見出し画像

素朴な疑問・・・通知表っていつからあるの?

ふと思ったのが、通知表って私の時代にも、
子どもの時代にも、今の孫の時代にもあります。
基本的なことは、全く変わりません。
なので、全国どこでもあるものだと思っていました。

ただ、こんな記事読んで、
こんな学校もあることにビックリ


どうも、日本においては、
その作成は学校の任意であるらしい。

したがって、通知表を発行しない学校も存在するのだ。

なので名称も自由で、各学校によって、
通知表・通信表・通知簿・通信簿などと呼称したり、
のびゆく子・あゆみ・かがやき・のびゆくすがたのような
タイトルをつけている学校もあります。

通知表の歴史

明治初期

(明治10~20年代:1880年代)

この時代の学期ごとの試験は小学校でも厳格で、
一定の成績に達しなければ落第だったそうです。

小学校の通知表は「定期試験採点正失表」
「(定期)試験成績表」と呼ばれていたそうです。

しっかりとした取り決め事も明記してあったようで、
「各級毎科の点数を通計し、その10分の9以上を得るを優等とし、2分の1以上を得る者を及第、以下を落第とす」

小学校令施行規則

明治33年(1900年)8月の文部省令
「小学校令施行規則」で初めて学籍簿に
生徒の成績を記入するようになったとのこと。

このときから学年ごとに
「学業成績」「出席日数」「身体の状況」などが
記入されるようになったそうですが、
明治初期とは違い大雑把「上・中・下」や「甲乙丙」だけだったようです。

学籍簿の規定

昭和13年(1938年)
学籍簿は10点法、成績表は甲乙丙で付けられ、
2種類の成績の付け方に分かれることとなっとのこと。

小学校が国民学校に改称

昭和16年(1941年)

小学校が国民学校に改称され、
学籍簿の10点法はわずか3年で廃止。

この際、
「日本国民はすべて優秀でなければならない。
不可をつけることのないように」と通達され、
クラス全員がよく出来れば全員に甲や優をやったり、
丙や可をつけなくても良かったようです。

文部省国民教育局長の通達

昭和18年(1943年)都道府県によって、
優良可の人数の割合を独自に定める学校が出てきて、
これを強く禁止した。

戦前までは、なかなか良い
通知表のつけ方であったのではないでしょうか?

第二次世界大戦後

(1945年以降)

学籍簿が指導要録と改称され
アメリカ式の教育制度が持ち込まれ、
成績は「五段階相対評価でつけるのが科学的で客観的な方法だ」
という考えが支配的になった。

ここからが、日本の教育の衰退がはじまったようですね。

相対評価の始まり

昭和30年(1955年)

文部省の「通達」。
子どもの成績を比較しランク付けして評価するという
「相対評価」がはじまったのです。
割合は「5」が7%、「4」が24%、
「3」が38%、「2」が24%、
「1」が7%となるように評価されという、
とんでもないランク付の始まりです。

さすがに、相対評価は機械的で、
児童や生徒の努力が報われないと批判があり、
後の絶対評価への変更につながります。

これまでの相対評価から絶対評価に変更

平成14年(2002年)以降

「相対評価」から「絶対評価」に代わるまで、
47年かかりました。

ところが、評価と生徒の学力とが
一致しない状況が発生するようになり、
教師の主観に左右される数字で、
文部科学省の中央教育審議会でも、
見直し検討の必要性が答申で指摘されているのが現状。

更に、教員の事務を効率化するために
成績評価の電子化が進むが、
計算式の設定ミスや名簿のずれなど
全国的にミスが見られ、現場は混乱中。

まだまだ、日本の教育システムは後退中。

学校を頼らずたくましく生きていく子どもにしていくためには、
状況を理解しているのと
していないのでは雲泥の差。
だから親やはり勉強しないといけないのです。



この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,899件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?