実は違う!釈迦の「空」と般若心経の「空」
すっかりご無沙汰になってしまいました。瞑想中の蜜りんごです。
最近、東京もめっきり朝晩が涼しくなりました。あっという間に秋!
10月1日は中秋の名月、2日は満月です。週末はお月見を楽しもうと思います。
さて、今回も一緒に般若心経の世界を探っていきましょう〜。
前回まではこちら。
前の回では、観世音菩薩がお釈迦さまの弟子に、「この世を構成している要素は実体がないんだよ」、と説いているシーンまで説明しました。
お釈迦さまは原始仏教の時代、「すべてのものは移りゆく」=「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と見抜いたのですが、大乗仏教の時代に登場した般若心経は、それさえもないと否定しています。釈迦の説いた、この世を構成している要素さえも幻だと言うのです。これは般若心経の冒頭のリード文で、すでにセンセーショナルに説明されています。↓
「現実は幻実なのさ」
「釈迦の仏教」は、悟りを目指して修行を続け、自分で自分を変え、努力した人だけに力を与えてくれます。しかし、そうではない人は救われません。それはとても現実的ではないので、普通の生活をしている庶民にも手を差し伸べてくれる「大乗仏教」が新たに登場しました。その大乗仏教の時代にブラッシュアップされたのが般若心経です。
最古のお経と言われる『スッタニパータ』に「空(くう)」の記述があります。「ここに自分というものがある、という思いを取り除き、この世のものは空(くう)であると見よ」
これがお釈迦さまの説く空ですが、大乗仏教の空と性質が異なります。
釈迦の空は素粒子の世界?
釈迦の「空」の主張
この世は基本的な存在要素(現代でいう素粒子)で構成されていて、その要素が寄り集まり、原因や結果によって移りゆく。一見すると安定して変わらないように見えるが、それは要素の集合体であるから、常に変化し続けるため実体がない。この世にあるのは、これ以上分解できない最小単位の基本要素と因果の法則性。それが「空」である。
般若心経の「空」の主張
釈迦の言う「空」とは、高いレベルの理解ではない。基本要素さえも実体を持たず、要素間で働いている因果システムもない。この世は、人間が考える理屈を超えた神秘の法則が働き、言葉で表すことのできない世界であり、それが「空」である。
物質は科学的に突き詰めると素粒子にたどり着きますので、釈迦の考えは紀元前の人とは思えないほど科学的です。凄いです。(驚!)でも厳密な因果の法則が基盤にあり、心が救われるかと言うとなかなか難しい。
一方、般若心経の「空」は因果も存在しないとし、「この世には人智を超えた、もっと神秘的な働きがあるんだよ」と、人々の心に希望を持たせました。
素粒子も普通に生活していたら人間の目には見えないもので、それは常に変化していると見抜いたお釈迦さまはやっぱり凄い! そういった釈迦の叡智である「空」を経て、般若心経の「空」があるのですね。
今日はここまで。ではまた!
※参考資料: 『100分de名著・般若心経』(佐々木閑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?