念みたいなものに流されたところで、自分が不利益を被るだけですから。
世の中への不満や間違いを見つけたとき、見ず聞かず不平も言わずただ暮らすのか、あるいは不正を自ら正そうとするか。
この映画評を読まれた方は、わたしと情報を並列化できたのか。画一的な思考となり個を喪失したところ、好奇心により再び個を獲得できたのか。それとも「STAND ALONE COMPLEX」現象により、わたしの模倣者が現れてしまうのか。
ちょっと楽しそうって、ゴーストが囁くかもしれません。
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