見出し画像

日本中の納税者がこの9年間を含め25年間の復興税を喜んで払い、被災者を温かく見守ってきた。それに対して「ありがとう」の一言も聞こえてこないけれど、そんなケチを日本人は言わない

日本中の納税者がこの9年間を含め25年間の復興税を喜んで払い、被災者を温かく見守ってきた。それに対して「ありがとう」の一言も聞こえてこないけれど、そんなケチを日本人は言わない
2020年04月09日
以下は本日発売された週刊新潮に、それぞれの9年、と題して掲載された、高山正之の連載コラムからである。
この論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
日本のポツダム宣言受諾を前に米軍は駆け込むようにプルトニウム型原爆を長崎に投下した。  
高温の火球は直下の街を蒸発させ、数万の民を一瞬で焼き殺した。 
だいぶ離れた山王神社の石造りの大鳥居は熱風で左半分がもぎ取られ、後ろの樹齢500年の楠は葉も枝も失って真っ黒く焼けた幹だけが残った。  
終戦の日に甍の波をとどめていたのは京都と小倉だけ。
東京は下町も山手も焼け野原と化していた。 
13歳だった曽野綾子さんは「もう空襲がない。明日まで生きられる」と、そのときの思いを『死学のすすめ』に書いている。 
こちらは曽野さんよりずっと年下だが、疎開先の三島から隣の沼津が空襲で燃えるのは見ている。 
史料によれば沼津は終戦1ヵ月前、米軍機の空襲を受け9千発の焼夷弾を見舞われて市街の89%が焼失し322人が死んだ。
記憶では西の空がみんな真っ赤に染まっていた。 
怖い空襲はなくなっても終戦後も「ビタミン不足のせいか心もだるく」暗くつらい日々が続いたと曽野さんは書いている。 
焼け出された人たちには「避難所もなく仮設住宅もなく、ボランティアとして助けてくれる人もなく生活保護もなかった」「被災者は自分で焼け残ったトタンや材木を集めてバラックを作って住んでいた」。
こちらも終戦のあと東京に戻ったが、家も何もかも失って、焼け残ったガレージに板を敷いて暫く仮住まいしたのを覚えている。 
曽野さんより2つ年下の田原総一朗は「敗戦ですべての価値観が変わった」「大人への不信感をもった」と利いた風に語る。 
対して曽野さんは「日本の未来が見えないなどという言葉も概念も当時は聞いた覚えもない」と。 
何度も割り込んで申し訳ないが10歳若いこちらの価値観といえば「甘ければうまい」で「柔らかければおいしい」くらいだった。 「なまり」という柔らかい鰹節があった。柔らかくてもまずかった。 
それでも終戦から暫くすると70年間は草木も生えないと言われた被爆地にさえ変化が出て「山王神社の楠に芽が吹いた」と永井隆博士が書いている。 
関わって何もいいことのなかった朝鮮でそのうち戦争が起き、おかげで日本に活気が戻った。 
小学校の給食にも砂糖まぶしの揚げパンが出た。
甘くて柔らかくて本当においしかったが時々ネズミの糞が入っていた。 
そのころになると元気な日本人も出てきた。 
出光佐三は英国制裁下のイランに日章丸を出して安い原油を買い付けた。 
怒った英国は撃沈すべく軍艦を出して日章丸を追ったが見事に逃げおおせた。 
銀座には祇園の芸妓上がりの上羽秀が進出して「おそめ」を開き、川辺るみ子の「エスポワール」の向こうを張った。 
映画界も東映の大川博が毎週新作2本立てを常打ちにし、揚げパン世代が映画館を満員にした。
日本映画界はハリウッドを超える年間500本を封切った。 
戦後9年たった日本ははっきり元気になった。
福島を大津波とそれに続く原発事故が見舞って今年で9年が経つ。
あの時と違って仮設住宅もボランティアも生活保護もついた。 
日本中の納税者がこの9年間を含め25年間の復興税を喜んで払い、被災者を温かく見守ってきた。 
それに対して「ありがとう」の一言も聞こえてこないけれど、そんなケチを日本人は言わない。 
そしたら先日の朝日新聞の投書に震災前に5歳で他県に引っ越した青年が「被災地出身だが被災していない中間被災者」と称して故郷を失った痛みを語っていた。
縁がある者全てに同情しろと要求する。 
別の紙面では故郷を失った被災者が東電に賠償増額を要求して計7億円を勝ち取ったとあった。 
先の戦争で被災した人たちは「無言で生きてきた」と曽野さんは言う。
そして元気な日本をつくった。 
でも昨今はそういう生き方は好まれないらしい。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?