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相手の為は偽り、相手の立場で考え利害を一にする

松下幸之助 一日一話
12月18日 利害を一にしよう

おとなと青年、あるいは子供との間に断絶があるとすれば、それはわれわれの言う商売的な利害を共にしていない、さらにもっと高い意味の利害を一にしていないからだと思います。

親は子のために、子は親のために、ほんとうに何を考え、何をなすべきかということに徹しているかどうか、また先生は生徒のためをほんとうに考えているかどうか、生徒は先生に対してどういう考え方を持っているのか。そういう意識がきわめて薄いために、そこに溝ができ、それが断絶となり、大いなる紛争になってくるのではないでしょうか。時代が時代だから断絶があるのが当然だと考えるところに根本の錯覚、過ちがあると思うのです。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁は、大人と青年(子供)の間にある断絶の要因として、先ず「商売的な利害を共にしていない」と仰っていますが、「商売的な利害」とはどのようなことなのでしょうか。「商売的な利害」には大別して2つの意味があるのではないでしょうか。

先ず一つ目が「三方良し」です。「三方良し」とは、近江商人の経営哲学の軸をなす一つとして知られていますが、「商売においては売り手と買い手が満足するのは当然のことで、更に社会に貢献できてこそよい商売である」とする考え方で、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」という意味です。

2つ目が「商売上の立場に偉い低いはない」ということです。例えば、あなたがタクシードライバーで、ある会社の社長を車に乗せてお金を貰う立場にあったとします。この場合の「商売的な利害関係」とは、タクシードライバーという商売人が、社長というお客様から利益を貰っているということになります。しかし、この「商売的な利害関係」というのは固定されているものではなく、仮にある会社の社長さんが経営していたのは饅頭屋さんだったとします。すると、社長さんがお店の店頭で饅頭を販売している時に、タクシードライバーが饅頭を買いにきたとします。すると「商売的な利害関係」は、饅頭屋さんの社長という商売人が、タクシードライバーというお客様から利益を貰っているということになります。どちらの立場の方が稼ぎが多いかの違いはあるのでしょうが、「商売上の立場に偉い低いはない」ということが分かっていますと、変に自分はお客だからと偉ぶることがなくなり、お互いの仕事上の立場を尊重し、商売的な利害を共にすることに繋がります。

更に、親は子のために、子は親のために、はたまた先生は生徒のため、生徒は先生のためにという、「相手の”ため”」と考えることに間違いの発端があるのではないかと私は考えます。「相手の”ため”」というのは、あくまでも自分の立場から相手を見ているに過ぎません。それ故に、自分の立場から考えた「相手の”ため”」という行為は、その殆どが自分にとって都合の良いことを相手に押し付けていることが多くなります。つまりは、相手が望んでもいないことを、「相手の”ため”」と偽っているだけということです。

「相手の”ため”」とは「人の”ため”」と換言でき、人の為と書いて「偽り」となってしまいます。それならば、「人の”ため”」や「相手の”ため”」になることをしてはいけないのかと疑問を持つ人もいるかもしれません。

「相手の"ため"」になることを考えて行動するのではなく、「相手の"立場"」で考えて行動することが大切になります。「相手の"立場"」で考えるということは、「恕(じょ)」の徳を養うということです。この「恕」とは、「心」の「如」くと書きます。相手の立場になって我が心のごとく考えるという意味です。

この「相手の立場で考える」ことが出来るか否かということは、先述した「三方良し」や「商売上の立場に偉い低いはない」という「商売的な利害」を共に出来るかどうかを決める重要な要因にもなります。例えば、相手の立場で考える力がある人は、お客様や取引先の人の立場で考える力もありますし、世間の人たちの立場で考える力がある人でもあります。更には、社内においては、上司の立場で考える力もありますし、部下の立場で考える力もある人になります。

つまりは、「相手の立場で考える」ことが出来る人が多い企業というものは、お客様の立場でサービスを提供出来る企業であり、当然利益も多く、社内においてもお互いの立場を尊重し合える働きやすい職場を生み出しているケースが多いと言えます。

逆説的には、相手の立場で考えることの出来ない人たちによって構成された組織は、お客様の立場に立ったサービスなど提供することは不可能であり、お客様のためと言いながら企業側の勝手な都合を押し付けているだけで利益が出ない、また社内においても、社員のためと言いながら管理職にとって管理しやすいように作られた都合の良い組織であり、社員の定着率が低いなどの傾向が強いと言えます。

更に、もっと高い意味の利害を一にした姿というものを考えるならば、そこには「利」を越えた、相手に対する「敬」があり、「敬」を礎にした「学ぶ心」が生じた姿であると言えるのではないでしょうか。

この「学ぶ心」に関して、松下翁は以下のように述べています。

 自分ひとりの頭で考え、自分ひとりの知恵で生みだしたと思っていても、本当はすべてこれ他から教わったものである。

 教わらずして、学ばずして、人は何一つ考えられるものではない。幼児は親から、生徒は先生から、後輩は先輩から。そうした今までの数多くの学びの上に立ってこその自分の考えなのである。自分の知恵なのである。だから、よき考え、よき知恵を生み出す人は、同時にまた必ずよき学びの人であるといえよう。

 学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。

 語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児、先輩のきびしい叱責、後輩の純情な忠言、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。
 これらのすべてに学びたい。どんなことからも、どんな人からも、謙虚に素直に学びたい。すべてに学ぶ心があって、はじめて新しい知恵も生まれてくる。よき知恵も生まれてくる。学ぶ心が繁栄へのまず第一歩なのである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

親は子に、子は親に、先生は生徒に、生徒は先生に、「敬」を抱くことによりお互いから「学ぶ心」というものが生じている関係性こそが、高い意味の利害を一にした姿であると私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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