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映画『セント・オブ・ウーマン』で、運転手マニーが行った値千金の働き

『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』という映画をご存知だろうか。アル・パチーノ主演の知るひとぞ知る名作映画。

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この映画のクライマックスとエンディングで気になる演出がある。多くの人には、気付き難い演出だが、その意図に気付くと映画がより一層深いものに見えてくるようになっているので、それを説明したい。
まず簡単に映画のストーリーを説明しようと思ったが、そもそもここで書く事は、映画を見ている人前提なので、みなさんストーリーを知っている前提で進めようと思う。ちょっと細かいところ忘れちゃったという人は、wikiのストーリーを読んでもらった方が早いので、そちらを参照ください。
wikiのセント・オブ・ウーマンのストーリー

まず映画のクライマックス、アル・パチーノ演じるスレード中佐の演説のシーン。とても素晴らしいシーンで何度見ても感動できるのだが。このシーンの直前に気になる描写がある。
ベアード校の懲罰委員会当日、チャーリーをベアード校へと送ると、スレードはリムジンに乗ったままチャーリーに別れを言って学校を後にする。しかし懲罰委員会が開かれる直前、リムジンの運転士マニーに付き添われ会場に現れる。
なぜ、スレードはチャーリーと別れてから再び登場したのだろうか? チャーリーと一緒に会場入りした方が、保護者として表明し易いはずだし。そもそもわざわざ遅れて現れる必要は無いはずなのだ。私も最初に映画を見たとき、このシーンの意味がよくわからなかった。しかし最後の別れのシーンを見ると、スレードが遅れて会場に入ってくる意味が判るようになっていることに気付いたのだ。
映画のラスト。姪の家まで送ってもらったスレードは、車から降りる時、マニーにチップを渡す。札束と言えるような分厚くかなりの額のようだ。そしてマニーにこう声を掛ける。「want to take a breather to New York,
we're gonna call you.
」(またニューヨークに行くときは、キミに頼む事にしよう)。スレードの性格からして、このような言葉を発することはマニーへの賞賛の言葉と言ってよい。しかし映画の中でマニーが大金のチップを受け取り、スレードに信頼を受けるようなシーンを思い浮かべても、ほとんどない。(高級売春婦を紹介したところぐらいだ)
ひとつだけ気になるようなシーンがある。それが先ほどの演説前のシーンだ。会場の講堂に現れたスレードは、マニーに伴われていた。マニーは壇上にチャーリーを見つけると、目配せしてスレードを連れて行くよう促す。
そう、スレードを会場に連れてきたのは、マニーだったのだ。おそらくスレードは、学校前でチャーリーと別れるつもりだった。
週末の二人の旅を運転席からずっと見守っていたマニーには、事態がどのようなものかは、なんとなく判っている。いまチャーリーを救えるのはスレードしかいない。スレードならチャーリーを救える。そう考えたマニーはスレードにチャーリーを救いに行くよう諭したのではないだろうか。

そのときの二人の会話は、おそらくこのようなものだったのではないだろうか。
ー車がスレード中佐の家に近づく頃ー
 マニー:このまま帰宅されてもよいのですか?
 スレード:(沈黙)
 マニー:チャーリーは、いまひとりぼっちですよ。
 スレード:だが、彼は自らその道を選んだんだ。
 マニー:あなたならチャーリーを助けることができるのではないですか?
 スレード:わたしになにができる? ただの盲目の退役軍人だ。
 マニー:でもチャーリーのそばにいてあげることはできますよ。
 スレード:(沈黙) 
 スレード:もう間に合わんさ。
 マニー:車を飛ばせば、間に合いますよ。ここからはサービスです。
 スレード:講堂の中まで、わたし一人では入れてもらえんよ。
 マニー:わたしが付き添いましょう。それもサービスにしておきます。
 スレード:(沈黙)
 スレード:そうか、ならすぐに行ってくれ。チャーリーのために。
 マニー:了解です。

そうしてスレードは、マニーに手を添えられながら講堂に現れる。
そこからの展開は、映画のとおり。

映画のラスト、マニーに渡した札束は、おそらくスレードが今回の旅行のために持ち出し、使いきれなかったお金だったのだろう。
この週末の旅は、スレードにとって死出の旅だった。しかしスレードは再び生きることを決意した。彼にとって、最期を楽しむために用意したお金はもう不要。もしかするとチャーリーに与えてもよかったかもしれない。しかしチャーリーは、そのようなお金を受けとらないだろう。であれば、そのお金を受け取るのにふさわしい人間は、ひとりしかいない。マニーのおかげでチャーリーの苦境は最高の形で切り抜け、スレードがまた前に向かって歩き出すきっかけとなったのだから。

スレードは演説の中で、魂の壊された者について語っている。
But there is nothing like the sight of an amputated spirit. There’s no prosthetic for that.」(しかし魂の壊された者が最も無惨だった。壊された魂には義足を着けることはできない)
この「魂の壊された者」には、スレード自身も当てはまっていた。自らに絶望し、世界にも絶望する。生きる価値がないと感じる人生を過ごす日々。
チャーリーは、スレードの自死を踏みとどまらせた。だがスレードの魂はまだ救われてはいない。もしかすると学校へチャーリーを送ったあと。そのまま帰宅後にスレードは姪の家の離れで自殺するつもりだったかもしれない。
なぜならスレードはチャーリーとは心を開いたが、それ以外の世界との関係は何一つ変わっていないのだから。
ましてやこの段階でもチャーリーが敗北するのは自明と言ってよい状態。チャーリーもスレードも敗北者として生きて行かなければならないのだ。そのような未来をスレードは耐えられない。

しかし運転手マニーの働きにより、スレードはチャーリーの闘いに参戦し、彼を援護できた。スレードにも生きる価値があることを証明できたのだ。スレードの演説の結びにこのような一節がある。「Let him continue on his journey. 」(彼に旅を続けさせて上げて欲しい)この一節は、チャーリーに人生を続けさせてあげて欲しいということなのだが、実はスレード自身の人生という旅を続けさせて欲しいということだったのではないか。チャーリーをこの窮地から救い、チャーリーの未来を見届けさせて欲しいと。

チャーリーとマニー、二人の人間に出会ったことで、スレードは生き続けることを選んでみようと思えるようになったのだ。だから、バカにしていた姪の子供たちにも素直に対話しようと思えるようになったのだ。

そして、マニーの立場から見れば、リムジンの運転手であっても独りの少年の人生を救えるのだということを実感できたときだったのだ。

この物語の最後が、チャーリーとスレードとマニー3人の会話からスレードの帰宅に繋がるのは、象徴的だ。
この映画が3人の物語であったということを示している。

スレードを送ったあと、チャーリーの家路までの車の中で、チャーリーとマニーの間にどんな会話が交わされたのか。もしかすると二人とも無言だったかもしれない。けれど、それは雄弁を越えるような無言の時間だったろう。

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