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終戦の日と夏休みの記憶

お盆の時期には母方の祖母の家に遊びに行くのが恒例だった。夏休みに入る前から、指折り数えて楽しみにしていた。
祖母の家は、私の家から電車で1時間ほど北に下ったところにあった。電車から見える景色から次第に建物が少なくなり、一面が田んぼになるともうすぐだ。

祖母の家にはいとこたちが集まり、みんなが話したいことをたくさん持ち寄って、母は娘に戻り、誰もが楽しそうだった。今は100歳になる祖母も元気いっぱいで、アイスクリームや果物など孫が喜ぶものをたくさん用意して待っていてくれた。

今はもういない祖父は、孫たちに決まって戦争の話をしてくれた。
祖父は軍医だった。最後まで戦闘機に立ち向かい、頭部貫通の傷を負った衛生兵のこと。
三代戦艦のひとつである信濃に乗り込んだ若い兵士たちのこと。祖父は、信濃の乗組員の健康診断を担当した。所属を尋ねるとみんな一様に「信濃でありまぁーす。」と独特の言い回しで、誇らしげに答えたそうだ。
厳しい戦況の中、信濃は横須賀を出港してからすぐに攻撃を受けて沈没した。日本が誇る戦艦のあっけない最後は、士気を下げることを懸念して、ひた隠しにされたという。結果、信濃のわずかな生き残りの兵士の殆どが、厳しい戦地に意図的に送られ、亡くなった。「よし!」と送り出した若い兵士は、みんな死んでしまった、と祖父は言った。

祖父は、感情的になることはなかったけれど、状況を正確に伝えるために、ひとつひとつ言葉を選びながら丁寧に話してくれた。幼い私はいとこたちと並んで、祖母がむいてくれた甘い梨に手を伸ばしながら、話を聞いた。話が終わった頃には、梨のお皿はいつも空っぽで、祖父の分は残っていなかった。それを見て祖母は笑っていた。

1985年の8月12日に、御巣鷹山に日航機が墜落し520人の犠牲者を出した。いつもと同じ夏休みに起きた悲しい事故だった。祖父は一日中、テレビから離れなかった。生存者が見つかった時は、本当に喜んで、廊下を走って遊んでいる私たちに報告してくれた。

その夜、みんなで花火をした。家族に守られて平和な夏休みを過ごす私には、戦争も御巣鷹山も遠い世界の出来事だった。だけど、あの夏を私は今でも、鮮明に覚えている。




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