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インテリの弱さを知り強さを活用する

松下幸之助 一日一話
10月27日 インテリの弱さ

今日、よく耳にする言葉に“インテリの弱さ”ということがある。これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、それにとらわれてしまい、それはできないとか、それはどう考えてもムリだ、と思い込んでしまって、なかなか実行にうつさないという一面を言った言葉だと思う。

実際、“ああ、それは今まで何度もやってみたんだが、できないんだ”と決め込んでいることが、われわれの身のまわりには意外に多いのではなかろうか。ときには、自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、純粋な疑問、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

稲盛和夫さんは著書「生き方」にて松下翁と同様のお話をされた上で、インテリにある弱さのみならず強さを把握し、具体的にどのように生かしてきたのかについて、以下のように述べています。

…以前、私はよく新しい考えやアイデアを思いついたとき、「こういうことをひらめいたが、どうだろう」と幹部を集めて意見を聞くことがありました。そういうとき、難関大学を出た優秀な人ほど反応が冷ややかで、そのアイデアがどれだけ現実離れした無謀なものであるか、ことこまかに説明してくれることが多いのです

彼らのいうことにも一理あり、その分析も鋭いものなのですが、だからといってできない理由ばかりをあげつらっていたのでは、どんないいアイデアも冷水を浴びせたようにしぼんでしまい、できることもできなくなってしまいます。

そういうことが何度かくり返されたあと、私は相談する相手を一新しました。つまり新しく、むずかしい仕事に取り組むときには、頭はいいが、その鋭い頭脳が悲観的な方向にばかり発揮されるタイプよりも、少しばかりおっちょこちょいなところがあっても、私の提案を「それはおもしろい、ぜひやりましょう」と無邪気に喜び、賛同してくれるタイプの人間を集めて話をするようにしたのです。むちゃな話だと思われるかもしれませんが、構想を練る段階では、実はそれくらい楽観的でちょうどいいのです。

ただし、その構想を具体的に計画に移すときには、打って変わって悲観論を基盤にして、あらゆるリスクを想定し、慎重かつ細心の注意を払って厳密にプランを練っていかなくてはなりません。大胆で楽観的にというのは、あくまでアイデアや構想を描くときに有効なのです。

そしてその計画をいざ実行する段階になったら、再び楽観論に従って、思い切って行動にとりかかるようにする。すなわち「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」ことが物事を成就させ、思いを現実に変えるのに必要なのです。…
(稲盛和夫さん著「生き方」より)

更に、次のようにも仰っています。

…私があまり才子を買わないのは、才子というのは往々にして、今日をおろそかにする傾向があるからです。才子はその才知ゆえになまじ先が見えるから、つい、今日一日をじっくり生きる亀の歩みを厭い、脱兎のごとく最短距離を行こうとする。しかし、功を焦るあまり、思わぬところで足をとられることも、また少なくありません。…
(稲盛和夫さん著「生き方」より)

また、安岡正篤先生は沢庵和尚の「玲瓏随筆」を引用し学人にある悪智について以下のように仰っています。

学をする人はかならず悪慧を生ず。その故(ゆえ)如何となれば、人を超えんと欲して才ある人を壓す。しかも又(また)不才のものを笑う。
眼を高くして人を直下に見る。無学の人は諍(あらそ)う所なし。これ学力無き故、我が本然の心を存するなり。学をする人は曲節多く、学無き人は直心なり。学をする人は人を疑い、学無き人は人を信ず。信はそれ万行の始終なり。只(ただ)学をなして悪慧を求めんよりは、寧(むし)ろ無学にして自己を存せよ。往昔(おうせき)は学びて道を明らめ、身を直くし、心を清くす。今は学びて悪智を長ず。これ時なり。 ー(沢庵『玲瓏随筆』)ー
(安岡正篤)

簡単には、学を得て悪い恩恵を得るよりも、学がないことによる素直さや優しさ、純粋であることを選びなさいと仰っています。

この沢庵和尚の言葉は、論語にある以下の言葉がベースにあるのでしょう。

「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(論語)

学ぶだけで自らで考えることをしなければ知識を生かすことができず、考えるばかりで知識を学ばなければ独りよがりとなり賢明な判断ができない、という意味です。

更には、呻吟語には以下のようにあります。

「才なく学なきは、士の羞なり。才あり学あるは、士の憂いなり」(呻吟語 問学編)

まっとうな社会人として、才能もなく学問もないというのは、誉められたことではない。だが、才能もあり、学問もあるというのは、逆にまた心配のタネでもある。という意味です。

インテリの弱さとは、「才子才に倒れる」ということに加え、熟慮ばかりして断行できないところにあると言えるのではないでしょうか。


翻って、森信三先生は「修身教授録」にて以下のように仰っています。

とかく人間というものは、地位とか学歴とかに引掛っている間は、真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分に伸び切らないからです。
(森信三「修身教授録」より)

では学びを得ること以上に人にとっての重要なこととは何なのでしょうか。このことについて、安岡先生は以下のように仰っています。

頭が悪いから勉強が出来ぬなどと考えることが間違いで、志が一度立てば、頭の悪いことぐらい問題ではないのであります。昔から立派な仕事を成し遂げた人で頭の悪い人が随分おります。なまじっか頭が良いと、却って安心して怠け者になったり、脱線したりする場合が多い。頭の悪い者が努力して、勉強して、たたき上げたというのは立派なものであります。書でも、書才というか器用な人の書は、筆先でごまかすために軽薄なものが多い。しかし才能のないものが一所懸命習いこんだ字というものは、何とも言いようのない味を持っております。
(安岡正篤)

中途半端な学びを得るよりも、志を立てることの方が重要であり、志があれば頭の悪さなど問題ではなく十分に補えるということです。

ここで注意が必要になりますが、志と野心は似て非なるものであり、全く異なるということです。野心とは自分の私利私欲を満たすことを目的とする、即ち小欲でしかなく、志とは自分のためだけではなく社会のためや人様のためとなることを目的とする、即ち大欲のことになります。

では志を有した上でどのようなあり方が望まれるのでしょうか。書経には、伊尹(いいん)が太甲(たいこう)へ箴言したリーダの心構えが次のように残されています。

「慮(おもんぱか)らずんば胡(なん)ぞ獲(え)ん、為さずんば胡ぞ成らん」(書経)

断行する気概と同時に、熟慮が大切であるという意です。この言葉から、武田信玄公の

「為せば成る 為さねば成らぬ成る業(わざ)を 成らぬと捨つる人のはかなさ」(武田信玄)

という名言が生まれ、更には、信玄公の言葉を元に、細井平洲という学者が短歌の生徒であった上杉鷹山公に

「為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」(上杉鷹山)

という言葉を教えたとされています。

熟慮と断行という矛盾撞着するものに対して、二項動態で如何に最適解を導き出すかがリーダーには求められているのだと私は考えます。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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