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勉強嫌いでも、学びが最高に楽しくなる「わたしの勉強法」

学生時代、わたしは勉強が大嫌いであった。にもかかわらず、45歳で通信大学に入り心理学を学んで49歳で卒業している。実は、私のリスキニングはそれだけではない。32歳で准看護学校に行き34歳で准看護師になっている。勉強が大嫌いだった私が、大人になって勉強が大好きになってしまった。今日はそんな「わたしの勉強法」を紹介しようと思う。


勉強なんて興味なし!

子どもの頃のわたしの勉強法は、全く興味のないものを、ただひたすら暗記をするというもだった。考えてみれば当たり前のことだ。興味のないことを学ぶなんて面白くないに決まっている。学校で習う、算数、国語、理科、社会、英語、音楽、体育、図工どれもこれも私にはまったく興味のないものだったのだ。

「何をやりたいか」ではなく、「どこの高校に入れるか」ということだけを考え、学校では宿題、テスト、追試など、勉強せざるを得ない環境下、無理くり卒業、進学するための勉強をし、「何をやりたいか」など考える機会がなく、偏差値的に入れる高校に入るためだけの勉強だった。きっとそれが、当時、多くの人が疑うことのない「日本の正しい勉強法」であったのだろう。

私は興味のないものには本当に興味がない。子どもの頃「英語を勉強しておかないと大人になった時に困るから」と良く言われたが、英語にも興味が持てなかった。おじいさん先生が教えてくれていたが、もごもごしていて英語どころか日本語さえも聞き取れず、中学入ってすぐに英語に挫折した。学生の頃「英語ができないと将来困るから」散々言われてきたが、51年間生きてきて実際私の人生に英語で困ったということは1度もなかった。海外旅行へも何度か行っているが、どれもこれもジェスチャーで必要最低限のコミュニケーションがほぼとれた。

私の好きな学びといえば、心理と哲学だ。24時間365日勉強していても全く飽きないし、もちろんその学びをするのに景気づけるための栄養ドリンクもお酒も一切必要ない。大人になっての勉強というのは、自分のやりたいことを勉強できるという素晴らしすぎるものだったのだ。自分のやりたいことの勉強というのは、こんなにも楽しいものであると、私は32歳で看護学校に入学することで、身をもって体験することとなった。

好きな学びは「断酒」へと導いた

私は現在、看護師業とメンタルコーチのパラレルキャリアという働き方をしている。看護師業をしながら、今から2年半前にメンタルコーチとして起業をした。起業してまもなく私は「ソバ―キュリアス」な生き方を選んだ。ソバ―キュリアスというのは「お酒好きがあえてお酒を飲まない生き方を自ら選ぶ」という生き方のことだ。

それまでは、仕事から帰宅すると、夕食の食材を買い物してきた袋をキッチンにドサッと置き、同時に冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュっと開け、ゴクっと飲み、勢いづけて夕食の準備をするというルーティンがあった。しかし、メンタルコーチという仕事をし始めると、夕食の支度をしながら、クライエントの未来について考えたり、問題解決、商品開発を考える時間が多くなり、それについて学ぶことが楽しくて楽しくて、お酒を飲むことは、それらの学びの質を下げることに気付き、それ以来2年ちょっと一滴も飲んでいない。家族をはじめ「大のお酒好きの私」を知っている私の周りの人たちは「信じられない」と相当驚いた。楽しい学びというのは大のお酒好きの断酒さえも、いとも簡単に可能にしてしまうのだ。

わたしの勉強法

通信大学などというのは、自分で計画を立てて卒業までに黙々と単位をとっていく。「学習計画」「時間管理」の他に「継続力」や「モチベーション」がとても大切になると多くの人がお思いだろう。そして、実際に通信大学を4年間で卒業した私が聞かれることの多い質問としては「継続力やモチベーション維持について」だ。が、あまり大きい声では言えないのだが、実はこの2つが私には不要であった。

私は経験上、自分が楽しいと思う勉強に対して私はこの2つは不要であると思っている。なぜなら、好きな分野の勉強というものはこの2つが強制的にセットになってついてくるからである。これは、介護福祉士資格取得の勉強の時も、看護学校の時もそうだった。そのため、わたしの中ではこれは再現性のある確かなことではないかと思っている。

好きな分野さえ見つかりさえすれば、自然と継続もできモチベーションの維持できるのだ。それは私が好きな分野も嫌いな分野も真面目に学んで気付いたことだ。


それでもモチベーションが下がる時がある

心と身体はセットである。心が沈めばおのずと身体(行動)も沈み、体調がすぐれなければ心も沈んでくる。生きていると、病気、老い、死というのは絶対に避けることが出来ない。そのため、数年にわたり学びをしていると、その間には病気になることもあったり、家族のイレギュラーなことで勉強どころでなくなるときもある。すると、物理的に時間がなくなるということもあるし、メンタルが低下し、やる気も低迷していしまうこともある。そして、それを機に頓挫してしまうということもあるだろう。しかし、頓挫してしまわないようにするためには、それらの未来を自分の想定の範囲内に入れていおく必要があるのだ。

ここからは、それらを想定内に入れておき、いとも簡単に乗り越えるための具体的な行動を2つ紹介しようと思う。

困難が起きた時に乗り越えるために

1つは、スタートダッシュという方法だ。これは物理的な面をカバーする方法である。

「興味」というのは鮮度がある。私は本屋によく行くが、「これ読みたい!!!」と買ってきても、数日たつと「ん?」っと興味が失せて開かなくなる本がある。それは、興味にも肉や魚、野菜のように鮮度や消費期限があるからだ。その為、鮮度が高いうちにいかに沢山勉強し吸収するというのが大切だ。だれもが、やろうと思った時は「最高の鮮度」を持ち合わせていると思う。その鮮度が高いうちに、どんどん学びを進めていくことが大切であると思う。そして、想定外のことがきた時には「き~た~な~」薄ら笑いを浮かべて、スタートダッシュして貯めておいた学びの貯蓄でスマートにカバーするのだ。

もう1つは、メンタル低下をカバーする方法だ。近年加齢も伴い著しく記憶力が悪くなった。45歳で通信大学へ入り学んだ時には、その記憶力の低下には愕然とした。仕事でもそうだ。いつもやっていることは流れでやるからいいのだが、新しいことはなかなか覚えが悪くなってきている。いつもと違うことが間に挟まると調子が狂い、何かが抜けてしまったり、今までは覚えていられたことも、忘れてしまったりと年を重ねていくことはこうゆうことかと日々実感している。

「あっ、忘れた!」ということもとても多くなり、その時は現実を直視し落ち込むこともある。しかし、落ち込むたびに、行動がストップしてしまえば先には進めない。そのため、そういった時に自分のモチベーション下げすぎないための工夫が必要だと感じている。

その方法とは、自分をご機嫌にするということだ。具体的な方法としては、自分を褒めるということ。どんな小さなことでもいいいから出来たことに対し自分をちゃんと褒めてあげる。例えば、やろうとしていた1時間の勉強が疲れていまって出来ない時。本当はやらずに布団にバタンキューしたいのを、5分だけやったとする。その時に「わたしってエライ!ほんと天才!!」って大袈裟にめちゃくちゃ褒めるのだ。出来なかったことに目を向けるのではなく、出来たこと、頑張ったことに目をむけてあげる。端から見たらばかばかしい行為かもしれない。しかし、実際は誰も見ていないからOKだ。これは、意外とスゴイ効果があるのだ。

いつだか、わが子が小学生の頃、なにかささいなことを達成した時に「わたしって天才!」って大袈裟に言っているのを見て驚いたこともあったが、それもそのはず。子供は親の言った通りには育たず、やった通りに育っていくもの。「確かに私それ、やってた!」とうことを言っていたのだ。そして、私は「勉強しなさい」と1度もいったことがない。きっと、わが子も自分をご機嫌にしながら、義務教育の学びをモチベーションを上げながら、親がやっている通りにやって生きているのだろう。

「面倒くさい!」勉強の乗り越え方

ここまで楽しむ「わたしの勉強法」について書いてきたが、ちょっと頑張る必要がある勉強をするときには、「楽しい」よりも「面倒くさい」がでてくることはないだろうか。そこで「面倒くさい勉強の乗り越え方」についても紹介しようと思う。

学びをする人の中には、ただその学び自体が楽しくてやる人もいるし、何か叶えたい、目的の達成のために、「手段」として学びをする人もいると思う。

ただ学びが楽しくて勉強をする人は、今まで私が紹介してきた「わたしの勉強法」が役に立つかもしれないが、そうではない何かを叶えたい、目的達成のための「手段」として通過点として勉強をする場合には「面倒だな~」といったマインドが邪魔をする時があるのではなかろうか。

果たしてそのような時にはどうしたらいいのだろうか?目的を叶えるための「手段」として、勉強をする場合には「面倒くさい」の先には、必ず得られるものがあるということを決して忘れてはいけない。そのため「面倒くさい」がでてきたら、それを乗り越えるための「おまじないの言葉」がある。それは、

「やれってことだな」

「面倒くさい」がでてきたら、即座に「やれってことだな」と言う言葉に変換するのだ。「面倒くさい→やれってことだな」はセットで覚えておく必要がある。そして、それを変換させる為には「手段」の先にある目的を達成した時の光景をいつもありありとイメージしておくことも併せてやっておく必要がある。創造しすぎて感極まって涙を流すぐらいに。

学びの集大成、学びの最高の楽しさを知った日

ここまで話をしてきたように、私は長いこと沢山の学びを工夫してやってきた。それらは、自分の興味のあることだからこそ、とても楽しく学べ、また、面倒なこともその先の目的を明確にすることで自分をわくわくさせ頑張ることが楽しかった。そして何よりも学びというのは自己成長ができ最高だった。しかし、起業して気付いたことがある。起業の学びというのは今までの学生のような勉強法ではうまくいかないということだった。それは、インプットだけではビジネスは成り立たないという点だ。要するに、アウトプットしないとビジネスは成立しないのだ。
インプットばかリの学びをしてきた私は、蓋を開けてみると実は分かっていないことが多かったのだ。いざアウトプットしようとしたら、出来なかったのだ。自分では分かっていたと思っていたが、分かっていたのではなく「分かったつもり」であったということに気が付いた。ビジネスというのは、価値提供というアウトプットが必須だからだ。価値提供して、お客様に喜ばれ、ありがとうと言われ、その対価が返ってくる。それを経験して、私はこの「貢献こそが学びの集大成なのではないか」と感動し、起業を通じて違った学びの楽しさを知ったのだった。そして、目下アウトプットというなかなか手強い学びに夢中になっている。

学びを最高に楽しくするためには

学びを最高に楽しくするためには、とにかく自分の興味のあることを学ぶことだ。誰も評価してくれなくとも、褒めてくれなくとも、認めてくれなくとも、とにかく「わたしが本当にやりたいこと」についてやってみることだ。もう歳だからとか時間がないからとかお金がないからという言い訳に潰されることのないくらいやりたいことを掘り出し、とにかくそれを探求してみる。それこそが、最高に楽しい勉強になるのではないだろうか。


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