非常口

すべては家族のせい?~社会課題は責任論では解決しない、登戸20人死傷事件と練馬元事務次官息子殺しから考える


 どこまでが家族「だけ」の責任なのか。どこまで家族「だけ」が面倒を見なくてはいけないのか――川崎市・登戸で児童ら20人を男が刃物で死傷させたとされる事件と、東京・練馬で元事務次官がひきこもりの息子を殺したとされる事件、さらに東京・池袋で高齢の元官僚が母子ら12人を死傷させたとされる交通事故。この4~6月に起きた一連の大事故・大事件の報道を見る限り、必ず語られるのが「家族の責任」だ。どこまでいっても日本は、さまざまな問題を家族へと収斂させる、「閉じている」社会だと感じる。

 だが責任論で家族を糾弾するだけでは、社会課題は何も解決できないのではないか。事件の背景には社会問題があり、それらを解決させるためには、専門家らが語るように、「家族へ閉じる」のとは逆ベクトルの「社会へと開く」ことが重要だと、筆者は思う。例えば、ひきこもりから抜け出せない人に社会への回路を示す支援団体を繋げたり支援政策を強化したり、買い物すら困る交通弱者である高齢者に安価で簡単に使える便利な「足」を用意したり。第三者や行政が支援や施策を用意することが、社会的な問題解決に繋がるはずだ。

 もちろん家族に責任がないとは言わないし、自分も当事者ならば家族として責任を感じるだろう。だが、「過剰に」家族に責任を負わせようとする社会の風潮には、違和感と危機感を筆者は覚える。それは、戦前から連綿と刷り込まれてきた家父長的な家族論に、自分のことは自分でするという「自己責任」論が加えられ、より家族を閉じさせる、問題を隠す方向へと内向きにさせる、周囲からの圧力が増していると感じさせられるからだ。

川崎事件、練馬事件で語られた「家族の責任」

 メディアの報道から事件の概要を見てみよう。まずは5月28日の登戸事件。児童らを死傷させて自殺した容疑者(51)は、川崎市内で80代の伯父・伯母夫婦と同居し、長期間就労せず、10年単位での「ひきこもり」状態だったとされる。両親の離婚後に面倒を見ていたとされる伯父夫婦は、市などに容疑者のことを相談していたが、他人へ危害を加える様子が見られなかったため、直接、市などの他者が接触することはなく、容疑者に福祉の手は及ばなかったという。

 練馬の息子殺害事件は、元農水省事務次官(76)が6月1日、無職の長男(44)を自宅で刺したとされる。報道によると、長男は思春期からいじめに遭って不登校がちになり、母への家庭内暴力も激しかった。いったん別居していたが、今年5月に自宅に戻り、その間も仕事はせず、日々オンラインゲームをしていたという。母に暴力を振るい、「ぶっ殺すぞ」と言うなど、元次官は身の危険を感じていたうえ、登戸の事件報道を見て、ひとさまに「危害を加えてはいけないと思った」と殺害の動機を話したとされる。

 登戸の事件について、テレビのワイドショーは、SNSなどで世間の反応を拾う形で、「家族の監督責任」を問うていた。「ひきこもる加害者に家族が他にできることはなかったか」「家族は危険を察知して防げなかったのか」などと、基本的に議論は「子のひきこもりは親の責任」「子の行動は親の責任」という前提で語られた。「子が他者に危害を加えないよう管理監督するのは当然、親の責任」といった論調だ。だからこそ、練馬事件の容疑者も、我が子が他者を殺める前に自らの手で“落とし前”を付けようという発想になったのだろう。

 だが、「家族の責任」の取り方として「息子を殺す」という解決法を取った練馬の事件には、子を所有物として考える戦前的・家父長的な価値観が見て取れる。「製造物責任」のように、子の人権は親のもの、子の生殺与奪の権は作った親が持っている、ダメ息子ならば親が責任を持って殺してもいい・殺すしかない、といった考え方だ。親には子を育てる義務や監督する責任はあるが、親と子は別人格の他者だ。成人したら、子の行動は子の責任、親がどうこうできる範囲は限られる。ましてやその生命を奪い、殺す権利など、誰にも、親にもないのは自明のことだ。合わせ鏡のように、殺された長男も、「産んだ親が責任を持って面倒を見るべき」などとSNSに書いていたと報道された。でも、40過ぎた息子が親に「責任を取れ」と言うとは甘えているとしか思えない。

子が「親の監督責任」問われた池袋母子死亡事故

 親に子の責任を問うのとは逆に、子が「親の監督責任」を問われたのが、池袋で4月19日に起きた、旧通産省の元官僚(87)が母子2人を死なせ多数を負傷させた交通事故だった。車に不具合や誤作動はなく、加害者の踏み間違いが原因とされる。加害者もケガをしていて逮捕されなかったためバッシングが大きくなったが、足が不自由な高齢の親が運転するのをなぜ家族は止められなかったのかと、子に対して批判がなされた。「親を監督しろ、四六時中見張ってろ」と言われても、現実的には難しいと、子の側の事情に共感や理解を示しつつも、「子の責任」を問う声が多かった。

 だがこちらも、親は親、家族といえど、子と親はやはり別人格だ。どれほど言っても聞かない親にどう対処するか、「親の方が偉い」という価値観の親世代に対して、子世代がモノを申してもなかなか聞き入れてもらえない。働いている日中までずっと親を監視するのは現実的に不可能だ。高齢者に運転免許証を返納させようにも、公共交通機関がないなど自家用車に代わる交通手段がなく買い物すら困る、といった問題も語られたものの、事故現場が都会のど真ん中だったため、バスや地下鉄などの代替交通手段が田舎に比べて発達している分、同情の声は少なかった。

 何にせよ、すべての原因を家族に帰結させたところで、背景となった社会問題の解決はできない。高齢ドライバーによる重大事故がしょっちゅう起きているように、形を変えて、同根の事件がまた起きるだけだろう。登戸や練馬の事件の背景にあるのは「8050問題」だ。80代の高齢の親が、いじめや不登校、会社での不適応などでひきこもりになった50代の子を家庭で面倒を見るという社会現象である。今年3月に政府が発表した推計では、40~64歳の「中高年ひきこもり」は全国で61万3000人に上る。半数以上の人が5年以上もひきこもっており、8割近くが男性だった。働かずに親の年金で暮らし、親が家事をするなど、経済的にも生活面でも親に“おんぶにだっこ”のケースも少なくなく、死期を前に子の将来を案じる親も多い。

引きこもりを誘発する「ワンチャンス社会」

 こんなふうに「ひきこもり」になってしまうのは、そもそも日本社会が、一度のつまづきも許されない「ワンチャンス社会」「再起不能社会」であることが原因だろう。学生時代に勉強や人間関係でつまづいて不登校や中退になったら、社会で安定した働き口を見つけるのが難しい。社会に出られたとしても会社でリストラに遭ったり、ブラック企業で体を壊したりして退職したら再就職が難しい。一度レールを外れた人は再起が難しい、人生で失敗ができないのが、現代ニッポンだ。

 それは皆が生きづらい世の中だ。人生に失敗したと思った時、自分ではない何か外部の要因に、責任を転嫁したくなる。自分以外の誰かのせいにしたくなる。結果、世間や親や会社や上司や隣人を恨んだり、敵視したりするかもしれない。自らを「底辺」だと自覚している人が、そこから抜け出せないと自認し諦めた時、自暴自棄になって自死や他傷(犯罪)に走るかもしれない。

 短期的には、そうした状況に陥った人を救うためには、「家族の責任」だからと「家族だけに閉じる」「家族だけに解決を押し付ける」のではなく、「家族以外の第三者に相談する」「行政やNPOといった第三者に頼る」「専門家を含む他者に介入してもらう」道を家族に示すことが重要だろう。その大前提として、家族内のもめごとや、社会でつまづいた経験を持つ人は「家族の恥」ではない、それらを「他人に知られるのは恥ずかしいことではない」と、認識や意識を変えることが必要だろう。

 そのうえで、将来的には、「ワンチャンス社会」を「再起可能な、やり直しのできる社会」へと、抜本的に変えることが求められる。一度の失敗で社会的に転落し、抜け出せずにもがき、怨念(ルサンチマン)を募らせている人も、再挑戦できれば、その状況を抜け出せるかもしれない。本人が望む時に再起の機会を得られるように環境を整えることが肝心だ。小さな「成功体験」を重ねれば「ひきこもり」を脱して社会復帰できるかもしれない。その方が、本人は居場所と収入が得られるし、社会全体で見れば人材の有効活用にもなる。

「再起可能社会」に変わるため皆が意識変革を

 そのためには、人々の意識も、現実的な企業の採用実態も変わらなければいけなが、意外と苦戦しそうなのが前者だ。特に最近、社会が不寛容さを増している中、「池に落ちた犬はたたけ」とばかり、堕ちた者を一斉にバッシングする空気が醸成されている。自分の環境や境遇に不満な者は、自分より低い・より不幸な者を見つけて叩いて安心するし、上にいた者が転落するのを見て溜飲を下げる。「ずるい」「不公平」を探しては引きずり下ろしたがる。この風潮が変わらないと、底辺から這い上がろうとする人を、自分の方が優位に立とうとした人々が「あいつは底辺だ」と過去を暴露するなどして蹴落とし、再起・再生を邪魔することがまかり通るだろう。皆の意識改革こそが求められているわけだ。


 つまり、「家族が悪い」「家族のせいだ」と言い捨てて終われるほどには、事態は簡単でも単純でもなくなっている。事件が起きる背景には、社会全体の構造的な問題がある。対処療法では”モグラたたき”のように限界がある。とはいえ、あまりの根深さと広がりは、どこから手を付けていいかも分からないほどだが。

(2019・6・4執筆、長友佐波子)

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