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【エッセイ】育児と仕事に疲れたママ、アートと恋と酒で癒される。モリゾやゴッホ、ロートレックと驚きの共通点

(1)ママのときめき。もしもの世界と、モリゾの慕情

 おそらく誰もが旅行へ出かけて、
「もし、自分がここに住んでいたら、どんな暮らしをしているだろう」と、想像を膨らませたことがあるんじゃないだろうか。

 それは、ドイツの車窓で目に入ってきた、一面の雪景色に埋もれた、世界に忘れられたかのような一軒家が目に入った時かもしれない。あるいは、日本のど田舎で、どの家からも離れた場所に、箱庭のような小学校を見かけた時かもしれない。

 旅行では、必ず家に帰る。家に戻って旅行かばんから服を取り出して洗濯機に放り込んで、お風呂を掃除して沸かすうちに、日常へ戻っていく。同じように、「もしもの世界」の妄想では現実に戻る。ふたつとも、還る場所が存在する。そして、旅行へ出かけなくても、この空想が広がる瞬間がある。
 
 ふとしたきっかけで、異性に「いいな」と感じた時だ。

 たとえば、ものすごく落ち込んでいる日に、唐突に「プロフ画像変えたね」と、数ヶ月ぶりにメッセージをくれる人がいる。また、ちょっとした業務連絡のやり取りに、「了解でぃ~っす!」と、突き抜けるような明るい性格の片鱗を見せる人がいる。

 もちろん、この類の人たちは、私に好意を抱いているわけではない。誰に対しても、そのように振る舞っているのだろう。たまたま気まぐれな彼らの人生に、私がすれ違ったにすぎない。分かっているのだが、そんな存在に救われるたびに、「この人と結婚したら、今はどんな毎日を送っているんだろう」と、考え込んでしまう。
 
 別に、今の暮らしに大きな不満があるわけではない。たまに「小説のネタになるね」と周囲から言われるくらい変な出来事に年に数回くらい遭遇する程度で、そこそこ幸せに暮らしている。子どもとパートナーとの平穏な毎日を壊してまで、「ちょっと良いなと感じる男性との日々」を手に入れようなんてつもりは、全くない。

だから、その「もしもの世界」は願望でもなく、今のパートナーとの比較でもない。それはただ、パンを焼いてコーヒーを淹れる静かな二人の朝食の場面や、あるいは週末にファミレスでミラノ風ドリアとマルゲリータを囲んで子どもたちと取り合う場面などの、おままごとみたいな空想だ。

 もしかしたら、あの女流画家も、同じような空想をしていたかもしれない。頭をよぎるのは、画家として、妻として、母として生きた、ベルト・モリゾだ。

・マネとは一言で表せない仲だったモリゾ
 モリゾはフランスのブルージュで、三女として生まれた。父は高級官僚のブルジョワで、裕福で保守的な一家だった。母は《ぶらんこ》で知られるジャン・オノレ・フラゴナールの末裔で、かつては画家を志していたこともあり、芸術に理解があった。

《ぶらんこ》フラゴナール

 モリゾは姉とともに教養として絵画教室へ通い、みるみるのめり込んでいくも、当時の美術学校は女性の入学を許していなかった。画家たちが集まるカフェやバーへ入ることも、身分の高い女性は推奨されていなかった。そのためルーブル美術館で模写をしたりして、絵の勉強を続けていた。

 ある日、同じ高級官僚を父に持ち、家族ぐるみの付き合いがあったマネから、「モデルになってくれないか」と誘われる。

 生粋のパリジャンであったマネは、社交的な、それでいて人を傷つけない都会人的な、繊細な神経を持ち合わせていた。おしゃれな服装に身を包み、知性をひけらかすことなく、いざという時に発言する性格で、男女問わず人望が厚かった。画家としても腕は確かで、モネやルノワールらに影響を与え、絵画の歴史を大きく変える印象派展へと繋がった。

 そんな、画家としても人間としても魅力のあったマネからの誘いにモリゾは快諾し、アトリエに出入りするようになる。こうして描かれた数々の傑作の中で、特に有名なものが、《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》だ。モリゾもモデルをつとめるだけでなく、絵の技法もマネから学んでいった。

マネ《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》

 マネはモリゾと出会った当初、既に結婚していた。また、当時の上流階級の女性は一人で外出することは許されず、モリゾはマネのアトリエを訪れる際、母などの付き添い人を伴っていた。モリゾはマネと文通をするも、マネとの手紙は全て生前に破棄している(一方で、かつて恋仲だったシャヴァンヌとの手紙は残している)。そのため、姉への手紙からしか、モリゾの心情は読みとけない。

 ここから先は私の憶測になってしまうが、当時の状況から、2人が男女の仲に陥るには少し難しかったように思う。ただ、お互い「もしも、この人と人生を共にしていたら……」と、感じていたような気がしてならない。この絵でモリゾが向ける魅惑的な表情と、それを鮮やかに描くマネの間には、そんな苦くて温かい慕情が漂っているかのようだ。

 それは「画家とモデル」という、当時にありがちな疑似恋愛だったとしても、「弟子と師匠」という、生徒と教師の間に芽生えた淡い感情だったとしても。ブルジョワの慣習に縛られた日常や、うまく表現できない絵画への葛藤の中で、二人にとって、ほんのひと時の、幸せな空想の時間だったんじゃないだろうか。

 モリゾは33歳で結婚をしている。この年齢は当時の女性としては遅く、母親に急かされてのことだ。相手はウジェーヌ・マネ。41歳で、マネの弟だった。
 
 ウジェーヌは、画家としてのモリゾを生涯に渡って支え続けた。ブルジョワであるウジェーヌは無職の地主だったため、時間やお金に余裕があったこともあったかもしれない。でも、女流画家がまだ珍しかったこの時代に、妻の制作活動を応援してくれる寛容な男性は、かなり貴重な存在だったということは確かだ。

 そんなウジェーヌの深い愛情を誰よりも感じていたのは、モリゾ自身だった。結婚後に、姉へ書いた手紙では、こう綴っている。
「私は、私を心から愛し、信じてくれる誠実な男性と巡り会えました。これでようやく積極的に生きていけます」。

 結婚から4年後、二人の間に愛娘ジュリーが生まれた。夏に訪れた別荘の庭で遊ぶ夫と娘を描いた絵《ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘》からは、「心から愛し」てくれる男性との、平穏なひとときが感じられる。

 ウジェーヌのモリゾへのサポートは生涯に渡って続き、59歳で亡くなる死の直前まで、病を患いながらも、モリゾの個展の準備を手伝っていた。ウジェーヌの没後3年経って、モリゾも54歳の若さでこの世を去ることになる。16歳の娘が残されたが、ルノワールやドガらが後見人となり、ウジェーヌやモリゾがしてきたように、大切に育てられた。

モリゾ《ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘》

 マネと結ばれず、その弟と結婚したモリゾ。彼女はマネとの「もしもの世界」を描き直し、ウジェーヌとの人生を色鮮やかに描いていった。

 人生は、思い通りに行かないことの方が多い。初恋の人と結ばれなかったり、なりたい職業にすぐ就けなかったり、子どもが病気だったり、自分でどうにかできることも、できないこともある。そんな時はつい「もしもの世界」に逃げてしまいがちである。これは決して、悪いことじゃない。むしろ逃げ場として、生きていく上で必要不可欠なものだと思う。

 ただ、「もし、あの人と生涯を共にしていたら」という空想も、旅行も、いつかは終わりが訪れる。SFでもゲームでも、大冒険へ出かけた後、主人公は必ずと言っていいほど、現実へ帰還していく。現実へ戻ると、毎日がセピア色のように見えてしまうこともある。「思い描いていた人生は、もっと輝いていたはずだ」と、感じる日もある。

 けれども、上機嫌で変な替え歌を歌う子どもを眺めたり、保育園のママ友とお迎え時に「今日、A先生はこのあと合コンらしい」とくだらないおしゃべりをしたりして、日々を何となく過ごしていると、こう思える夜が来る。

「まあ、すごい幸せってわけじゃないけど、そこそこ幸せなのかもな」

 この瞬間があれば、「もしもの世界」通りにならなくても、十分なんじゃないだろうか。

(2)ママの飲酒。忘れたい何かと、ロートレックとゴッホの37年

 私は、自他ともに認めるが、酒癖がかなり悪かった。

 一度飲み始めると、我を忘れるまで飲み続けていた。この癖は学生時代に見え隠れしていたが、1人目の産後は輪をかけてひどくなり、2人目の産後でピークを迎えた。飲み会の当日は目も当てられない程ぐでんぐでんになり、翌日はトイレに行く以外はベッドから一歩も出ず、だいたい夕方まで寝ていた。

 この「我を忘れるほど」酒を飲むというのは、「忘れたい何か」が存在していたからだ。

 飲み会に誘ってくるのは、学生時代の旧友や前職の同僚など、「ママ」になる以前の自分を知っている人が多かった。ママ友や家族ぐるみで仲良くしている人とは、だいたいランチかお茶になるからだ。

 そして、「ママ」になる以前の自分を知っている人との場は、「ママである自分」を忘れることができる。私にとっての「忘れたい何か」は、「ママである自分」だった。

 別に、何か大きな不幸や悲劇に襲われていたわけじゃない。でも、普段は当たり前のようにやっている保育園の送迎や、朝晩の献立を考えて作ることって、実は心身ともにリソースを結構使う。土日のお出かけ先や子どもの習い事など、決めなきゃいけないこともある。ママだからこそ常に気を張っていなくてはいけない日常生活に、どうしようもなく疲れてしまう瞬間がある。

 あるいは、ささいな夫の一言だったり、ふと目に入ったママ友のSNSの投稿だったり、心にとげが刺さり続ける日もある。そんな時、ふと感じていた。「あー。酒、飲みてえ」と。しかし、子どもがいる状況で、飲みに行くわけにいかない。そこで、たまに誘われると、チャンスとばかりに「ママである自分」を忘れるまで、浴びるように飲んでいた(自分でも書いていて引いてしまうくらい、迷惑な話だ)。

 こんな「忘れたい何か」を抱えて、酒とは切っても切れない生活を送った画家たちがいた。それが、ロートレックとゴッホだ。

・アルコール中毒のロートレック
 ロートレックは、貴族の家に一人息子として生まれた。ロートレック家はフランス有数の貴族で、毛並みの良さという点では、画家の中での筆頭に位する。しかし、10歳の頃に事故によって下半身の成長が止まってしまう。スポーツや乗馬を愛する父からは失望され、自分の姿に対する負い目から、モンマルトルの娼館に入り浸るようになる。

 そして、肉体的、精神的なハンディキャップを忘れようとして、酒に救いを求めた。《二日酔い》は、モンマルトルでモデルとして出会ったシュザンヌ・ヴァラドンをモデルとした作品だ。シュザンヌとは恋人であった時期もあり、彼女の息子であり画家のモーリス・ユトリロの父親は、ロートレックではないかという説もある。

ロートレック《二日酔い》

 18世紀末から19世紀初頭にかけて「アブサン」という酒が販売され、ワインより安かったこともあり、当時のフランスで大流行していた。アブサンはニガヨモギなどの薬草をもとに作られた蒸留酒で、アルコール度数40%〜90%と高濃度のものが多かった。

 ロートレックはアブサンの愛好家で、これに溺れていった。同時代の画家ギュスターヴ・モローは「ロートレックの絵はすべてアブサンで描かれている」と語っている。ロートレックの飲酒癖は体を蝕み続け、突然意識を失って、療養所へ入院するまでになった。

 ただし、退院後も飲酒癖は止まず、健康を案じた母から見張り役を側につけられるも、目を盗んでは散歩用のステッキに仕込んだラム酒やブランデーをこっそり飲む始末だった。こうした不摂生がたたり、足が動かなくなり、手がけいれんしたりと、体調は転がり落ちるように悪化していく。

 これを受けて、ロートレックは死を予感したかのように身辺整理を始めて、作品に製作年代や署名を書き込んでいった。そして翌年、母の実家で、母に看取られながら、静かに37歳の生涯を終えた。

・アブサンによって耳切事件を起こした?ゴッホ
 ゴッホは牧師の家に長男として生まれた。いつも何かを求めて、いつも満たされないでいて、画商の店員、書店の定員、伝道師と職を転々と変えていった。そして、27歳で画家という天職に到達することになる。

 芸術家の共同体を望んでいたゴッホは、かつて「印象派」という画家たちのグループが作られたことを知っていた。そこで、当時住んでいたパリで、ロートレックらと同様のグループを作るが、印象派におけるドガのように率先して導くリーダーがおらず、特に達成しないまま解散となった。

 この夢を諦めきれないゴッホは南フランスのアルルへ移り、ゴーギャンと共同生活を始めた。その時に過ごした部屋を描いた作品が、《アルルの寝室》だ。

ゴッホ《アルルの寝室》

 ゴッホはパリにいた頃、アブサンを浴びるように飲んでいた。ロートレックと違って貧乏だったゴッホにとって、アブサンが手に入りやすくて安かったことも理由の一つだろう。またはアブサンが、詩人ランボーに「美しき狂気」と呼ばれるほどの、強い陶酔感と幻覚・興奮をもたらしたからかもしれない。アルルでも、パリほどではないにせよ、ゴッホはアブサンを愛飲し続けていた。

 そして、ゴーギャンが口げんかをきっかけにゴッホのもとを去った後、ゴッホはカミソリで自分の左耳を切り落とした。これは、アブサンによる幻覚症状が原因ではないかと言われている。この事件をきっかけにアルルを去り、サンレミの精神病院に入院した。

 退院後はオーヴェールへ移り住み、当時の状況を、弟テオへの手紙でこう語っている。「ことは次第に悪くなっていく。もう先のことについては、何事も幸せを望めそうにない」。熱中できるものを探して、身を捧げて、裏切れる――ゴッホの人生は、この繰り返しだった。そして37歳のある日、ピストルで胸を撃ち、数日後にこの世を去った。

ゴッホ《星月夜》

 ゴッホもロートレックも、酒におぼれた時期があり、37歳で生涯を閉じている。頁の関係で今回は記載していないけれど、モディリアーニもアルコール中毒を経験して享年37歳であるという点では同様だ。

 彼らの飲酒癖の背景にちらつくのは、「孤独」である。物理的に周りに人がいないとか、友達が少ないとか、そういうものではない。それは、「自分の心は、誰にもわかってもらえない」と気がついてしまったことに由来する、圧倒的な絶望だ。

 ロートレックは「もう少し自分の足が長かったら自分はけっして絵なんぞ描かなかっただろう」と語っている。貴族でありながら歓楽街に耽溺する負い目と、肉体的なユニークさに劣等感を抱いていた。

 ゴッホの絵は生前に1枚しか売れず、ゴッホは自分の絵が金になる日を考えていた。これは、「残念だが、私の作品が売れないのはどうしようもない。いつの日か、人々は私の作品についている値段以上の価値があることがわかるだろう」という彼の言葉からもうかがえる。

 この二人の想いを分かってあげられる人なんて、そうそういない。確かにロートレックには母が、ゴッホには弟テオがいたかもしれないけれど、いつもそばにいるわけじゃない。だから、こんな「忘れたい何か」を抱えていた二人は酒を飲み、我を忘れて、孤独を紛らわしていたんじゃないだろうか。

 私は1人目の産後、孤独を感じることが多かった。

 確かに区の職員さんやママ友は、何かと気にかけてくれる。だけど、本当に悩んでいることや困っていることは、どうしても話せなかった。子育て関係で知り合った人に、子どものことは相談できても、仕事や人生といった、自分の話はしにくかった。夫は一緒に暮らしてはいるものの当時は仕事が忙しく、私も育児に追われていて、お互い話をする暇がなかった。

 だから、酒の席では「ママ」ではない自分軸で話すことができるし、周りもそのように見てくれるから、好きだった。しかし、素面では子どものことを思い出してしまう。そこで、アルコールの力を借りて「ママである自分」を忘れるために、がんがん飲んでいた。

 でも、3人目の産後、私は酒を飲まなくなった。たまに飲んだとしても、以前のように我を忘れるまで飲むことはしなくなった。

 それは、以前に比べて「孤独」を感じなくなったからだ。これは、上の子たちのママ友と仲を深めるうちに自分軸で話がしやすくなり、夫の仕事が一段落して会話ができる状況になってきたことが大きい。「ママである自分」に折り合いをつけて、色々と妥協しながらだらだらと生きていけるようになったのかもしれない。

 一方で、ロートレックやゴッホの、「アルコールを浴びながら、孤独をかかえて、嵐のように37年の生涯を駆け抜けた」生き様は格好良いし、背筋が伸びる思いがする。やっぱり芸術には孤独が必要で、それを忘れさせてくれる酒も不可欠なのかもしれない。

 自分の年齢が彼らの享年に近づくにつれて、まだ何も成し遂げず、ぼーっとしている私は思うのであった。


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