成功するまで「改善」を続ける
松下幸之助 一日一話
11月15日 成功するまで続ける
何事によらず、志を立てて事を始めたら、少少うまくいかないとか、失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、ほんとうに物事を成し遂げていくことはできない。
世の中は常に変化し、流動しているものである。一度は失敗し、志を得なくても、それにめげず、辛抱強く地道な努力を重ねていくうちに、周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が開けてくるということもあろう。世に言う失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。最後の最後まで諦めてはいけないのである。
https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より
一般に「成功するまで続ける」という言葉の中には、「最初に自分でこれと決めた1つのことは、決して変えることなく、忍耐と努力を持ってゴールまで同じことをやり続ける」と解釈されることが多くありますが、松下翁の仰る意味は別にあり、「成功というものは自分で決められるようなものではなく、また決まりきった一本道の最後にあるものでもはなく、どの道が成功に繋がっているのか自分で分かるものではない。ふと脇にそれた成功とは無縁のような小道が実は成功に繋がっているというようなこともあるから、成功にたどり着くまでは諦めてはいけない。この世に生きる万人に成功は与えられていているが、成功にたどり着かない人というのは、自分から途中で諦めてしまった人である。」と仰っているのだと私は考えます。
上記の私の解釈を加えた上で、松下翁の次の言葉を読んでみると腑に落ちるのではないでしょうか。
「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。」(松下幸之助)
「失敗はありますよ。しかし成功するまで続けたら、失敗はない。成功とは成功するまで続けることだ。(松下幸之助)
更に詳しく松下翁は著書「物の見方考え方」にて以下のように述べています。
私の体験を通じて、自分の半生をふりかえってみると、その当時は気がつかなかったけれども、自分の行く道がずうっとすでに設定されていたような気がする。早くいえば運だ。そういう見方が正しいかどうかということは論議の余地があるけれども、しかし私の体験からいうと自分の思う通りできなかった場合がたくさんある。自分の思う通りできなかった場合は、いわば失敗だ。ところが、おもしろいことに、その失敗が成功に転化している場合が非常に多い。そうしてみると、今日私がこうしていることがかりに成功だとするならば、私は失敗を多くしておって成功しているということになる。だから、この成功というものは、はじめからきまっておったのだ、という見方ができるのじやないかと思う。…
(松下幸之助著「物の見方考え方」より)
つまりは、「誰しも自分だけしか歩めない自分だけに与えられているかけがえのない成功へ繋がる道を持って生まれてきたのだ」「失敗も成功には必要な構成要素である」「途中で諦めず休まず歩み続けることが成功へ繋がる」ということではないでしょうか。
更に、松下翁は別の視点から「成功にこだわり続けることの意味」について、松下政経塾の塾生に対して以下のように述べています。
一つの道において経営のコツをつかんだ、いわば名人に達した人なら、どんな仕事をしても必ず成功する。なぜなら一事に成功すれば、その根本において考え方は同じやから、万事に成功すると考えていい。逆に言うなら、一事に成功できない者が、目先を追っていろんな仕事に手を出しても結局は成功しない。
人生においても同じことが言える。塾生諸君も、自分で選んだ道において、まず成功のコツをつかむまで努力をやめないこと。成功のコツをつかめば、何をやってもまず成功する。使命感と気力。この二つがないと立派な経営はできん。このことは他のすべてにも言える。
(松下幸之助著「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」より)
大きな成功を求めるだけではなく、先ず小さな成功にこだわり、成功のコツをつかむことで万事に成功することになる、つまりは小さな成功の積み重ねを大きな成功に繋げていくのだと松下翁は仰っているのでしょう。
松下翁は対称的にこんな言葉も残しています。
「七転び八起き」ということわざがある。何度失敗しても、これに屈せずふるい立つ姿をいったものである。
人生は長い。世の中はひろい。だから失敗もする。悲観もする。そんなとき、このことわざはありがたい。
だが、七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。
一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと。一度で気のつく人間になりたい。
そのためには「転んでもただ起きぬ」心がまえが大切。このことわざは、意地きたないことの代名詞のように使われているが、先哲諸聖の中で、転んでそこに悟りをひらいた人は数多くある。
転んでもただ起きなかったのである。意地きたないのではない。真剣だったのである。
失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたほうがいい。真剣ならば、たとえ失敗しても、ただは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。
おたがいに「転んでもただ起きぬ」よう真剣になりたいものである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)
失敗について、論語には次のようにあります。
「過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)るなかれ」(論語)
過ちを犯したことに気付いたら、直ぐに改めよという意味です。
更には、
「過(あやま)ちて改(あらた)めざる是(これ)を過ちと謂(い)う」(論語)
過ちに気付いても改めようとしないのが本当の過ちなのだという意味です。
加えて、
「小人(しょうじん)の過(あやま)つや、必ず文(かざ)る」(論語)
ともあります。品性の劣悪な人間が過ちを犯すと、必ず言い訳をして表面をとりつくろうのだという意味です。
翻って、西郷隆盛は過ちを犯した際にどのように行動すれば良いのかについて、西郷南州翁遺訓の中には次のように述べています。
過(あやま)ちを改むるに、自ら過ったとさへ思い付かば、それにて善し。その事をば棄て顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。過を悔しく思い、取繕(つくろ)わんとて心配するは、譬(たと)えば茶碗を割り、その欠けを集め合せ見るも同じにて、詮(せん)もなきこと也。
(西郷南洲翁遺訓遺訓二十七条)
過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それでよい。そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ。過去の過ちを悔しく思い、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶わんを割ってそのかけらを集めてみるのも同様で何の役にも立たぬことであるという意味です。
つまりは、同じ失敗を何度も繰り返しているようなら愚の骨頂でしかなく、一度失敗したならば、自分の間違いや誤りに気付ききちんと反省して、即座に改善をした新たな挑戦をする。そして、小さな成功を積み重ね大きな成功となるまで挑戦を繰り返し、決して諦めないことが大切であると私は考えます。
中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp
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