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愛犬とのさよならの日のこと 【 2、最後の朝 】 # 青ブラ文学部

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前回までの記事です。


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「ここちゃん、朝が来たよ ! 」

小さな寝息を立てて寝ていた愛犬の頭をつつくと、ゆっくりとこちらに目を向けてくれた。
呼ぶ声に振り向く元気がまだ残っていることに深い安堵の息をつく。

僕とここちゃんは最後の夜を経て、朝を迎えることができた。夜中に息を引き取ってしまうかもしれないと覚悟していただけに、今日という1日はここちゃんが僕にくれた最後のプレゼントのように思えた。

カーテンを開けると、眩しすぎるほどの朝焼けが視界一面に広がり、一筋の光が真っ暗な部屋を少しずつ明るく照らしていく。幻想的な風景だった。

しばらく窓の外に目を奪われた後、歯を磨き、ここちゃんの飲み水を入れ替え、部屋に戻った。
もうここちゃんのご飯を入れることもトイレシートを取り替えることもしない。今のここちゃんは、もう何かを食べることも尿を出すことも出来ない。

そんなここちゃんの前で自分だけ食事を摂ることなんてできなかった。3日3晩、充分な睡眠も食事もとっていない僕自身もまた、満身創痍だった。

急性腎不全であと数日の余命を告げられ、帰宅した時、僕はあまりのショックに鞄を持ったまま倒れ込むように洗面所に仰向けに倒れ込んだ。

犬は尿が2日出ないと亡くなると言われている。
そしてここちゃんの体はもう尿をつくることができない。犬は人間の4倍のスピードで病状が悪化していくことも聞かされた。

今はこんなに元気なここちゃんが弱って衰弱していく姿を受け入れる自信も覚悟も全くなかった。
何も知らないここちゃんは必死に僕の足に乗って甘えようとよじ登ってきた。

その姿が切なくてかわいそうで、涙が洪水のように溢れ出すのをどうすることもできなかった。
10年間、2人きりで過ごし、どんなに辛いことがあって家に帰ってきた時もここちゃんがいてくれた。

(かけがえのない時間だった)
今になってそんなことを感じ、号泣するなんて、自分は何て愚かな飼い主だったんだろう。
最後の最後にこの無邪気な小さな命にしてあげられること。···苦しむことなく見送ってやりたい···。

最後は苦しんだ末の自然死ではなく、通い慣れた動物病院で獣医の処置の下、楽にさせてあげよう。
自分の気持ちではなく、ここちゃんの気持ちに立って自分なりに出した結論だった。

病状から見て、もっても今日か明日が限界だった。
何も食べていないにも関わらず、1日に何度も苦しそうに吐いている。例え今日、自然な死を迎えるとしても1分1秒でも早く楽にしてやりたかった。

そう、だから今日が本当のお別れの日。お昼には動物病院に行って10年分のありがとうを言ってさよならをする。残り数時間。とうとうこの日が来た。
本当の本当のお別れだ。

「ここちゃん、よくがんばったね。昨日もよく乗り越えてくれた。僕はもう思い残すことはないよ。今日でお別れやな。今までありがとう」

ここちゃんがもう歩けない足で懸命にこちらにすり寄ってきて、そっと僕の胸に顔をこすりつける。
子犬の頃に戻ったみたいなその仕草が走馬灯のように今までのここちゃんとの思い出を呼び起こし、また胸が熱くなる。ここちゃん···。

最期が近づいているのが分かる。
僕の膝に乗ったここちゃんは力尽きたように、ドサッとその場に倒れ込むように薄目で眠りだす。
その体に1滴、2滴と僕の涙が落ちる。
今日はもう泣いてばっかりだ。

ここちゃんは眠りながらも時折、思い出したように何度も何度も全く汚れていないトイレシートに行っては、おしっこの態勢をとる。

「もういいやん···。それやめようよ···。出ないやんか···。もうやめよう···」

こんな状況でもまだ必死に生きることを諦めない愛犬の姿が見ていて辛くて愛おしくて、僕は服に顔をうずめて嗚咽をもらしていた。

足を必死に引きずりながらゆっくりとゆっくりと戻ってくるここちゃんをギュッと抱きしめて言った。

「ごめんな。最後まで苦しい思いをさせて···。守ってやれなくて···。1人で死ぬのは怖くないか。代わってあげたかった。もっと一緒にいたかったな···。来月は大きな公園に行って春にはお花見に行って。5月にはここちゃんの11才の誕生日会をして夏には七夕の空をまた一緒に見てさ···。···ごめんな···」

脱力した体を抱き上げて目を合わせる。
ここちゃんは僕の顔を脳裏に焼き付けておこうとするかのように、閉じそうになる目を何度も何度も小さく見開いて見つめ返してくれる。心なしかここちゃんの目にも涙が浮かんでいるように見えた。

「ここちゃん、最後に一緒に写真を撮ろうか」
大好きだった電気毛布のそばに2人で行き、ここちゃんを膝の上に載せた。おそらくこれが生きているここちゃんとの最後の写真になるだろう。

「ここちゃん、最後は2人で笑顔でいこうな」
大粒の涙を拭い、スマホを構える。ハァハァと荒い息をするここちゃんがその小さな口を開いた瞬間にシャッターを押した。カシャッ。

口を開けたここちゃんは満面の笑みを浮かべているように見えた。その横にまた僕の笑顔があった。

「ここちゃん、最高の写真が撮れたよ ! 」

ここちゃんにも近づけて一緒に写真を覗き込むと、そこには2人の10年分の笑顔が咲いていた。

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