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小説 『さみこのままで』

第一章 佐美子さみこ

 本当は無理だとわかっているのに答えが出るまで諦めない人間は他の動物より頭が良いはずなのに動物と同じようにバカだ。私なんかは男と女両方イケるわけだから、二倍バカを見ることになるわけだけど特に今回は無理がある。彼女の名前は佐藤凛。彼女より優しい人は見たことがないし、人間不信だった私を救ってくれた恩人であり、趣味が豊富で、頭が良くて、可愛くて、酒飲みで、そしてストレートだ。当たり前だけど、女が好きな女が、女が好きな女を好きになるとは限らない。私は運の悪いことに小中とイジメられ続けていたせいで性格がねじ曲がってしまってすぐに穿った見方をしてしまうから、いわゆるトランスジェンダーと呼ばれるような女の子と知り合ってもどうも違和感を感じてしまって好きになれない。彼女たちはナチュラルじゃないからだ。もちろんストレートでは無いという意味ではない。彼女たちは極端に広く分けてしまうと二種類いて、八方美人タイプと無愛想なタイプだ。彼女たちを好きになれない理由として、やっぱり集団において少数派であるトランスジェンダーとしての自分を守るために生まれる余裕のなさが滲み出ているからだ。余裕がない人と一緒にいると疲れる。自分を守るために変に力が入っている感じがして、こっちまで穏やかな心持ちではいられなくなるからだ。八方美人タイプは無理に明るくしてるし、誰にでも好かれようとするその根性も気に食わない。無愛想なタイプは孤高を気取っているけど本当は誰かに優しくされたいと思ってるのが見え見えだ。そんな私はというと、ナチュラルに憧れすぎた結果、ぎこちなくなって皆に引かれるかイジメられるかだった。
 大人は皆イジメの原因を探そうとするけど、イジメが始まる原因なんかほとんどの場合重要じゃなく、イジメる対象がいることで皆が安心できるというだけの話。イジメは中学二年の時が一番ひどく、クラス全員にほぼ丸一年間無視され続けた。言葉によるイジメや物理的なイジメも経験してきたけど、無視、つまりクラスの三十人全員から「興味を持たれない」という苦しみは言葉にできないものがあった。でも小学校だけでなく、中学校でもイジメられたのだから、少なくとも標的にされてしまうだけの原因が自分にあるのだという事実も私を苦しめた。そのため高校に上がる前はよく考えて工夫することにした。そして無理してナチュラルになろうとしないことで皮肉にも以前より少し自然に振る舞うことが出来るようになりイジメは無くなった。
 でも、私のそんな欠点を含んだ性質でも簡単に分類できる人たちとは違うというプライドはあったし、いつもそれが心の拠り所だった。カテゴリーとしての「バイセクシャル」になるのだけはごめんだ。そんなことになったら、「私」は消滅して、「バイセクシャルの人」になってしまうから。
 ほとんど同族嫌悪なのだろうけど、そういう理由で私が女の子と付き合ったのは、高校1年の時に初めて恋人ができた時だけだ。思春期の子は自分の進路も、趣向も、そして性も定まっていない子が意外に多い。ましてや女は男より1万倍複雑だから、自分がどういう人間で、どういうのが好みなのかなんて十何年しか生きていない女子高生にわかるわけがない。私は幸運にも、それを利用できたと言って良い。私が高一の夏に同じクラスだった由依ちゃんのまだ発育途中のおっぱいを触るイタズラをすると、もちろん彼女は笑いながら嫌がったけど、彼女がやり返して来た時私は嫌じゃなかった。でも、やり返されて恍惚とした表情をしていたら変だから、もちろん嫌がるフリはしていた。
 私は別に不良ってわけじゃないけど、よく由依ちゃんを誘って夜中までボーリングに行ったりして親に怒られていた。夜中に遊ぶのが一番自由を感じたからだ。「由依ちゃんは怒られないの?」って聞いたら、彼女は父子家庭で父親の夜勤も多いからその辺は緩いんだと言っていた。私たちのボーリングの腕前はかなりのもので、グローブなんか付けなくてもハイスコアを叩き出してはギャラリーを集めていた。夜中に女子二人でギャラリーを集める私たちはヒーローで、あの夏の二人には特殊な連帯感があった気がする。夏休み最後の日に私たちは閉店間際までボーリングをして、他の客も帰って二人だけになって、私が「キスしてみない?」って由依ちゃんに言ったら、彼女は呆気なく良いよと返してくれて店員が見てないのを確認してから私たちはキスをした。夏休み最後の日はワクワクする楽しい日々が終わってしまう独特の寂しさがあって、由依ちゃんからしたら何かもう一つ最後に楽しみが欲しかっただけだと思うけど、やっぱりキスは良くも悪くも関係性を変えてしまう。そのキスの勢いで私が「付き合ってみる?」って聞いたら、彼女はまた良いよって言って付き合うことになったけど、二回目のセックスの時やっぱり違うって言われてあっさり振られた。それが、私の最初にして唯一の女性経験で、その後は何人かの男の人と付き合ってきた。最後に恋愛に発展したのは、今働いているケーキ屋の前に勤めていたバーの店長だけど、やっぱりバーテンはチャラくて他にも会っている人がいるみたいだったから私からサヨナラした。
 凛は、私が昔イジメられてたことを言えた初めての人だ。彼女は妙に達観してるところがあって、イジるために言うことはあっても本気で人の悪口を言うところを見たことがないし、誰かに嫌われても自分を守るために嫌い返したりはしない。彼女は人間愛という大袈裟な言葉を使っても良いくらいどこまでも人に優しくて、私が季節が変わるたびに落ち込むのだと言った時も、佐美ちゃんは感性が鋭いから変化があると落ち込むのであってむしろ羨ましい、落ち込むだけ落ち込んだら後は無理にでも上がって来るしかないんだからそこで佐美ちゃんの感性がもっと磨かれるのだとウィットに富んだ粋な励まし方をしてくれて、私は感動して彼女が言い終わる前に彼女の大きい胸に顔を埋めて泣きながら長期間に渡ってイジメられていた過去を告白した。私が話し終えると彼女は私が擦り付けた涙と鼻水でぐしょぐしょになったシャツのことなんか気にもしないで「よしよし」とだけ言って私の頭を撫でてくれて、私の人生に暗い影を落としていた過去から少しだけ自由になれた気がして、その時に凛のことを人としてだけでなく恋愛としても好いている自分に気づいた。しっかりと愛を含んだ彼女の存在自体が、私の手を掴んで私が首まで沈んでいた人間不信の沼から引き上げてくれたのだ。断言しても良いけど、彼女はマザーテレサの生まれ変わりだ。

(挿話)
 ひんやりと冷たいコンクリートの壁に触る指先に粉がまとわりついている。壁にずっと触れているのはほとんど真っ暗な階段を降りていて踏み外さないようにするためだ。指先についている粉が埃なのかコンクリートなのか判断できない。もう十分以上降り続けているが一向に下の階につく気配がない。しかし、このまま下の階につかなくても良いような気もしてきた。この暗闇を進み続けるスリルが心地よいからだ。自分が刺激中毒だと知ったのは大学に入ってからだ。それまでは単に新鮮味が好きなだけだと思っていた。しかし、本当に好きなのは新鮮さを感じているときに感じる恐怖心だった。動物は防衛本能として未知のものに対して恐怖を感じるようにできている。予測不能のその恐怖が、スリルのもう一つの側面である新鮮さと合間って快楽を生み、その中毒になっているのだ。考えれば当たり前のことだ。その恐怖心が持つ不快さよりも、その恐怖心が作る快楽へと天秤んが傾けば、その中毒になる。香辛料やアルコールの辛さや苦さが、人によってはむしろ快楽を作り出すスパイスとなるのと同じだ。

 私が裏口からバイト先の店に入ると、凛と絵里ちゃんは既に来ていて喋りながらショーケースを掃除している姿が見えた。急いでロッカールームで着替え、厨房に正樹さんがいたので挨拶してから二人の元に行った。          
「おはよう、凛ちゃん絵里ちゃん」      
「おはよう。佐美子ちゃん今年もよろしくね」 
凛と絵里がほぼ同時に言った。           
「今年もよろしく。年末年始の一週間休み何してたの?」
私は二人の顔を交互に見ながら言った。でも、凛を見ている時間の方が1.5倍は多かったはずだ。                    
「何にも。いつもと同じで酒飲んで、映画観て、ゲームしての繰り返しだよ」凛が長期の休みでも変に浮かれて生活スタイルを変えないことが正しい休み方なのだとでも言わんばかりに誇らしげな顔をする。                 「私も映画と漫画三昧でしたとさ」     
 絵里が下がり眉で笑いながら言う。           
「どうせ佐美子ちゃんもそうなんでしょ?何観たの?」                   
「違うと言いたいけど、結局そうなるよね。『テイキング・オブ・デボラローガン』って言うのが面白かったよ」              
「何系?」                
「ホラーだよ。認知症のおばあちゃんが悪魔に取り憑かれるの」             
「え、面白そう」              
「うん。おばあちゃんの様子が変だから監視カメラで夜中中録画してたら、キッチンで徘徊してたおばあちゃんがいきなりシンクの上に瞬間移動すんの」                 
「めっちゃB級やん」            
凛が笑いながら言う。           
「いや、これが結構本格派なんよ。最近流行りのモキュメンタリーでさ」           
「皆そろったね。今年もよろしく」      
正樹が厨房から出てきて皆に声をかけた。休みの間にクリーニングに出したのかコックコートは染み一つ無くなっている。          
「あのー。残念なお知らせなんだけど、すぐるがまだ来ておりません。連絡も取れません」     
「え、どうするんですか?てか大丈夫なの?」 
笑っていた凛が真顔になって言った。    
「一番忙しい年末は終わったから俺一人でもなんとか厨房は回せると思う。俺も材料の仕入れ先とのやり取りはしょっちゅうやってるし。あいつな、たまーにあるのよこういうこと」    
「どういうことですか?」          
私はわざとらしく眉間にシワを寄せて言った。 
「放浪癖って言うのかね。あいつメンヘラスイッチがたまに入るところあるから。連絡もなしに何週間も海外行ったりすんのよ」正樹が人差し指を立て、頭の上でクルクルと回すジェスチャーをしながら言った。
「専門の時に一回あったな。いきなり一ヶ月くらいいなくなって皆心配してたら、ケロッと帰ってきて、ポートランドでコーヒーの勉強してきたとか言ってさ」        
「留学ってことですか?」          
絵里がポカンとした表情で聞いた。      
「いや、普通にアメリカのその辺をふらふらしてただけだよ。どこにそんな金持ってんだよって思ったけどな。3人が来てからはなかったから、その辺は大人になったのかと思ってたよ」   
「私も、大学出てからずっとヒッキーしてたぐらいメンヘラですけど、確かにメンヘラったらもう何もかも関係なくなりますからね。わからなくもないです」                 
絵里が苦笑いしがら言った。        
「前に言ってたね、絵里ちゃん明るいからそんな風に見えないよ」             
「いや、でも入ったころに比べたら随分変わりましたよ。初めはかなり無理してました」   
「まあ、この店が居心地良いってことでいいよね?」             
「そうですね。感謝してます」        
絵里が笑って言うと、皆もつられて少し笑った。     
「とにかく、しばらくは俺一人で厨房回すからよろしく」                  
「よろしくお願いします」          
「皆のボデイガードも俺一人でやるから、ひどいナンパのされ方したらすぐに呼んで」     
「よろしくお願いします」          
私たちは声を合わせて言った。        
優さんはチャラいけど正樹さんよりしっかりしているというか、いざと言う時に頼りになるイメージがあったから意外だった。        
 今日は年始の始動でわちゃわちゃするからか、珍しく売り場の三人ともシフトが入っていた。いつもはクリスマス周り以外は店頭に立つのは二人体制が基本なので、さっき私が入ってきた時に凛が絵里と二人で話している珍しい光景を目にして少し嫉妬した。しょっちゅうたわいも無い連絡も取り合うし絶対に私の方が凛と仲が良いと思っていたけど、楽しそうに話す二人を見てその自信が揺らいだ気がした。特に恋愛に関しては今までそうだったけど、こういう余裕がない心理状態のときって絶対に上手くいかない。人間関係において精神的に余裕がないということは、あちらの方が格上であるという証拠だからかもしれない。魅力のレベルの差がありすぎると恋愛は上手くいかない。ただでさえ、ストレートの凛を好きになってしまって、それもとんでもなく好きになってしまって頭を抱えていたのに、さっきの光景で簡単に動揺した自分には人間関係的にも無理があるんじゃないかと思って年始早々落ち込んでしまった。でもそれは凛と話す直前の話だ。私が圧倒的に彼女の人間性を信用しているのもあって、一週間ぶりに彼女に笑いかけられることで気持ちが高揚し、ある種の安心感に包まれるのがわかった。案外今の関係性がベターなのかもしれない。彼女と一緒に仕事でもプライベートでも近くにいて、気持ちは高揚し、安心感を得る。それ以上を求めること自体が野暮で、卑しいことなのかもしれない。でも、私がアタックしなければ、彼女はいつか恋人を作るだろう。あんなに魅力的な人に恋人がいないという今の状態がむしろ不自然なくらいだ。彼女に愛する人ができてからも今の関係性を続けることは耐え難い。でも彼女と関係を経つことだってできるはずがない。だから、いつかは告白しなければ。それが今の私の全部だ。
 仕事も終わり、ロッカーで着替えている凛にいつ話しかけるかタイミングが掴めない。彼女を夕食に誘いたいけど、まだ絵里もいるからだ。凛は外しファッションのつもりか、それとも単に服装に無頓着なのかは分からないけど小学生が履いているような無地の白い靴下を履いていた。この前に見た時はリラックマの絵がプリントされた靴下だった。その時に「リラックマ古くない?」と私が言うと、リラックマとたれぱんだとふなっしーのゆるキャラソックス三点セットが1000円で安く売られていたから買ったのだと言っていた。「ゆるキャラ好きだっけ?」と聞くと、別に、と言っていたので多分服装に無頓着なのだろう。その割に彼女はコスメをディオールで揃えていて、私の誕生日にも、これ使うと朝パリパリの肌でもうるうるになるよとディオールの化粧水と乳液をくれた。           
「凛ちゃん。今日夜ごはん食べにいかない?」   
絵里が、お先でーすと言って帰っていったので、同じく帰りかけていた凛に話しかける。    
「あ、いいねー。もちろんお酒も飲むよね?」 
凛は親指を立てていたずらっ子のように微笑んだ。             
「うん。飲もう飲もう」
 私たちはケータイで探したバル風の居酒屋に来て、ビールで乾杯してから、アヒージョ、ガーリックトースト、白身魚のマリネを頼んだ。店の壁にはプロジェクターで映されたパターソンという映画が無音で流れている。       
「あ、パターソンじゃん!」もうビールジョッキ半分が無くなっている凛が映像に気づいて言う。「佐美ちゃんあれ観た?」         
「もちろん観たで。私の家の近くの映画館ではしてなかったから、借りてやけど」       
凛も私と同じ関西出身なので、プライベートで二人きりの時は関西弁が出る。いつも、どちらかが使い出すのを皮切りに一気にダムの様に溢れ出る。そして、彼女の私に対する呼び方も佐美子ちゃんから佐美ちゃんへと略される。私はこの二つともが、彼女と共有している二人だけの秘密のようで毎回とても嬉しくなる。  
 凛は私より少し長いショートカットの黒髪を片方耳にかけ、アヒージョの海老を火傷しないように十分に冷やしてから口に放り込んで美味いと言って幸せそうに微笑んだ。今まで気づかなかったけど彼女の耳にはすごい量のピアスの穴が空いていた。既にふさがりかけているものもある。私はその乱雑さを極める彼女の耳に好感を持った。
「ジム・ジャームッシュ作品の中でパターソン以外だとどの映画が好き?私は断然『コーヒー・アンド・シガレッツ』かな。あれ観たらとにかくタバコが吸いたなんねん」           
私はそう言ってバックからハイライトとコンビニで買ったビックの黄色いライターを取り出して火を付けた。ビックのライターは少しだけ高いけど、これで火を付けた方が明らかにタバコが美味しく感じる。お酒を紙コップで飲むのと、おしゃれなグラスで飲むのとでは味が違って感じるのに似ている気がする。タバコを吸い出したのは洋画の影響が9割で、残りの1割はもう二度とナメられたくないという思いがあったからだと思う。私は、二十歳の誕生日に、予約したタトゥースタジオで左腕にハチドリのタトゥーを入れ、その帰りに初めてタバコを買って帰った。ハチドリはヒーリングの象徴。幸せのメッセンジャー。当時、辛いことが重なってこの先もう楽しいことなんて起こらないんじゃないかなんて気持ちになっていて、そんな考えに辿り着く自分の精神の脆弱さにも嫌気が差して、あっち側に行ってしまう前に味方になってくれる御守りが欲しくて、私は左腕にこの子を迎え入れた。  

「わたしは『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』かなー」凛がそう言いながらマリネを箸でつかむために腕を伸ばした時に耳にかけていた髪が落ちて私が見つめていた彼女の耳は見えなくなった。   
 その後、店員の勧めで飲んだ白ワインが美味しかったので、私が前から気になっていたワインバーに移動して飲んでいたけど、ビールとのちゃんぽんで急に酔いが回ったのでそこから近い私のアパートで寝ることにした。前に凛が家に泊まりに来た時は朝まで飲んだので、二人で暗いうちに同じ場所で寝るのは初めてだった。     
「あー、やっぱりここ落ち着くわ」      
凛が、築五十年の私の住んでいるアパートの部屋に入るなり言う。私の親はかなり歳を取ってから私を産んだため、実家はかなり古めかしい。そのためか、その雰囲気に似たアパートを気に入ってしまいここに住んでいる。古いため、家賃のわりに広く2DKもあるけど、一部屋は物置に使い、台所と寝室兼リビングの間の仕切りは外しているため、見た感じは広めのワンルームといった感じだ。 
「色々不便やけど私も結構気に入ってるんやで」私はそう言って、明らかに部屋の雰囲気から浮いている去年購入した真っ白いエアコンの暖房をつけた。    
「よーし、最後の追い込みや」        
凛はそう言っての部屋の端っこにある机の上に先ほど寄ったコンビニの袋から黒ラベルを取り出した。私が好んで飲んでいたのが彼女にも移り、彼女がビールを買うときは黒ラベルを選ぶことを私は知っている。             
「え、まだ飲むん?てかお酒買ってたんや。私は水とウコンしか買ってへんのに」      
「この風情ある部屋で飲みたかったんよわたしは。ロング缶やから佐美ちゃんも飲んでかまんで」                    
「ええよ、私は。これ以上はマジで吐くわ」  
「ほんならいただきます」          
凛がプシュッと気持ちの良い音を立ててプルタブを引いたので、私は代わりにウコンの蓋を回した。                   
「お風呂入るやろ?」            
私が聞くと「そんな気力ないからもう寝る」と凛は言って、凛は上着とシャツを脱いで上はキャミソールだけになり万年床となっている私の布団の上に寝転がった。             
「じゃあ布団は凛ちゃん使い。私はソファで寝るから」            
「何言うてんの、一緒に寝ようや」      
凛が虚な目で手招きする。これは、女の子同士なら普通のことなのだろうか。女の子と一緒の布団で寝たことは、初めての恋人である由依ちゃんとラブホテルに行ったときだけだ。あの時だってすることをしただけで、高校生だった私たちは夜は泊まらずに帰った。            
「わかったわ。じゃあ失礼しますよ」     
私はそう言って彼女に習いキャミソールだけになり、豆電球だけを付けて凛の横に寝転がり布団を被る。                   
「この家の匂いも好きやわ。ばあちゃん家思いだす」            
凛はそう言って築五十年の天井を見上げている。彼女は天井を見ているだけだけど、私の内面を見てくれているようで嬉しくなった。     
「うん」                 
私はそう言いながらキャミソール姿で一層強調された彼女の胸の膨らみを、オレンジ色の豆電球が照らす僅かな明かりを頼りに横目で見た。呼吸とともにゆっくりと上下する凛の胸。興奮している私の胸は速い呼吸で彼女の二倍は早く動いているに違いなかった。凛が寝返りを打ちこちらを向くと大胆に胸の谷間が出来た。大好きな凛がこんなにも近くにいる。             
「凛ちゃんやっぱり胸すごいな。触って良い?」そう言ってしまって私の鼓動はより速く大きくなり前髪が小刻みに揺れた。スズメが飛び立った後の電線みたいに。             
「ええよ。どーぞ」             
凛がそう言ったので、私は恐る恐る彼女の胸を右手で触る。柔らかい。自分で自分の胸を触るのとは別物だ。自分のを触っても自分の手の感触が胸に伝わるから興醒めしてしまうだけだ。それに私のは小さい。凛の顔を見るといつものいたずらっ子の表情で笑っている。完全にスイッチが入った私は男の人がそうするように、しっかりと下から掬い上げるように彼女の胸を何度も揉んだ。
「えー、佐美ちゃん激しいな」        
凛が少し恥ずかしそうに可愛らしい八重歯を覗かせて笑う。          
「凛ちゃん、私ちょっと変なスイッチ入ってしまったわ。キスしていい?」
私は、さも初めての気持ちにたった今目覚めました、そしてそれはお酒が入っているから起こることなんです、というニュアンスを演出して、このテンションを利用して二人で同時にそういうことに手を出してみよう、という問いかけをすることで、彼女を共犯者に仕立て上げようとした。本当は確信犯なのに。
「えー、マジ?」              
「うん。なんでも試してみな分からんやろ。気持ちええかもしれんし」  
「うーん。まあええか」           
そう言って凛から私の口に軽くキスをした。ビールの味がした。きっと彼女はウコンの力の味がしたのだろう。               
「どうやった?」                 
凛がまじまじと私の目を見て言った。     
「うん、良かった。凛ちゃんが良いならもっとしたいんやけど」              
「うん。思ったより違和感ないかも。かまんで」
今度は私から彼女にキスをした、それも何回も。それを拒まれなかったので、私は凛の上に覆い被さり、キスをしながら右手で胸を触った。  
「待って待って」凛が覆い被さる私の肩を押して言う。
「え。エッチすんの?」      
「うん、エッチしよ?」           
私はこの一連の流れで初めて拒否されたことに対して恐怖を覚えながらも、さも当然のことをしているのにおかしなことを言うなという言い方をした。
「エッチはあかん」            
凛が私の肩にあてがってつっかえ棒にしている手をのけずに笑う。
「ええやん、減るもんじゃないんやし」
「エロ課長みたいなこと言うなや」     
凛は笑いながらもまだ私の肩から手を離さない。
「だってほら」               
私は意を決して左手で彼女の右手を掴み、自分の股間に彼女の手を押し付けた。
「めっちゃ濡れてるやん」          
凛は大爆笑して「え?佐美ちゃん?え?」と私の目をまじまじと見る。彼女が驚いたのは、私が履いているチノパンの上から触ってもわかるくらいにビチョビチョに濡れていたからだ。当たり前だ。この何ヶ月も、毎日妄想の中で交わってきた凛と今こうやって性的な目的で現実に触れ合っているのだ。          
「ここまで来たら行くことまで行くしかないやろ」            
私は自分の必死さを悟られないようにわざと冗談ぽく言った。         「うーん。どうなんやろこれって…」     
凛は目をつぶり、眉間にシワを寄せる。そんな顔しないで欲しい、これは酔いに任せた単なるお遊びなんだから。私はそう思いながら彼女の目から視線を逸らさなかった。           
「わかった。私が凛ちゃんのあそこを触ってみるから、それで濡れなかったら試合終了にしよや」
「わかったわもう!」            
凛がそう言ったので、私はゆっくりと彼女の履くスキニージーンズに右手を伸ばす。初めは太もも付け根の内側を撫でてから、その延長線上にある股間に手を移動させる。中指と薬指の腹を使って引っ掻くように撫でる。彼女の顔を見ると目をつぶって、口を真一文字に結んで笑っている。ジーンズの上からなので、もっと強くした方が良いと思い、さっきと同じ方法で手を動かしながら力を強めて擦ってみた。             
「あっ」
彼女が思わずいやらしい声をあげたので、私は内心歓喜の声を上げた。ここで失敗したら全てが終わりだ。私の恋も、友情も、あの職場で働くことも。      「ジーンズだと分からないから脱がすね」   
私はそう言って強引に彼女のジーンズのボタンを外しジッパーを下げ、ズボンを下げた。薄い紫のシンプルなボクサーショーツはボーイッシュな彼女に良く似合っていた。凛が完全には脱げていないズボンを上げようと起き上がりかけたけど、私はそれをさせまいと彼女の上に再度覆い被さりキスをしながら彼女のあそこを触った。    
「あっ、ダメ」               
男の人とする時に自分の口からは何度も聴いて来た黄色い喘ぎ声が、今は目の前にいる女の子から聞こえている。それと同時に、無理な体勢で腕を下にやっているせいか早くも痺れかけていた右手の指先にしっかりとヌルリとした感触が伝わった。私はそれを潤滑剤としてさらにスムーズに指先を動かした。凛の顔を見ると、頬をりんごの様に真っ赤にしてしっかりと女の顔になっていた。勝利を確信した私は、彼女のパンツをずり下ろし、その場所を熟知した私の指は彼女が抵抗する隙を見せる前に彼女の中に入っていった。私が体勢を変えて凛の横に寝て、キスをしながら右腕を下に伸ばし彼女の中に入れた指でGスポットを刺激していると、彼女は身体をダンゴムシの様に丸めたかと思うとビクビクっと二度全身を大きく痙攣させてあっけなくイッた。        
「へい、一丁上がり!」           
私は凛の股から指を抜いて、その手で彼女のの少し汗ばんだ形の良いお尻をペシっと叩いて言った。それは彼女の胸同様に柔らかく、叩いた私の手をプルンと弾き返した。          
「ねえダルいー。佐美ちゃんに犯されたわ」  
私が勝ち誇った顔で凛を見下ろしていると彼女はそう言って悔しそうな顔をした。
「ほんなら私もするわ」           
凛がショーツを上げながら言う。       
「ええの?」                
「だって私だけイかされてアホみたいやん」 
「ほんならお願いします」            
私がそう言うと凛は体を起こして寝ている私の上にまたがり、私の小さい胸を揉んできた。  
「うわぁ、こんな感じなんや。自分以外の胸や触ることないからな」    
「せやろ。これはこれで新鮮やんな」   
「ちょっと服脱いでみてや」         
凛はそう言って、私のキャミソールを脱がし「佐美ちゃん華奢やなー」と言いがなら、当然ながら男の人なんかより数倍慣れた手つきで黒いブラのホックを外した。外れる瞬間のパチっという微かな衝撃が背中から子宮の下まで届き、下腹がビクっと震えてしまった。凛はそのまま、私の股に染みの付いたチノパンとブラとセットで買った黒いローライズを下げた。素っ裸にされた私はずっとこの時を待っていたにも関わらずやっぱり恥ずかしかった。彼女は私のしたことを真似て、私のびしょびしょになっている股に指を入れて指を動かす。私は凛の指を受け入れてすぐに不安になった。彼女の手から伝わるものはやっぱりただの女の子だったからだ。女の子が好きな女の子ではなく、ただの女の子。彼女の手から伝わる感じからは、情念とか情熱とかいった様な異性に対して無意識に露わになる何かが無いことを感じて、私は急にありえないくらい恥ずかしくなった。さっき服を脱がされた時に感じた瞬間的な恥ずかしさじゃなくて、もっと本質的なねばっちこい場違いな感じの恥ずかしさだ。まるで私の股にオナホールが付いていて彼女がそれに指を入れて遊んでるみたいな気がした。考えてみれば当たり前だけど、この行為に対してのお互いの思いには隔たりがあって、その温度差とでもいうべきものを感じて私は何だか馬鹿にされている様な気持ちになったからだ。もちろん彼女にではなく、この行為にだ。でも私の股に指を入れて動かしている女の子はやっぱり私の好きな人で、指を入れられた瞬間から感じている違和感とは反比例してどんどん興奮していっている自分もいて、そのある種の虚しさという名の違和感はむしろ私の股間と頬と脳の奥の方を熱らせる起爆剤になっているようだった。凛は長い時間そうしてくれたけど、私は興奮しすぎてか中々イけなくて「クリならイけるかも」と言うと。彼女は指を抜いて、クリの上に中指を置いて左右に小刻みに振動させ出した。私がいつも自分で触る時とは随分違うけど、今まで感じたことの無い快感を感じて、この時間がずっと続けば良いのにと思った。終わらせるにはあまりにも勿体なかった。彼女はまた同じことをしてくれるだろうか。                 
「はい、一丁上がり」                    
凛がイった私のお尻を叩きながらさっきのお返しとばかりに目を見ながら私の真似をしたのを見て、私はやっぱりこの人にどうしようもなく惚れているんだと思った。      
 翌朝目覚めると、私は口に何かが当たっていることにすぐに気づいて、意識がクリアになるに連れて凛が私の唇に彼女の唇を押し付けていることが分かってからも私はしばらく目を開けずにその感触を楽しんで、彼女が顔を離した瞬間に私が目を開けると彼女ははにかんで広角を上げた分だけ覗いた小さな八重歯のエナメル質をカーテンの隙間から入る朝日に反射させながらおはようって私に声をかけて、私が身体を起こさずに唇をすぼめておかわりを求めると彼女は嬉しそうに笑って私にもう一度キスをして私たちはそのまま歯も磨かずに昨夜の続きをしたりできないかなと期待してみたけど、私が朝起きたら凛は一人でシャワーを浴びていて、そのあと私たちは一緒に味噌汁と卵焼きを作って食べただけで、一緒に並んで洗い物をしただけで、一緒に午後まで映画を観てから部屋を出ただけで、それからはお互い何事もなかったかのように接した。

「佐美子ちゃん、僕はね、ちみのことがだーい好きなんだ」         
閉店後、皆で片付けをした後、私一人少し遅れて凛のいるロッカーに行こうとすると正樹さんが厨房から顔を出して声をかけてきた。彼は以前私に告白してきたことがある。その時は正直に凛が好きなのだと言って断ったけど、定期的にこうやって私に好意を伝えてくる軽いキャラを演じることで深刻さを無くそうとしているのだろうけど、真面目な彼のキャラに全くあっていなくて痛々しいし少し可哀想にもなってきた。そして、ハンサムな部類に入る目鼻立ちのはっきりした彼の顔がよりその印象を増幅させているように感じた。     
「正樹さん、私は正樹さんの彼女にはなれないですけど、寝るだけで良いなら寝ても良いですよ。嫌いなわけじゃないんで」         
私は彼のアプローチの仕方にいたたまれなくなりそう言った。さっき私が売り場の照明を落としたので、ショーケースのライトだけが目立って眩しい。私は空になったショーケースを眺めながら前もこんなことがあったなと思った。私は尻軽ってわけじゃないけど、嫌いではない相手に口説かれ続けると身体だけの関係ならといつも妥協案を出すようにしている。単純に断り続けるのが面倒なのだ。流石にナンパとかについて行ったりはしないけど、仲良くなった人にアプローチを受け続けるとこうなってしまう。それに、愛のあるセックスと無いセックスがあっても良いと私は思っている。お互いが合意の上なら、誰が傷つくわけでもなく、そこにあるのはただの気持ち良さだ。  
「すごい露骨に言うんだね」         
正樹がポカンとした顔になって言う。まだ年が始まって半月しか経っていないのに年末年始の休みにクリーニングに出して真っ白になっていた彼のコックコートには染みが増えてきていた。        
「はい。正樹さんのイタいアプローチに根負けしたので妥協案です」   
「あ、全部言っちゃう感じだ」        
「はい。どうですか?妥協案」        
「それは…言葉は悪いけど手切金みたいな感じなの?つまり、一回きり?」   「別にお互いの気持ちがノレば何回しても良いんじゃないですか」     
「あー…おー…まあ、しないよりうん。好きな人と寝れるなら。寝ないより、うん」      
正樹が歯切れの悪い返事を続けるので私は首を傾げて見せた。         「じゃあ、そういう行為を通して親密になって好きにさせるよ」        正樹が思いたったように顔を上げて急にハキハキと言う。          「それはないですね、私好きな人いるんで」     
私がピシャリと言うと「おー…なるほど、うーん…」とまた歯切れの悪さが再開した。   
「まあ、お好きにどうぞ。したくなったら声かけて下さい、気が乗ればするんで」「はーい」                 
正樹は叱られた子供のような声色で返事をすると、私に声をかけた時とは打って変わって人生に疲れた哲学者のような暗い顔をして厨房に戻って行った。

(挿話)         
 皆怖いだけだ。人は快楽原則にのっとって生きてるのだから、それを邪魔するのは恐怖心だけ。それがモラルや愛なんかといった作られた正しさに形を変えて正当化されているだけ。結局は皆怖いだけだ。私はそんなものには負けたくない。気持ち良くなりたい。粉っぽい壁をつたいながら階段を降りていたはずなのに、気がついたら薄暗い部屋にいた。10畳ほどの部屋に茶色い机と茶色い棚。生活感が無い部屋なのになんだか懐かしい気分がした。部屋に一つだけある窓にかかるカーテンはクリーム色で、外からそのクリーム色を通して茶色味がかった太陽の光が床に差し込んでいる。                    
「きれい」                 
そう口に出すことで、祝福されている気持ちになった。太陽の光やこの部屋は自分のために存在するのだと思った。ドアのないこの部屋にどうやって入ったのかわからない。再度茶色い机に目をやると、その上に小さい蜘蛛が這っていることに気づいた。それを見た瞬間、その蜘蛛を掌でゆっくりと圧をかけて潰したい衝動に駆られた。衝動は嘘をつかない。衝動は常に真実だ。この部屋や窓から室内に差す光は私のために存在するのだから、この蜘蛛も私が潰すために存在するのだ。私は机に近づき左手で蜘蛛の行く手を阻み、右の掌で抑えた。蜘蛛は思ったよりも乾いていた。このまま圧を強めればカサカサと小気味よい音をたててドライフラワーみたいにバラバラになりそうだ。

 アイフォンのコール音で目が覚めた。この急き立てるような音には毎回ビクッとさせられるから変えようと思っているけどいつも忘れてしまう。私が寝ぼけ眼で電話を取ると、他の人とは中々聞き間違えることのない凛のアニメ声が「今日ピクニックに行こう」といつもながら唐突な誘いをしてきた。私が働いている店の売り場メンバーは皆シフト制だけど、水曜、つまり今日は店自体が休みなので、彼女とはよくお互いに誘い合って遊んでいる。私が了承すると凛はまだエンジンのかかっていない私の数倍大きい声で、じゃあ各々で弁当を作って私が十三時に佐美ちゃん家に迎えに行くと言って電話を切った。時間を見るともう十時半だったので、急いで起きて冷蔵庫を開いたけど、弁当を作れるほどの食材が無く私はすぐに着替えて近所のスーパーに自転車を走らせた。食材を買って家に帰ってきたけど昨夜寝過ぎてまだ頭が回らないため、私は適当に買ってきた食材でわかりやすいお弁当のメニューを作り始めた。タコさんウインナーと卵焼き、あと一昨日作って冷蔵庫に余りを入れていた肉じゃがをチンして弁当箱に入れ、塩おにぎりを握ってラップに包んだ。時間を見ると、もう十二時過ぎだったので、簡単にシャワーを浴びて化粧が済んだところでチャイムが鳴った。                 
「佐美ちゃーん。来たよー」           
ドアの向こうから凛が半分ふざけたような口調で叫んでいる。         
「もうちょっと早く言ってや、もうバタバタよ」     
私はドアを開けて彼女の顔を見た。凛はヘアゴムで縛りぴょこんと上に向いた前髪を揺らしながら白い息を吐いてニコニコしながら立っていた。小柄な身体には大袈裟なほど分厚いクリーム色のダウンを着て、背中には紐の長い黒皮のリュックを背負っている。相変わらずめちゃくちゃなファッションセンスだ。        「ごめんー。朝起きたらめっちゃ天気良いからさ。急に佐美ちゃんとピクニックしたくなってん」                   
「佐美ちゃんと」と言われてみぞおちの裏側に詰まっている様々な臓器の隙間に重曹を投げ込まれてそこに流れる血液がシュワシュワと泡立っているように気持ちが高揚するのがわかったけど、私はダルそうな顔を崩さず「ちょっと待ってや」と言って中に入り、新年セールで買ったオレンジ色のジャンバーを着てソファの上にある弁当を入れたショルダーバッグを掴んで外に出た。   
「この一番寒い時期にピクニックて」     
私は妙に速い凛の歩調に速度を合わせて歩き彼女の横に並んだ。       
「せやけど、今日めっちゃ天気良くない?」      
「確かに1月にしては暖かいけどな。どこ行くか決めてるん?」        「いやまだやで」              
「まだなん?今から探してたらおやつの時間になってまうわ」       
私が驚いた顔をすると、凛は「すぐ見つかるって」とニコニコ顔を崩さずに言った。水があるところが良いと凛が言うので、私の提案でこの近くにある大きい公園と川に挟まれた河原に二駅分だけ電車を使って行った。
 凛が持ってきた水色の背景にキリンの絵がプリントされている大きいビニールシートに座り、お互いが作ってきた弁当を広げた。凛は大きいタッパーにペペロンチーノを大量に入れて持って来ていた。先ほど作ったばかりらしく、フタを開けると湯気がモワッと上がった。凛は「ほい、佐美ちゃん」と私に紙皿と子供用にも見える淡い水色のプラスチックフォークを渡してきた。    
「凛ちゃんの弁当豪快やなあ。ちょっと負けた気分やわ」         
私はタッパーからモクモクと立ち登る湯気を眺めながら言った。      
「せやろ、でも佐美ちゃんの弁当の方が多分美味しいで」凛はそう笑って言いながら、リュックの中からコンビニの袋を取り出した。中には三本のストロングゼロが入っている。「ほい、佐美ちゃん。ゼロやで」               「マジか。このぽかぽか陽気にには似合わんな」
「これがないと始まらんやろ」        
そう凛に促され、私たちはプルタブを上げて乾杯した。やっと覚醒してきた意識がアルコールによってまた曖昧になっていくのを楽しみながら、川の向こう側でバトミントンをする親子を見ていると凛がパスタを含んで大きくさせた口を動かしながらこちらを見て笑いかけてきた。     
「さっきからなんやねんめっちゃヘラヘラして。どしたん凛ちゃん?」   
「佐美ちゃんあたしな、好きな人できてん」  
私はそれを聞いた瞬間、スーッと血の気と食欲が引いて目の前で微笑む凛と同じ笑顔で私に手を振りながら去って行ったのがわかった。そして急に、いま口の中で散らばっている卵焼きの飲み込み方を忘れてしまった。          
「え、誰?」               
「えへへ。当ててみ、佐美ちゃんの知ってる人やで」          
私はまだ頬を膨らませたまま動かしている彼女の口元を見ながら、凛が迎えに来て私がドアを開けた時に、彼女が覗かせた妙につやつやした顔と笑顔を見た時に、なぜか一瞬不快感を感じた時に、瞬時に自分の無意識に追いやった直感を思い出していた。                
「え、正樹さんとか言わんよな?」      
話題には出しても、お互いの男の子の知り合いはそんなに紹介し合っているわけでは無いので私はわかりきった答えを口にした。      
「正解!わたくし佐藤凛は、正樹さんのことを好きになってしまいました」   
そう言って凛がやっとパスタを飲み込んだ。  
「どういうとこが好きなん?」       
「うーん。なんか頼りないけど頑張ってるとこが可愛いいなあと思って」   
「頼りない人が好きなん?」        
「そういう訳じゃないけどさー。正樹さんの場合はそれが良く見えたわけさ。それに、真面目なんかふざけとんかよく分からないシュールなとこが好き」    「そっか。とりあえず、好きな人できておめでとう。上手くいくとええな」   私は無理矢理その言葉を捻り出した後、気持ちを落ち着けるために彼女から顔をそらして前を見た。一月にしてはやけに強い太陽の日差しで川が光っていて眩しかった。

第二章 正樹まさき

 優がいなくなってから、もう一ヶ月が過ぎようとしている。あれから厨房は俺一人で回しているが、今は繁忙期ではないため何とかやっていけている。しかし、このまま優が帰って来なければ卒業シーズンで忙しくなる来月末には回らないはずだ。誰かキッチンのバイトを雇うか優の帰りを待つかの選択をしなければいけないなと思いがら固まる前のチョコレートムースをカップに注いでいると、佐美子が出勤してきて厨房の出入り口から顔を覗かせた。              
「おはようございまーす」         
「おはよう佐美子ちゃん。この前の提案の返事なんだけど、受けようと思って。今晩とかご飯行かない?」                  
そう言いながら、俺はなんだか情けない気持ちになった。もう既に一度フラれているので、彼女にすがっているような印象を自分に持ってしまったのだ。    「あー。私、今生理なんで無理です。今度でお願いします」     
佐美子はそう言って何故か俺を睨みつけた。 
「おう。わかった…」            
俺がそう答えてから何か言おうと考えていると、絵里が「おはようございます」と言って佐美子の後ろから顔を覗かせたので佐美子との会話は打ち切りになった。 
 その日の営業時間が終了し、二人に俺が新作で作ったチョコムースを試してもらおうと厨房から顔を出してみると、売り場から続く通路の突き当たりにあるロッカールームに絵里が入ろうとしているところだった。            
「絵里ちゃん、佐美子ちゃんもいる?」    
「佐美子ちゃんは片付けが済んだ後にすぐに帰っちゃいましたよ」     
絵里がこちらを向きロッカールームのドアから手を離して言った。      「え、新作作ったから食べてもらって感想聞こうと思ったのになあ。絵里ちゃんは食べるでしょ?」                 
「良いんですか?やった」         
絵里が店の黒い制服のまま厨房に入ってきたので、俺は部屋の隅に置いてあるパイプ椅子を二つ持ってきて調理台の前に置いた。       
「これなんだけど。絵里ちゃんムース系食べれる?」            「はい。大好きですよ」           
絵里は、俺がムースの入ったカップと一緒に差し出した銀のスプーンを使って美味しそうに食べ、美味しいです、売れますよこれと言ってくれた。俺は研究体質で、店に出すための新作を作って提案するのはほとんどが俺だ。しかし、俺はコミュニケーションが優ほど得意ではないため自分で店を立ち上げる気はなかった。そのため、優が店長として店を作るときに誘ってくれたのはかなりありがたかった。と言うのも、材料の仕入れ先を見つけたり取引をしたりに関しては、特に初めは優が店長として全て引き受けてくれたからだ。そのため、俺と優はお互いに良い塩梅で上手くやっていると思っていた。           
「今日の佐美子ちゃん何か機嫌悪くなかった?」    
俺はムースを食べ終わった絵里に気になっていたことを聞いてみた。      「生理じゃないですか?男の人にはわからないだろうけど、酷い時なんて目に入る人を皆殺しにしたくなるくらいイライラするんですからね」  
「あ、そう言えば…」そこまで言って俺は言葉を詰まらせた。佐美子が今は生理中だと言っていたと俺が言うのは不自然だと思ったからだ。 
「何ですか?」               
絵里が首を傾げて少し困った顔をして見せる。  
「いや、元カノも絵里ちゃんと同じようなこと言ってたなと思って」      「そうそう、だから急に態度変わっても別に嫌いになったとかじゃないですからね。苦しんでるんですこっちは」              
「勉強になります」             
俺は、嫌いになったわけではないと聞いて少し安心し、また一週間後にでも誘ってみようと思った。                   
「絵里ちゃんは最近好きな人とかいないの?」俺は佐美子の華奢な肩を思い浮かべながら聞いた。                  
「うーん。いたことはいたんですけどね…私ちょっと変わってて」      「どう変わってるの?」           
「私ダメなんです、ちゃんとした恋愛とか」そう言ったあと絵里は少し間を置いて「大事なものができると壊したくなるんです」と言った。   
「真剣な関係に耐えられなくなるの?」    
「壊れるのが怖いんじゃなくて、綺麗に積み上がってるものほど壊したら気持ち良いだろうなって思うんです。その気持ちを止められないというか」       「何か絵里ちゃんの大人っぽい雰囲気にしては意外な凶暴性だね。「壊す」ってどうするの?お互い本気の恋愛に発展したら振っちゃうってこと?」     
絵里は俺の質問を聞くと、少しはにかんだように下を向いて笑った。その姿が魅力的だったので、優が少し前に彼女に熱を上げていたのもわかる気がした。    「うーん。分かりやすく振るというよりは、相手をすごく傷つけて関係性を終わらせてしまうって感じですね」               
「でも好きだからこそ傷つけちゃうってのはあるよね。何とも思ってない人なら我慢できることでもさ」                  
「そうなんです。それのもっと酷いバージョンって感じです…」        絵里の言うことは何となくは理解できた気がした。俺は友達や仕事などで関係する人には人より寛容で我慢強い方だと思うが、恋人や親など親密にならざるを得ない人に対しては流せないことが多々あるからだ。絵里の場合、例えば佐美子や凛みたいに冗談でも人に強く出れない分、親密になった人には激しく出てしまうのかもしれない。  
 絵里が、ごちそうさまでしたと言って帰って行ったので、俺は厨房の片付けをして通路を通りロッカーに行った。ショーケースの照明も消してしまった真っ暗な売り場をここから見ると、売り場だけくり抜かれているように見える。今までは大抵、優と一緒に店を出るか、彼が最後まで残っているかしていたのでこの静けさは年が明けてから初めてだった。

 凛が予約してくれた店に行くと彼女はすでに中に入っているようだった。ここに来たのは、昨晩、凛から急に「話したいことがあるので、ご飯に行ってくれませんか?」と連絡があったからだ。俺は、彼女が店をやめることを考えているのかと思い内心弱っていた。
 中に入るといかにも中国じみた模様でくり抜かれた光沢のある茶色い衝立の向こうで凛がケータイをイジっているのが見えた。広々とした店内には他に二組しか客がおらず、こういう系統の店はいつも空いているのにも関わらずどうやって生計を立てているのだろうと思ったが、俺は雰囲気重視の店は嫌いではない。わざとらしい中国の伝統楽器の音楽が鳴る店内を進み凛に近づくと、彼女はこちらを見て手を上げたが、いつもより元気が無いような気がしたのでやはり辞めることを考えているのだと思った。彼女は身体のラインが見える黒いニットセーターと辛子色のロングスカートという姿だ。ニットで強調された彼女の大きな胸には男でなくても自然に目が行くのではないかと思いながら見ていると彼女に目線を追われてしまい、しまったと思った時にはもう遅く今や彼女が自分の胸を見ていた。 
「悪いのは俺じゃなくてその魅力的な胸だろう」     
俺が開き直って言うと、凛は「魅力的でごめん」と返してくれたので、俺は彼女のノリの良さに感謝した。                 
「お疲れさま。早いね」           
俺が仕切り直して言うと          
「お疲れさまです。すみません急に」       
彼女はそう言って頭を下げたが、その明らかに普段よりしおらしい態度にいつもより大人っぽい印象を持った。                
「とりあえず注文しようか」         
俺が四人がけのテーブルの彼女の正面に座って言う。                   
「そうですね」               
一人二品ずつ頼んで分けることになり、俺はエビチリと餃子、彼女は天津飯とフカヒレスープに決め、注文を取りに来た確実に中国人であろう背の低いおばさんの店員にビールと共にオーダーした。すぐに無駄に大きいジョッキに入ったビールを二つ持っておばさんが戻って来た。彼女がジョッキをテーブルに置く動作には日本人特有の繊細さは無く、置かれた瞬間の大きな音に俺と凛は反射的にビクッとして、反動でテーブルの上を少しスライドしたジョッキを二人で眺めた。ビールの量はそれぞれのジョッキの九割と七割ほどで明らかに量が違っていたので、俺は自分の側に置かれた多い方を、酒好きの凛の方に「おっぱい見ちゃったし」と言った側から自ら彼女が流してくれた事項を掘り返してしまったことを後悔しながら押してあげた。            
「あ、すいません」             
凛はそう言って、乾杯を待たずに入っていたビールを半分近く一気に飲んだ。乾杯のタイミングを失った俺もビールをチビチビ飲みながら凛に話しかけようとすると、彼女は、ちょっとお手洗いに行ってきますと言って急に立ち上がりB級映画に出てくるアンドロイドのような動きでトイレに歩いて行った。優が音信不通であるこの大変な時期に辞めることを伝えるのが申し訳なくて緊張しているんだろうかと考えていると、店員のおばさんが餃子を持って来て皿の底が欠けるんんじゃないかというくらい激しくテーブルの上に投げ置いた。凛が戻ってこないので、俺が先に餃子をラー油を混ぜた醤油につけて食べていると、皿を持ってこちらに来ようとするおばさんとトイレから出て来た凛がぶつかりそうになっているのが見えた。凛は「あ、エビチリ…」と言ったあと細かく会釈をしながら皿をおばさんから受け取りこちらに戻ってきた。              
「正樹さん、エビチリです」             
凛がエビチリの入った皿をそっとテーブルの上に置いてから椅子に座った。 
「うん、美味しそうだね。てか凛ちゃん大丈夫?体調悪いの?」        「大丈夫です。トイレ我慢してたの忘れてて」凛はそう言ってから、巨大なジョッキに残っているビールを数回に分けて飲み干して、フカヒレスープを持ってきたおばさんから皿を受け取りながら「紹興酒二合をホットでお願いします」と言った。
「凛ちゃんペース早いね」            
俺が驚いた顔をすると、凛は「この店の雰囲気に呑まれないようにと思って」と白々しい嘘をついた。
酔いも回って来たので、「昨日言ってた話って何かな?」と俺の方から話を振った。                          
「あ、はいあの、正樹さんが最近、ていうか年明けから一人で厨房で頑張ってるの見て、すごいなあって思ってて、別に悪い意味じゃないですけど正樹さんって優さんに比べて主体性?っていうのとかあんまりないタイプだと思ってたから、意外だったというか、なんか正樹さんの本気の姿を見れてる気がして、厨房だけでも大変だろうにこの前もひどいナンパしてくるお客がいたらすぐに呼んでねとか言ってくれたし、優さんがいないことで店の雰囲気を落とさないように前よりふざけた感じで話しかけてくれるのとかも大人だなと思ったし、でも今が火事場の馬鹿力的な感じになってるなら、ほらターミネーターが電池抜かれた時みたいに充電切れちゃうとしたらわたしたちも困るし、わたしが側にいますよとか思ったりしたんです」「…なんて?」
俺が首を傾げてそう言っても凛は答えず俺の頭上に目線をやって立ち上がり、盆の上に天津飯と紹興酒を乗せて持ってきたおばさんからその盆を「ありがとうございす」と言いながら奪い取り、それぞれをテーブルにそっと置いて、残った盆を厨房に戻りかけていたおばさんに渡した。    
「ごめん凛ちゃんよく分からなかった。話って何なのかな?僕てっきり凛ちゃんが店を辞めるって言いに来たのかなと思ってたんだよね」      
俺はそう言いながら、透明なガラスのとっくりに入ったホットの紹興酒を、底に中国柄の模様の入った口の広いグラスに注いであげた。凛は礼を言わずにそれを一息で飲むとこちらを向いて「わたし、正樹さんのことが好きになりました」と機械に文章を読ませた時のような抑揚の無い妙な口調で言った。     
「え。マジ」                       
「はい」                             
「年が明けて俺が一人で厨房回してるから?」
「前から気になってはいたんですけど、優さんの影に隠れてるようなとこがあったから、印象として薄まっていたというか、今回になってというか、年明けから正樹さんが能動的になりだしたことによってわたしが気になっていた正樹さんの性質がより顕在化して、見やすくなって、だからわたしは前から正樹さんの性質に対して思うところはたくさんあったんだろうけど、その、良い意味ですよもちろん、そうだったんだろうけど、それに自分で気づいて無かっただけのような気がします」「…ん?」
「とにかく、好きなんです」             
「俺が一人で厨房を回し出す前はどんなとこが好きだったの?」                       「いやその時は好きとかはまだ、いや好きだったんでしょうけど気づいてなくて、でも何かいつも憎めないおもしろいところがあるじゃないですか、それが良いなあとは思ってました、やらかし芸じゃないけど」                     
「やらかし芸?」                  
「とにかく、好きなんです」                
「うーん。凛ちゃんは可愛いし魅力的だよ。人としてもだし、女としてもさ。正直に言うとその今着てるニットを剥いでめちゃくちゃにしてやりたいとは思うけど、ごめん不謹慎だね」俺がそう言うと、凛は「私が言ったのはそういうところです」とくすくす笑い今日初めての笑顔を見せた。
「そうか、ごめん。でも俺好きな人いるんだよね。気持ちは受け入れてもらえそうにもないんだけど」                                    
「それって誰ですか?わたしの知ってる人?」
「佐美子ちゃんだよ。別に隠すつもりもないから言うけどさ。結構前からアプローチしてんのよ、彼女から聞いて無かった?」             
「一切聞いてないです。正樹さんが佐美子ちゃんに告白したってことですか?」              
「うん、したよ」                    
「振られたんですか?」                
「まあ、そうだけど諦めないとは言ってある」  俺はふと俺が佐美子に告白した時のことを考えて彼女が凛のことを好きだと言っていたことを思い出したがもちろん黙っていることにした。         
「じゃあ、わたしも正樹さんのこと諦めません。久しぶりに好きな人ができたので諦めたくありません」                                  
「うーん。こんな言い方したら凛ちゃんには酷かもしれないけど、嫌な気はしないよ」       
「いえ、全然酷じゃないです。正樹さんに振り向いてもらえるように頑張りますわたし」       
それ以上はお互いの関係について話すことは無かったので、俺たちは紹興酒の追加オーダーをして最近見た映画の話をしながらベロベロに酔っ払ってからそれぞれの家に帰った。

 平日の昼間のスーパーというのは若者が全く見当たらず、目に入るほとんどは爺さん婆さんが惣菜を漁っている光景であることを久々にこの時間帯に来て思い出した。特に入口近くにあるリラクゼーションコーナーで椅子に座り斜め上を呆けたように見ながら茶をシバく老人の集団などは見るに耐えない。今日は朝から店に入り、予約を受けていたホールの誕生日ケーキを仕込んでいたのだが、あろうことかバニラエッセンスが一滴も出ず慌てて買いに来ていた。いつも使っているバニラエッセンスは海外から輸入したものでスーパーで手に入るものよりもっとこだわったものだが、今日はそんなことは気にしていられなかった。否が応でも目に入り異様な寂しさを放つ入口近くの老人の昼間のコミュニティの存在によって自分の気持ちが急激に落ち込むのを感じ、ハリーポッターに出てくるディメンターに魂を吸われる気持ちが少しだけ分かった気がした。晴天のため太陽から繰り出される日差しが壁一杯の窓の形のままスポットライトのように老人たちを照らしていることにも腹が立ったので、さっさと店を出るためにバニラエッセンスを探そうと菓子コーナーの列に入ると、佐美子がきのこの山を手に取っているのが見えた。                             「佐美子ちゃん」と俺が声をかけると彼女はきのこの山を手に持ったまま振り返り、「あ、正樹さん、偶然ですね」と驚いた顔をして言った。彼女は明るい青のスキニージーンズに黒の硬そうなブーツ、上はオーバーサイズの緑のジャケットという姿だった。そのジャケットのせいで際立った彼女の細い足と、明るい色のジーンズで分かりやすく曲線を描いた尻の膨らみが目に焼き付き、久々にちゃんと見た彼女の私服姿にハッとさせられていることに気付いた。そして先ほどまで脳内を侵食していた老人たちとの対比で若さが作り出す武器としての肉体の驚異を感じた。        
「佐美子ちゃん今日はシフト休みだったよね?」    
俺は凛の時の二の舞にならないよう、早々に目線を顔に戻して言う。                    「そうですね、今日は休みです。正樹さんはこれから店に行くんですか?」               「いや、今日は予約のケーキがあるから朝からいるんだけどね。材料が切れちゃって緊急で買いに来たんだよ」                       
「それはそれはお疲れさまです。もうすぐバレンタインだしチョコレートでも奢りますよ」佐美子はそう言って、もう一箱きのこの山を手に取る。                        「え、いいの?」俺がそう言うと彼女は頷いて、じゃあ入口付近で待ってますねと言ってレジの方に歩いて行ったので、俺はバニラエッセンスを探しレジを通してから入口に急いだ。佐美子はリラックスする老人の集団から少し離れた椅子に座っていた。太陽のスポットライトに照らされる彼女のコケティッシュな足、眩しさに目を細めていても分かる彼女の大きい黒目に反射する光を見て、俺は理想を追うことを決意した。        
「超眩しいですここー」              
  佐美子は目を細めて微笑みながらスーパーの袋からきのこの山を一箱取り出して俺に差し出した。     
「ありがとう頂きます。うん、今日すごい天気良いよなあ」                          
今日の佐美子は機嫌が良さそうなので例の誘いの話を出してみようと思い俺が眩しさのため下げていた目線を上げると、彼女の後ろでリラックスしている閉塞感の体現者たちの一人と目が合ってしまい俺はたった今振り絞ったばかりのフレッシュな勇気がその口の中に吸い取られて行くのを眺めた。                            
「じゃあ私これから『ブルーバレンタイン』をツタヤで借りて帰るんで。お疲れさまです」     
「え、失恋でもしたの?」                 
俺はそう言ってすぐ後悔した。もし凛が俺に告白したことを佐美子に言っているなら、本当に傷心状態の可能性があるからだ。              
「バレンタイン繋がりですよー」            
佐美子はそう言って微笑みさらに強くなった日差しから目を背けて、じゃあと言って去って行った。俺は、悪いこと言ったかなと考えながらジャケットの下で歩を進める度に形を変える彼女の華奢な尻を見送った。
 店に帰り予約のホールケーキと店に置くケーキをなんとか完成させ、箱に入れたホールケーキを冷蔵庫に入れていると凛と絵里がロッカールームから出てきた。
「おはよう凛ちゃん絵里ちゃん」と俺が声をかけると二人は揃っておはようございますと返し、「正樹さん。いま凛ちゃんとも話してたんですけど、ヤバい映画見つけました」と言って絵里が厨房に入ってきた。                          
「どんな映画?」                    
「練習の打ち上げパーティをしているダンサー集団のお酒に誰かがドラッグを盛って皆がパニックに陥っていく映画です」                 
「ハードそうそうだね。」                   
「でも、私が好きなのは、二回くらい長回しのみんなのダンスシーンがあるんですけど、そのダンサー達のはっちゃけ具合なんです。女の子も床這いずり回って踊ってるあのシーンを観て、欧米人とアジア人は恥の水準が違うというか、もう違う生き物なんだなって妙に感心しちゃって」        
絵里はそう言いながら、その映画のダンスシーンで見たのであろうダンスの動きを軽く真似た。     
「あ、でもそれ分かるなあ。欧米映画のパーティシーンは本当に楽しそうで、その楽しい雰囲気っていうのは参加してる人達のタガの外れ方から来てるんだよね。ハメを外すことが正当化されてる雰囲気っていうのかな、ああいうのは日本にはないよね」                           
「そう、日本人が集団であれやっちゃうとヒステリックに見えて痛々しいんですよ。結局全体の水準の問題なんですよねあれって」そう言って、絵里が目を見ながら俺の腕に軽く白い指で触れた。「正樹さん、付き合ってる人とかいないんですか?」                            
「え?急に聞くんだね。今はいないよ」      
「私と付き合ってくれませんか?」       
「え。大胆だね絵里ちゃん、凛ちゃんもいるのに」                              
俺がそう言って凛の方を見ると、凛が驚いた風に口を開けて声に出さずに笑っていた。       
「あ、凛ちゃんごめん」                
絵里が少し我に返った様子で凛を見て恥ずかしそうに言った。                       
「いや、かっこいいよ絵里ちゃん」         
そう言って凛が、このモテ男めとでも言わんばかりの顔を作って俺の背中を叩く。         
「なんでこのタイミングだったの?」       
「前からちょっとだけ気になってはいたんですけど、こんな話合う人っていないなと思っちゃってつい」                             
「ありがとう。でも俺好きな人いるんだよね」      
それを聞いた絵里は問い掛ける表情をしながら凛を手で指した。                       「いや、佐美子ちゃんなんだよね。凛ちゃんにはこの前話の流れで教えたんだけど」        
「え、告白とかしたんですか?」          
「うん。振られちゃったけど、まだ諦めてないというか」                          
「でもそれって不謹慎な言い方かもしれないけど、私にもチャンスあるってことかもですね」      
そう言って残念そうな顔になっていた絵里の表情が少し明るくなった。                 「うーん。まあそうかもしれないけど。どうなんだろう。いや、絵里ちゃん可愛いし良い子だし本当に嬉しいよ。モテ期かな」             
俺はそう言ってすぐに後悔したが、絵里はその言葉を見逃してはくれなかった。
「モテ期?え、他の人にも告白されたんですか?」                            
「はーい」                         
ニコニコと微笑みながら俺たちのやり取りを見ていた凛が潔く手を上げた。              「え、凛ちゃんも正樹さんのこと好きだったの?てか、いつ告白したの?」               絵里が目を見開いて驚きを隠せない様子で言った。                               
「二週間くらい前でーす」               
凛が再度恥ずかしそうに手を上げると、絵里が両手で凛の手首を掴んで「え、やだよ、わたし凛ちゃんと仲良くしたいよ」と不安そうな顔で言った。     
「私も絵里ちゃんと仲良いままでいたいよ。どうしたもんかね。今日帰りにご飯でも行って作戦会議しよ」                       
凛がそう言ったあとふざけて大袈裟に絵里にハグしているのを見て、俺は、妙な展開になったなと苦笑してしまった。

(挿話) 
 気がつくと、棚の横に取っ手のない扉があることに気づいた。手についたドライフラワーをはたき落として、扉を押すと簡単に開いた。とても簡素な扉でどちら側にも開くような、よく西部劇に出てくるようなタイプの扉だった。扉があることになぜ気づかなかったのか理解できなかったが、もうそんなことはどうでも良かった。入るとそこはキッチンと居間が同じ空間にある部屋だった。この部屋も全体的に淡い茶色の家具や壁紙で、コンロの近くにある窓から光が差し込んでいる。その光が強いせいか、外の景色が見えない。コンロの前に小柄で酷く背中が曲がった女の姿が見えた。ヤカンでお湯を沸かそうと火にかけているところだった。ここから見えるのは後ろ姿だけなので、一見子供が背中を丸めているのか、背中の曲がった老婆なのか判断がつかない。ただ、頭からは一本一本が太い黒々とした髪が生え、それを後ろで結んでいる。             
「ねえ」                 
その女の横まで行き、声をかけると女が顔を上げた。        
「ちょっと待ってね、すぐにコーヒーを淹れてあげるから」         
その女はそう言って申し訳なさそうな笑顔を作り笑いかけてきた。しかし、その顔は背中同様幼い子供にも老婆にも見えた。笑う前は子供かと思ったが、笑うと急に顔のシワが目立ったからだ。私はその弱々しい笑顔に急に腹が立ち、その女の腹を横から膝で蹴った。女は床に倒れ、身体をくの字に曲げて痛みに耐えている。しかし、蹴られても驚いている様子はなく、いつものことのように耐えているように見えた。それを見て余計に腹が立ち、湯気が立ち上る銀色のヤカンを手に取り、女の頭にゆっくりと熱湯をかけてやった。しかし、熱湯をかけられた女は叫ぶでもなく、文句を言うわけでもなく、ただ黙って苦痛に耐えるだけだった。     
「なんで何も言わないの?」             
私は泣きそうになった。この気持ちには覚えがある。私がまだ小学校低学年の時に、友達とケンカして家に帰ってもまだ不快感がおさまらず、母親に八つ当たりした時に感じた気持ちだ。私は母親に酷いことを言うたびに、酷いことを言っている事実に泣きそうになりながらも、快感を感じていた。母親が傷ついていることを確認するほど、もっと残酷なことを言ってやりたくなった。

 新作のチョコムースを含むスイーツを作ってから、厨房の入口で廊下の先を見つめて佐美子が来るのを待ち構えていると、ドアが開く音が聞こえて廊下の突き当たりにあるロッカールームに入る前に佐美子がこちらに気付いて、うわっと言いながら体をビクつかせた。              
「びっくりしましたよー。正樹さんどうしたんですか?」        
それを聞いた俺は黙って手招きする。佐美子がこちらに来て、「はい?」っと間の抜けた声を出したので一瞬うろたえたが言うことにした。       
「佐美子ちゃんおはよう。あの、前の佐美子ちゃんの提案ってまだ生きてるよね?」
「あー。はい、まあ良いですよ。ここでやっぱりって言うのもどうかと思うし。あのー、凛ちゃんも誘っても良いですか?」        
「え、なんて?」              
俺は全く理解できなかったので聞き返した。  
「凛ちゃんと絵里ちゃんに告白されたんですよね?」         
「あ、聞いたんだ。うん、そう。二人には好きな人がいるからごめんって言ったけど」       
「私が凛ちゃんのこと好きなこと前に言いましたよね?」          「うん」                  
「だから、凛ちゃんを誘ってみて彼女も良いなら、凛ちゃんも好きな正樹さんとできるし、私も好きな凛ちゃんとそういうことできるかもしれないし。ウィンウィンじゃないですか」     
「あー。なるほど…」            
俺が言葉に詰まっていると「あ、でも私が彼女のことを好きなことは秘密ですよ」と付け足した。
「まあ、うん、いいよ」             
俺は急に降ってきた快楽の宴への誘いにビビりながらも出来るだけ変態的な声色にならないよう注意しながら、それなら仕方がないというような雰囲気を出して言った。            
「じゃあ、誘っておきます」         
佐美子はそう言ってロッカールームの方に歩いて行ったので俺は「佐美子ちゃん」と彼女を呼び止めた。                  
「なんですか?」             
「大丈夫?さっきのはヒステリーから来る提案じゃないよね?俺は無理にとは言わないよ?」 
それを聞いた佐美子が何も言わずに鼻にシワを寄せて作った笑顔を見て俺はなんて可愛いんだと思った。
 その日店が終わってから佐美子と絵里を先に帰し、俺が厨房の後片付けを済ませて店を出てコンビニに向かっていると佐美子から電話があった。「あ、正樹さんお疲れさまです。凛ちゃんに言ってみました」               
「仕事が早いね。なんて言ってたの?」    
「私だけいくのはフェアじゃないから絵里ちゃんも誘うなら良いよって言ってました。誘ってみても良いですか?」              
それを聞いて俺は今歩いている黒いコンクリートの上が急にぬかるみやマシュマロか何かになったような気がして、自分の足が竦んでいるのが分かった。   
「俺は良いけど佐美子ちゃんはそれで良いの?」  
「はい。ここまで来たら後には引けません」  
「いや、引いても良いんだよ?俺も気が乗ってない子とそういうことしたくないし」      
俺が三分の一ほどになった足に通る神経を操りながら言うと佐美子は笑いながら「大丈夫です。そういう意味で言ったんじゃないですよ」と言った。      「じゃあ、そういうことで。おやすみなさい」   
「わかった。おやすみ」             
俺はまず凛が了承することに驚いていた。いくら好いてくれてるとはいえ、数人ですることに抵抗はないのだろうか。可愛い子たちほどもちろん色々な性体験をしてきているはずであってそういう意味で性に対してオープンなのだろうか、などと考えながら歩いていると、こんな良いことがあって良いのだろうかと急に不安になり、この快楽の前借りが原因で来年にでも店が潰れたりするんじゃないかという考えに囚われかけたので、四人でした後に皆に嫌われるだとか、揉めて二人くらい辞めてしまうだとかいうようなもっと直近で起こる悪いイメージを思い浮かべることで気持ちを落ち着かせようとした。夕食を買うためにコンビニに入ると煌々と光る明るすぎる蛍光灯が、先ほど佐美子と話していた内容を現実として受け止めるよう俺に促した。

第三章 りん

 わたしが高校生くらいの頃はもっと物事が単純だった。もちろん多くの年頃の女の子がそうであるように錯綜する不安定な自我のせいでわたしが世界一不幸な人間だと信じて疑わなかったことは別にして。今は日々の物事があの頃より収束してしまっているからより現実としての複雑性が増してきているのだ。あの頃は世界が狭かった分自由だったけど、今は世界が広がった分不自由だ。生き物は自分の世界が広がっていくほどたくさんのものを背負って不自由になっていくから、私はいつかもう一人の私が生まれたばかりのもう一つの世界線に滑り込めると願って毎晩のようにアルコールを細胞に送り込む。少しでも多くの脳細胞を毎日アルコールでプチプチと潰して脳をもう一人の私に近づけることで彼女と同期できると信じているから。私は目の前の客が着ているシャツの裾に染みがついていることが先ほどから気になっている。確か正樹さんが着ているコックコートの同じ位置にも似たような染みがあったはずだ。客のオーダーを受けた私の指がシンプルな苺のショートケーキをケースから取り出して箱に入れる、入れたら閉める。苺は何のために生まれてきたのか。彼女も違う世界線にいる自分の分身である赤ん坊が迎えに来るのを待っているのだろうか。きっとそうに違いない。ここではないどこか。そのどこかがそこなんだって信じて。佐美ちゃんと絵里ちゃんと正樹さんと私の性行為には何か意味があったのか。ある。最初に佐美ちゃんから誘われた時はもちろん驚いたけど、ここでその誘いに対する判断を自分のメリットデメリットをベースにして決めるのは違う気がした。一番良い答えなんて存在しないけど、みんな普通はしないことはしないようにしてるように見える。普通とは何か。星や、大陸や、国や、町や、家族や、友達や、職場などの中でマジョリティとして在る幻想のことだ。メリットデメリットで行動するとはその幻想に沿って言動することだ。わたしを含めその幻想に洗脳されていない人なんかいないから、わたしが自分のメリットを優先させたとき、例えばそれに従ってあの誘いに乗るか乗らないかを決めたとき、わたしはわたしに寄生する洗脳を行使することになる。それだけは耐えられないから、不自由を選ぶ自由だけは残しておきたい。物事に意味なんて無いからこそ、意味だけを頼りに進んで行くしかないのだ。メリットデメリットを追い求める行為に意味は入っていない。それは単に意味に擬態した寄生虫に私の脳の所有権を売り渡すことだ。寄生虫に脳を運転して貰えばどんなに楽だろうと思うけど、その行為はとても気持ちが悪い。単に生理的な問題なのだ。自分で周りにいる人を照らして見てみたい、照らされるだけでは苦しくなってしまうから。
 枕元にある電波時計の不快なアラーム音で目が覚めた。わたしは目を開ける直前まで見ていた夢をぼんやりと思い出してまたイタい夢を見てしまったとむず痒い気持ちになった。この感覚は、夜のテンションで送ったメール文を朝見返すと恥ずかしくなるのに似ている。わたしの夢はいつも同じ傾向にあって、自分のした選択を無駄に複雑に解釈して少女漫画の主人公然とした肯定の仕方を繰り返して反芻するというものだ。そんな時の私はいつもフリルのついたスカートやワンピースを身に付けて、夕方の海や闇夜を照らす月に向かって詩を読むように呟いている。つまるところ、現実世界での自分に向けたナルシシズムへの過剰な嫌悪と抑圧が爆発しているのだと思う。服装ですら、こだわってしまうとナルシシズムへの嫌悪に負けて嫌になってしまうし、写真を撮るときも必ず変顔をしてしまう。ここまで来たら、逆自意識過剰なのかもしれない。だからアルコールが好きなのだと思う。気色の悪い自意識から自由になれるからだ。わたしはベッドから起き上がる前に夢の余韻を振り払いたくて、ケータイに繋いだイヤホンを耳に入れてケンドリック・ラマーの『ビッチ・ドント・キル・マイ・バイブ』をタップした。     
                       
 「ねえ佐美ちゃん。仮にもし自殺して新聞の片隅に載るとしてさ、「二五歳女性 眠剤を一瓶飲んで死亡」と「二五歳女性 バッタを百匹食べて死亡」だとどっちがマシだと思う?」      
客が店出たのを確認してから、わたしは隣でケーキのショーケースの中を整理する佐美子に聞いた。わたしはこんな質問だって彼女にならできてしまう。彼女の許容範囲の広さは今まで私が出会った人の中で一番なので、彼女の前では全てが許されるという開放感がある。        
「うーん。実際に食べて死んだ時の主観じゃなくて、あくまで新聞の小見出しの印象のことだよね?それぞれの利点と欠点は?」          
佐美子は遠い目をして少し考えた後にこっちを向いて言った。        「眠剤一瓶の方だと、利点はクリーンに見えること、欠点はメンヘラっぽく見えること。バッタを百匹の方だと、利点はちょっと笑いのネタになるからシリアス具合が減ること、欠点は汚いことかな」               
「睡眠薬、印象はクリーン、細胞はアンクリーン」佐美子は顎に指を当てて考えながら特に意味もなくそう呟いた後に「私はバッタ百匹かなあ、ユニークだし。凛ちゃんは?」と言った。 
「私はブラックホールに吸い込まれて死ぬって決めてるから」        
「あなたまたインターステラー観てたんやろ。好きやなあ」         「せやで。マシューマコノヒー全制覇キャンペーン中やねん。今日は帰ったらマジックマイク見んねん」                   
この前のことがあってから、店では皆の距離がそれぞれ平等に近くなったような雰囲気が出来上がっていて、私と佐美子は店でも関西弁が出るようになっていた。 「好きやなあ」               
「お前もな」                
そう言ったわたしに対して鼻の頭にシワを寄せて作った佐美子の笑顔を見て、わたしは以前彼女が壮絶な学生時代を告白してくれたことを思い出した。あの時、彼女はわたしの胸にうずくまって泣きながら何度も何度も殺された過去のことを話したあと、今は凛ちゃんがいるから毎日が楽しいありがとうと言って涙と崩れたメイクでぐちゃぐちゃになった顔で同じ笑顔を作った。その時わたしは、この笑顔を守るためなら片腕くらいくれてやると思った。そして、佐美子の笑顔を奪ったやつに失せろと言ってやるのだ。 

(挿話)
 熱湯をかけられた女の顔は、右半分だけが真っ赤にただれていて皮膚の内側にも熱を溜め込んでいるのがよく分かった。女は、私が彼女を痛めつけるのを止めたのがわかると床の一点を見つめたままゆっくりとした動作で立ち上がり、私に向かって「ちょっと待ってね、すぐにコーヒーを淹れてあげるから」ともう一度言った。彼女は後ろを向いて水道の蛇口まで歩き私が空にしたヤカンにまた水を入れ始めた。顔だけで無く、彼女の首から肩にかけても真っ赤になっていて、全体的に上半身の右半分が腫れているように見えた。私は少し怖くなってその場に立ち尽くしヤカンに水が溜まっていく様を眺めた。人は相手の反応が自分の思い描いていたものとは全く違った場合、恐怖を覚えるのだということがわかった。特にその反応を引き出した行為が劇的であればあるほど。ヤカンを火にかけたあと、女は料理台の上に置いてあったペーパーフィルターを手際良く広げてガラスのサーバーの上に乗せたドリッパーの上にセットし、陶器の容器に入った既に挽かれてあるコーヒー豆をスプーンで掬ってフィルターの中に入れた…  
                    
「さあ、できた。一緒に飲もう」         
彼女はそう言いながらサーバーの中に溜まったコーヒーを二つのカップに入れ、それらを盆の上に乗せた。彼女はこちらを向いてまた申し訳なさそうに微笑んだが、目線は下に落としたままだった。私は彼女の動作を見守る内に記憶が飛んだのか、彼女がいつヤカンからお湯を注いだのかわからなかった。彼女は私が入って来た扉の近くに置かれた丸い木のテーブルに盆を持っていきコーヒーを置いた。歩いている時も彼女は背中が常に曲がっているので、そのことが年齢を分からなくさせる要因の一つであるように思えた。私が彼女に促されてテーブルの前にある椅子に座ると、彼女も目の前に腰掛けてコーヒーをすすり始めた。  
「あなたは小さい時から人をイジメるのが好きだったね」        
女が遠い目で机を見つめながら微笑んだ。その声色は先ほどよりも若くなった気がした。彼女にそう言われても腹は立たなかったので「快楽を肯定して生きてるだけだよ」と私は言った。彼女に出されたコーヒーを飲んでみるとすごく美味しかったので、蹴られても熱湯をかけられても私にこんな美味しいコーヒーを出す彼女はとても善い人なんだろうと思った。
 私が初めて人を殺したのは小学生四年生の時だった。当時三年生からクラスが一緒だっためぐみちゃんという子がいて、彼女とは毎日お互いの家の近くの真っ赤なポストの前で待ち合わせをして一緒に学校に行き、下校するときもポストの前まで一緒に帰った。交換ノートもしたし、誕生日にはプレゼントも贈り合った。小学校を卒業しても地区的に一緒の中学に行く予定だったし、勉強を頑張って高校も同じところに行こうと約束していた。小学四年の冬休みの前日、学校が終わってめぐみちゃんと一緒に帰っている途中に私たちは冬休みに何をして遊ぶか計画を立てていた。ちょっと遠出をしてアイススケートに行ったり、家でこたつの中に入ってゲームをしながらアイスを食べたり、あえて海に行くのも楽しいかもしれないなどと話していた。そして、いつも彼女と別れる赤いポストが大通りをまたいだ先に見える場所で私たちが信号待ちをしているとき、めぐみちゃんがお正月はお年玉が貰えるから売っている中でも一番大きな凧を割り勘で買って飛ばしに行こうと提案した。めぐみちゃんは、当時私も彼女も見ていた美少女戦士のアニメの絵がプリントされた大きな凧が売っているのをおもちゃ屋さんで見たと言っていた。私はそのことがすごく楽しみに感じた反面、長かった学校の授業から解放され明日から始まる長期休みに胸を躍らせ幸せの絶頂のような顔をした目の前にいる親友から全てを奪ってみたいと思った。そう思った瞬間にもう私の手は彼女の背中をランドセル越しに押していた。無意識が反射的に押したのか、意識的に押したのか、それは後から考えても分からなかったけど別に後悔はなかった。彼女は制限速度を超えて走っていた乗用車に跳ね飛ばされて十メートル先に頭から着地して即死した。数秒前の彼女の笑顔と、目と鼻の先で血だらけになって横たわっている物体の振り幅に高揚感を覚えてから私は人を殺すことの快楽に目覚めた。         
「私も殺すの?」              
女がカップから手を離して膝の上に重ね、目線を下に落としたまま言った。 
「そのつもりだよ。なんかこういう関係ってむず痒いし」        
私がそう言ったのを聞いて女は微笑もうとしたが、片方の広角だけが上がり引き攣ったような表情になった。私は彼女が怖がっているのか、私をバカにしているのか分からなかった。     
「こういう関係って?」           
「自分が相手に受け入れられてる関係だよ」  
「だから殺すの?」             
「そうだよ」                
「そんなことばかりしていたら、人と付き合う楽しみが少ないんじゃない?」彼女が表情を変えずに言った。        
「でも、ぬるま湯みたいな楽しみより、一瞬の気持ち良さを優先させるのが私のやり方なんだよ。人はすぐに善い悪いで評価したがるけど、これは生き方の問題だから」            
「そう」                 
女は下がっていた右の口角も上げてちゃんとした笑顔を作った。

 わたしが待ち合わせのカフェに近づくと、入口前で立っていた佐美子と絵里がわたしを見つけて手を振った。今日は仕事に行く前に女子メンバーでお茶をしようということになっていて、シフトが休みの絵里も来てくれることになった。絵里は特大のジーンズのオーバーオールの上に緑のウインドブレーカー、佐美子は灰色のパーカーを着て赤紫色のコーデュロイのキャップを被っている。  
「ごめん遅くなった?」           
私が二人のところに近づいてそう言うと「大丈夫、時間ちょうどだよ」と絵里が言った。わたし達が来たのは細長いビルの一階にあるカフェで、中に入ると奥まで細長いスペースが続いていて一定の間隔ごとにテーブルが置いてあった。
「へぇーこんなとこあったんだね」      
わたしがそう言うと「そうなんよ。私もこの前見つけたとこやで」と佐美子が言った。そんな話をしながら、わたし達は一人掛けのソファが三つ置いてある場所を見つけ席についた。壁は橙色で、少し落とされた照明はこちらも一定の間隔でテーブルの真上の天井に埋め込まれている。天気が良いためか、中から入口を見ると光に包まれていて外の景色が見えなかった。トンネルみたいだなと思っていると背の高い女の店員がメニューを持ってきた。                   「ブルーマウンテンブレンド、コナブレンド、キリマンジャロブレンドとかあるけどどういうことこれ?ただのブルーマウンテンとブルーマウンテンブレンドはどう違うん?」           
佐美子が手に持ったメニューを睨みつけながら言った。         
「ブルーマウンテンをベースにして、他のコーヒー豆も入れてるってことじゃない?」ワザとバカっぽい言い方をした佐美子の口調に笑いを堪えながら絵里が優しい口調で説明する。    
「ああ、ブルーマウンテンはコーヒー自体というよりコーヒー豆の名前なのね」 
「そう、ジャマイカで作られたコーヒー豆らしいよ」          
絵里が答えると「へぇー詳しいね絵里ちゃん」と少し恥ずかしそうにしながら素直に感心する佐美子を見てわたしは可愛いなと思った。    
「わたしはコーヒーに限らず刺激物が好きだから」            
「佐美子ちゃんは最近やっとコーヒー飲めるようになったんやもんね」     三人とも話題に出たブルーマウンテンブレンドとチョコレート盛り合わせを注文した後にわたしが佐美子にそういうと「グリコのカフェオーレは小さい時から好きやで、半年間毎日飲み続けたことある」                   「あれは確かに美味しいよな」           
わたしが笑いながら言うと、「絵里ちゃんは何歳からガチコーヒー飲んでるの?」と佐美子が聞いた。                   
「私は、小学校高学年かな」         
「オマセさんやなぁ。小学生がブルーマウンテン?」         
「その時は何が何とかは分からずに飲んでたよ。刺激物が好きだから、カレーも何倍カレーとかよく食べてたし」              
「ドMなの?」              
佐美子が笑って言うと「そうかもね」と絵里も笑った。わたしもそれを聞いて笑っているとコーヒーとお菓子が運ばれてきた。        
「佐美子ちゃん来たよ、ブルーマウンテン」    
「よっしゃ」                
透明な耐熱ガラスのカップに入った黒い液体の表面はツルツルしていて、テーブルの真上にある照明を映している。その苦い液体を口に運ぶと、鼻から抜ける息が深く高級感のあるものに変わった。                     「なんかいい女になった気分やわ」      
佐美子が満足そうに頷きながら言う。「てか、この前の、みんな急に誘ってごめんな」     
佐美子が急に本題を出してきて、それに合わせて場の空気が締まるのがわかった。      
「正樹さんすごかったね」          
絵里がカップをテーブルに置いて言う。                
「あんなことしてても、チャラさみたいなのが一切出ない感じが素敵よね。客観的に見たら、その、三人相手にしてるわけやし」       
わたしは言葉を選びながら言った。みんながあの行為に対して同じ印象を持っているとは限らなかったからだ。               
「うん。まあ、正樹さんから誘ったわけじゃないっていうのも大きいかも。それに中途半端にして微妙な空気になるよりさ、振り切ってちゃんと役をこなしてくれたからすごいと思う」    
絵里が小刻みに頷きながら答えた。「佐美子ちゃんは何で正樹さんとしようと思ったの?わたしと凛ちゃんはそりゃ、分かるけど」       
一人だけ立場が違う佐美子に対し絵里も言葉を選んでいるようだった。    「うーん。嫌味じゃなくて情報として言うと、私は正樹さんに前からアプローチされてて、うん。気持ちには答えられないとは言ってあるんやけど、嫌いとかじゃないからさ。普通に良い人やし。寝るだけなら別に良いかなと思ってしまって。でも、二人はちゃんと好きなわけやもんな。あんなふうに誘うべきじゃなかったかも、ごめんね」                        
佐美子は半分ほどになったコーヒーの表面を見つめながら両手を膝の上に乗せて謝った。彼女の大きい黒目にはコーヒーに反射したライトの光が映り込んでいた。                 
「行くって決めたの私たちだし、そんな思い詰めなくて良いよ。今のみんなの状況がたまたま重なってああなっただけだよ」           
絵里がそう言ったので「全員冷静ではなかったけど」と言ってわたしは笑って茶化した。    
「佐美子ちゃんは正樹さんと寝たりして好きになったりしなかったの?特にほら、すごかったし」                           
わたしが冗談半分で言うと「私は、好きな人いるから」と佐美子は答えた。何故かその一瞬だけ彼女の顔が辛そうに歪んだように見えた。   
「え、そうなん?誰よ?聞いてないよ」わたしが聞くと「それは言えない。決着つくまでにあんまり人に言ってしまうと、私の場合上手くいかないことが多い気がして」と佐美子は鼻にシワを寄せて笑顔を作った。              「意外と秘密主義なのね」            
絵里が微笑みながらそう言ってコーヒーに手を伸ばして本題の緊張を解いた。         
「ただのジンクスなんよ。ごめん」      
「決着ついたら教えてな」            
私がそう言うと「もちろん」と佐美子は言った。
      
 それ以来佐美子は仕事に来なくなった。正樹さんのことが好きなわたし達の気持ちを踏みにじるような行為をしてしまったというアイデアに取り憑かれてしまったのだ。わたしがいくらあの日のことをマイナスには捉えていないということを伝えても、彼女はわたし達がどう思っているかよりも、わたし達の気持ちを考えて行動できなかったことにショックを受けているようだった。確かに、彼女が誘って来たことには驚いたけど、それに応じたのはわたしなのだ。わたしは、彼女が過去のイジメによるトラウマに苦しめられているのを知っている。季節が変わるたびに、ひどく落ち込む彼女を苦しめるのは状況の変化自体ではなく、それをトリガーに心的外傷後ストレス障害の症状が現れるからだ。そして、今回もそうなのだろうと思った。               
「佐美子ちゃん大丈夫そう?何か言ってた?」    
閉店時間まで後10分、新しく店に入って来る客の姿も見えなくなった頃に、わたしとショーケースの前に並んで立つ絵里が聞いて来た。佐美子が店に来なくなってから一週間ほど経つけど、まだ次の人を探したくはないから可能なら佐美子が戻ってくるまで連日シフトに入ってくれないかという正樹さんの提案にわたし達はもちろん了承した。そのため、絵里とはほぼ毎日顔を合わせていた。       「うん。昨日電話で話したよ。シフトが入ってる日はちゃんと着替えて部屋から出ようとするみたいなんやけど、そこで気分が悪くなっちゃうんだって」    「佐美子ちゃん、定期的に体調壊して休んでたけどそれと関係あるのかな?」 「うーん。そういう時もちょっとメンタルの調子が崩れてたみたい」   
「私もメンタルそんな強くないからたまに不安定になるのは分からなくもないけど、今回佐美子ちゃんが落ち込んでしまってることは理由を聞いても良く分からないなあ」          
絵里が腕組みして首を傾げた。        
「私たちを傷つけたからというよりも、自分に失望したんじゃないかな。自分の言動を信じれなくなって、また同じようなことをするんじゃないかっていう強迫観念みたいなものが膨らんじゃってる感じだと思う」             
わたしがそう言うと、絵里は「すごいね凛ちゃん。佐美子ちゃんの主治医だね」と目を見開いて言った。わたしは佐美子の助けになるなら、主治医にだって、カウンセラーにだってなるつもりだ。家族以外でこれほど大事に思っている人はいない。何故かって、わたしは、わたしが想像もできないくらいの苦しみに耐えてきた彼女の勇気に、タフさに、畏敬の念を持っているし、なによりも底から取って来た彼女のセンスに憧れているからだ。以前佐美子の部屋に行った時に彼女が描いた絵を見せてもらったことある。大きめのリングノートに鉛筆で描かれたその絵には大きな庭みたいな場所に座り込む男の姿が地面からのアングルで描かれてあり、その男の足元に生える草だけが細い緑のペンで色が足されてあった。わたしが誰なのか聞くと、彼女は、知らない人と答えた。自分の撮った写真に偶然写った男性五人を混ぜて五で割ったらこういう風貌になるだろうとイメージして精神病院に入院する狂人を描いたと言っていた。晴天の空に浮かぶ太陽を背に少し逆光気味に描かれた男の顔はこれ以上ないくらい満面の笑顔を作って目の前の雑草に笑いかけていた。わたしはその男のどこまでも優しい眼差しを見て気持ちが安心するのを感じたし、佐美子の想像力に感動して涙が止まらなかった。自分から近い人にこんなことができる人がいることが嬉しかったし、そんな人に自分が度々感謝を伝えられていることがわたしに自信を与えていることを知ったのだ。泣きながらわたしが、あんた全身センスだよと言うと、彼女は全身タイツみたいに言うなやと言って笑った。そして彼女はわたしと肩を合わせてその絵を見ながら、私いつか映画撮りたいんよねえと恥ずかしそうに小さい声で言った。わたしの役目は、決して癒えることの無い彼女の傷口が開いた時に、彼女が完全に折れてしまわないようにその傷口に包帯を巻き続けることだ。わたしは何があってもその映画を観てみたい。 

 わたしは仕事終わりに正樹さんのアパート近くまで来ていた。正樹さんと一緒に店から帰って来たわけでも、あらかじめ連絡をしたわけでもなかった。わたしはズボンのポケットからケータイを取り出して「正樹さん」と横に表示された番号をタップした。               
「凛ちゃん?お疲れさま。どうしたの?」   
彼の喋り声の後ろから電子レンジの音が聞こえた。             「あ、お疲れ様です。今正樹さんの家の近くまで来てるんですけど。部屋に行っても良いですか?」                 
「え、急だね。良いけど、どうしたの?」    
「直接話したいことがあるんです」              
彼がわかったと言ったので、わたしは近くのコンビニに行った。冷蔵庫にあるストゼロを三本手に取り会計を済ませて出入り口に向かう。自動ドアが開き、ちょうど私と同時に出ようとしたストゼロが大量に入ったコンビニ袋を下げた男の人と目が合った。そんなとき、わたし達は一人じゃないことを互いに確認し合う。彼と言葉を交わしたことはないしこれからも言葉を交わすことはないだろうけど、その応援の眼差しによって、わたしは今からすることの覚悟を決めることが出来た。
 わたしは道すがら一本だけストゼロを空けてアパートまで行きインターホンを押した。    
「お疲れさま。急だったから前来た時より大分散らかってるよ?」       少し硬そうな素材の上下黒のスウェットを着た正樹さんがドアを開けてわたしを中に通しながら言った。                 
「大丈夫です。迷惑かけてごめんなさい」   
「迷惑では無いけどさ」           
正樹さんが笑って言う。中に入ると、ローテーブルの上に先ほどコンビニで見かけたのと同じ温めるだけで食べられるラーメンが手を付けずに置いてあった。電話をしている時に温めていたものだと思った。                 「やっぱりわたし、正樹さんとお付き合いしたいです。それが無理ならもうあのお店辞めます」        
「え、強引だなあ」             
正樹さんは驚いた様子でまあ座りなよと言った。わたしはソファに座りながら目の前にあるラーメンの容器を見つめて「わたし、もう今の状態で同じ空間に正樹さんといるのが耐えられなくて」と言った。容器の表面は野菜が覆っているため麺が見えない。「こういうのを嫉妬って言うんですかね。別に正樹さんと佐美子ちゃんが話してることが耐えられないっていう意味じゃないですよ。わたしが正樹さんのことが好きなことを正樹さんは知っていて、でも正樹さんは店では皆に平等に話しかけるでしょ?正樹さんがわたしに話しかけてくれる時、わたしは「わたしの番だ」って一瞬喜んでしまうんです。でも、その時が終わると何か自分が飼い主について行く集団の犬の一匹になったみたいな気がして惨めになってしまうんです。もちろん、諦めないって言ったのはわたしなんですけど、耐えられなくなっているのも事実なんです」                    
「うーん。そう言われてもなあ」         
正樹さんが本当に困った顔をして言ったので、「答えが出ない場合も辞めます」と私が言うと、彼はカーペットの上に座ったまま首を支えるように口に手を当てて黙り込んでしまった。    
「重たい関係でなくても良いんです。お試しだと思って付き合ってくれませんか?もし、佐美子ちゃんと上手くいきそうなら、その時はわたしは別れて良いですから」                
「とにかく、今の状態であの店にいるのが耐えれないってことなんだ?」                 わたしはソファから下りてカーペットに正座して彼と同じ目線になり、それから土下座して「お願いします」と言った。わたしは額にサワサワと当たるカーペットの長い毛を感じながら、二週間ほど前にこのカーペットの上で起こったことを思い出していた。                      
「俺、」正樹さんはそう言った後少し間を置いて「女の子にこんなに必死にアプローチされたことないから、今ちょっと感動してる」と言った。「ごめんね、不謹慎なこと言ってたら」     
「不謹慎なんかじゃ無いですよ」          
わたしは顔を上げずにカーペットに突っ伏したまま言う。                           
「いいよ。こちらこそよろしくお願いします」それを聞いて、わたしは顔を上げて小さく頷いた。「はい。じゃあ、今日はわたし帰ります。急にすみませんでした」そう言ってわたしは部屋を出た。今のわたしの頭の中には佐美子のことしかなかった。こんな脅すような告白の仕方をしてしまったことで、わたしの正樹さんへの気持ちは綺麗に無くなっていた。今は佐美子がダメになる前に、それだけを考えていた。今の佐美子の落ち方は、外部からの危害や変化からではなく能動的に行動した結果によるものだから、自ら落ちて行っているように思えた。出てきたトラウマを追い払わずに自らその中に浸り沈んで行っているように思えた。その証拠に、彼女がこんなに長く仕事を休んだことはなかった。今まで外からの悪意や変化に神経を集中して来たことによって外の甲羅ばかり硬くなって、内側の柔らかな部分と向き合うことはして来ていないはずだと思った。今の彼女は、まるで自分を罰するかのように自分を否定してる。純度百パーセントの善も悪も存在しないように、人は必ず間違える。間違えるから今まで気づかなかったことに気付く。彼女固有のセンスはその過程で取って来たものだ。欠落は才能なのだ。佐美子は佐美子のままで良いのに。間違いも含めて合っている、わたしは、彼女のいびつさを愛しているのだ。
わたしは佐美子の部屋のインターホンを押した。ケータイを見ると十二時近くになっていた。ドアが開いて、久しぶりに見る佐美子は元から華奢な身体つきがさらに痩せていて、頬がひとまわり小さくなったことで大きい目が腫れているように見えた。                         
「凛ちゃんどしたん?」                
青色の縞模様のちゃんちゃんこを着た佐美子が眠そうな顔でわたしを招き入れた。         
「佐美ちゃん、わたしね、正樹さんと付き合うことになったよ。佐美ちゃんのおかげやで」     
わたしはできる限り明るい声で言った。       
「私のおかげって?」                 
佐美子は驚いているのか表情を変えなかった。
「わたし、一回正樹さんに振られてたけど。この前のことで、わたしのことが気になるようになっちゃったんやって」そこまで言ってわたしは異変に気づいた。佐美子の顔が一瞬にして真っ白になっていったからだ。      
「どしたん佐美ちゃん?顔色が」        
「なーんや。私、馬鹿みたいやね」佐美子はそう言って爆発したように笑い出した。「おめでとう。本当に。そうだね、私のおかげかもね」 笑っているうちに今度は彼女の顔は真っ赤になっていった。最近の異常な精神状態から解放されたから神経が暴走してるのかもしれないと思ったけど、わたしは一つだけ懸念していたことを口にした「佐美ちゃんは、ほんまに正樹さんのこと好きと違うんよな?わたしたちに気を遣って興味ないって言ってたんとは違うんよな?」      
「何言うてんの、わたしそんな気持ち悪いことせえへんて。あー、取り越し苦労やったわ」    
「そっか。うん、佐美ちゃんの暴走のおかげやで」                              
そしてわたしも一緒になって笑った。「一刻も早く佐美ちゃんにお礼言いたかったんよ」わたしがそう言うと、笑っていた佐美子の顔が急に歪み、彼女は玄関口に倒れるように座り込んでしまった。だめだった。傷口の開いた彼女の自己嫌悪から彼女を自由にするにはこんな生やさしいものではもうだめだった。「佐美ちゃん今から出かけるで」   
わたしはたった今思いついたことを口に出した。
「え、今から?もう十二時過ぎてるで」赤い目をした佐美子がわたしを見上げて言った。
「ペルー行くよ、前に話してたアヤワスカやりに行こう。とりあえずこれ」   わたしはそう言って佐美子にストゼロを差し出した。佐美子は虚ろな目で差し出されたものを見てわたしの手から怒ったように缶をひったくりプルタブを引いて一口だけ飲み台所に向かって投げ捨てた。                   「佐美ちゃん、死ぬんだけはあかんよ」佐美子は缶を投げたまま台所の方に向いて床に手をついて下を向いているため表情は分からなかった。「わたしは佐美ちゃんの苦しみは想像することも出来んけど、もしかしたらそれは死ぬよりも苦しいことなんかもしれんけど、でもわたしのわがままで絶対に死なせてあげんよ。わたしが絶対に佐美ちゃんが今沈みかけてるとこから引き上げるから」  
       
 アヤワスカは主にペルーのアマゾン川周辺に住むシャーマン達がヒーリングセレモニーで使う植物であり世界最強の幻覚剤だということを、前に動画投稿サイトで見たアメリカのドキュメンタリー番組で知った。鬱やトラウマを初め、あらゆる精神疾患に効果があり、治療という目的の有無に限らず世界中から人がセレモニーを受けに集まって来るらしい。佐美子にもそのドキュメンタリーを見せたことがあり、一生に一回は経験してみたいよねと二人で話していた。わたしは佐美子に、そのセレモニーに参加しに行こうと提案したのだ。
 わたしは、大きい黒目に光の無くなった佐美子が無表情でスーツケースに荷物をパッキングしているのを見て怖くなりながら、ペルーのアマゾン地帯の情報をケータイで調べて持ち物の注意点を彼女に伝えていった。            「アマゾンは一年を通して高温多湿で、十八~三六度くらいだって、日本の真夏だね。でも、虫が多いから長袖長ズボンの方が良いらしいよ」

(挿話)
 気がつくと私は少し埃っぽい床の上で女の上に馬乗りになり、その首に深く手を食い込ませていた。また記憶が飛んでいたけれど、どちらにせよこうしようと決めていたのだから別に良いと思った。目の前でどんどん赤黒くなっていく女の表情は完全に諦めていて、殺されることを受け入れているように見えた。しかし、身体は防衛反応で少しでも酸素を取り込もうと口と喉の間でヒューヒューとくぐもった音を立てている。女が抵抗する素振りを見せないので手に力を入れたまま顔を上げてみると、目の前にある足元まで届く縦長の鏡に自分の顔が映り一瞬悪夢でも見ているのかと思った。鏡に映る私の顔が目の前にいる女の顔と同じだったからだ。女の顔は今や青白くなり目はこれ以上ないくらいに充血していたが、それでも鏡に写っている私の顔と同じだった。女の顔は私と同じだった。私だった。そして不意に、人を殺すことは、自分を殺すことだということを理解した。でもそんなことは前からわかっていたような気もした。人を殺す度に、恐怖心とでも呼ぶべき世界に対する私の肌感覚みたいなものが希薄になって行ったからだ。それは別に不快なことではなく、ある種の終わりに近付いているような気配が私にとってスリルであり喜びだった。私に殺された人は触媒となって私を殺す。彼らの笑顔と彼らの血の間にある超過的な事象が私を殺す。そうだ、私は自分を傷つけることに快感を得ていたのだ。殺して殺して、そうやって生きている実感を得て、最後の心がなくなるまで。

 わたし達はペルーの首都、リマのホルヘ・チャベス国際空港の玄関口から外に出た。日本とは明らかに違う匂いが、佐美子の部屋から無理矢理出発して現実味を欠いていたこの旅から少しだけ罪悪感を拭い取ってくれた。二人ともパスポートの期限は切れていなかったので、あのままわたしの家に寄ってパッキングしたあと成田空港からアメリカ、テキサスの空港を経由してここまで飛んできた。日本を発つ前、緊急事態なので佐美子ともども数日間出勤できないというお詫びのメールを正樹さんに送ったけど返事が返ってこなかった。テキサスの空港で絵里にメールを送り正樹さんに連絡してもらったけど、彼女も正樹さんと連絡が取れないようだった。           
「うわぁ外国やなあ。とりあえずなんか食べようや」           
日焼け止めを塗らないとすぐに肌がボロボロになってしまいそうな日差しの強さに佐美子が目を細めながら言った。佐美子は成田を出発するまでは口数が少なかったけれど、長時間のフライトでたっぷり寝たあとからは旅の途中に暗くならないよう気を遣っているのか元気だった頃の彼女を作っているようだった。旅に出て、自我が麻痺している少しの間だけ苦しみから遠のく経験はわたしにもある。このことは、本質的には傷から自由になれるわけじゃないけど、一時的にでも苦しみを感じていない期間を作れるという経験は自信につながるものだ。      
「じゃあ、バス乗り場の周辺で食べ物屋さん探そう」          
目的のアマゾン川付近にあるプカルパという場所に行くためには長距離バスに乗らないといけないので、わたし達は少し黄ばんだローカルバスに乗り街中にある長距離バスのターミナルを目指した。その途中、ローカルバスは旧市街を通り、わたしはその建物の美しさに驚いた。というのも、わたしが動画で見たのはペルーと言ってもアマゾン付近のみだったのでこんな綺麗な街並みがあるとは知らなかったからだ。わたしが、この辺ちょっとイタリアとかスペインっぽいなあと言うと、「歩いてる人が全員イタリア人だったら素人目にはここイタリアです言われても分からんかもなあ」と佐美子が笑って応えた。でも、全体的に統一感の無いくすんだ色味がある建物も多く、ヨーロッパの旧市街に比べるとどことなく簡素で安っぽい感じもした。
 街中にある高速バスターミナルの近くで降りると、どこからともなくサンバのような打楽器の音楽が聞こえた。その陽気な音色にこの旅を茶化されている気がして、小っぽけな自分が際立ち一瞬怖くなった。店の前に立って呼び込みをする浅黒い肌のペルー人、英語で話す2メートル近くはありそうな中年白人男性の観光客たち、旧市街にあった石造りの巨大な教会から来たと思われる宗教着を着た老人などが皆一様に大股で歩いている。少しあたりを散策すると様々な匂いがする飲食店が立ち並ぶ路地に入り、繁盛しているサンドイッチ店があったのでそこで食べることにした。空港で円から換金したソルで支払いをすると、物価の違いから巨大なサンドイッチが日本円で百二十円ほどだった。             
「あ、ペルーってスペインの植民地やったからあんなヨーロッパっぽい古い建物残ってんねんや」       
店の電波を使いケータイをいじっている佐美子が分厚い BLTを華奢なアゴを使ってかじりながら言った。なるほどなぁと返事をしながらわたしもケータイを見ると、絵里から「今日出勤したら正樹さんは来ていなくて、店のドア自体が閉まってた。とりあえず帰って正樹さんからの連絡を待ちます」とメールが来ていた。もうとっくに開店時間を過ぎていた。とりあえず今日はわたし達だけのせいで店に迷惑をかける心配は無さそうだと思った反面、優さんならともかく正樹さんが無断欠勤したことなど無かったので何かあったのかもしれないとも思ったけど帰るまで佐美子には言わないことにした。とにかく弾丸旅で終わらせ出来るだけ早く帰ろうと思った。      
 分厚いサンドイッチを食べ終わったので店を後にし売店で水と軽食を買ったあと、バスターミナルでチケット買い一時間ほどターミナル内の椅子に座って待った。プカルパ行きの長距離バスに乗り込んだ際に運転手からパスポートの提示を求められたので意外だったけど、なんとかわたし達は後ろの方の席に座りひとまず落ち着くことが出来た。                   
「ペルーはバスの中にスリがめっちゃいるらしいから気いつけなあかんよ。特に長距離は寝てる間にも盗られることあるって」         
わたしはテキサスの空港の長い待ち時間でペルーに着いてからの交通手段を調べているときに見つけた情報を話していった。         
「凛ちゃんなんか寝てる間に胸触られるんじゃない?その胸は捕まる危険を犯してでも触りたくなるよ」佐美子が財布やケータイをリュックの奥の方に仕舞い込みながら笑って言う。流石にそれはないと思ったけど、先ほどわたしのパスポートをチェックした固太りの運転手のおじさんが白いリネンのシャツを着たわたしの胸元に露骨に目線を落として来たことには驚いていた。
「しゃーないよ、エロいもん。その細い首筋や肩からの巨乳は犯罪よ」     「エロおっさんみたいな褒め方するな」私も笑って返しながら「運転手にさっき凄い見られたからリアルなんよ」と言った。         
「しゃーないよ、凛ちゃん小柄で童顔で巨乳やからなんか犯罪じみてるんよ。服着ててもエロレベルはトップレスと同じよ」                 「まだ言よるわ。乳イジりしつこいぞ」わたしはそう言いながらも、佐美子がいつもの調子を取り戻して来たことが嬉しかった。「佐美ちゃんもそんな細身のズボン履いてヤバいんやない?爆睡してたら太ももからそのままおまんこ触られるかもよ」     
「ちょっと」                
佐美子が慌ててわたしの肩を叩いた。     
「良いやん、考えたら日本人わたし達だけなんやからなんでも言い放題やで。こんな機会滅多にないから言っとこうや、まんこちんこまんこちんこ」       「あー確かにそうか、まんこちんこまんこちんこ」
バスが出発し街から離れると、徐々に建物の背が低くなり流れていく風景の色味も地味になって行った。自然も増えて来たけれど日本の田舎と比べると建物もそうだけど全体的に風景に茶色が多く国自体が貧しいのだということが分かった。川の横に立つ家々などは映画で見たフィリピンの貧困地区を思い起こさせた。でも、人の雰囲気に日本より自由さがあるので、その開放感を加味すると辛気臭さは日本の田舎とトントンだとも思った。
 それから寝たり起きたりを繰り返して、バスに乗ってから何時間経ったのか確かめるために顔を上げると外の風景が絶景に変わっていた。   
「何これ?」                
わたしが窓の外にある夕日をバックにそびえる絵みたいな巨大な山々を見ながらちょうど起きていた窓際に座る佐美子に聞いた。       
「あれじゃない?アンデス山脈じゃない?空港で調べてるとき載ってた気がする」         
わたしは通路を挟んで左隣の座席に座っているペルー人のおばさんに「アンデス?アンデス?」と窓を指差しながら聞いてみた。額に濃い皺を持つおばさんは怪訝そうな顔をしながら細かく頷いてすぐにそっぽを向いてしまった。     
「アンデスだわこれ」            
 陽が落ちて山脈が見えなくなったので、リュックの中を漁りバスに乗る前に売店で買った菓子パンを食べたけど甘過ぎて味がよくわからなかった。しばらくすると車内灯が暗めに落とされたため、持ってきた文庫本を読むことも出来ずまた寝ることにした。たまに起きたときにうとうとしながら見る窓の外から迫る闇夜は日本よりも黒く感じ、水のような質量を持っているように見えた。そしてこの闇が圧力に耐えかねた窓を突き破ってわたし達を飲み込んでしまうんじゃないかという気がした。日本からの距離がそう感じさせるのか、実際に夜の密度が濃いのかは分からなかった。わたしは、薄暗い車内灯の下で膝を座席に上げ丸まって寝ている佐美子の顔を見た。顔が綺麗だからか、その表情から苦しみの気配を読み取ることはできなかった。口を少しだけ開けて穏やかに寝息を立てているこの子が、今まで何度も一人でひっそりと自分の頭の中で命のやり取りをして来たのだと思うと、彼女の孤独の千分の一の感覚も理解し得ない自分にもどかしさを感じた。
 佐美子に肩を揺すられて目を覚ますとアマゾン脇に広がる都市、プカルパに到着していた。
「あー着いた。身体バッキバキやわ」       
わたしに続いてバスから降りた佐美子が伸びをしながら言う。「何時間乗った?」
「二十時間弱」               
「ひえー、帰りもこれかあ。がっつり寝れたらえんやけどなあ」       「こんなかかるとは思ってなかったわ。帰りこの辺りから飛行機飛んでないか調べようや」   
バスターミナル脇には大きい三輪バイクの後ろに屋根のある客席を乗せたトゥクトゥクが何台も停まっていた。わたしは一番温厚そうなおじさんのところに行き、サンフランシスコ村に行きたいと英語で言ってみると、おじさんはそのワードだけで理解した様子で何も言わずに座席を指さした。途中で市場があったので、一度停めてもらい水と果物を買った。そして生暖かい風を切りながらもうしばらくトゥクトゥクに揺られていると巨大な川が見えてきた。川に大量に浮かんでいる船は全て古く、川の前の通りにずらりと並ぶ露店には見たこともないような魚が所狭しと並べられている。                   
「あれ、ピラニアやない?」         
佐美子が露店を指差して言う。        
「え、ピラニアって食べられるんや」     
「なんかあんまり身がなさそうやな」     
トゥクトゥクを降りて、ボートの近くに立っているまた一番温厚そうなおじさんに近づいてサンフランシスコ村と今度は単語だけを伝えてみると、おじさんは後ろに浮かんでいるモーター付きの小型の船を指さした。
 三十分ほど船に乗ってアマゾン川に続く川を渡りようやく目的地に辿り着いた。シャーマンがアヤワスカを使ってヒーリングの儀式をすることで有名なサンフランシスコ村だ。陸地を進んで行くと、道は未舗装かつジャングルのような様相を呈してきた。人の姿がチラホラと見えだして、村の入口と思われる場所に立つ中年太りした裸のおばさんの不気味な銅像に出迎えられた。建物は原始的なものが多く、トタンや木や藁のようなもので造られている。木で出来た大きめの家の前に屋根のついた休憩場のようなところがあり、そこによく日焼けしたわたし達くらいの年の男の人がいたので近づくと、アヤワスカ?と声をかけてくれた。わたしは大学進学の助けになるように英語検定を頑張っていたことがあったので少しだけ英語が話せる。この男の子はしょっちゅう観光客の相手をしているためか、わたしと同程度のつたない英語でコミュニケーションを取ろうとしてくれた。しばらく話して分かったのは、彼のおばあちゃんがシャーマンをしていて、そこで良いならバイクに乗せて連れて行ってくれるということだった。右も左も分からないわたし達は促されるまま家の入口近くに停めてあったトゥクトゥクの客席に乗り込んだ。
 左右に木々が生い茂るバイクがギリギリすれ違えるほどの道を揺られていると、前から小さな女の子がノーヘルでトゥクトゥクを運転して来るのが見えた。   「免許とか無いんかな?」          
佐美子が心配そうな顔をして笑う。     
「ジャングルやし無いんやない?佐美ちゃんあのバイクの後ろ見てみ、妹みたいなん乗せてるで」わたしがすれ違いざまに女の子が運転するバイクの後部座席にちょこんと乗っているさらに幼い女の子に笑いかけると彼女は手を振ってくれた。この村の雰囲気はとてものどかで人も優しい。そして、わたし達の乗るバイクを運転する青年が着る真っ青な半袖シャツがはためくのを後ろから見ていると一瞬自分が何をしにここに来ているのか忘れそうになった。更に先に行くと、藁と木で出来た簡素な家の前に座って細い木をナタで切っているおばあさんが見え、バイクはその家の前に停まった。 青年はバイクから降りるとおばあさんのところに行き何やら話しだした。ナタを置いて立ち上がりこちらに来たおばあさんはわたし達に握手し、青年は彼女がシャーマンだと紹介した。
 夜、セレモニーが始まる前にシャーマンの息子が英語が話せない彼女の代わりに説明をしてくれた。セレモニーの途中は常に感謝の気持ちを忘れないこと、シャーマンの歌がトリップを導いてくれるのでそれに従うこと、バケツを用意しているので吐き気が来たら我慢せずに吐くことと言われた。アヤワスカを使ったセレモニーにおいて、吐くことは浄化作用があるとされていて基本的に良いことであるらしい。わたし達はシャーマンの家の裏にある高床住居のような建物に階段を登って中に入った。虫が多いためかバイクに乗ってここまで来るまでもこのような形の家をよく見かけた。中に入ると、中年の男女とおじいさんの三人がセレモニーに参加するために集まっていた。わたし達以外は全て白人だ。わたし達はその人たちと握手をして、中年男性からどこから来たのか聞かれたので、ジャパンと応えた。中年の男女はオーストラリアから来た夫婦で、おじいさんはアメリカ人で数年前からペルーに住んでいるらしい。部屋を照らしていたランタンが消され、光源はシャーマンが持つ小さい懐中電灯のみになった。シャーマンが透明な一升瓶からグラスに茶色の液体を流し込んだ。先ほど、作る過程を少し見せてもらったものだ。アヤワスカはカーピと呼ばれる幻覚作用のある成分を持つ植物を中心に色々な薬効効果のある植物を煎じて作る。懐中電灯の明かりを頼りに一人ずつシャーマンの前に行き、アヤワスカの入ったグラスを受け取り一気に飲み干した。味は今まで口に入れたあらゆるものの中で一番苦かった。その独特な苦さは、昔、わたしが冷え性の治療のために飲んでいた漢方に少し似ていた。                  
「この苦さで既に吐きそう」         
わたしの次に飲んだ佐美子が眉間にシワを寄せて言った。「どのくらいで効いて来るんやっけ?」
「三十分から一時間くらいって言ってたよ」 
シャーマン自身もグラスに注いだアヤワスカを飲んだあと、パイプで日本では嗅いだことのない匂いのタバコをふかし自らの肩に煙を吹きかけながら閉め切った部屋に煙を充満させていった。
 シーンとした部屋の外から虫の声だけが聞こえてくる。三、四十分は経ったはずだけど何の効果も感じられなかった。オーストラリアから来た男性も同じなのか二杯目をシャーマンに頼んで注いでもらっている。一時間ほど経ちシャーマンが静かに歌い出した瞬間、黄色い光が額の上のあたりに見えた。歌だ、と思った。アヤワスカの入った脳が本当にシャーマンの歌に反応している。わたしは横に置いてある小さいバケツを掴んでスタンバイした。シャーマンが歌う民族的な歌声のテンポが速くなり、それと共に手が痺れて来て一度視界が小刻みに揺れた。先ほどまで聴こえていた周りの人たちの衣擦れの音や虫の声が全く聞こえなくなり、彼女の歌声も壁一枚を隔てたようなくぐもった音になった。呼吸が浅くなり、熱がある時のように身体が怠くなってきた。左にいる佐美子の方を見ると、彼女も同じように肩で息をしながら床の一点を見つめている。わたしは汗をかき始めた手で佐美子の手を握った。懐中電灯の光が数秒に一回激しく膨張し始め、だんだんとその膨張の度に部屋全体がフラッシュを焚いたように真っ白な光に包まれ始めた。佐美子はわたしの手を離してバケツに顔を突っ込んで吐いた。背中をさすってあげようと手を伸ばそうとしたけど面倒になってやめた。それほどに身体の怠さがひどくなっていた。目の前で佐美子が吐いている光景が夢なのか現実なのか分からないと思ったとき部屋が真っ暗になった。しばらくすると視野の中心に米粒ほどの赤い点が見えてきて、その一点から蜘蛛の巣のように赤い線が外側に向かって何本も伸びて行くのを目で追っていると、それが自分の眼球表面に走る血管であることがわかった。その血管は徐々に迫ってきて、または自分自身が血管に迫っていき、顔から点の近くにある一本の血管の内部に入った。血管内の壁には一本一本にたっぷりと血が含まれた毛が無数にびっしりと生えていて表面は不思議と濡れておらず、わたしはそのカシミヤのような滑らかな感触を感じることが出来た。血管の奥に見える曲がり角から、漆で塗られたような光沢を持った濃い焦茶色の木の船が来て、船の一番後ろには船頭が立ち、オールを操作しているのが見えた。船頭は膝下まで届く真っ黒な雨がっぱを着ていて深くフードをかぶっているため顔が見えない。        
顔が見えない。               
顔がない。                   
思考を拾うのが億劫になると、それはある始まりを意味しているのだと思った。わたしは船に乗り、最後の旅に出た。自分の手が見えない。    
戻れない。                 
怖い。                    
船が進み角を曲がると、灰色の洞窟の広場に出てその中心に浮かぶ砂利と岩で出来た島に船が止まった。船頭は動かない。わたしの意思とは関係なく景色は動き、島に上がる。ライトの無い洞窟でも前が見えるのは島の真ん中にある大きな岩の中に青く光る水があるせいだ。それを見えない手ですくって飲む。わたしが水を飲んでいるのか、水がわたしなのか分からなくなる。      
わたしって何?                   
口の中に吸い込まれ、歯に当たり、舌の上を滑り、食道に吸い込まれると真っ暗な、とても真っ暗な中に、ここが帰る場所だと分かる。暗闇の四方、三六十度に吸い込まれて恐怖が消える。恐怖とはわたしがあることで生まれるから、わたしを放棄する。恐怖は元々一つだったところからわたしとして分離するから現れるもので、それは帰りたいという細胞一つ一つの欲求だった。帰ってきた。ただいま。そう口に出した瞬間にわたしは音、いや歌が変化したのを聴いた。暗闇の中で目が慣れてきて、前に伸ばす自分の手が見えて、その直線上に佐美子がバケツに顔を突っ込んでいるのが見えた。その瞬間、わたしはアヤワスカを飲んだことを後悔した。五秒も経っていなかった。佐美子がわたしが握っていた自分の手を離して吐き出した時わたしが彼女の背中をさすろうと手を伸ばした瞬間から、わたしは永遠にも感じるビジョンの中に入っていった。でもその時から、まだ数秒も経っていない、いや一秒も経っていないかもしれなかった。体感時間と実際に流れる時間の差が大きすぎる。戻れなくなる。このまま、「永遠」に閉じ込められてしまうという圧倒的恐怖が襲ってきて、死んだ方がマシだと思った。早く終わらせて欲しいとシャーマンに叫んだけど、鼻と喉の奥からヒューヒュー情けない音が鳴るだけだった。わたしはシャーマンの方に手を伸ばして、細かい土と砂でジャリジャリ鳴る床を叩いた。シャーマンが気付いて歌いながらこちらに近づいてきた。彼女はわたしの目の前に座って、クリーム色の上着のポケットから紙巻きタバコを取り出してマッチで火をつけた。数回ふかした後、口に溜めた煙をわたしの頭と肩に吹きかけて、口にタバコを加えたまままた再度ポケットに手を入れて、缶のケースを取り出して蓋を開け、その中から薄いオレンジ色のワセリンのようなものを指で掬ってわたしの額と頬に塗った。それはひんやりとして少し気持ちが落ち着いた。彼女は弛んだまぶたの奥からのわたしの目を見て「アイ・フォロー・ユー」と言ってから立ち上がり、吐き終わって横になっている佐美子にも同じように煙を吹きかけてクリームを顔に塗った。シャーマンはわたしに着いて行くと言った。わたしは現実に集中することで意識を引き止めていたけど、それは怠さと吐き気を引き止めることでもあった。シャーマンはわたしに着いて行くと言った。わたしが意を決して張り詰めた神経を緩めた瞬間に周りにいた人たちが消えて、宇宙空間のような暗い場所に出て実際に体感温度が二十度は下がった。先ほどのように自分の意思とは関係なく視界が前に進み、グロテスクな模様の惑星や恒星の間を何回も何回もくぐり抜けあっという間に宇宙の端にたどり着いた。端は意外に黒くなく灰色でざらざらしたコンクリートに似た物質でできた壁だった。その壁のデコボコの一部が笑っている人の顔のようになっていて、怖い気もしたけどしばらく見つめていると、段々とその顔の輪郭が緑色になって来てその部分にポコンと穴が空いた。わたしはその穴に人智を超えた意図を感じたのでそこに顔を突っ込んだ。そうすると、鼓膜が破れるんじゃないかというくらいキーンという爆音が穴の中に充満し、なんだか怒られている気分になったので腹が立ち、うるさいと奥の方に向かって金切り声で怒鳴ったら、暗闇の中から強く発光する頭を真緑に染め上げたカーネルサンダースが微笑みながら現れて、わたしが驚いて顔の近くに上げたてのひらにハイタッチした。「客観性とは統計的なものの考え方だよ」と彼はわたしの耳元で優しく教えてくれながら真っ白な上着の右ポケットから食べさしのフライドチキンを取り出して尖った骨の部分でわたしの目を突いた。再び暗闇になったと思った瞬間にはすでにわたしは人面魚と一緒に大海原を泳いでいた。わたしは列を崩さないように泳ぐ人面魚のうちの一匹で、記憶もない魂だけの存在になるために泳いでいることを知っていた。どこかにたどり着くことで魂になれるのではなく、泳ぎ続けることで魂になれることをわたしは知っていた。真っ直ぐに一列に伸びる何千匹もの青緑色の人面魚の背中の先を見据えると海水は段階的に青から黒に変わっていき、一番奥は真っ黒で、でもその中心に、ぼんやりと白い光が見えた、光は長方形の四角い箱に閉じ込められて窮屈そうにしている。あれはコンビニだと思った。
わたしは手に持った黒いラベルのビールのロング缶の先を口に押し付ける。 
黒い星って良いよね。               
コンビニから出てきた佐美子が言う。わたしは彼女が何のことを言っているの分からなかったけど、普通に聞き返したらノリが悪いと思われそうで適当に相槌を打った。              
乾杯。                            
佐美子がそう言って、手に持っている缶のプルタブを引いてわたしの手に持っているものにぶつけてきた。わたし達は仕事のシフトが被った日に週に一回はこうやって二人の帰り道にあるこのコンビニの前でお酒を飲んでから帰る。至福の時だ。一人で飲むのも好きだけど、こうやって乾杯する瞬間のワクワク感は一人では味わえない。わたしはこの子と一生こうやって乾杯し続けるのだと思っている。    私、凛ちゃんと別れる。                え?                           
好きな人できたんだ。               
わたしは既に熱くなり始めていた頬の熱の正体が、皮膚の下にドロドロと蠢く真っ赤な熱い血なのだということに気づき、そういう柔らかいもの全てを憎んだ。肌も、髪も、上着のポケットに押し込んだ手袋も。全部嫌いだ。

わたしは手に持ったみずみずしいレモンの写真がプリントされた缶の先を口に押し付ける。 
あっつ。焼けるわ。             
コンビニから出てきた佐美子が言う。わたしは彼女が何のことを言っているの分からなかったけど、普通に聞き返したらノリが悪いと思われそうで適当に相槌を打った。           
乾杯。                   
佐美子がそう言って、手に持っている小瓶の蓋をキュッと回して開け、わたしの手に持っているものにぶつけてきた。ゴッという鈍い音がして不快感を感じた。わたし達は仕事のシフトが被った日に週に一回はこうやって帰り道にあるこのコンビニの前でお酒を飲んでから帰る。わたしはこの時間が大嫌いだ。半年前に佐美子に誘われてついて行ってしまったのが運の尽き、習慣化してしまったこの最低の行事にいつも断る理由を見つけられず今日まで来てしまった。         
私、この時間が一番好き。          
そうだね。                 
白い蛍光灯って基本的には辛気臭いのに、何でコンビニのはオシャレなんやろ。
夜だからやない?              
家の蛍光灯だって夜につけるじゃん。     
うーん。明るさ?                
わたしはそう言いながら早く家に帰りたいと思った。彼女がしょっちゅう発する今みたいな終わりの見えない疑問には飽き飽きしていた。わたしは彼女のことを友達だと思ったことはない。無神経に見つめてくる彼女の目線が嫌いだ。一年中履いている彼女の拒食症みたいな足にまとわりつくスキニーパンツが嫌いだ。テンションによって不安定に音程の変わる彼女の声が嫌いだ。彼女の声を聞くと、鼓膜より先に、まず肺や肝臓のあたりが振動して度を越して飲み過ぎた時に吐き気を感じ始める瞬間のような嫌な予感に苛まれる。わたしは早く家に帰りたいと思った。

わたしは手に持ったトロリとした透明の液体が入った小瓶の淵を口に押し付ける。
透明なもの飲んでも黄色い液体が出てくるの不思議やない?       
コンビニから出てきた佐美子が言う。わたしは今日何組の客の相手をしたのか全く思い出せないほど繁盛した店の余韻で神経が疲れていたので気の利いたことを言い返せず適当に相槌を打った。 
乾杯。                   
佐美子がそう言って、手に持っているショート缶をわたしの手に持っているものにぶつけてきた。彼女はいつもはロング缶を飲むけど、わたしと同じように彼女も今日の接客で疲れているのだと思った。永遠に続くような接客の毎日に句読点を打ってくれるのが半年前から週に一回の恒例になっているこのコンビニ前の飲み会だ。疲れた身体を引きずりながら、闇夜に浮かぶ白い店内に佐美子と一緒に吸い込まれるのは快感以外の何事でもない。その瞬間はいつも、この恒例行事の発端を作ってくれた彼女に心の中でありがとうと言う。快感と幸せは、全く別のものだけど、この瞬間は両方同時に感じられる。昔は他人の幸せを妬んで、いつか自分にも絶頂期が来るんだと思いながらその嫉妬をバネにもがいていたけど、こうやって、幸せのハードルを下げて、それをいくつも拾っていくことで人生を組み立てて行くのも悪くない。これが大人になったということなのか、老化が進んでいるということなのか、その境界線は常に曖昧で、だからこそ拾って拾って、両手の中を一杯にし続けたもの勝ちだ。       
胆汁が混ざる的な?             
胆汁って尿に混ざってるの?         
いや、胆汁って響きが黄色そうやから。    
胆汁は茶色やろ。              
それが薄まって黄色になるんやない?     
そう言って首を傾げたわたしに佐美子がキスをした。わたしはそれが最後のキスだとわかっていたけど、特に悲しくはなかった。彼女のことに飽きたり、嫌いになったわけじゃなかった。今、この瞬間だけは彼女の唇がわたしのためだけにわたしの脳を喜ばせていることが嬉しかったのだ。他に形容し難い感触を持つこの半分に割れた芋虫みたいな物体二つが、冷たい気温に従って冷やされた状態から擦り付け合うわたしの芋虫との摩擦によって徐々に熱を帯びていくのを感じてわたしはゆっくり目を閉じた。

目を開けると全て文字だった。机があるところには「机」という文字が置いてある。その横には「椅子」、わたしは「ベッド」の文字の上に寝ている。その文字の隙間に見える白紙の部分には白い文字で「白」という文字が隙間なく敷き詰めらていて、わたしが「白」と口に出すと、音が響く代わりに「白」が口から産まれて、しばらく部屋の中を漂った後に徐々に小さくなり消えた。下を向いてみると「胴」という文字があり、その隙間にはあらゆる臓器の名前の文字がひしめき合っていて、でもそれは重なっていて読み取れなかった。目を凝らすと副腎という文字だけかろうじて見えた。「副腎」はすごく小さかったからだ。ベッドから立ち上がり、歩くたびに足の裏から暗号のような文字が生まれ。私は「シンク」「蛇口」「浄水器」の横を通り過ぎ顔の高さにある「鏡」という文字の前で立ち止まりその黒い文字の表面を覗き込むと、スプーンの凸の部分に映るように曲がった「私」という文字が見えた。「顔」や「目」や「鼻」では無く、「私」だった。わたしは玄関口へと続く廊下へ進んでき行き、右手には「玄関」があったが前には「ドア」と書かれた文字があり、その右下にある「ドアノブ」と書かれた文字を持って下にひねり中に入ると、「布団」の上に「足」「股」「胴」「胸」「肩」「首」「顎」「唇」「鼻」「眼」「額」、それから「髪」が10万個ほどあった。その上に「過去」が覆い被さっていて、「過去」の「去」の左下の突起の部分が「股」の「又」の下の部分から出たり入ったりしていた。なんとなく「股」が嫌そうにしているなと思ったので、「私」はそこまで歩いて行き「過去」を「股」から引き離そうとしたけど「過去」はその見た目よりずっと重くてビクともしなかった。わたしが諦めて部屋から出ると、「過去」の下にいたものがまとめてわたしについて来た、二足歩行で。その集合体の後ろを見るとそれらは「過去」を引きずっていた。わたしはその集合体がちゃんとついて来ているのか気にしながら「玄関」の右下にある「ドアノブ」を下に押すと「玄関」が開いた金色の貯金箱線反射するU字に似た手すり二重のカーテンオレンジの二つ三つ熱い厚い頃ホコリダスト中のドラム似る粒一二四七引く真っ赤なサボテンの針の先から滴る血から始まる狂想曲アンカア二センチもした辞めたほうがいい夜ノクターン六冊目から自由になるとされている豆腐が涙腺から流れて綺麗なコントラストを苦い顔でさぶいぼの存在理由だるい緑色の雲が出かけるのを待っているその先には、ジャンボジェット機がエンジンを吹かしていた。キーンというジェット機の轟音が鳴り響くアスファルトの割れ目の間にアリが一匹首を上げてこちらを見つめている。アリの目をよく見ると複眼になっていることが分かる。その蜂の巣みたいなヘキサゴンを見つめていると、アリが巨大化した。いや、わたしがアリの複眼のヘキサゴンの一つの角の一つのさらに黒い点々の中の一つの真ん中の黒と灰色が混じり合う中にジャンボジェットよりも速く入って行った。アリの目の中に入ると、またアスファルトの上にアリがいて、それがループする。これはどこかで見たことがある。合わせ鏡の片方を覗いた時に見える景色だ。いやそれよりも、ビデオで撮った映像をまたビデオで撮ってを繰り返して遊んだ時に見たものだろうか、不吉なものは何番目に映るんだっけ。見たくない。そう思って目を固く閉じたけど、景色は何ら変わらずにまたアリの眼がこちらに近づいてくる。もう目を閉じているのか開けているのかも分からなくなってきた。そうしている間にももう1500匹ほどのアリの目を通過した。そしてまたアリの眼が近づいてくる。
「アリの眼が」    
「凛ちゃん」                
佐美子に呼ばれて目を開けた。「アリの眼がどしたん?」          
わたしは全身にびっしょりと冷たく気持ちの悪い汗をかいていて、下着やシャツが肌に張り付いている。それなのに、わたしは愛に包まれていた。おはよう、とニヤニヤしながら言ってくる佐美子がたまらなく愛おしかった。顔を上げると昨夜閉め切られていた入口のドアが開けられていて、そこから見える木々が目視できることから外が白み始めていることが分かった。
 この部屋にいた他の皆はもう外に出たらしくわたしたち以外は誰もいない。部屋は昨夜にランタンの光で見たよりも狭く感じた。佐美子も先ほど目を覚ましたばかりらしい。わたしは彼女とドアの近くまで行き三十分ほどボーッと外を眺めた。空が青っぽい白から黄色みがかったものへと変化しサンフランシスコ村に朝日が差した。夜露を表面に蓄えた様々な濃さの緑の葉がそれに呼応するようにキラキラと光っている。太陽が昇るにつれ村の人が今日の生活を始める音が聞こえてくる。朝食の準備のために穀物をすり潰す音。朝から練習に行くのか子どもがサッカーボールを蹴りながら通り過ぎる音。痩せた犬がその少年の後を吠えながらついて行く音。薪を取りに行くためにおじさんが大きなナタを軽く研ぐ音。船で三十分川を渡ればスマホを使う人々が住む場所に行けるのに、この村の人たちは原始的な生活を今日も始めた。何の疑問も持たずに朝の動作をするここの人たちの出す音には、こだわりという言葉が陳腐なものに聞こえる何かがあった。この村の人たちの表情は文明化された場所に住む人たちには無い軽やかさや穏やかさがあった。わたし達の住む場所で当たり前にまかりとおっている当たり前の重圧がここには無かった。
 わたしと佐美子はドアの外に出て、階段の一番上に並んで腰掛けた。佐美子は持ってきていたパタゴニアのトートバッグから水の入ったペットボトルを取り出して飲んだあと、わたしに手渡してくれた。
                   
私、凛ちゃんのこと好きなんよ 
                       
え 
                     
うん  
                     
それは、異性として、いや、恋愛としてってこと? 
                     
うん 
                     
いつから?      
                      
ずっと前から 
                    
そっか
                    
うん 
                     
でもわたし、佐美ちゃんとは付き合えんわ。わたしは、男が好きやから。ごめん 
                     
うん 
                     
ごめん
                     
うん 
                     
でも、気持ちはほんまに嬉しい。佐美ちゃんみたいな素敵な人にそんなふうに言ってもらえて幸せやわ 
                     
うん       
                     
これからも友達でいてくれる?       
                      
うーん。それは無理かも。私、凛ちゃんのこと友達としてなんかずっと前から見てないし、これからも凛ちゃんが好きやから 
                      
じゃあどうするん? 
                      
私が店辞めるわ 
                     
ほんで?もう会われへんの?  
                     
うん 
                     
それで佐美ちゃんはええの?わたしは嫌やで     
                  
……
                     
すぐ他に好きな人出来て友達に戻れるって 
                     
それは無いと思う。こんなに人を好きになったん初めてやから  
                     
そう言いながら佐美子は声を出さずに泣き出して、一段下に足を置いて体育座りをしていた膝の間に顔を埋めてしまった。わたしは、彼女の肩に伸ばしかけた手を止めた。アマゾンの朝日に照らされた彼女の左腕に彫られたハチドリが彼女の頭にとまり慰めているように見えた。ハチドリの代わりにわたしはもう彼女を抱きしめることは出来ない。一緒にいるのに、彼女もわたしも、一人だった。
 わたしは彼女を抱きしめる代わりに、ケータイにさしたイヤホンの片方を彼女の右耳に入れて、もう片方を自分の左耳に突っ込んだ。そして、初めて佐美子の部屋に遊びに行った時に夜通し飲んだあと、彼女がアンプにつないでいないエレキギターを抱えてベロベロのまま二人で歌った曲名を押した。あの時も、窓から差す朝日が眩しかったはずだ。 
                      
街のはずれの                
背伸びした路地を              
散歩してたら                
汚点だらけの靄ごしに            
起き抜けの路面電車が            
海を渡るのが見えたんです          
それで僕も                 
風をあつめて                
風をあつめて                
風をあつめて 
                     
これがわたしたちのハッピーエンドだ

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